Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

聖書流子育てのススメ エペソ6:1-4

2010年01月31日 | Celebration



 ある社会評論家が、日本は今、最も無作法な若者を抱えた国であると言った。電車で二人分の席を占領し、イヤホーンから騒音を撒き散らしている青年や、徒党を組んで大声でバカ笑いをしている女子学生、地べたに座り込んでタバコをふかしている若者達は、日本では普通に見る光景である。そんな彼らをよく観察して見ると、彼らには、故意に人に迷惑をかけているような悪意は感じられないが、彼らの目には自分達だけの世界しか見えず、自分の周りの人間が介在しているということが、全く分かっていないのだ。

 確かに現代は、周りとコミュニケーションがを取ることが出来ない人達で溢れている。何故そうなったのか? それは、彼らが子供の時に、親とのコミュニケーションが取れていなかったことに原因がある。子育てというものは、民族によって、時代によって、また親によって、その方針は流動的であり、しかも徹底されていないという現実がある。子育てには、人生論とか、成功哲学とかといった黄金律が存在していないのである。

 ちなみに日本では、戦後から現代にわたって、基本的な価値観となっているのが、『自由民主主義』である。つまり、大人も子供も平等の権利があり、各人の自由意志が尊重されるべきだ。しかし、それは放任と過保護を生み出し、結果的に、無作法で骨抜きの若者を大勢輩出することになったのである。

 此間、ショッピングモ-ルの通路の真ん中で、手足をバタつかせて、大声で泣き叫んでいる子供がいた。その子の親は、子供の激しい反応に屈して、子供の要求を呑んでいたようだった。子供は親に要求して拒否されると騒ぐ。更に拒否されるともっと騒ぐ。そして親は仕方なく与える。そうやって育てられた子供は、自分の要求が通るまでこういった行為を繰り返す。そして彼らは何と大人になっても、同じことを繰り返すのである。

 ところが、親は与えてくれても、社会は与えてくれるほど甘くはない。すると、彼らは、自分の要求が通らない事態に遭遇する度に、大きな混乱と衝突を起こしてしまうのである。彼らは、自分では動かし難い現実を前にすると、「逃げる」か、「キレル」か、「閉じる」かしか出来ない『三ル人間』になってしまうのである。それは、彼らが子供の時に、親との関係がしっかりと形成されていなかっことに原因がある。では、聖書は子育てに関しどのように言っているのだろうか? それを、5つの要点に分けて述べてみよう。


第一ポイント:親子関係のあり方が、その子の人間関係の基本となる

子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。(エペソ6:1-4)

 それは、子供が生まれて初めて接するのが親だからである。この世は、一人で生きて行くことは出来ない。またこの世は、自分とは違う考え方、価値観を持った人間が存在している。従って、この世で生きていくためには、彼らと共存していかなくてはならない。そのためにはどうしてもルールが必要である。自分が王様なのではない、この世には、自分が従わなければならない権威、ルールといおうものがある、このことを教えるのは、子供の時しかないのだ。何故なら、彼らが最初に従うべき存在対象が親だからである。それ故、親に従うことが出来ない子供は、大人になってからもルールに従うことが出来ない人間になってしまうのである。

 モーセの十戒は、人間がこの世で生きていくのに必要な永遠不滅な規則である。その5条が「父と母を敬いなさい」である。大切なことは、この規則が「殺すなかれ」、「姦淫するなかれ」「盗むなかれ」の前にあることである。つまり、そのような罪を犯さないためには、父と母に従うことが必要であり、それが幸福になるための最低条件なのである。


第二ポイント:何故ルールが必要なのかを教える

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネ8:32)

 大人は、赤信号で止まることに、何の疑問も感じていないが、子供は、何故赤で止まらなければならないのか、教えてもらわなければ分からない。信号はごく基本的な社会的ルールである。もし、街に信号がなければ、私たちは、定時に教会に到着することは出来ないし、それ以上に危険過ぎて、街を車で走ることなど出来なくなる。赤信号で止まるということは、私たちを束縛することではなく、私たちを守るためにあるのだ。何故、ルールというものが存在するのか、何故、ルールを守らなければならないのかという理由を、ちゃんと分かり易く子供に教えてあげなければならない。


第三ポイント:家庭内でルールをつくる

 ルールを実体験で子供教える。このポイントは、罰が必要かということである。もし赤信号を無視したら、罰金が科せられることになるが、この罰金がなければ、信号というルールは成り立たないだろう。罰金は、人を守るために必要なのである。しかしながら、家庭内における罰は、なかなか徹底することが出来ない。その理由は二つある。一つは子供が可愛すぎるからであり、もう一つは、子供が反抗する時のエネルギーは凄まじいからである。このことに屈し、親は子供にルールを教えることが出来ないのである。

鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。(箴言13:24)

若者の心には無知がつきもの。これを遠ざけるのは諭しの鞭。(箴言22:15)

若者を諭すのを控えてはならない。鞭打っても、死ぬことはない。鞭打てば、彼の魂を陰府から救うことになる。(箴言23:13-13)

懲らしめの杖は知恵を与える。放任されていた子は母の恥となる。(箴言29:15)

 これらの御言葉にあるように、親は何故ルールが必要なかということを、子供に教えると同時に、親自身がそのことをちゃんと理解しておく必要がある。この世の悪の根源は、放任と過保護だからである。すべての悪の根源はここから出ているのだ。教え諭す鞭とは木の杖である。羊飼いは杖で羊を叩くことはせず、羊を危険から守るために、杖で地面を叩いて羊を教える。懲らしめの杖は、子供を育てるために必要な愛なのだ。

 また、家庭内でルールを作る時に重要なことは、必ずルールに一貫性を持たせることである。例えば、子供がルールを破った時、昨日は罰を与えられたが、今日はなかったとか、お父さんは許してくれたけど、お母さんは許してくれなかった等、ルールや罰の与え方にばらつきがあると、子供は混乱する。両親同士でしっかりと話し合い、一貫性を持たせること。また、子供の教育方針について、子供の前では絶対にもめないこと。一度決めた事は家族全員でしっかりと守ることが大切である。


第四ポイント:親は子供との戦闘に勝利しなければならない

あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」(ヘブル12:4-6)

 すごく神経質で、夜寝かし付けるまで毎晩1時間以上かかる子供がいた。そこで夫婦は二人で相談した結果、今夜から子供を一人で寝かせる決断をした。さて当日、一人で寝かせつけものの、当然子供は泣き叫び、絶叫し、ベッドの柵をがんがんと叩き始め、必死でベッドを乗り越えようとする。そんな状態が実に2間続き、母親は半泣き状態。ほとんどの親は2時間も持たない。部屋に入って子供を抱いたほうが、(親が)楽だからである。

 さて次の日も同じ状態であった、子供は泣き叫び、絶叫が始まった、しかし、初日よりも大きな進歩があった。戦闘が初日の半分、1時間で済んだのである。3日目は55分、4日目は45分、そして一週間後、何と子供は一人でベッドに行くようになったのである!! 結果的にこの戦闘は1週間続き、子供は親との戦闘に負けた。しかし、子供はこの戦闘に負けたことで、親を憎んだり、恨んだりするようなことは決してない。むしろ、親の権威というものを知り、逆に親を尊敬するようになるのである。子供にとっても早く寝たほうが、次の朝、さわやかに起きることが出来るからである。

 このように、家庭内でルールを徹底させることは、子供に、自分が親に従うということは、自分のためになるんだ。ルールは、自分を守るためびあるんだということを、子供は無意識の内に学ぶのである。それでは反対に、ここで親が子供との戦闘に負けた場合はどうなるか? 親との戦闘に勝った子供は、親を尊敬するどころか、逆に親に反抗し続け、親を軽蔑するようになってしまう。このパターンこそ、『三ル』の子供の元凶になっているのである。だからこそ親は、子供との戦闘に勝利しなければならない。これは、子供が成長するために必要なことなのである。


第四ポイント:戦後処理が大切

わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。(Ⅱコリント1:6)

 子供との戦闘が終わり、子供が泣き止んだ時、ほとんどの子供は、非常に素直な状態になっている。(夫婦喧嘩も同様)その時に、愛しているからこそという、理由を話し、しっかりと抱きしめてあげる。ここで親子のコミュニケーションが取れるのである。愛と義は、聖書の両輪である、真の愛には責任が伴う、愛とは、自分のことよりも、相手のことを優先するという、犠牲を伴った行為である。

 聖書を知らなければ、人間は罪を犯し、子供も何にも教えなくても悪いことをする。聖書的子育ては、私たちと神様のあり方である。神様は、イスラエルの民を愛するが故に、彼らが罪を犯し続けることをほっておくことが出来なかった。真の優しさは、真の強さに裏付けされていなければならず、真の強さは、真の正しく裏付けされていなければならない。そしてその真の正しさとは、聖書に裏付けされた、イエス・キリストの愛に基付いていなければならない。杖は、神の主権の象徴である。愛しているからこそ、戒めが必要なのだ。「罪を憎んで人を憎まず、ましてやわが子をや」これが聖書流子育ての基本である。(執筆担当: 暢夫)


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イエスの微笑み ルカ6:20-23

2010年01月17日 | Celebration
 日本語に『似たもの夫婦』と言う言葉がありますが、これは努力してそうなるのではなく、同じ屋根の下で生活しながら、自然と似てくるものです。それは、私たちがクリスチャンになった後、イエス様に似たものと変えられる『聖化』も、それと同じことです。『聖化』と言いますと、「自分の罪を取り除きつつ、高い山をよじ登るようにして、主イエスに似るものに変えていかなければならない~!!」と言うようなイメージはありませんか? 勿論、そういった部分もあるのですが、本来『聖化』と言うのは、夫婦が自然と似てくることと同じことで、イエス様と共に生きていく上で自然とイエス様の姿に似て来るのです。

 ですから、もし、私たちがイエス様と似ていないとしたら、3つの理由が考えられます。それは、イエス様と別居しているか、共に暮らしてまだ間がないか、イエス様のことを何か誤解しているかです。一般の人々がクリスチャンに対して持っているイメージは、「まぁ真面目ではあるけれど、冗談が通じない、面白くもなんともない人たち」です。また、教会のイメージはというと、真理とか、道とか、学びと言ったイメージは出てきますが、喜びとか、楽しい!と言うようなイメージは、現実問題としてどうですか?あまり出て来ませんね。

 さて、今日は皆さんに、神学的に大問題とされている難題を一つご紹介しましょう。それは、「イエス様は笑ったか!?」と言うことです。実は、聖書にはイエス様が泣いたとか、怒ったという記述はあるのですが、イエス様が「笑った」と言う記事は一つもないのです。それで、「イエス様は笑わなかった」と考えている人たち(神学者)が実際に沢山いるのです。

 確かに、イエス様の言葉は真理ですから、その人の確信に迫って行きます。どの言葉にも無駄がなく、その人が避けがたい状況にズバッと突いてきます。ですから、そこにユーモアが介在する余地がない。また、福音の核となる十字架と復活、特に十字架に至る最後の一週間を、福音書は重点的に書いていますが、イエス様がこれから死へと向かわれて行く時に、ユーモアなど言っている場合ではない。…と言うのが「イエス様は笑わなかった」という理由です。皆さんが持っていらっしゃるイエス様のイメージはどうでしょうか?

 ところが、世の中には、「私たちは、イエス様からユーモアを学ばなければならない!」と主張している方がおられるのです。「イエス様はユーモアがあったからこそ、全世界を敵に回してでも、愛の福音で世界を包括されたのである!」、「もし、イエス様がカチカチの堅物だったならば、愛の福音はここまで世界には広がっていないんだ!」という意見です。私はこの意見に賛成です。確かに、聖書にはイエス様が笑ったと言う記事はありません。もっと言うと、聖書には、「笑い」と言う言葉自体が出て来ないのです。実は、今日の聖書箇所であるルカ6章21節のみなのです。この箇所以外に出てくる笑いは、全て“あざ笑い”です。

 聖書には、イエス様の髪についての記述は何処にもありません。だからと言って、イエス様には髪がなかったということにはなりませんよね。誰でも当たり前のことはあえて書いたりしないものです。イエス様はいつも笑っておられたから特に書く必要がなかったのです。イエス様は、世間も人たちから、『大酒飲みの大食らい』と言われていました。ここで、イエス様は何に対して笑ったかということは分からないかも知れませんが、どんな人たちと笑っていたのかということは分かるのではないでしょうか?イエス様は、世の中からまったく相手にされていないような人たちと、一緒に飲んだり食べたりしていました。そういった場で、イエス様が、神妙な顔をしていたはずはないですよね。

 今日は、新しいイエス様像に迫ります。私たちは何のために礼拝しているのか、何のために聖書を学んでいるのかと言いますと、それは、イエス様を知るためです。好きな人のことは、もっと知りたい!と思いますよね。結婚したらそれで終わりではありませ。もっと相手のことを知りたいと思うのが自然です。そうして互いの愛を深めていくのです。相手のことを知るということは、相手のことを愛する行為の一つなのです。

 ですから、イエス様のことをもっと知ろうとする行為は、イエス様を愛する行為なのです。だから、もっともっと、お互いにイエス様を深く理解して、恵みを私たちの魂に広げて行きましょう。どうも、クリスチャンは暗くていかんです。真面目なのはいいけれど、いつも深刻で難しそうな顔していたのでは、伝道は難しいですよね。私たちは、クリスチャンに対する一般的なイメージを打破するためにも、イエス様からユーモアを学ぶ必要があるのです。


バプテスマのヨハネを噂する群衆を諭すイエス (ルカ7:4-26)

 バプテスマのヨハネが洗礼を授けているところへイエス様が現れるというシーンはとても有名で、どのイエス様の伝記映画にも必ず出てきますが、実際の現場には、洗礼を受けるために並んでいる人たちの他に、沢山の見物人がいました。そんな彼らに、イエス様はこう言われます。「お前たちは川に何を見に行ったのか?葦でも見に行ったのか?そこに立派な服を着た人がいるとでも思ったのか?」と聞かれます。このイエス様の口調は、非常に機知に富んでおられます。

カイザルのものはカイザルへ (マルコ12:13-17)

 律法学者がイエス様を陥れようと「税金を払うことは律法にかなっているのか?」と質問します。払うべきだと言えば、「何がユダヤの救世主だ!」と攻められ、払うな!と言うならば、「ローマ帝国に訴えてやる!」と言えるからです。どちらに転んでもイエス様に不利な状況でした。そこでイエス様は、硬貨をもってくるように言い「誰の肖像と銘か?」と聞かれ、「カイザルのものはカイザルへ、神のものは神に返しなさい」と言われました。これは日本流に言うならば、一万円札を手にして「諭吉のものは諭吉へ返せ!」と言っていることと同じです。実にイエス様は面白いことを言われます。つまり、イエス様は、「お前たちは、ローマ皇帝に税金を出し渋っているけれど、ローマ皇帝の下で商売をしているじゃないか。ローマ皇帝に支配されているのに、税金だけ出し渋っているのは、おかしいよな。」と言っておられるのです。「神の庇護の下にいながら、感謝のかの字もないじゃないか。神に愛された民でありながら、お前たちは、一つの感謝もないじゃないか」ということを諭されたのです。

神殿税の徴収人が「イエスは神殿税を納めないのか?」との質問に (マタイ17:24-27)

 イエス様は、「王様は誰から税を取り立てるのか。自分の子供たちからか、他の人々からか。」と聞かれます。王様が自分の家族から税金を取るはずはありません。神殿税(献金)とは、神様への感謝の印として神奉げるもの。つまり、ここで徴収人は、神に対しての神への献金を払えと言っているのです。更にイエス様はこう言われます。「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。釣りに行きなさい、釣れた魚の中に銀貨があるから、それで私たちの分を納めなさい」社会の秩序を乱さないように税を納めるのですが、無論、魚から銀貨が出てくるはずはありません。これはまさにイエス様が神の子であるということの証明でした。

丸太とらくだ (マタイ7:1-6)

 皆さんは『豚に真珠』って聞いたことがあるでしょう。これもイエス様が言われた言葉なんです。また、「あなた方は人の目の中のおが屑(塵を)ばかり気にして、自分の目の中にある丸太に気がついていない。」丸太が目の中に入るわけがないのに、とても面白い表現をイエス様は使われます。また、マタイ19章24節で、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうが易しい。」と言われました。実は、ギリシャ語でらくだのことを「カメーロス」と言い、太い綱のことを「カミーロス」と言います。ですからこの箇所は、「ラクダではなくて、綱の間違いではないか?」という学者が沢山います。しかし、ここでイエス様はラクダと言われたのです。(他にもラクダの例えが出てきます)。イエス様はこの様な突拍子もない表現で語られます。

献金について(マタイ23:23)

 神に捧げる献金について「薄荷、いのんど、ウイキョウ(これらはハーブのこと)の十分の一は捧げるが、律法のなかでも最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている。」と言われました。つまり、あなたたちは、自分にとって痛くも痒くもないものは捧げているが、真に捧げるべきものを奉げていないではないか!と言われているのです。これは、人のあげあしを取って批判をするようなことはもっといけないこと。そんなことよりももっと大切なことがあるじゃないか!ということなのです。

姦淫の女の話 (ヨハネ8:1-11)

 最後は愛の書ヨハネから、有名な姦淫の女の人の話。これも律法学者たちが姦淫した女性を裁くためではなく、イエス様を陥れるのが目的でした。もし、ここでイエス様が「石を投げよ!」と言われたら、「何が愛の人だ!」となり、「この者を赦せ!」と言ったら、「律法違反だ!」となるわけです。そもそも、当時ローマの支配下にあったユダヤ人には、死刑執行権はなく、また裁くために必要な証人もいないと言う、イエス様を試す為に作られた場。そういう中で民衆は人を殺すという狂気の興奮状態でした。

 そこでイエス様はしゃがみこんで何かを書かれていたと言うのです。そこで、色々な人たちがイエス様は何を書いたのか?ということを考えます。ある先生は、イエス様は人間の罪を、ある人は十戒を書いていたのだと言われていますが、古代文献学の教授、ルイス・クレッツ博士は、とても面白い見解を示しています。「イエス様は何かを書いていたのではなく、石畳で石を拾うフリをしていたのだ」と言うのです。周りは狂気の渦の中、かかんで石畳で石を拾うと言う行為によって、周りの視線をツッとはずす、『間を外す』と言うことをされたと言うのです。

 イエス様はこの女性に、「もう罪を犯さないように」と言われました。しかし、ここでこの女の人の罪が帳消にされたわけではありません。何故なら確かに姦淫は罪だからです。ですが、ここで律法が一時中断され、この女性の罪は、イエス様が十字架で背負われたのです。私たちは決して自分の力では、罪の問題を解決することは出来ません。そこでイエス様は、わざわざこのような『間をはずす』と言うことをなさったのです。このイエス様のしぐさは愛とユーモアに溢れていますよね。

 イエス様は、自分の弟子たちに、「雷小僧」だとか、「カチカチの岩男」などとあだ名をつけたりしていますし、イエス様の周りには子供たちがいつも沢山いました。子供は正直ですから、怖そうな人とか、何考えているのか分からない人とか、面白くもなんともないような人のところには、絶対に行きません。このことだけでも、イエス様はいつも優しく微笑んでられことが分かります。

 ユーモアの定義とは、「にも係わらず笑うこと」だそうです。人生には辛いこと、苦しいことが沢山ありますが、それに対して自己憐憫に陥ることなく、不幸を他人のせいにすることなく、それを客観的に捉えて、笑い飛ばしてしまう。そういったユーモアには、強い忍耐力と、精神的バランスが要求されます。ユーモアは、その人の精神的資質の高さと大きく関係するのです。自分だけではなく、人の心も開放するユーモア。真のユーモアは、決して人を傷付けつけません。イエス様は、話し方がダイナミックで、とても機知に飛んだ面白い表現をされるお方でした。そして、真理はバシッと提示されるのです。そして、教会の質は教会の中にどれだけ“笑い”があるかに関わっています。

 最後に、笑ったは書いていないけれども、ここでは確かにイエス様は微笑んでおられただろうと、推測出来る箇所が聖書に一つだけあります。それは、マルコ10章17節にある、金持ちの青年の話です。彼は、「先生、永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいのでしょうか」と聞きます。この青年は、真面目に聞いているのです。そこでイエス様は彼を見つめ、慈しんで「行って、全てのものを売りなさい。それから私についてきなさい。」と言われました。イエス様は「慈しんで(微笑んで)」この青年に言われたのです。「そうだな、お前も一生懸命やってきたよな、本当に、神の国に入ると言うことは簡単なことじゃないよな」と。確かに、人間にはラクダを針の穴に通すことは不可能ですが、それを可能にできるお方が一人おられます。それが、イエス・キリストです。

 私たちがどうすることもできない罪を十字架上で取り去ってくださるイエス様。自我がなかなか抜けない私たちですが、真理を求め続けている人に対して、イエス様はいつも優しく微笑んでおられるお方です。「何やっているんだぁ~!!」と怒るのではない、「だいじょうぶだよ、お前のラクダ(無駄なもの、罪)は、私が取り除いてあげるよ」と言われるイエス様のユーモアと機知にどうぞ着目してください。この優しいイエス様、機知とユーモアに溢れたイエス様に倣う者になりましょう(執筆担当: Ako)


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前進的な失敗 箴言16:32

2010年01月10日 | Celebration
 みなさん、ギネスブックをご存知ですか?ギネスブックには、いろいろな記録が載っていますが、その中に400万個のドミノ倒しを達成したグループがいるそうです。そのグループが記録達成のために、ドミノを並べている時、すずめが一羽入ってきました。そして、そのすずめは、何と並べていたドミノの一つに止まってしまいました。しかし、そこで全てのドミノが倒れてしまったわけではありませんでした。彼らは、万が一、何かあっても全てのドミノが倒れないように、2万5千個ずつ、スペースを開けていたのでした。つまり、セーフティー・ゾーンがあったのです。

 私たちの人生にもセーフティー・ゾーンがあります。何か問題があったら、「もう人生おしまい!」と、自殺を図ってしまっては、人の命は、いくつあっても足りませんし、クリスチャンも、何かあるごとに、「神様なんか、いない!」と、信仰を捨ててしまっていては、クリスチャン生活は成立しません。私たちは、それぞれ、セーフティー・ゾーンがあるのです。それは、3日間、布団を被ってふて寝をしていることかもしれませんし、ご主人とケンカして、一週間、口を利かないことかもしれません。もう少し、建設的なものであれば、人生の目標や社会的責任が、セーフティー・ゾーンかもしれません。

 クリスチャンのセーフティー・ゾーンは、「神様への信頼」です。良い例は、旧約聖書に出てくる、「ダビデ」さんでしょう。ダビデさんは、波乱万丈の人生を送りました。王様になる前は、その前の王であるサウル王から迫害を受け、バテ・シェバと不倫をし、息子のアブサロムの裏切りを受け、国から逃げる必要がありました。しかし、彼は、どんなことがあっても、「神様がいる」、「神様は自分を見捨てない」、「神様が祝福してくださる」と言う、「神様への全くの信頼」が彼の人生を支えたのでしょう。

 「セーフティー・ゾーン」と言う、ニックネームを子供の頃、持っていた人物がいます。その人物の名前は、「ベンジャミン・ソロモン・カーター」さんと言う、小児神経外科の権威と言われている方です。彼は、頭の繋がった結合双生児の分離手術に初めて成功された方で、その手術には、スタッフが70人、手術時間に22時間も要した大掛かりなものでした。そのような素晴らしいお医者さんの子供時代は、成績はいつも一番、しかし、後ろから数えてでした。それが、彼の子供時代のニックネームが「セーフティー・ゾーン」と言われる理由でした。なぜなら、彼がいれば、彼のクラスメートは、成績が「一番下」になることは決してないからです。

 少年、ベンジャミン君の育った場所は黒人街の貧民層でした。お母さんは、内縁の夫と別れて後、イエス様を信じました。そして、成績の悪いベンジャミン少年を何とかしようと神様から知恵を与えられるように祈りました。まもなく、お母さんが、ベンジャミン少年に課したことは、「テレビは週に2本だけ見てもよい」、「毎週2冊の本を読んで、その本の感想レポートを書くこと」の二つでした。それを1年続けたベンジャミン少年は、クラスで成績がトップになったそうです。

 しかし、彼にはもう一つ克服しなければならないことがありました。それは、ベンジャミン少年はとても短気だったことです。そして、その短気が災いし、遂に彼は、14歳の時、友だちとラジオのチャンネル争いで、その友だちをナイフで刺してしまったのです。しかし、神様の憐れみだったのでしょう。ベンジャミン少年のナイフは、友だちのベルトのバックルにあたり、友だちは、大ケガを免れたのでした。その時、ベンジャミン少年は、驚きと恐ろしさで、慌てて家に戻り、部屋に閉じこもります。その驚きと恐ろしさで彼の手の震えは止まりませんでした。彼は落ち着こうと、聖書を開きました。そして、目に留まった箇所が、今日の聖書箇所の箴言16章32節でした。

忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。

彼の手の震えは止まっていました。もし、この事件がなければ、今のベンジャミン・ソロモン・カーター博士は存在していなかったでしょう。聖書の中にも短気な人がいます。それは、イエス様の12弟子である、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネです。二人とも「雷の子」と言う、ニックネームをイエス様から付けられるほど、短気な人物でした。彼らの性格をよく表しているのが、ルカ9章51-56節にある話です。イエス様と弟子たちがエルサレムに行く途中、サマリヤ人の村に入ったところ、サマリヤ人たちは一行を歓迎しませんでした。すると、ヤコブとヨハネは、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか!」と過激なことを言い、イエス様に戒められます。しかし、後に「愛の書簡」と言われるヨハネの手紙を記したのは、この「雷の子」と呼ばれていた「ヨハネ」です。ヨハネの手紙からは、彼が「雷の子」と言われていたとは全く想像出来ません。このカーター博士と、ヨハネさんの話から「短気」は、気質ではなく、性格の問題で、それは直すことが出来ると言うことが分かります。

 また聖書では、一般的に私たちが失敗と思っていることは、神様にとって失敗ではないと言うことが分かります。聖書には人間の失敗の記録がたくさん記されているにも関わらず、何と聖書には、「失敗」と言う言葉が記されている箇所は、「サムエル記」、「ダニエル書」、「ローマの信徒への手紙」の3箇所しかないのです。私たちは、失敗についての神様の知恵を学ぶ必要があります。そのポイントは以下の4つです。

人間は原罪の故に失敗をしてしまう
 私たち人間は、アダムとエバが犯した失敗の故に失敗をしてしまいます。言い換えれば、人間である以上、失敗をしない人間はいないのです。

失敗は結果ではなく、そのプロセスの内で既に起こっている
 例えば、離婚届に判を押したのが失敗なのではなく、結婚生活の中での失敗の積み重ねが離婚届に判を押すことになるのです。

それが失敗であったかは、自分の判断である
 発明王のエジソンは、電球を発明するのに、何百個と言う試作を重ねました。
彼曰く、「その何百と言う試作は失敗ではなく、電球を成功させるために必要な過程であった」また、私たちが日常、よく使っている「ポスト・イット」は、接着剤の試作品としてつくられたのですが、最初は、直ぐにはがれてしまうという理由で、失敗作とされていました。しかし、発想の転換によって、直ぐにつけたり、はがしたりできる新しい商品として、大ヒットとなったのです。

失敗がなければ成功もあり得ない
 私たちは、失敗を忌み嫌いますが、失敗がなければ、成功もありません。失敗は、私たちは、自分の人生を成功に導くための、必要な要素なのです。では、私たちの人生における成功とは何でしょうか?それは・・・

自分の人生の目的、使命を知ること

神様が与えてくださった賜物を発揮出来るまで成長すること

そして、世のため、人のため、神様のために生きること

 これが、私たちが人生で成すべきことです。そのためには、私たちは人生における失敗を成功へと転換させるため知恵と力が必要です。では、ここでもう一度、失敗についての、正しい理解と認識を、確認しておきましょう。


失敗は人生における教訓を得るための授業である

その授業は、本人が教訓を得るまで繰り返される

易しい授業で教訓が得られなければ、より厳しい授業が課せられる

教訓によって本人の行動が改まった時に、授業は終了する


 もし、私が、人の前で話す賜物をいただいていても、私がその賜物をもっと用いるために話し方の勉強をしたり、練習をしたり、訓練をしたりしなければ、その賜物は活かすことは出来ません。そのためには、私たち自身が、へりくだり、神様に従順になる必要があります。そうすれば、神様は必ず、私たちの失敗を益へと変えてくださいます。では最後に、ベンジャミン・ソロモン・カーター博士が提唱している『自分の賜物と見つけ方』をご紹介しましょう。

学生時代、得意だった科目は何か?
その得意科目の理由は何か?
今までの人生で成し遂げたことは何か?
自分の好きなことで人から褒められたことは何か?
人からはつまらないと思える仕事でも楽しくやるコツは何か?

 この5つのポントを、一人で静かに考える機会を持ち、その考えを信頼できる人に相談して、また考える機会を持つのです。神様は全人類を愛してくださり、その一人、一人にその人でなければならない賜物を与えてくださっています。その賜物を用いて世のため、人のため、自分のため、そして何よりも神様のために自分の人生を歩んでいきましょう。それでは、今日のメッセージの最後は、カーター博士のこの言葉で締めくくりたいと思います。(執筆担当: 美鈴)

神様は、誰に対してもその人にしかない賜物を与えておられます。それは、神様が全ての人を愛しておられ、全ての人に良い人生をおくって欲しいと願っておられるからです。


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初めに 創世記1:1-10

2010年01月03日 | Celebration
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。(創世記1:1-8)

 創世記は、『モーセ五書』の最初に位置する書物で、BC6世紀後半から5世紀の前半頃に書かれました。この時代は、ユダヤの民がバビロン捕囚からは解放されたものの、社会的混乱と無秩序が人々の上を覆っていました。当時は、バビロニアの天地創造物語が、習慣・風習化し、人々は、太陽や月、動物や植物などを神格化して、礼拝していました。そのような混沌とした状況の中で、神の民としてのアイデンティティを取り戻し、信仰的な生活の指針を示すために、記されたのが創世記です。

 「初めに、神は天地を創造された」聖書のオープニングを飾るに相応しい、実に深遠な巻頭です。この「初めに(ベレシート)」という言葉が、ヘブライ語の「創世記」のタイトルです。科学は、天地発生の時と過程を説明しようとしますが、聖書は、この天地が誰によって創造されたのかということだけを、淡々と語ります。聖書に登場する「神」は、日本の神道のような多神教の神でも、仏教における汎神論的な神でもありません。明確な意志をお持ちになり、全宇宙を創造し、全てに偏在しておられるただ唯一の神です。

 ところで、1節の「神(エロヒーム)」という言葉は、尊厳と強い力とを表す複数形です。創世記1章26節を見ますと、「我々に」とあります。神は度々ご自身のことを、人格的複数で呼んでおられますが、動詞は単数形です。それは、父・子・聖霊の三位一体の神を暗示しています。また、「創造された(バーラー)」という言葉は、無から有を生む神の創造だけに用いられている言葉です。

 創世記1章1節で「神」が現われ、2節で「神の霊が働き」、3節では、神が「光あれ」と言われると、光があった。以下、神が仰せられる通りに、万物が創造されて行きます。この万物の創造者であられる神が、肉体をまとって人となり、人類の救いのために、この地上に来てくださったのが、イエス・キリストです。(ヨハネ1章1-3節)このように、三位一体の神が、私たちのために、この世界を創造してくださったのです。

 そして4節、「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」とあります。光は、闇の対極にあるもので、それは、「命」、「愛」、「救い」、「秩序」などの総体を表しています。この光のもとで、神の創造の業が行なわれました。

 5節の「夕べがあり、朝があった」というのは、一日が日没から始まるユダヤの宗教暦の反映です。その背景には、時を暗い闇から明るい光へと向かわせるという、人類の希望が示唆されています。朝に始まって夜に終わるというのが、この世の世界です。人生は、入学、就職、結婚、事業などの希望と喜びから始まります。しかし、どんな人間も、罪と死からは逃れることが出来ず、結局人生を、失望と悲しみの内に終わらせてしまうのです。一方、キリストと共に自我に死ぬ(洗礼)という体験を持ったクリスチャンは、人生における様々な苦難や試練を克服しながら、最終的には、永遠の命と言う勝利の朝を迎えることが出来ます。それがクリスチャンの人生なのです。

 次の「第一の日」と訳されている言葉(エハッド)は、「一つの日(The One)」と言う意味で、「一つ目(First)」という意味ではありません。つまり、この「第一日」とは、「一日(One Day)」という単位(時間)が、神によって形成されたことを表しています。

 そして6-8節の、「第二の日(Second)」には、大空の創造と、空の上と下に水を分けたことが書いてあります。7節の「造り」という言葉は、1節の無から有を生み出す「バーラー」ではなく、既に存在する素材で他のものをつくる「ヴァヤアス」という言葉が使われています。当時のユダヤの人々は、大空の上には深淵の水があり、天の蓋が開かれることによって雨が降り、大地は水と水との間に挟まれた浮島状のようなものと考えていました。

 この創世記の6日間にわたる神の創造には、その進展に伴い必ず「良しとされた」と記されてあります。ところが、この第二の日の創造のみ、この言葉がありません。それは、1章1節で、「創造された」と完了形で終っているにも関わらず、次の2節で「動いていた」という未然形に戻っており、その間に、サタンの介入があったことが考えられるからです。従って、地が罪によって天と分離している間は、真の地上(楽園)は成り立たない。だから、イエス・キリストによる新しい天が現われる必要があったのです。

 今日は、創世記1章1節から8節を、順を追って解説して来ましたが、この第一日目と第二日目の創造で、神は人間が生きる上で最も必要な「時間」と「環境」を創造されました。この天地創造の神こそ、私たちが礼拝すべき対象です。神は神であり、被造物は被造物であるということを明らかにさせるために、神は、当時のイスラエルの信仰の指導者たちに霊的感動を与え、彼らの手を通して、創世記1章の創造物語を記されました。神以外のものを、神として祭り上げてしまうことが、諸悪の根源であるからです。私たちは、私たちを創造してくださった神に従って生きる時に初めて、真の希望の内に生きて行くことが可能となるのです。


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2010年元旦礼拝 Iペテロ1:5-9

2010年01月01日 | Celebration
ハレルヤ!! 2010年が始まりました。昨年は、辛ったこと、悲しかったこと、嬉しかったことなどなど、沢山あったかと思います。でも今日は、失敗も、恵みも全て、一度リセットしましょう。「え、神様からいただいた恵みも??」と思われるかも知れませんが、神様は、けちけちした方ではありません。私たちは、昨夜温泉で年越しをしましたよね。夜、気持ち良い温泉に入った後、お湯がもったいないな~と思いつつもお湯を抜きます。しかし、朝、蛇口をひねると、また、温かい温泉のお湯がとめどなく出てきます。神様の祝福も、この温泉のお湯と同じなんです。今年も溢れ出る多くの祝福を私たちに与えてくださる方なのです。

 さて、今年最初のメッセージは、Iペテロの手紙1章5-9節からです。ペテロさんは、イエス様の筆頭弟子です。しかし、失敗も多い弟子でした。この礼拝堂の後に、イエス様に助けられている溺れかかった男の人(マタイ14:22-33)の絵がかけられていますが、その男の人がペテロさんです。

 「 たとえ、みんながあなた(イエス様)を裏切ったとしても、私は裏切りません。」(マルコ14:29)と言いながらも、人々の前でイエス様を知らないと三度も言ってしまい、その現場をイエス様に見られてしまうと言った弟子でした。しかし、イエス様が復活した後、イエス様の前で悔い改めをし、イエス様が天に挙がられた後、聖霊を受け、力強く福音を伝える弟子へと変えられたのです。

 今、日本で話題の韓国人が誰かご存知でしょうか?その方は、「べー・チェチョル」さんとおっしゃるテノールオペラ歌手です。今、オペラの舞台を最高水準で成功させるには、韓国人オペラ歌手の存在が必要といわれるほど、韓国には、沢山の優秀なオペラ歌手がいらっしゃいます。その中で、「100年に一人の逸材」と言われたのが、「べー・チェチョル」さんです。

 ベーさんは、オペラを学ぶためにヨーロッパで学びをしていました。同じ頃、同じくして音楽の道を志して勉強していた、イ・ユンヒさんと知り合い、結婚しますが、二人とも経済的に苦しく、奥様のユンヒさんは、ベーさんに音楽の道を託し、学びを断念し、サポートします。ベーさんは、苦学の末、ドイツでオペラ歌手としてデビューし、これからと言う矢先に、甲状腺ガンと宣告され、横隔膜や声帯などを切除する手術を受け、歌を歌うどころから声まで失ってしまいます。そして、オペラ歌手として絶望的なベーさんからは、多くの人々が離れていきました。

 そんな中、以前、一度一緒に仕事をしたことのある、日本人音楽プロデューサーの輪嶋さんが、ベーさんに連絡をします。輪嶋さんは、風の便りで、ベーさんの病気を聞き、心配して連絡をしてきたのです。詳細を聞いた輪嶋さんは、何とか、ベーさんを助けようと奔走し、声帯機能回復手術を考案した京都大学名誉教授の一色信彦博士の存在を知ります。輪嶋さんの手配でベーさんは、来日し、一色博士から手術を受け、声が出るようになりました。

 しかし、ベーさんは、声がでるだけで諦めるのではなく、リハビリにリハビリを重ね、練習に練習を重ね、オペラ歌手として復帰しました。一色博士は、クリスチャンではありませんが、ベーさんの状況を「奇蹟」と言っています。ベーさんは、3本ある声帯を切っている他、右の横隔膜の神経も一部も切除していました。私たち人間の神経は、切除した後、再生されません。ベーさんの機能は、従来の人の声を出す機能の1/3にも満たないにも関わらず、オペラ歌手として復帰できたのです。

 ベーさんは、甲状腺ガンの手術をする2年前に咽喉に違和感を覚えて、病院で検査を受けていました。しかし、その時には、ガンは発見されませんでした。ベーさんは、その事について、こう語っています。「もし、あの時にガンが発見されていたら、おそらく、手術で切る範囲はもっと少なくて済み、もっと早くオペラ歌手として復帰できていたかもしれません。しかし、その時、ガンが発見されていたら、私は、輪嶋さんに会うこともなかったし、日本で復帰コンサートを開くこともなかったでしょう。」そして、ベーさんはこうも語っています。「もし、私が、病気にならなかったら、今頃、ドイツのオペラ座で歌っていたかもしれません。しかし、私は、ただ、歌の上手い人間に過ぎなかったのではないでしょうか。私は今、この経験を通して、もっと別なことを伝える人間になれたんだと感じます。」今日、神様からいただいた御言葉のポイントの一つは、「神様は、私たちを成長させるために苦難を与えられ、そして、その苦難を用いられる」ということです。

愛する人たち、あなたがたを試みるためにふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜び満ちあふれるためです。(Iペテロ4:12-13)

 ベーさんの手術をされた一色博士は、彼の手術を依頼された時、医者仲間やスタッフから反対を受けました。一色博士は、この手術の権威でしたが、オペラ歌手の手術はしたことがありませんでした。ですから、周りは、その手術に失敗したら、マスコミに厳しく批判され、万が一、成功したとしても、ベーさんは、話せるようになるだけ、オペラ歌手の彼が歌えなければ、成功したとしても、どちらにせよ、マスコミに批判されると言う、理由からベーさんの手術を反対しました。しかし、一色博士は、ベーさんの手術をしました。それに対して、ベーさんは、こう語っています。

 「韓国人の自分のために、何故、日本の人たちがこんなに親切にしてくれるのか分かりませんでした。しかし、今、私がこうあるのは、日本の人たちに何か伝えなければならないことがあるのではないかと、今、私は強く感じています。」そして、彼の奥様のイ・ユンヒさんはこのように語っています。「韓国での、復帰リサイタルの実現は、不可能だったと思います。(多分、韓国のオペラ歌手の競争が激しいためでしょう)日本は、クラッシック音楽が非常に定着していますし、音楽に対するレベルも高く、コンサートにも積極的に足を運んでくれます。そして、日本の方々は、弱っている人と一緒にその痛みを感じると言う温かさがあり、音楽家の実力だけを見るのではなく、その人の痛みや人生までを含めて音楽を理解してくれると言うことを私は感じました。」

 ポイントの二つ目は、「私たちが苦難にある時、神様は必ず、助け手を送ってくださる」ということです。みなさんにもそう言うご経験がおありではないでしょうか?みなさんが、苦難の中におられた時に、助けてくださる方がおられたのではないでしょうか?私は、ベーさんが手術後、初めて歌ったビデオを見ました。それは、どこかの教会でしたが、十数人の方がいらっしゃる、と言う感じでした。普通、オペラの舞台は素晴らしく、オペラを観る方たちは、何万円も払って、盛装した紳士、淑女です。その大勢の前で、朗々と歌い上げるわけですが、ベーさんの復帰した最初のコンサートには、「オペラって、なんだべぇ?」といったお年寄りが、いらっしゃっていました。

 しかし、そのコンサートはとても感動的でした。聴衆の人たちは今までオペラなど聞いたことがなくても、皆とても感動されていました。ベーさんご自身も感動されていました。勿論、復帰後の初めてのコンサートですから、彼の声量は全盛期の頃とは違いますが、彼も感極まって泣いておられました。そして、聞いておられる方たちも感動して泣いておられました。私はそれを見て、とても励まされました。人間の真の幸福は、お金や名声ではありません。周りからちやほやされることでもありません。私は、「ベーさんは偉い人だなー。」と本当に感動しました。

 ベーさんにとって、この体験は、死ぬより辛いことだと思います。声楽家であるにもかかわらず、声が出ない、そして、仕事もできないのですから。そのような暗闇の中でベーさんは、奥様と二人で、輪嶋さんと言う強力な助け手を得て、病気と戦ったのです。私たちの成長のために苦難を与える神様は、私たちにこうも教えてくださっています。ポイントの三つ目は、「神様は、その苦難に優る素晴らしいものを与えてくださる」ということです。

皆、互いに謙遜を身に着けなさい。(Iペトロ5:5)

 ベーさんは、今、自分の経験を一人でも多くの人々に知ってもらうために、舞台だけでなく、いろいろな教会や施設を訪れて歌を歌っておられます。このような活動は、彼が謙遜だからこそ、できることです。オペラの「オ」の字も知らない人々の前で歌うことができるのは、彼が身を低くしているからこそできるのです。そして、ベーさんは、病気を通して、自分の何の得にもならないのに彼をバックアップしてくれた輪嶋さんや多くの日本のファンの人たちを神様から与えられました。

 そして何よりも、彼は、自分の経験を伝えると言う、使命を神様から与えられました。その真理は、「Never Give Up (決して諦めない)」と言うことです。神様にあれば、どんな不可能なことでも、可能です。人には、できないが神にはできます!ベーさんが歌手に復帰すると言うことは、物理的にはあり得ない事でした。しかし、ベーさんはこう言っています。「そうではないですよ。現に私は、オペラ歌手として歌っています。神様にあって、人生には不可能なことは何もないのです。」2010年は不可能を可能にしてくださる神様と共に歩んでいきましょう (執筆担当: 美鈴)


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