Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

神の必然 ヨハネ4:3-30

2010年07月25日 | Celebration
■カウンセリングの現実

 夫の浮気で悩んでいたA子さんは、「夫を責めないで今のまま全面的に受け入れなさい」とセラピストから言われてその通りに実行したら、返って状況が悪化してしまった。人生の意味を見失っていたB君は、「何でも自分がしたいと思うことをしなさい」とセラピストから言われて、自殺をしてしまった。

 カウンセリングによる治療は、現代医療と同じく、間違った治療方法や、クスリの処方を誤ると、その人の命取りになる。現代医療が進歩するにつれ、新しい治療薬が次々に開発されているように、カウセリングの手法も、時代の推移や、状況に伴って様々な方法が導入され、また、流行もある。

 カウセリングの基本理論を確立したクリスチャンのカウンセラー、カール・ロジャース(Carl R.Rodgers)は、人が癒される(救われる)過程には、以下の7つの条件が、一定期間、継続して行なわれていることを発見した。

S(セラピスト)とC(クライアント)という二人の人間が密接な接触を持っている。
Sは、人格的に統合(自己同一)されている。
Cは、傷付き、不安定な精神状態(自己不一致)にある。
SはCに対する共感的理解を経験している。
SはCに対する無条件の肯定的配慮を経験している。
SはCへ共感的理解と肯定的配慮の経験をCに伝えようと努力している。
Sの肯定的配慮と共感的理解が、Cに僅かでも伝達されている。

 ロジャースは、『自己一致』、『無条件の肯定的配慮』、『共感的理解』この三つが、カウンセリングにおける重要な要素であることを、彼はあるテキストから学んだ。

 歴史上でただ一人、他の誰とも比肩し得ない最高のカウンセラーの達人が存在し、その彼によるカウンセリングの要点が、誰にでも分かり易く記された記録があれば、私たちは、高いお金を払ってカウンセリグクラスを受講する前に、その記録を読むべきだと思うだろう。そのテキストこそ、聖書である。


サマリアの女から見る解放のプロセス
 その聖書の中でも特にこの『サマリアの女』の物語には、人はどうしたら癒されるのか?人はどのように癒されて行くのか?また、どうしたら人を癒すことが出来るのか?そして何故、人は癒されなければならないのか? そのプロセスが実に入念に記されている。

C(クライアント:サマリアの女) 1-否定、2-否定、3-否定、4-意志表示、5-問題に気付く、6-最終確認、7-解放

S(セラピスト:イエス・キリスト) 1-洞察、2-鎧を脱がす、3-環境設定、4-エコーと質問、5-明確化、6-支持、7-解放


3-5:ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。

■サマリアの歴史的背景 (サマリアを通らねばならなかった)
 当時のイスラエルは、深刻な民族紛争問題を抱えていた。彼らはその問題を、あくまで相手の責任であると決め付け、問題解決に向けて前向きに努力しようという姿勢は全くなかった。彼らはメシアを待望しながら、その実、メシアを向かい入れられるような状況ではなかったのだ。彼らは、強力な王も、宗教的指導者も存在せず、自分たちの国が二つに分裂したまま、他国に支配し続けられているという、重い虚無感の中で生活していた。

 BC928年、イスラエルは北南に分裂。BC722年、北イスラエル王国はアッシリヤによって崩壊し、人々の多くが捕囚となった。アッシリヤは、自分たちが征服した民を互いに移住・雑婚させる政策を取っていた。その政策(雑婚)によって生まれたのがサマリヤ人である。民族的にも宗教的にも純粋ではない彼らを、ユダヤ人は、混血・非国民という意味を込めて、サマリア人と呼び、忌み嫌ったのである。

 BC586年、今度は南ユダの王国が、バビロンによって崩壊した。それから70年後、捕囚から解かれたユダヤ人はエルサレムに帰還し、神殿と町の再建を始めた。その時にサマリヤ人が「共に再建をしたい」と申し出たが、ユダヤ人にその申し出をはっきり断わった。その腹いせに彼らは再建工事を妨害した。このような宗教的、歴史的確執から、ユダヤとサマリアは、深刻な民族紛争へと発展して行った。それで、ユダヤ人がユダヤとガリラヤを行き来する時は、サマリヤを通らずにわざわざヨルダン川沿いの南北に走る平野を迂回するという、実に3倍の道のりを費やしていた。


6-8:そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。

■S-1. 相手に対する洞察 (ヤコブの井戸)
 ヤコブの井戸は、スカルの町から約1.5Km離れたところにあり、深さが30mもあり、普通よりも汲み上げるのに労力が要る井戸である。しかもその井戸は、彼女の家から最も近かった井戸ではなく、彼女はこの遠く深い井戸まで、わざわざ水を汲み来ていたと考えられる。それは彼女の祖先ヤコブを慕う気持ちの表れであった。彼女は、いつか自分の上にも天の梯子がかけられ、神から祝福される日を待ち望んでいたのである。

■S-2. 相手の心の鎧を脱がせる (正午ごろ)
 当時、女性たちの井戸汲みは、一日が始まる前の朝と決まっており、そこは「井戸端会議」という文字通り、女性たちの交流の場だった。彼女が正午に水を汲みに来ていたのは、他の女性たちとの交わりを避けていたからである。過去五回も結婚歴があり、現在も同棲状態であることを、人から噂されることを恐れていたのである。

S-3. 相手の立場に立つ (イエスは旅に疲れて「水を飲ませてください」と言われた)
 このような不安や怖れは人の心を頑なにする。人の視線や悪口から身を守るために、人は心に固い鎧を着て身を固めている。人は、高圧的な態度で自分に対する人には身構え、弱みを見せないようにするが、弱い人には軽快しない。何故なら、自分より弱い人から傷付けられることはないからである。そこでイエスは、その彼女の警戒心を解くために、自分の弱い姿をお見せになられた。

S-3. 環境設定 (弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた)
 イエスは、私たちの弱さに同情できない方ではなく、すべての点で、私たちと同じ立場、同じ視線で思いやってくださるお方である。他人の欠点や罪を指摘するのは簡単だが、正論は逆に人を遠ざける。また、カウンセリングの場において、第三者がいると人は本音を話せない。イエスは、弟子たちも、町の人たちもいない、彼女と二人だけで話し合うことが出来る環境を設定されたのである。

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。(ヘブル4:15)


9:すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。

■C-1. 第一否定
 当時、ユダヤ人とサマリア人は交際厳禁(民族的常識)であり、ラビ゛が女性に声をかけることはあり得えない(社会的常識)ことで、当時の男性も通りがかりの女性(娼婦以外)に声をかけることはない(日常的常識)。つまり、この場におけるイエスの態度は、彼女にとって三重の意味で驚きであった。この非常識な行為に対して、彼女は警戒心をもろに表した。


10:イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

S-4. エコーと質問
 「生きた水」は、「新鮮な(湧き)水」(レビ記14:5、民数記19:17)のことで、溜めてある水とは区別されていた。礼拝儀式に用いられていたのは、この水であり、人の罪と汚れを清める働きがあるとされていた。つまり、ここでイエスは、「聖めの水は人間から与えられるものではなく、神からの賜物であり、それを与えることが出来るのはメシアだけ」と言う要点を、頭から教え諭すのではなく。質問形式で逆に相手に喋らせることによって、相手の考え方、価値観、問題点を引き出そうとされた。聖書には会話の要点しか記録されていないが、実際の会話はもっと長かったであろう。


11-12:女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」

C-2. 第二否定 (あなたに何が分かるのか?)
 彼女はユダヤ人であるイエスを否定的に見下した。「ヤコブよりも偉いのですか?」という言葉は、2章の神殿騒動の際にユダヤ人が、「あなたがこんなことをするからには、どんな印を私たちに見せるつもりか?」(2:18)と言った発言と同じ意味である。

C-3. 第三否定 (プライドの誇示 私はあなたより知っている)
 シカルは、サマリア人が礼拝を捧げていたゲリジム山とエバル山の谷間にある。この町はヤコブが息子のヨセフに与えることを約束し(48:22)、ヨセフが埋葬され(50:25,ヨシュア24:32)、ヨシュアがモーセに命じて(申命記27)、ヨシュアがイスラエル12部族を祝福するために律法を朗読した町であり(ヨシュア8:30-35)、また、逃れの町でもある(ヨシュア20:7)。つまり、シケムという町は、サマリヤ人の誇り・アイデンティティの要の町だったのだ。


13-14:イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

S-5. 明確化 (真理を語る)
 水を飲めばその時は満たされるけれどもまた渇いてしまう。それと同じように、心の渇きを、物質的なもので満たそうとしても、決して満たすことはできないのだ。と、イエスはここで真理を提示された。「この水を飲む者はまた渇く」という言葉は、今の彼女の生活状況のことを言われたのである。


15:女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

C-4. 意思表示
 ここで彼女は、「もし、そんなものが本当にあるのなら、私も欲しい」と、イエスに対してはじめて肯定的な態度を示した。


16-18:イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」

C-5. 問題の本質に気付く
 ところが、イエスはその彼女の要求には応えられず、全く別のことを言われた。ここで彼女が抱えている問題をズバリ指摘されたのだ。彼女は、自分の心の渇きを、男性で満たそうとしていた。今度こそ、この男は私を幸せにしてくれるかも知れない。そうして結婚を5回くり返した末、今は半信半疑で6人目の男と同棲している。しかし、そのような生活で真に満たされることがないことを、実は彼女自身も知っていたのだ。それで彼女は、ヤコブの故事を思い出しながら、いつか自分にも救いがやってくることを漠然と望みつつ、罪の中にあって心の渇きを覚えつつ、ヤコブの井戸にやって来ては水を汲み続ける生活をしていたのである。

 この彼女の生活は、現代人の生活にそのまま当てはまる。人はいくら知識や物を持っていようとも、「永遠の命」と、それを与えることが出来る「キリスト」の二つを持っていなければ、他のものなどゴミ同然である。世の中の人々の心は飢え渇いている。その渇きを癒すために人は様々なことをする。仕事、異性、酒、ゲーム、ファッション、インターネット、ケイタイ、ショッピング等々。しかし、この世の水は、まるで海水のよう。飲めば飲むほど喉が渇き、やがてそれらは依存症となり、最後には死に至るのである。


19-20:女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

C-6. 最終確認 (自分の実態を認めたくない拒否反応と決断前の最終確認)
 ユダヤ人が預言者に定冠詞を付けて「The預言者・あの預言者」と呼ぶ場合、それはメシアのことを意味している。彼女は、11節と15節で、イエスのことを「主」と呼んでいるにも係わらず、ここでは、定冠詞がない預言者、つまり、イエスのことを、あえてユダヤ人の預言者の一人だと言い換えて呼んでいる。

 イエスに不意をつかれた彼女は、自分の生活(本当の問題)を見抜かれ、いきなり真理を突かれたことに対して拒否反応を示した。そして、問題の核心を反らすように、民族的・歴史的問題(礼拝の場所)に、話題を摩り替えた。このように、御言葉は、相手の本音と建前を明確に分けてしまう力があるのである。

神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。(ヘブル4:12)


21-24:イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

■S-6. 支持 (婦人よ、わたしを信じなさい)
 否定的な感情を示した彼女に対してイエスは、女性に対す最大限のリスペクトを込めた丁寧な言葉で切り返した。あなたが言う通り、それは大切なことだと、4節にわたって「真の礼拝とは何かについて」非常に重要なことを説明された。このイエスの言葉は、黙示録に記されている神と人が共に礼拝する荘厳な天上での礼拝を思い起こさせる。この天上の世界と地上の世界が、現在において同時リンクしている光景が、ヨハネには三度繰り返されている。(5:25,16:32)

 サマリア人はゲリジムヤ山で、ユダヤ人はエルサレムで神を礼拝し、それぞれが、自分たちの主権を主張しながら礼拝しているが、それは真の礼拝ではない。礼拝とは、そのような人間の思いではなく、霊と真で礼拝すべきである。何故なら、神の日はもう近くに来ているからです。とイエスは言われたのである。


25:女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」

S+C-7. 解放
 徹底的にイエスに受容された彼女は、遂にイエスがメシヤであることを悟った。そして彼女は驚くべきことに、「いっさいのことを私たちに知らせてくださる」という、正しいメシア観を理解した。当時の人々にとってメシヤは、イスラエルをローマから解放する政治的・軍事的リーダーであった。にも係わらず、彼女はメシアとは、人に関する一切のこと、この地上の世界に関する全てのことを明らかにしてくださる方と悟ったのだ。


26:イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 ここまではっきりイエスが自分がメシヤだと明言された箇所は他に例がない。

27:ちょうどその時、弟子達が帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。帰って来た弟子たちは、その場の霊的雰囲気を感じた。

28:女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。

 彼女が置いたままにした水瓶は、今まで自分が固執していた古く間違った価値観である。彼女は、朽ちる水の支配下から、生ける水の支配下へと、全く新しく変えられた(カイノスされた)のである。

29:「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」

 今迄、人との交わりを拒絶していた彼女が、一変して公に人々の前に立ち、伝道を始めた。その変容は、今迄孤児とばかり思っていた自分が、本当は神に愛され、神が必死になって探していてくれた神の子だったのだという、完全なる自己一致が確立されたからである。従って彼女は、もう人の前で恥じたり、恐れたりする必要は全くなくなったのである。

30:人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

神の御国実現
 3章のニコデモの話しと、このサマリヤの女の話しを比べてみると、3章はニコデモのほうからイエスに近付き、4章ではイエスからサマリヤの女に近づかれた。通常私たちは逆を考える。人格的で宗教的な人が神に近く、愚かで穢れた人は神から程遠い。しかし、キリストの福音は、それとはまったく正反対である。

神の必然 (サマリヤを{の人々の救いのために}通らなければならなかった)
 そこには、歴史的背景よりも、更に重要な「神的必然」が存在している。それは、イエスがシケムという町で、救いを待ち望んでいた一人の女性を解放し、彼女を通してサマリアの人々を救うためであった。

 イエスによって癒されて、人格的に統合し、自己同一した人間は、今までのクライアントの立場から、人々を癒し、神の福音を伝えるセラピストの立場へと変えられるのだ。真の解放、真の癒し、真の救いは、時代の移り変わりや、民族の違い、医療の発展に関係なく、イエス・キリストにのみよるのであって、その開放こそが、キリストが地上に使わされた理由であり、私たちクリスチャンの使命なのである。



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天国的発想転換 黙示録21:1-6

2010年07月18日 | Celebration
■米国の深刻な肥満事情

 米国の教会内において、最も取り上げにくい肥満の問題。米国人の3分の2(子供は5分の1)が肥満状態にあり、彼らの多くは、心臓病、癌、脳卒中、糖尿病等の慢性疾患の危険性にさらされている。米国厚生省によると、肥満治療に費やされる医療費は約1500億ドル(約14兆円)。これは癌治療に費やされる医療費の約2倍に相当する。

 肥満の原因は、言うまでもなく、食べ過ぎにある。大人に必要な一日のカロリーは、約2千カロリーだが、アメリカ人は平均一日に3千カロリー以上(ハンバーガーコンボは千カロリー)を取っていると言うのだから、肥満になっても当然である。それに伴って、余計なお金もかかっているわけだが、食べ物がなくて死んでいる人が世界中に溢れている中で、米国人は更にお金を払って痩せようという、実に奇妙且つ不自然な行為に走っている。

 南部バプテストの教会員で、100Kgから45kgの減量に成功し、TVの減量番組で準優勝したジュリー・ハッデンという女性がいる。その彼女がダイエットに関する本を書いているのだが、その中で彼女は、「肥満は、魂が飢え渇いている状態によって起こっているのです。」と記している。そして彼女は、イエス様を通して、創造主がつくってくださった本来あるべき自分の姿を思う浮かべた時、過剰食欲に走る行為が、少しずつ制御出来るようになったと言う。

 新約聖書に記されているギリシャ語の「新しい」という形容詞には、二つの別の言葉がある。一つは、ネオス(νεοσ)という、時間的な新しさを意味する言葉と、カイノス(καινοσ)という質的な新しさを意味する言葉である。福音的な意味で使われている新しいという言葉(新しい契約:ルカ22/20、新しい掟:Ⅰヨハネ2/7、新しい人:Ⅱコリント5/17,エペソ2/15等)は全て、カイノスが使われている。つまり、聖書は、キリストを信じてクリスチャンとなった私たちは、質的に全く新しく変えられた者であると、言っているのである。

 時に私たちは、「彼はどうしてあのようなことが出来たのだろう?」と、驚くことがある。聖書には、よく「見よ!」言う言葉が登場するが、神の国を確実に見た者だけが成し得ることが行為というものがある。彼女がダイエットに成功した理由は、「イエス様を通して自分の姿を見た」と言う言葉に隠されている。私たちは、人生に対する視線を、この世から神の国に焦点を合わせ、物事に対する価値判断を、全く新しい「KAINOS的発想」へと転換する必要がある。


■この世は断食道場

 日本には、断食道場という、体質改善のための断食指導をするところがある。そこでは、少しずつ食事を減らし、適度な運動をしてから、完全な断食へと持って行き、体内に蓄積されていた不純物を取り去り、終了時はおかゆから食べ始める等々・・、実に様々な専門的な指導をしている。こうやって体質改善された人はアトピーが治った、偏頭痛が治った、また、味覚が変わったりするそうである。つまり、飽食による肥満が如何に万病の素であるのかということを、体験的に教えてくれるところなのである。

 この断食道場に行って、食事のフルコースが出ないといって文句を言う人はいない。そこは体質改善をすることが目的の場所なのであり、好きなものを食べたいのであれば、断食道場を出てレストランに行くべきなのだ。つまり、断食道場で何かご馳走が出ることを期待する人は、根本的な認識が間違っているのだが、それと同じように、この世の人生において、楽園を求めている人は、最初の認識が間違っている。

 私は以前、クリスチャンは一般の人々より、苦難が多いと言った。更に、献身者は、一般クリスチャンよりも苦難が多いと言った。例えば、「水野源三さん、星野富弘さん、横田早紀江さん…. あんなに素晴らしいクリスチャンに、何故あのような苦難が起こるのだろう?神の恵みはどこにあるのか?」と考えるのは、クリスチャンとしての洞察に欠けている。

 彼らは、この世において訓練を受けている天国人なのである。国会議事堂前の掃除も大切だが、財務大臣としての務めは、ある意味もっと大切であり、大切だからこそ、それに対する特別な訓練が必要である。彼らの人生における試練とは、そういった意味があるのだ。クリスチャンは在米天国人。住んでいるのは米国だが、最終的に帰り着くのは天国。だから、この世(米国)に過剰な期待をする必要はないのである。

 この世という所は、人間が究極的に幸せになるために存在しているのではない。この世は、神と共に働く天国人になるためのトレーニングセンター、それもかなり厳しめの断食道場である。従って、辛いことや悲しいことやがっかりすることが起こるのは当然。「自分はこの地上で幸せになるために生まれてきたのだ」という人生観で生きる人は必ず失望する。地上は人間の欲望や思いを満たす所ではないからである。


■人生最大の問題は清算済み

 人生における最大の問題とは何か?「お金?恋愛?人間関係?環境問題?」確かに色々と存在する。しかし、「リストラされた、家賃が払えない、恋人に振られた、誰かと喧嘩した」等の問題は、「大変残念ですがあなたの命は早くて2-2ヶ月、長くて半年」という宣言に比べたら、取るに足らない問題である。「死」こそ、人生最大の問題なのである。従って、「死」という問題が解決出来ないまま、人生を楽しく充実して生きようとしても、それは単なる「まやかし」である。「死」に対する根本的な問題をなおざりにして、人生を幸福に生きることは不可能だからである。

 それでは、「何故人は死ぬのか?」という、根源的なところに戻って考えてみよう。実は、人は元来、死ぬようには創られていないのだ。それなのに、何故人は死ぬようになったのか?死の原因とは何なのか?それは人間に「罪」というものが介入して来たからである。罪とは、創造主である神に対する反逆のこと。神なんか知らない、自分には必要ない、という、人間の自己中心的な生き方のこと。神という「命の源」と断絶していることを「罪」と呼ぶ。その「罪」が、人間に「死」をもたらしたのである。

 ところが、神と断絶し、滅びの運命にあった人間を、イエス・キリストは、十字架の上で私たちの罪の身代わりとなり、私たちの罪に対する裁きをことごとく引き受けて下さり、「完全なる救い」の業を果たして下さった。それによって、私たちはもはや、罪に束縛されることはなくなった。過去に犯した罪も、これから犯してしまう罪さえも、キリストは十字架上で全て清算し終えてくださったのだ。

 イエスはこう言われた。「わたしはすでにこの世に勝ったのだ」と。つまり、このサタンによって支配さえちるこの世界が人間に与える「死」も、「罪」も、「失望」も、「悲惨」も、私たちにとっては、恐れるに足らない。何故なら、キリストがそれら全てを十字架と復活によって粉砕されたからである。


■価値ある仕事はその準備期間も充実させる

 スペイン国家から民間人に贈られる最高の章である『イザベル女王勲章』を受賞し、外国人として初めてスペインで国葬された日本人がいる。辻宏さんという、オルガン奏者・修復者である。1974年、彼はスペインを旅行中に、サマランカ礼拝堂という教会を訪れた。そして、そこに設置されていた『天使の歌声と呼ばれる400年前(ルネサンス時代)につくられたオルガンの名機が、200年以上も間鳴らないままで埃をかぶっていたのを見て衝撃を受ける。(写真参照)

 それ以来、彼は『天使の歌声』を修復したいという願いにかられ、毎年サマランカ礼拝堂に通い続け、5年目に自分の意図を、ビクトリアーノ神父に告げた。彼は辻氏を好意的に取り計らってくれたが、世論はスペイン人の誇り、文化遺産を日本人などに触らすことなど出来ない!と否定的だった。しかし、それにも関わらず、彼は諦めずにサマランカ礼拝堂に実に14年間も通い続け、1988年、遂にスペイン国から正式に修復の依頼を得ることが出来た。(辻氏がイタリアで誰も直すことが出来なかった17世紀のオルガンを2台修復した実績を認めた)

 ところが、修復費には当時のお金で3千万以上かかり、国にも教会にもそんな金はない。つまり、「修復は許可するが、金は自分で工面してくれ」という内容であった。しかし、彼はあくまで謙遜に、「本当に良かった、諦めずに願い続ければ、神はその願いを聞いてくださるのだ!」と神に感謝した。そんな彼を神が放って置く訳がない。神は早速彼に助け手を送った。その話しを聞いたスペイン大使が、『修復協力の会』を発足し、1年間で3500万円が集められたのである。

 彼は400年前の制作技術をそのまま使い、新しくするのではなく、ただ復活させることだけに徹し、釘穴1つ開けない方法で、8ヶ月間を費やして見事に修復した。修復後に始めて天使の歌声が礼拝堂中に響きわたった時、辻氏自身が驚かれたという。それは、決して古臭くない、実に新鮮なカイノスの音色だったからだ。

 その辻氏の功績に対してスペイン国家は、民間人に贈られる最高の名誉である『イザベル女王勲章』を贈り、サマランカ大学には『日本スペイン文化交流会』が発足された。辻氏は2006年、72歳で永眠。10日間、意識不明だったが、当時ドイツに留学していた孫が電話口から讃美歌を歌った時に彼は微笑んだそうである。その3ヵ月後、辻氏急逝の知らせを聞いたスペイン政府から電話があり、サマランカ礼拝堂で追悼ミサ、外国人では初めての国葬が行なわれた。

 辻氏は、自分の名誉でも、お金のためでもなく、ただ、純粋なプロ意識と信仰によって、この仕事を遂行し、完成させた。「人は天国で、永遠に朽ちない体で、永遠に価値のある働きをする」と聖書は約束している。私たちの地上における仕事は、実は天国における私たちの役割と繋がっているのである。

 私たちの地上における生活、仕事、自分の生涯が、天国での準備期間であるならば、たとえどんな困難なことが起こったとしても、それは、自分に与えられている天国での仕事の糧に変えられて行く。価値ある仕事は、その準備期間も充実する。だから彼は14年間も忍耐し、待ち続けることが出来たのである。この地上での生涯を、天国における価値ある仕事の準備期間として捉えることが、私たちの人生に、朽ちることのない、最高の意味を与えてくれるのである。


■苦難があるのはこの世だけ

 イエスは、「あなた方はこの世では苦難がある」と言われた。それを逆に言えば、「この世では苦難があるけれども、永遠の国には苦難はない」という意味である。つまり、永久に続くのは、天の国における喜びと平安であって、この世の患難は何時までも続かないのである。

神が人と共に住み、人は神の民となり、神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。(黙示録21:3-4)

 この苦難や迷いが一切存在しない世界が、クリスチャンには用意されている。それが天の御国である。この国こそ、神が私たちのために準備さしてくださった究極の美、究極の平安、究極の喜び、究極の充実感を味わうことが出来る世界である。そこはもはや悲しみも、叫びも、苦しみも、そして死もなく、神によって全てが完成した世界。

 今迄の人生が楽しければ楽しいほど、その結末が「死」であるのなら、人生は一層残酷になってしまう。確かにこの世には、完全な教会は存在しない。完全な人も存在しない。しかし、逆に人生が難しければ難しいほど、不完全であればあるほど、それが喜びに変えられ、不完全が完成された時の満足感・充実感も深いものとなる。

 この期待と喜びが天国にある。神は、私たちがこの世で、キリストの名の故に手放した多くのものを、天国で何十倍、何百倍、何万倍にして返してくださるのである。


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私が生きる理由 ヨハネ14:15-18

2010年07月11日 | Celebration
 私は1995年、今から15年前の夏にイエス様を信じて、クリスチャンとなりました。私がどうしてクリスチャンになったのかと言うお話しの前に、少し私の家族ことをお話させていただきます。

■父親のこと
 子供の頃の父はとても面白い人で、近所の子供たちと一緒に野球をしたり、マラソンをしたり、ドッチボールをしたり、とても人気者でした。父の話しが面白くて、私たち兄弟は、身を乗り出して父の話しを聞いていたものです。ところが、私たちが成長すると共に、面白かったはずの父の話しが、口先だけ、自分の意見がない、世間体ばかりを気にする。家では威張っているのに、人前では何も言えない等々、「面白い父」から、「情けないお父」へと見方が変わって行きました。子供から尊敬されず、見下されると言うのは、父親としてどんなにか寂しかっただろうかと思います。

■弟のこと
 そんな中、弟が13歳の時に登校拒否になりました。引きこもりから家庭内暴力に発展し、そのことで家族は悩み、喧嘩をし、泣きながら何度も話し合いました。そんな弟の状況に対し、母は登校拒否について勉強し、教育委員会などにも足を運び、弟のために必死になって動きました。その一方、父は、母に攻められながらも「うるさい」と言って怒り続け、現実に対応することが出来ないまま、問題から逃げていました。そんな父を、私たちは益々軽蔑しました。私には、父がどれほど苦しく、悲しみの中にいるのかと言うことを、思いやる余裕を持つことは全く出来ませんでした。

■母のこと
 それからと言うもの、母は息子のために、お寺で拝んでもらったり、お墓や土地を清めたり、先祖供養をしたり、霊能者にみてもらったり等々、藁をも掴む気持で、何処へでも飛んで行きました。しかし、そんな母の努力にも関わらず、8年の歳月が過ぎて行きました。母は段々と家にこもりがちになり、息子の前では無理につくった笑顔で、私の前ではいつも泣き顔。そんな母に私はとても悲しい思いをしました。

 母は息子の状況に耐え切れず、サンダル履きに手さげかばん一つで、よく外に出ていました。そんなことを繰り返している内に、ある日母はこう思いました。「私がいたらあの子どんどん悪くなってしまう。国道に出て、ダンプカーが来たら飛び込もう!」と。だけど、国道を歩けどダンプカーは来ません。そして歩きながら手提げの中をふと見ると、教会の伝道集会のチラシが入っていました。そして母はそこへ電話をしました。

 母からの電話を受けたそこの教会の牧師先生は、母の元に直ぐに来てくださり、しかも暫くの間、母を教会で預かってくれることになりました。それで私は、母の着替えとお金を少し、その教会へ持って行くことになり、母の荷物をまとめていますと、母の服は全て私たち娘のお古で、下着はぼろぼろ。こんなものを母は着ていたんだ・・と思うと、私は涙が止まりませんでした。駅の近くで母の下着を何枚か買い、私は母がいる教会まで向いました。


■私のこと
 初めて行った教会は、私の想像とは大きく違った小さな普通の家で、中に入ると、普通のおじさんがなにやらタイプをしていました。そのおじさんが牧師先生でした。私は荷物を置いて直ぐに帰るつもりだったのですが、「よくきたね~」という牧師さんの優しい笑顔に私は引きずられるように中へ入り、私は、自分の家の状況や、私自身の思いなどを、牧師先生に聞かれるままにお話しました。

 私は今まで自分の家族のことで、泣いたり、弱音を吐いたりしたことは一度もありませんでした。だけど、この時だけは、私は笑顔で話しているつもりなのに、涙が溢れ出て、溢れ出て大変でした。私が、「父は弱い人だからということを、母にもっと理解して欲しい」と言う思いを伝えると、牧師先生は、「お母さんも弱くて、誰かに助けてもらいたいんだ。明日、お父さんと一緒に教会へ来れるかい?」と聞かれ、私は「来れると思います!」と答えました。

 そして最後に牧師先生が私の頭に手を置いて祈ってくださいました。人に祈ってもらうのは初めての体験でした。お祈りのはじめから終わりまで、頭の上から足の先に暖かいものがドドーと流れ私の体を電流のように流れました。そして、「もう大丈夫だよ、今まで辛かったね」と、神様から言われたような気がしました。その時、「あ、神様っているんだ」と思ったら、私はその場でワンワンと泣いてしまいました。そして、本当は家の問題で重いはずの心が喜びで満たされ、心が軽くなったのです。それから私は、その教会に通うようになり、イエス様を信じました。イエス様の愛が本物だと分かったからです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)


■父との和解
 こうして私は、イエス様を信じて自分の内側がどんどん変わって行きました。今までの私は、「ダメな父の代わりに、私がやってあげなければ!」と頑張っていました。それで私は自分は何と良い娘だろうと思っていました。ところが、これは父に対してとても失礼なことでした。娘なのに、父親を尊敬するどころか、見下していたのですから。

 神様はそんな私の捻じ曲がった心に触れてくださり、「あなたのお父さんは、精一杯あなたを愛しているんだよ。あなたのお父さんは、立派じゃないかも知れないけれど、言葉も足らないかも知れないけれど、お父さんは精一杯あなたのことを愛しているんだよ。」と、教えてくださったのです。私がクリスチャンになって、神様が最初に私にしてくださったのは、私と父との和解でした。今私は、父のことが大好きで、娘として父に甘えたい気持ちで一杯です。

 このようなことを通して母が神様と出会い、次に私もイエス様を信じ、妹、そして祖母がイエス様を相次いで信じました。残るのは父と弟だけです。確かに父の悪いところに目を留めると、ため息が出ます。でも、父は未だ神様のことを知らないで生きているのですから、悪い所を攻めても仕方がないのです。

 神様は全ての人間を、目的を持って創られています。私の父も例外ではありません。神様は、父のことをよ~く考えて、背格好から、目の大きさ、口の形、腕のながさ、髪の毛、気質を決めて、この地上に送ってくださったのです。ですから、父の良いところに目を留めるとき、父も神様に如何に愛されているのかが、分かるのです。


■「死」について
 『恋愛講座』と言うミリオンセラーを書かれたジョシュア・ハリスさんのお母さん、ソノ・ハリスさんが、独立記念日に天に召されました。彼女は、日系3世で7人の子供をホームスクールで育てられた、アメリカのホームスクールリング・ムーブメントのパイオニアとして広く用いられた方です。また、彼女の『聖書的女性らしさをいきる』姿勢に多くの方が感銘を受けました。

 その彼女が召天される前に、ご家族と撮った写真を見せていただきました。確かに病気で、お顔は痩せてしまっているのですが、実に希望と愛に満ちたそれは素敵な笑顔でした。彼女は未だ50代半ばで、死ぬ年齢ではありませんし、死ぬことを望まれていたわけではないのに、この希望に満ちた素晴らしい笑顔は、彼女が確かに幸福であったことを実証しています。

 ほぼ、時を同じくして韓国の有名な俳優、パク・ヨンハさんが自殺されました。事情はよく分かりませんが、彼だって死にたかったわけではなかったでしょうが、死を選ばなければならないほどに、苦しい状況の中にいたのだと思います。その時、彼はどんな顔をしていたのでしょう。

 最近私の4歳の娘「すぅチャン」が、『死』についてあれこれ考えるようになってきました。「ママ、すぅちゃん、死にたくない」と泣くのです。私が「すぅちゃん、いつかはすぅちゃんもママもみんな死ぬんだよ。死んでもね、終わりじゃなくて、今度は天国で、幸せに仲良く暮らすんだよ。」と言うと、「ママも死ぬの?ギッフィーちゃんも死ぬの?」と聞いてくると、「すぅちゃん、ママと一緒に天国へ行きたい!」と言います。

 「そうだね~、ママと一緒に行けたらいいね~。でも天国へはイエス様がすぅちゃ~ん、こっちにおいでぇ~と呼ばれて行くんだよ。」すぅちゃんはどのように理解しているのか分かりませんが、そう言われて何となく安心して寝るのです。長女も4歳のときに「死にたくない!」と泣きました。小さい子供は自分中心に勝手気ままに生きていますが、でも、「死にたくない!死ぬのが怖い!」真剣に考えているのです。

 私は親として子供たちに命の大切さ、自分がこの世で生を受けて生かされている意味を、しっかり教えてあげなければならないと切実に思います。何故なら、「死にたくない!」と思っているはずの子供たちが、数年もすると自殺を考え、実際に自殺してしまうという現実があるからです。私は親として、そして大人として、この問題としっかり向き合わなければならないと思っています。


■助けてくれたのはクリスチャン
 私が教会へ通い始めて直ぐの頃、弟がひどく暴れたことがありました。その騒ぎは夜中から明け方に及び、彼は「牧師を呼べ!」と怒鳴りました。私は、夜中の3時に車を飛ばして、牧師先生の家の前まで行きました。真っ暗闇の中、公衆電話から電話をすると、牧師先生が直ぐに支度をして、出て来てくださいました。そして、私と一緒に家まで来てくださり、家の前で私の家のために祈り、弟と穏やかに、しっかり弟の目を見つめながら話してくださった牧師先生のお姿に、私たち家族はどれだけ慰められたか分かりません。

 私の家はずっと「SOS」を出し続けていましたけれど、本当に心配して祈ってくださり、私たちのために駆けつけてくださったのは、神様の愛を知るクリスチャンでした。私はこの愛を忘れることができません。

 今、世の中は「SOS」だらけです。家庭の問題、子供の問題、お金の問題、病気の問題、犯罪、いじめ等々、問題だらけの世の中で私たちは生きています。私の家族のようなケースも決して珍しくはないと思います。私たち家族も、まだまだ問題の中にありますが、誰かが泣いて苦しんでいるのを見て知らないふりはできません。

 私は、まだ神様を知らない方々に、本当の幸福を知っていただくために、神の愛を伝える者として生きて行きたいと願っています。たとえ夜中でも、私を呼ぶ人がいるなら、私は行きます。私たちの家族のために駆けつけて下さった牧師先生のように。私は、人の魂の救いのために、神様に用いていただきたいと思っています。私には神様から与えられた重荷があるからです。吉野家の痛みを、悲劇を、他で繰り返して欲しくないからです。


■人間の創造目的
 神様は私の父のことをよ~く考えて、創ってくださったと申しましたが、勿論、皆さんのことも、神様、よぉ~く考えてお創りになられています。では、神様は何のために人間を創造されたのでしょうか? 聖書にはその理由が、こう書かれてあります。

主を賛美するために民は創造された。(詩篇102:19)

人間が神様を喜び、賛美するために、また神様が私たちを喜び、讃美するために、神様は人間をお創りなられたと言うのです。そして、神様は私たち一人一人に目的を持って、命をお与えになっています。そのことを知らないまま、神様を無視生きておられる方がどれほどおられるでしょうか。

 神様は、天地万物をつくられた私たちの創造主です。この神様の目的に適った生き方をするのか、それとも、この世に於いて自分の価値観、人の価値観、今の流行にとらわれて価値基準が変わっていく行き方をしていくのか、私たちはそのどちらかを選択をしなくてはなりません。


■神様の願いは人間の救い
 クリスチャンになると人間は幸福になります。実際に、神様を信じてからの私はずっと幸せです。確かに人間生きていれば、家族の問題、夫婦の問題、嫁と姑との争い等々。大変なことは色々とありますが、その都度、神様がその問題に介入してくださり、神様の御言葉に耳を向けると、そこには素晴らしい解決があり、そして、いつも希望があるのです。それが神様の約束だからです。

 神様は真実なお方です。この方にどうぞ信頼してください。そうすると、神のルールが見えてきます。神様の秩序が分かります。そして、神様はあなたと人格的に関わってくださり、いつもあなたと共にいるよと約束してくださっています。そして、そればかりではなく、もう一度あなたの前に現れると約束してくださっているのです。これが私たちの希望であり、私たちが生きている理由です。

 神様の目的は全人類の救いです。ですから、あなたのご家族を助けられないはずがありません。私のように家族の問題がおありになる方は、どうぞイエス様を信じてください。何故なら、聖書には、 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)とはっきり書いてあるからです。

 また良いご家族に恵まれ、人格者と呼ばれる方で、未だイエス様を信じておられない方もたくさんいらっしゃるかと思います。私は、そういう方にこそ、イエス様を信じていただきたいと願っています。何故なら、この世での祝福が、神様の支配下に入ることによって、その祝福が永遠に続くようになるからです。

何事でも神の御心に適うことを私たちが願うなら、神は聞き入れて下さる。これが神に対する私たちの確信です。(Ⅰヨハネ5:14)

 このように約束してくださっているイエス様は、私たちを必ず幸福に導いてくださるお方です。あなたもイエス様を信じませんか? 心からお勧めしたいと思います。(Ako)


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