Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

神在りと賭けて損は無し ローマ3:21-26

2009年01月25日 | Celebration
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。(ローマ3:23-25)


 損得勘定のこの世の中、人は特売セールに列を成しても、教会に行列することはない。クリスチャンになったからとて、好い仕事や好い家、好い学校を得る訳ではないし、ボランティアに精を出しても尊敬されるようなことも、病気が治ったりする“特典”もないからだ。では、教会で得られるものは何だろうか。

 人は、どうしても目に見えるものに目を注ぐ。そして、目に見えるものを目的とした人生を良しとする。しかし、ほんとうに大切なものは目に見えるものではない。見えないものこそが、大切なのだ。世はスピリチュアルブームを謳い、異次元について語るけれど、その実、原則であるはずの霊の存在、霊は肉体の如何に関わらず存続することを真剣に考えない。死後の世界を興味本位で突付いてはみるけれど、自分自身がいずれ、あるいはもうすぐにでも直面することを考えていない。

 本日のタイトル、『神在りと賭けて損は無し』は、フランスの物理学者・思想家、パスカルの言葉。パスカルは病気を抱えながら、真理を求めてキリストを弁証しようとした。しかし聖書が語る通り、人間には、神の存在も不在も証明することはできず、彼にもそれは適わなかった。しかし、彼はひとつの確信を持つ。存在しないものに自分のすべてを賭けることは無謀かもしれないが、絶対の力を持つ至高の存在として神が存在するとしたら、当然それに賭けるべきだ、神の存在を信じる方に賭けることは、人間にとって紛れもなく有益だという確信を。

 無神論者は、神の不在の事実を知っているのではない。「神などいないと信じること」を信仰としているのだ。キリスト者が、「創造主である神、イエス・キリストを信じること」を信仰とするのに反して。そして、一般日本人の信仰は「無病息災・家内安全・商売繁盛」であり、年二回、新年には神社で、盆会にはお寺で、ダブルキャストで詣でている。「災いなく、病気せず、貧しくなければ幸せと信じる」信仰だ。しかし、それで人は本当に幸せになれるのだろうか?応えは否。何故ならそこには、実に重要な4つの要素が抜けているからである。

 
□健康であろうと、裕福であろうと、人間は必ず死を経験する。この「死」という事実から目を背けて考える幸せは、表面的な取り繕いでしかない。

 
□一難去ってまた一難。同じような問題に襲われることがある。問題は、元から絶たなければ解決しない。元とは、「罪」だ。人間の持つ罪から解放されるのは、福音によってのみ。仏教の教えは、苦しみからの一時的な解放だけだ。

 裁き
□仏教における裁きは、地獄の閻魔王によって、罰を与えるために裁かれる。しかし、キリストの裁きは、天国におられるイエス様が、人を救うために裁くのだ。裁きは決して恐れるものではない。

 
□死を乗り越え、罪から解放され、裁きに向き合って、私たちは永遠の命を得る。肉体は滅びても、私たちの霊は存続する。いや、それこそが私たち人間の本体だ。今の人生は、その霊の命を得るためだ。

 神様は、私たちのすべてをご存知だ。良いことも、悪い思いも。すべて知った上で、イエス様によって救いたいと願っておられる。だからすべきは、神様の思いに向き合うこと、自分中心から神様中心の人生に方向転換する、「悔い改める」こと。私たちがしでかしてきた悪行、人を嫌う気持ち、妬む心、高慢さ、プライド、憎しみ、過去のこれらはどうしたって取り返しがつかない。しかし、誰が忘れても、神様の前になかったことにはならない。すべてを帳消しにする唯一つの方法が、神様が支払ってくださった莫大な代償をただ感謝して受け取ることだ。自分では支払うことも、償うこともできない私たちのすべての罪を清算してくださったイエス様の十字架にすべてを賭ける。それ以外に、永遠の安らぎを得る方法はないのである。(睦美)





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引き出しの中の真理 ルカ6:27-36

2009年01月18日 | Celebration



 この世の中は比較競争社会。しかし、時に「勝ち負けよりも崇高なものがある」ことを知る。人を感動させ、神の存在を再認識させる「それ」は、神様のメッセージ(御言葉)として、すべて聖書に書かれている。

 ワシントン州とオレゴン州の大学対抗ソフトボールの試合でのこと。双方とも初の地区優勝をかけての決勝戦の最終回で、1点差を追うオレゴンは、走者満塁、一発大逆転という絶好のチャンスを迎えていた。しかし相手ピッチャー、マロリーは抜群の防御率を誇るのに対し、迎え打つバッター、サラは、打率1割という大きな格差があった。それでもチームを優勝へ導くため、サラは果敢に豪速球にバットを振りかざした。。。カキーン!なんと奇跡の場外ホームラン。サラの人生初の栄光溢れる一本だった。これでオレゴンの優勝決定!のはずが、事はここから始まる。

 喜び一杯でウィニングランするかと思われたサラが、一塁ベース近くで蹲っている。彼女はベースを踏んだ拍子に左足の靭帯を切ってしまったのである。場内に入れないルールのため、仲間チームは外から声をかけるが、どこかを痛めて動くことも、答えることもできない様子。仲間に為す術はない。審判からは、代走を立てて単なるヒットとして扱うルールを提示されるが、そうすれば優勝はわからず、またせっかくのサラのホームランがなかったことになってしまう。オロオロする中、相手チームのマロリーが審判に話しかけた。「仲間チームは場内に入れないでしょうが、敵対する私たちがサラに触れることは問題ないはずですよね?私が彼女を助けます。」そして、マロリーともう一人は動けないサラを抱えて、ホームまで彼女を運んだのだ。ルール上は正当な権利である自分のチームの優勝を逃すことになっても、彼女はサラの人生最初のホームラン、彼女の栄光を守ったのだ。

(New York Times)


 聖書中でも有名であり、多くのキリスト者が「私には無理!」と引き出しの奥に仕舞い込んでいる御言葉、『汝の敵を愛せよ』はここで実践された。それは、十字架を目前にしたイエス様も実践されたこと。イエス様は、悪への屈服や諦め、単なる無抵抗主義、卑屈な態度に因らず、強い信念を持って、その信念のために耐え忍ばれたのだ。その信念は、「神様の言葉により頼むこと」。

しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。(ルカ6:27-31)

 福音理解のために、2つのことを教えられた。まず一つ目は、「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。(=だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。/マタイ福音書)」は、殴られたら殴り返せ、ではないこと。相手の右頬を打つ場合、通常の右利きなら右手の甲を使って打つことになる。手の甲で顔を打つことの当時のユダヤ社会の意味は、「侮蔑」を指し、つまり29節全体の意味も、「あなたを馬鹿にしたり、悪く言う者に言い返すな。」ということ。

むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。 (Ⅰペテロ4:13)

 もう一つは、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」の部分。日本にも「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ。」という、人間関係を円滑にするために使われる仏教用語がある。しかしイエス様の教えは、人間関係の和のためではない。イエス様は、決して道徳の推進などを仰らない。少し考えると、その意味の深さに気付く。神様が人間に教えられるのは、自分に対する報酬を求めることなく、自分が望むことを誰にでも、何でもしてあげなさい、という愛の行為だ。

 このルカ福音書6章の前の方に、手の萎えた人の癒しがあったことが記述されている。(ルカ6:6-10)イエス様は、その人に「手を伸ばしなさい。」と声をかけ、その人は言われた通りに手を動かして癒しを受けた。文句も反論もせず、同情を求めることもせず、ただ御言葉に従った結果、動かないはずの手が動いたのだ。『汝の敵を愛せよ』の御言葉も同じ次元で語られている。どちらも、ただ信仰を持って御言葉に従う時、人間に不可能なことを可能にする神の力によって可能になる。このことに信頼し、『汝の敵を愛せよ』を実践していく者であろう。(睦美)

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神の業と神の時 ハバクク2:1-3

2009年01月01日 | Celebration
 金融危機、食糧難、自然災害、政情不安、治安の悪化などなど、世界的にいろいろな問題を抱えながら2009年が始まりました。しかし、そのような状況は、いつの時代にも見られたものです。その只中で、私たちは、どのように歩んで行ったらよいでしょうか?

 今日の聖書箇所である、ハバクク書が書かれた時代も、イスラエルの人々は苦難の中を歩んでいました。イスラエルと言う国は、常に軍事大国の間に挟まれて、侵略の危機に脅かされていた国であり、また、国内においても民族同士の争いが絶えない国でした。北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、そして、南ユダ王国もバビロニアに滅ぼされようとしていた時、預言者ハバククは神様に遣わされました。ハバククは神様に「確かに神様に従わなかった私たちが悪かった。しかし、神様を知らず、暴虐の限りを尽くしているバビロニアに、あなたの民である私たちを滅ぼさせるのですか?!」と叫んでいます。その叫びに対して神様がハバククに応えているのが、今日の聖書箇所です。

定められた時のためにもう一つの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。(2:3)

 神様の計画の成就には、必ず時があります。その神様の時とは、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(コヘレトの言葉3章11節)」のです。そして、その神様の業は、神様を信じる人々、クリスチャンによって成されるのです。

 私たちは、それぞれ夢や希望があります。その夢や希望を実現させようと私たちは、日々努力をしますが、その夢が大きければ、大きいほど、努力や時間を費やします。しかし、時として、状況から見ると、その夢や希望は実現できないのでないかと不安になっていきます。また、世の中は、いろいろな問題に溢れ、身の回りの対処に忙しく、夢や希望などを考えることもできないかもしれません。今日は、そのような状況の中、正に『奇跡』とも言える夢を実現させた方のお話を分かち合いたいと思います。その方は、ジム・モーリスさんと言って、35歳でデビューを果たした『大リーグ史上最高齢のルーキー』と称された人です。(その体験は『The Rookie(邦題/オールド・ルーキー)』として映画化されています)

 ジムさんは、子供のころから大リーガーを夢見て、1983年、ミルウォーキー・ブルワーズのマイナーリーグに投手として入団します。しかし、彼は肩の故障のため、メジャーに上がることなく1987年に引退します。その後、彼は10年間かけて大学を卒業し、高校の教師免許を採って野球部のコーチに就任します。その野球部は成績が悪く、それに対しジムさんは、野球部員を叱咤激励しますが、かえって部員たちに「なぜコーチが現役でやっていないのか」と問われ、何も言い返せなくなります。そして、彼は、自分の息子ぐらいの年の若者たちと共に入団テストを受け、タンパベイ・デビルレイズからメジャーデビューします。

 ジムさんは、35歳と言うプロのスポーツ選手としては、引退を考える時期にメジャーデビューを果たしました。何故、彼がそのような偉業を成すことができたのでしょうか?それは、彼が神様を信じるクリスチャンだったからです。ジムさんは自分の体験を振り返り、このように語っています。「私には夢がありました。だけど、自分の夢を達成する前に、私にはやっておかなければならないことがあったのです。それは、家族を愛し、子供たちを真っ直ぐに育てることでした。」 神様は、私たちの夢や希望を与えてくださり、実現させてくださいます。そのために、『神様の時と神様の業』を理解し、神様と共に、与えられている事柄を一つ、一つ、忠実に行なっていきましょう!(美鈴) 〔写真:ハバククと天使〕

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