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損得勘定のこの世の中、人は特売セールに列を成しても、教会に行列することはない。クリスチャンになったからとて、好い仕事や好い家、好い学校を得る訳ではないし、ボランティアに精を出しても尊敬されるようなことも、病気が治ったりする“特典”もないからだ。では、教会で得られるものは何だろうか。
人は、どうしても目に見えるものに目を注ぐ。そして、目に見えるものを目的とした人生を良しとする。しかし、ほんとうに大切なものは目に見えるものではない。見えないものこそが、大切なのだ。世はスピリチュアルブームを謳い、異次元について語るけれど、その実、原則であるはずの霊の存在、霊は肉体の如何に関わらず存続することを真剣に考えない。死後の世界を興味本位で突付いてはみるけれど、自分自身がいずれ、あるいはもうすぐにでも直面することを考えていない。
本日のタイトル、『神在りと賭けて損は無し』は、フランスの物理学者・思想家、パスカルの言葉。パスカルは病気を抱えながら、真理を求めてキリストを弁証しようとした。しかし聖書が語る通り、人間には、神の存在も不在も証明することはできず、彼にもそれは適わなかった。しかし、彼はひとつの確信を持つ。存在しないものに自分のすべてを賭けることは無謀かもしれないが、絶対の力を持つ至高の存在として神が存在するとしたら、当然それに賭けるべきだ、神の存在を信じる方に賭けることは、人間にとって紛れもなく有益だという確信を。
無神論者は、神の不在の事実を知っているのではない。「神などいないと信じること」を信仰としているのだ。キリスト者が、「創造主である神、イエス・キリストを信じること」を信仰とするのに反して。そして、一般日本人の信仰は「無病息災・家内安全・商売繁盛」であり、年二回、新年には神社で、盆会にはお寺で、ダブルキャストで詣でている。「災いなく、病気せず、貧しくなければ幸せと信じる」信仰だ。しかし、それで人は本当に幸せになれるのだろうか?応えは否。何故ならそこには、実に重要な4つの要素が抜けているからである。
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□健康であろうと、裕福であろうと、人間は必ず死を経験する。この「死」という事実から目を背けて考える幸せは、表面的な取り繕いでしかない。
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□一難去ってまた一難。同じような問題に襲われることがある。問題は、元から絶たなければ解決しない。元とは、「罪」だ。人間の持つ罪から解放されるのは、福音によってのみ。仏教の教えは、苦しみからの一時的な解放だけだ。
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□仏教における裁きは、地獄の閻魔王によって、罰を与えるために裁かれる。しかし、キリストの裁きは、天国におられるイエス様が、人を救うために裁くのだ。裁きは決して恐れるものではない。
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□死を乗り越え、罪から解放され、裁きに向き合って、私たちは永遠の命を得る。肉体は滅びても、私たちの霊は存続する。いや、それこそが私たち人間の本体だ。今の人生は、その霊の命を得るためだ。
神様は、私たちのすべてをご存知だ。良いことも、悪い思いも。すべて知った上で、イエス様によって救いたいと願っておられる。だからすべきは、神様の思いに向き合うこと、自分中心から神様中心の人生に方向転換する、「悔い改める」こと。私たちがしでかしてきた悪行、人を嫌う気持ち、妬む心、高慢さ、プライド、憎しみ、過去のこれらはどうしたって取り返しがつかない。しかし、誰が忘れても、神様の前になかったことにはならない。すべてを帳消しにする唯一つの方法が、神様が支払ってくださった莫大な代償をただ感謝して受け取ることだ。自分では支払うことも、償うこともできない私たちのすべての罪を清算してくださったイエス様の十字架にすべてを賭ける。それ以外に、永遠の安らぎを得る方法はないのである。(睦美)
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