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☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

完了した人生 ルツ4:14-17

2011年10月02日 | Celebration
感動のない人生はつまらない。商業界においても、何かしら人を感動させることができれば、リピーターを得、業績が上がる。教会も同じことだ。しかも、教会が与える感動は、世のものとは違う。それは永遠の命へ繋がる希望あふれる感動だ。私たちキリスト者は、福音のもたらす豊かで深い感動を人々に伝えることを絶えず心がけて生きよう。

 さて、そのキリスト者の生きる源、聖書からも私たちは感動を受ける。今日はえんぢぇる師が受けたルツ記の感動からシェアしていただく。ルツ記は、かの文豪ゲーテが「小さなスケール上に描かれた最も好ましく完璧な仕事」と評し、また聖書と知らない文学者、批評家の間でも「珠玉の短編小説」と言われるほどの、4章から成るルツとナオミの物語。評価に違わず、その物語としてのレベルは高く、しかも読みやすい内容。キリスト者であれば、何度となく読んでいる書のひとつだろう。しかし、聖書は66巻から成り、ルツ記はその内の一書簡。ルツ記本来の意味は、聖書の中にあって輝きを一層増すことを覚えよう。まず、ルツ記が位置するのは、創世記に始まるモーセ五書に続くヨシュア記、士師記の次の書物。その後には、サムエル記、列王、歴代、預言書と続いていく。そのことからだけでも、ルツ記は、大きなイスラエルの動きの中で、歴史の流れ、民族の葛藤から離れて佇む風情を色濃く表し、あたかも砂漠のオアシス、また荒野に咲く一輪の白百合のような美しさを際立たせる。

 えんぢぇる師は、このルツ記にキリスト者の人生のモデルを見た。クリスチャンの人生とはこういうものだ、ということをルツ記全体から神様は示唆してくださったのだ。その3つのポイントで語った。


自分の最善が神の最善とは限らない。

 人生には苦しみがある。津波に家族も財産も奪われた人の苦しみ、また仕事の人間関係での悩み、夫婦、親子、友人間にも傍目には小さかろうと苦しみはある。この人生の苦しみの意味、曳いては人生を生きる目的は、キリスト者であればこそわかることだ。クリスチャンにならないとわからない、と言っても過言ではない。最終的な解決策はイエス・キリストにしかないのだから。その希望の福音を、初穂である我々は内にいただいている。

 ルツ記の主人公はルツと言うよりもその義母、ナオミだ。異邦の地まで夫に従い赴き、そこで家族生活を営むものの、伴侶を亡くし、子供たちまで失い、心の支えとなるものが何もなくなった女性。当時の時代背景では、まさに皆無と言える状態だ。仕事のない女性ゆえに経済的基盤もなく、息子が異邦人と結婚したために社会的基盤もなくなった。ユダヤの社会が一般認識していたように、神様の恵みから外されて恥辱に喘ぐ人生しかなかった。

 ナオミの人生は神様の存在が感じられないことばかりだった。実は聖書は失敗談の記録なのだ。モーセは約束の地に入れなかった。ダビデは神殿を建てることを許されなかった。パウロは願っていたイスパニアに行けなかった。そしてナオミは恥から逃れるよう祈り続けた。彼らの前に神様はいらっしゃらなかったか。否。神様はモーセに、ダビデに、パウロに、そしてナオミにも確かに現れていらっしゃる。

 そのルツ記の最後の部分、「ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。 近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。」赤子を胸に抱いたナオミを言い知れぬ平安が包んでいる。彼女は祝福の内にある。ナオミ自身はその意味を知らないが、この子供からイスラエルの王が生まれるのだ。そして、更には全人類の救世主、イエス様が誕生する。数多の苦難を経、恥の人生しかないと嘆くナオミから。確かに嫁であるルツの子とナオミに血縁関係はない。しかし、神様は「ナオミに子供が生まれた」とされている。ナオミの約束の子なのだ。私たちは個人の最善を望む。しかし、神様は全人類の最善を望まれる。そしてそれを確かに成就されるのだ。悲しみのナオミから希望のメシアが誕生する。これが神様の最善だったのだ!


暗闇の中でこそ神は働いておられる。

 確かに人生には苦難がつきもの。しかし、その苦しみを乗り越えた経験は、人格形成に重要な位置を占める。真の悲しみを知らない人は、人の痛みを知ることはないからだ。真の悲しみには傲慢さが入り込む余地はない。それは神様との一対一の対座によって示される。「父親から鍛えられない子供はいない。」とあるように、悲しみや試練を通らない人は、人生をわからず、人を愛することはない。更に、試練を通して私たちは天国民としての適格者と認められていく。信仰が本物と証明されていく。これが苦難の存在理由だ。

 とは言え、理由の付けられない不幸な出来事もある。戦争でゴミのように殺される子供たち、身勝手な理由での迫害・虐待、人間の手が下しようのない自然災害、確実に広がりつつある目に見えない放射能汚染。世の中には、存在理由など考えられない、簡単に「試練」の一言で片付けられないどうしようもないことがあるのも事実だ。なぜ?

 実は聖書には2つの「苦難」という語がある。ひとつは前述の「鍛錬のための」苦難を意味するもので、もうひとつは「誘惑」とも訳される苦難のことだ。これは、悪魔が人間を神様から引き離すために陥れようと試みることで、キリスト者にとっては試される時、チャレンジになる。アダムとイブが出遭った苦難もこの後者だ。この試練の時にどう出るか。神なんかいない!と否定に走るか、それでも尚、神様に信頼するか。忘れてはならない。本来人間は神に問う存在ではなく、神様から問われている存在なのだ。「なぜこんなこと?」と神様に愚痴るのではなく、その時にこそ、神様からの助けを求めるか、祈るか。その態度を神様はご覧になっている。

 祈りが届かないような真っ暗闇の中であっても、神様は働いておられる。祈り続けたナオミは見放されてしまっただろうか。暗い魚の腹の中で必死に祈ったヨナは、捨て置かれただろうか。イエス様が十字架に付けられて世が暗くなったその時、神様はイエス様の声に背を向けられただろうか。その時にこそ、神様は働き、その力をもって全人類救済計画を完了された。だから私たちは生きている。光は決して闇に負けることはない。


神の御手にあるキリスト者の人生は既に完了されている。

 十字架上でイエス様が仰った、福音の核となる七つの言葉のひとつ、「テテレスタイ」。これは完済したという経理用語であり、すべてのクリスチャンライフが完了した、という意味だ。苦難の恥の中にあるナオミは、自分に祝福などあるわけないと思っている。メシアが生まれるなんてとんでもない!夢にも思っていない。しかし今、ナオミは静かに子供を抱き、彼女自身はメシアが出ることなど知らないけれど、平安に包まれている。これがキリスト者の人生だ。

 キリスト者の苦しみは、決して取り消されることのない悔い改めを起こす。私たちが嘆き苦しむ時、それは人々の慰めと救いとなる。それが聖書に約束されている。クリスチャンの苦しみは人の救いに変換されるのだ。イエス様が十字架上で非常な苦しみを受け、それが私たち、全人類の救いを成し遂げられたように。現時点ではまったく知り得ないことであったとしても、今の私の目には見えないことであったとしても。「テテレスタイ。」すべてのクリスチャンライフが完了した、とイエス様の宣言通り。主の言葉は真実なのだ。

 だから、勇気をもってほしい。決してくじけないでほしい。私たちクリスチャンの苦しみは、神様によって用いられ、神様の栄光にと変えられる。そこに希望がある。人の欲望には限りなく、人間は必ず死ぬ。所有物にも時間にも限りあるものだけに目を向けていても希望はない。しかし、クリスチャンは永遠の命をいただき、永遠を見ている。神様と共にある。だからこそ、希望がある。だからこそ、神様に信頼できる。主に栄光あれ! (執筆担当:睦美)




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