Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

天国民になろう! マタイ18:1-5

2007年04月29日 | Celebration
 海外に住んでいると、ビザや永住権などに関わる問題は日常茶飯で、しばしば「自分はこの国の国民ではないのだ。」と思い起こされる。また、人種の坩堝と呼ばれるこのロサンゼルスで他国文化の方々と接しながら思うことは、日本人としてのアイデンティティを忘れてはいけないということである。

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピ3: 20) と聖書に書かれているように、キリスト者は天国民なのだ!

 神様は私達を、天国代表の全権委任大使として、この地上に送ってくださった。教会は治外法権下にある大使館だ。他国に寄留している間は、居住国の作法や文化を学び、その国の人と良い関係を作るのが大使の役目。しかしそこに馴染み過ぎて、自分の役割を忘れてしまってはお役御免になってしまう。大使は、大使としての任務を完了して本国へ帰るのだ。そのために大使館に仲間がいる。

 この世の天国大使館、教会の働きを教えていただいた。基本中の基本であり、キリスト者としての働きに根付いているべき5つのベース事項。

1. 礼拝  :神様を愛すること。喜ばせること。
2. 奉仕  :隣人を自分のように愛すること。ケアすること。
3. 交わり :互いに愛し合うこと。
4. 学び  :大宣教命令。弟子となる、弟子とすること。
5. 伝道  :そして、地の果てまで伝道する。

 地上で過ごす時間が、私たちの全てではない。帰るべき天国において、続きがある。地上の人生はそのための基本作り。そのためには素直であること、従順であることが第一に求められる。本日の聖書箇所を筆頭にして、天国に生きるキリスト者としての人格形成の必要が、マタイ18章全体に語られている。

(1) 謙遜:1~4節
(2) 責任感:5~7節
(3) 自我の放棄:8~9節
(4) 愛と憐れみ/天国の価値観:10~14節
(5) 教会の規律:15~18節
(6) 愛ある交わり/透明な人間関係:19~20節
(7) 赦し:21~35節

 私達には人生の目的がある。神様はそのために、私達を創り、この地上に派遣された。そのための必要を満たしてくださっている。この目的意識の明確に把握してこそ、私達は真に生かされる。天国民として、そして、イエス・キリストの体として。

霊的癌 フィリピ2:12-18

2007年04月22日 | Celebration
 この世界には「あってはならないこと」が充満している。自己中心的な欲望や、それに駆り立てられた人々の浅ましい競争、憎しみや暴力、そして、戦争やテロ。この世界は、諸々の悪によって支配されているように見える。悪は一人でも多くの人間を滅びへ陥れようと画策している。ヴァージニア工科大学の事件もそのひとつ。メディアも世論も、セキュリティや銃規制、メンタルケアなど様々な方面からこの問題、そしてその後を検討している。しかし、それは表面的な事柄ばかりだ。キリスト者は、これを霊的領域の戦いと知ろう。根本的な解決はただ一つ、「神を畏れる信仰」しかない。今日の御言葉が語る。

あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。 (口語訳)

 一介の人間には理解し難いことだけど、神様は人間を愛し、人間に途方もない価値を置いてくださっている。ここに命の尊さがある。

わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、
あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。(イザヤ43:4)

 人間の価値観と異なり、神様の価値観では何か善いことをしたことも、悪いことをしたことも、関係がない。全て「人であるが故」、尊い。愛される。しかし、神様を知らないと、同時に命の尊さを忘れてしまう。

わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。(エゼキエル33:11)

 そしてまた、愛である神、義なる神に、一切『悪』はない。神様が願うのは、災いではなく、私達人間の希望ある未来だ。未来とは、永遠の滅びから脱出すること、代わりに永遠の命を得ること。そこに信頼した時、私達は解放を得る。全ての苦難から。死からさえも。しかし、信仰暦ウン年のキリスト者であっても解放されていない部分がある。その開放を阻む原因は、神様側にはなく、私達側にある。そのことを知るために、解放への5つのステップを教えていただく。

(1)現実を見つめなおす:自分と自分の周りの環境を客観的に観察する。
(2)本当の自分の姿を見極める:醜く、情けない自分の姿を知る。
(3)解放を切に願う:このままではダメだ!と真に願うなら、変換モードON!
(4)御言葉に拠り頼む:自己矯正だけでは変わらない。変わるのは主によって。
(5)御言葉に従順になる:いつも自己流の古い自我を捨て去らなければ、新しいものが満ちることはない。

 自分では気付かないまま、このステップのどこかに留まっていること、また従っていないことがある。そこが<霊的癌>の原発巣だ。これが、有機体である教会の成長も阻む。知らない内に霊性が蝕まれ、人や神様に敵意を抱き、他者と比較して優劣をつけ、力を誇示するようになる。かの昔、讃美の天使だったルシファーも、これにやられた。この癌を「傲慢」と呼ぶ。背後には「悪」が潜み、操り、最期には神様との関係が断たれてしまう。<霊的癌>を持っていないだろうか。治療薬は唯一つ、「悔い改め」の信仰だけだ。

 「時は満ちた、神の国は近づいた」と聖書は語る。悪の支配が倒れる時が来ている、そして、神の国、すなわち真実と愛の支配が、すぐそこまで近づいているのだ、と。イエス様は、命を賭けてこのことを私達に示してくださった。この愛を受け取ろう。そして従おう。ただただ、聖霊の導きのみに。神様の慈しみは常しえに絶えることはない。

あなたが御心に留めてくださるとは人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。(詩篇8:5)

私達家族の大切なAnniversary

2007年04月15日 | Good News
田中先生 and ミミちゃん、ご結婚1周年おめでとうございます。神さまが私達に与えて下さった大事な大事なお二人にハレルヤ!私達一同、心からお祝い申し上げます。

 本当に神さまに感謝ですね。イエス様の福音を田中牧師を通して学ぶことができ、そのメッセージに込められている聖霊さまの存在を深く感じます。この神の栄光によって私達が日々喜ぶこと、なんとも言えぬ底知れぬイエス様の愛を感じることが出来、本当に幸せに思います。また教会(イエス様の体)を支えるべく奥様のミミちゃんには、目に見えぬ細かい気遣いがあり、またすべての兄弟姉妹にいつも優しく接して下さる温かさをいただくことができ、私達本当に幸せに思います。

 お二人のご結婚を通して得られたもの、またこのお二人を引き合わせて下さったイエス様の導きに感謝致します。 これからも私達神の体の一部としていつも繋がっていることが出来ますように、また神さまからの田中ファミリーへの益々の祝福を心からお祈り致します。

「治りたいのか?」  ヨハネ福音書 5:1-9

2007年04月15日 | Celebration
 今日の礼拝は、中村透先生をゲストに迎え、讃美とメッセージを執り次いでいただいた。今日の聖書箇所である『ベトサダの池の病人の癒し』は、透先生にとっては、クリスチャンになる前から最も印象深く忘れられない部分。その後も20年以上、神様から示され続けていることを、今日の礼拝で熱く語って下さった。

 人間にとって最も辛いことは何だろう?憎まれること?軽蔑されること?いや、何よりも辛いのは、忘れ去られることかもしれない。38年も病に苦しみ続け、人々に忘れ去られた人がいた。彼は、癒しが起こる池の辺で、何度も何度も自分ではない誰かが癒されていくのを見、その度ごとに孤独と絶望が身を苛み、最早癒しの時など見たくないと思いながらも、苦しみから逃れたい一心で毎日池で待ち続ける人だった。

 所詮周囲はすべて敵、いざという時に味方はなく、自らは決して癒されることはないと失望し続け、同じような苦しみから癒された元仲間を祝福することすらできない、自分は完全に敗者だ、と失意の底へ底へと落ち続けるような日々を過ごしていた人。そんな彼に近づいてくれたのは、イエス様。

 イエス様は彼を見つめた。彼の苦しみを知った。イエス様が見過ごすもの、知りえないものは何もない。「この苦しみ、悲しみ、重荷をわかってくれる人など誰もない。自分を助けてくれる人など誰もいない・・・」人間はいつしかそんな自虐と自己憐憫に陥り、苦しむために苦しみ、悲しむために悲しむようになってしまう。病人ばかりではない。私達の日々の生活でも同じようなことがある。そこでイエス様は私たちにこう問いかけられる。「本当に治りたいのか?」と。

 その昔、透先生が最初にこの箇所を読んで、「病の人に、わざわざこんなことを聞くイエスという人は頭がおかしいに違いない!」と思ったこの問いかけに、当の病人は「はい!治りたいです!!」とは即答しなかった。彼の口について出たのは、どうせ自分は治りっこない、誰も自分を助けてくれない、という『あきらめ』の呟きだった。

 こういった否定的な考えに囚われると、人はその『絶望』にすら安住する。エジプトを連れ出されたイスラエルの民は、奴隷に戻りたいと訴えた。自由へと導き出したモーセに「大きなお世話だった」と言ってのけた。癒されたい、解放されたいという願っているようでも、実は自分ではあきらめて、神様の愛と憐れみに自ら目を背けているのだ。

 その心を閉ざした彼にイエス様は近づき、「起き上がりなさい。」と仰った。それは、「生まれ変わりなさい、復活しなさい。」とも聞こえる。今までの古い自分から、恵みを受け新しい生命に帰るように、主は呼び寄せてくださる。神様の恵みと祝福は満ち満ちている。選ばれた人だけが、最初の人だけが癒される、というような限定的なものではない。ただ目を上げて受け取れば、癒しは与えられる。神様が見過ごす苦しみは何もないのだ。

 癒しを拒む理由は、神様側には何もない。問題を手放さないのは私達の方で、真に癒しを願っているのは神様。恵みを迷うことなく、積極的に乞い願おう。ご自身を十字架につけてでも、私達を癒したいと思う神様の愛を。その真っ直ぐな祈りに、主は応え、語って下さるのだ、「あなたは癒された!(ヨハネ5:14)」と。

わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。(イザヤ49:15-16)

Easter Celebration (4/8/07)

2007年04月08日 | Celebration
イエス復活! Ⅰコリント15:1-10

 今日はイースター礼拝。イースターは、イエス様の復活を記念する日です。「復活」を信じるキリスト者は、この日、喜びに溢れます。しかし一般の人にとっては、何のことはありません。エッグハンティングをして、ウサギやを飾ったパステルカラーの楽しい春祭り、の域を超えないのです。何故?「復活」を知らないためです。

 人間は、どんなことも人間的な知恵や方法で証明しようと試みます。科学や考古学で証明されると、安心して受け入れることがたくさんあります。しかし、その証明は絶対ではありません。地動説はどうなったでしょうか。

 イエス様は100%神様で100%人間でいらっしゃいました。人間の作った神話の半神半人(50%・50%)は理に適っていますが、イエス様の存在は人間の頭では理解できません。しかし、イエス・キリストの存在は歴史学的にも明らかです。また、神様はこの地球と地上の自然環境を創られましたが、人間は葉っぱ一枚、土くれ一握りすら作ることはできません。できるのはコピーか、切り貼りだけ。これが創造主と被創造物の差です。創造主である神様の知恵は、神様の言葉である聖書でしかわかりません。聖書はわかったから信じるのではなく、神様をわかるために信じるものなのです。神様とのリレーションシップ(関係)がキリスト者の生き方です。

 また「永遠」という概念も、有限の命の人間に証明することはできず、知りえないことです。しかし「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられ」、人間は永遠を求めるのです。そして永遠についてわかるには、たった一つの方法しかありません。それが聖書に書かれています。イエス様は仰いました。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)

 礼拝は復活したイエス様に会うこと。人間として生を受け、人間として死、そして復活されたイエス様はキリスト者のモデルです。イエス様を信じ(愛す)れば、永遠の命を得ます。ここに、私達の希望があります。イエス様を知らない人は、教会がくれる素晴らしいものをわかりません。天国行きの切符はイエス様の体である地上の教会でしか手に入らないことを知らず、教会に所属することに拠る閉塞感や義務、また人間関係の変化など、「信じることによるリスク」しか見ようとしません。しかしリスクには、「信じないことによるリスク」もあるのです。

 人間は「死ぬ」ことは確かにわかっていますが、死後の世界の情報が得られず、曖昧な生死観しか持っていません。命に関わることを最重要視しながら、生死観そのものについてはあやふやなまま、誰にも教えられる機会を持たず、頭で理解できる狭い範囲のリスクだけを重んじて、信じることに踏み込めないでいます。「信じることのリスク」と同様に、「信じないことによるリスク」は確かにあります。目を瞑ったままいないで下さい。見ようと思えば見え、聞こうとすれば聞けるものなのです。それが復活したイエス様がくださった恵みの福音です。

 恵みによって救われ、悔い改めて霊に生まれた者が生きているのは、天国の一端。キリスト者にとって、天国は現実です。それを感じることができたなら、確かな永遠への希望をもたらした記念の日であるイースターが喜びに満ちるのは当然!そして、教会という形を取るこの地上の天国は、復活して今尚生きている神様の言葉と共に、この世界に広がり続けていくのです。私達はこの喜びを周囲に伝えていきましょう。神様の言葉通り、地の果てに至るまで。

Celebration (4/01/07)

2007年04月01日 | Celebration
クリスチャンのABC ルカ10:38-42

★今日のテーマは、キリスト者のベース、土台について。本日の御題が示すABCとは、

  A(あ)たりまえのことを
  B(ば)かになって
  C(ちゃ)んとやる!

 祈りはキリスト者の呼吸、Devotionは神様との会話、礼拝は霊的交わり、教会は霊の家族、献金は恵みへの応答、伝道は私達の使命。。。など、キリスト者の基本中の基本。口ではスラっと答えられること、頭では納得していることだ。しかし、私達はそれらに真摯に取り組んでいるだろうか。これら「当たり前のこと」を、「バカのように」従順に、「ちゃんとする」ことができているだろうか。

 「私はダイジョーブ!」と思う?「内在する罪」のメッセージで学んだように、それこそが要注意。献身とは、イエス・キリストと共に歩むことを日々選び取ること。私達は完璧になれない。だから日々、あるいは一瞬一瞬、悔い改め続けることを認めなければならない。認めたなら、「ダイジョーブ」とは言えない。そうした日々の神様への態度、神様の道へ戻ろうとする思いが、私達の土台を作る。

 本日の聖書箇所、『マルタとマリア』の有名なエピソードから、テーマは『献身』について。マリアとマルタ、そして特別出演のもう一人、イスカリオテのユダから、献身には『神様に対する献身』、『教会に対する献身』そして、『社会に対する献身』の3つがあることを学ぶ。

 イエス様ご一行の突然の来訪に、さすがのスーパーウーマン、マルタもてんやわんや。「食事の用意もしなきゃ、体を拭く水は十分だったかしら、お取り巻きを入れて何人くらい?」等々、、、イエス様に快適でいていただきたいからこそ、様々な思いにマルタは押し潰されそうになる。猫の手も借りたい!と思っているところに、イエス様の足元にゆったりと座り込み、御言葉に聞き入っている妹マリアが視界に入る。そこで遂にマルタはキレてしまった。「主よ!わたしの妹がわたしだけに働かせていることを、何ともお思いにならないのですか!?少しは手伝ってくれるようにおっしゃってください!」ここで多くの人がマルタに同感すると思う。これは当然の抗議である。しかしイエス様は、マルタに静かにこう仰った。

「マルタよ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 でも、必要なことはただ一つだけなんだよ。マリアはその良い方を選んだんだ。それを取り上げてはいけないよ。」

 マルタは『神様の必要』よりも先に『人の必要』に焦点を当てた。そうすると自分の力に頼り、出来ない分は人に対する不満へと変わっていく。そして自分の働きが周囲から認められないと、呟きはじめてしまうのだ。しかし、選ぶべき良い方は、マリアの態度。神様の足元に近づこう、そして御言葉を聞こう。神様により頼もう。そこに神様の力が働く。

 キリスト者として、神様、教会、社会に対する献身は必須。しかし、その順序を決して間違えてはならない。教会より、神より、社会へ貢献しようとしたユダはどうなっただろうか。神様に献身する、これこそクリスチャンABCの土台中の土台。この土台があってこそ、教会や社会への献身が生きてくる。神様への献身が、教会への献身へ通じ、それが社会への献身をもたらす。私達がいつも心の中心に置くべきは神様の御国の到来、優先順位はまず神様、そのことを日々祈っていきたい。

わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。(マタイ7:24-27)