Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

最後の手紙 黙示録3:14-22

2010年09月26日 | Celebration



 黙示録を学ぶ目的は、終末に関する詳しい知識を得ることではなく、キリスト者としての根本的な考え方-生き方を、より聖書的に造りかえることにある。自分の視線が地上だけに固定され、周囲のごく狭い世界のことしか見えないと、人の考えや言動は自己中心的になり、キリストの証人になって苦しむより、自分の身の安全を考えるようになる。人生には突発的な事故や災害、また、友人や身内の死などによって、日常生活が揺り動かされることがある。だが、それも時が過ぎればやがて忘れ去られ、また日常生活に埋没してしまうのである。

 世の中は、弱肉強食の競争社会にヒューマニズムという偽善のオブラートで包まれているため、些細なことに必要以上の力を置いてしまい、物事の軽重が判断できず、結果的に本質的なことから目が離れてしまう。人は目先にあるどうでもいいことに時間と労力をかけ過ぎて、真に大切なことをするためのエネルギーが残らないのだ。

 過去に実に多くの教会が、善に偽装した悪に惑わされ、時流に翻弄され、迫害を恐れ、キリストの証人として立つことが出来なかった。私たちがそのような過去を非難することは簡単である。何故なら、私たちは既に歴史の流れを知っており、その結末がどうなったかを承知の上で、言及しているからである。

 しかし、実際にその時代に生きる中で、権力、常識、流行、先入観等に囚われることなく、この世を動かしている闇の力を洞察し、真に価値のあるものを識別し、時代の波に奔走されることなく、物事の根源にあるものを見極め、身の危険を犯してまで、キリストの証人として生きることは、何と難しいことだろうか!? 私たちキリスト者が力強い証人として生きて行くためには、この三つのポイントが必要である。

現実に対する深い洞察 (自分が立っている場所を知る)
聖書の正しい理解 (神の証人として成すべきことを知る)
聖霊の力 (神の証人としてすべきことを行なう力を得る)


 初代教会の信徒たちにとって、イエスは死後に会う存在ではなく、またこの地上に来られ、自分たちの前に現れるイエスであった。この生き生きとした、燃えるような再臨への熱い思いが、初代教会の原動力だったのだ。初代教会にとって「終末」は、論議の対象などではなく、信仰生活の指針そのものだった。教会には、様々な教理・教派が存在しているが、黙示録が語る終末という概念において、次の三つの指針においては全てに共通している。

キリストがもう一度、この地上に来られる
そこでキリストを主とする者とそうでない者とが、明確に分けられる
サタンの支配が終わりを告げ、神の国が到来する

 時代区分からすると、私たちが属する地上最後(現代)の教会に宛てられたこの手紙こそ、私たちが最も注意して読まなければならない手紙である。本書の最大の特徴は、7つの手紙中、2つが賞賛のみ、4つが賞賛と叱責が記されているのに対し、この手紙だけが、叱責のみで一つも賞賛がないことである。その理由は、何一つ不自由のない生活故、悔い改めが欠如した自己欺瞞(15-17)にあった。この教会の現状は、その名(ラオス/民・デキア/喜ばす・民主主義)の通り、教会の外でイエスが立って戸を叩いているという姿に象徴される。

ラオデキヤは工業・商業が盛んで、銀行、商店、劇場、寺院などが立ちんだ、7つの教会があった街の中では、最も経済的に最も繁栄していた街であった。この教会に対する「なまぬるさ」という表現は、この街には温泉の配水管が通っていたが、源泉から10キロ近く離れていたため、その多くはなまぬるかったという理由による。彼らの問題は、自分たちには何の問題もないと考えていたことにあった。

 「 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者(原罪を持った人間生来の姿)であることが分かっていない。(17)」 つまり、迫害されるどころか、何一つ不自由のない経済的に繁栄した教会。

 しかし、教会が生活のアクセサリーと化し、福音が自己啓発や成功哲学に摩り替えられてしまっている。この状態は、「わたしはあなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。(2:9)」と言われたスミルナ教会と全く対照に位置している。この教会には、賞賛の代わりに三つの勧告が(これを買いなさいと)告げられている。

火で精錬された金:練り清められた純粋な信仰。(工業の発展)
白い衣:信仰(赦しと聖め)による正しい行い。(黒い光沢の羊毛)
目薬:聖霊によって目が開かれる。(フィルギアの目薬)


 主は必死で戸を叩いておられるが、その主の声を聞いて、扉を開けるのは、私たちの役目である。大切なことは、主の声に耳を傾け、扉を開けること。それをするための努力も能力も必要ない。そうすれば、主の方から、私たちの食卓の席に着いてくださり、神の国での祝福と和解の食事が始まるのだ。

△エペソ教会 →初めの愛を忘れていないか?
○スミルナ教会 →恐れるな!死に至るまで忠実であれ!
△ペルガモの教会 →信仰的妥協をしていないか?
△テアテラの教会 →不品行・偶像礼拝に陥っていないか?
△サルデスの教会 →建前の信仰になっていないか?
○フィラデルフィアの教会 →主を証し続けよ!
Xラオデキアの教会 →自己欺瞞に陥っていないか?

 これら7つの教会は全て、困難な問題に直面していた。そして主は全ての教会、全ての信徒の問題の本質を鋭く見抜かれ、戒め、叱咤し、慰め、励まし、手紙の最後を、「勝利する者への約束」で結ばれたように、教会が地上における信仰生涯を全うし、新しいエルサレムへと到達するように、今日も導いておられる。

 4章以降は、天上での礼拝、神の封印を解くキリスト、7つの封印、7つのラッパ、3年半の艱難時代、7つの鉢、小羊の婚姻、再臨、千年王国、最後の裁き、神の御国到来。→これから起こる(既に起こっている)ことが記されている。終末の時代にはびこる悪のために、その悪に従わず、真理に従うキリスト者は当然迫害を受ける。その究極の迫害がキリストの十字架である。つまり、キリストの教会は、キリストが受けた苦難と共に歩み、その迫害の中で信仰を練られ、守られ、主と共に神の御国の栄光の座に就くのである。


Remember (思い出し!)
Repend(悔い改め!)
Return(立ち返れ!)

 今こそ、教会は悔い改め、一人でも多くの人々を救うべく、新たな歩みをすべき時である。しかし、多くの教会は社会の片隅にひっそりと息を潜め、大教会はボランティア団体や自己啓発センターに成り下がり、真の愛と裁きのメッセージは、教会から消え去ってしまった。しかし、このようなことは長く続かない。もう直ぐ、信仰を守り続ける聖なる者たち(14:12)と、そうでない者たちとが、はっきり分けられる時が来るからだ。

 黙示録には、私たちの類推を遥かに超えた、極端とも取れる衝撃的なことが記してあるが、それはこれから文字通りに起って来る。ところが、人間は自分たちの生活に直接影響しない限り、本気になって受け取ることはない。それこそ、サタンが意図するところである。人間が徒に騒ぐことなく、自然に滅んで行ってくれるのが、彼らの理想だからだ。そして、そのサタンの思惑は、今のところ見事に成功している。

 ノンクリスチャンは勿論、クリスチャンでさえ、黙示録を、自分たちにとは関係のない荒唐無稽な絵空事のように考えている。黙示録は、これから教会に苦難の時代が訪れることを明確に語っているにも係わらず、ほとんどの牧師が、クリスチャンは艱難時代にはいないと言う偽りの教理で、見当違いな安心感を信者たちに与えている。

 終末の時代に起こる災いの謎を解く鍵の一つとなるは、出エジプト記7-12章に記されているエジプトに下された10の災いとの関連である。その時、イスラエルの民がエジプトにいながら、家の鴨居と柱に塗られた羊の血によって、災いから守られ(過越し)たように、クリスチャンは、終末の艱難時代のただ中にあって、十字架の血によって災いから守られる。(地上から取り上げられて守られるのではない)そして、その時代が既に来ているということを、今こそ私たちキリスト者は目を据え、耳をすまして悟る必要がある。


VERICHIP』に関する情報は、Good News Minstry にある記事を参照。→ http://blog.goo.ne.jp/jesus107/



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慰めの人 Ⅱコリント1:4-7

2010年09月19日 | Celebration
 私たちは、クリスチャンとして福音を語る時、最も難しいと思うことの一つは、最愛の人を亡くして悲しみのただ中にいる人を、どうやって慰めたら良いのか?ということである。

 滝元明師の9人目の子供は、生後1ヶ月で亡くなった。「大勢いるから一人くらいは…」と考えるのは子どもを持ったことのない人。滝元ご夫妻は深い悲しみの中にあった。その時、ある教会の夫人が一言も言わないで、二人をただ、ぎゅっと抱きしめて一緒に泣いてくれたそうである。おそらく彼女も同じ経験があったのではないか。

 こういった時に、精神学的、神学的にどうのと言ったところで、何の効果もない。「主よ、なぜこのようなことが起きたのですか?」という回答不可能な問いに対して、「何故?」ではなく、「何のために?」と問うならば、「それは自分と同じ苦しみの中にある人を慰めるため」という一つの答えを見出すことが出来る。

 気落ちした病人も、偏屈な老人も、やけ酒を飲むオジさんも、道を踏み外した若者も、殻に閉じこもった子供も、自信喪失の人も、自信過剰な人も、彼らに共通しているのは「自己中心」ということともう一つ。それは、彼らは「慰め」を必要としているのである。


人生最大の悲しみ

 半年前、私の友人の牧師が、奥さんを癌で亡くされた。彼は人前ではびくともしない非常に精力的な男で、本人も、自分はタフガイだという認識を持っていた。ところがその彼が、奥さんの死亡診断書等の重要書類を紛失してしまった。確かに受け取ったことは憶えているのだが、その後まるで記憶が飛んでしまったと言う。彼は奥さんを亡くした悲しみの余り動揺し、その時に何をどう行動したのか、全く分からずにいたのだ。

 悲しみとは喪失感情。それは何か大事なものをなくした時に生まれる気持ちである。事実、人生最大の悲しみは、最愛の人を亡くした時である。愛する人を失うことほど切なく、辛いことはない。その肉体にまでダメージを与える悲しみの大きさに人は圧倒されてしまうのである。

神からいただく慰めによって、私たちも、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができる。キリストの苦しみが満ち溢れて、私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めも、キリストによって満ちあふれているからです。 

 この手紙の3-7節の中には、「慰め」という言葉が実に9回も出てくる。どうしたら人は慰められるのだろうか?慰めとはどういうことなのか?聖書はそれをどう語っているのだろうか?


真の慰め

 私たちの人生には様々な問題が発生する。それは教会とて例外ではない。しかし、その問題で、「弱い者や病人が多くなり、死んだ者も大勢いる」としたら、それは相当深刻である。コリントの教会は、そのような異端や不品行等の深刻な問題を抱えていた。(Ⅰコリント11:30)パウロはそれに心を痛め、コリント教会に向けて何度も手紙を書き、エペソから海を渡って訪問し、かなり厳しい方法で問題解決を試みた。

 ところが、そのパウロの解決方法は、コリント教会の人々にとっては逆効果となり、パウロ自身も深く傷付いた。パウロはその痛みの中から、「涙の手紙(2:4)」を書いた。その後、テトスからコリント教会の人たちが悔い改めたという知らせを受けたパウロが、「罪を悔い改めた人々を神は慰めてくださる。この神というお方がおられなかったら、私たちは生きて行くことはできない!」という喜びを綴ったのがこの手紙である。

 この3-7節の中に実に9回も登場する「慰め」は、「側に呼ぶ、呼び寄せる」と言う意味の「パラクレオー」から発生した「パラクレートス」=「助け手」、「通訳する者」、「元気付ける人」、「励ます人」、「慰める人」。と言う言葉で、ヨハネ(14:16,26/15:28/16:7)と、ヨハネの手紙(Ⅰ2:1)では、『弁護者』と訳されている。この弁護者とは『聖霊』のことである。

 聖霊がいつも私たちの傍らにいてくださって、助け、弁護してくれているように、『慰める』とは、『悲しんでいる人々の側にいる』ということである。一般的に旧約聖書の神は、厳しい裁き主というイメージがあるが、パウロにとっての神は、「慈愛に満ちて慰めを豊かにくださる」優しい聖霊なる神であった。

 聖書には、二人の慰めの人が登場する。慰めの人と言われたバルナバと、慰めという名前を持つノアである。ノアはどういう意味において、慰めの人だったのか?彼が優しい性格だったという意味合いだけでないことは確かである。

 彼は新世界に着いて、先ず最初に家族で神に礼拝を奉げたということが、彼が慰めの人となり得たことの所以である。神はノアの礼拝を受けて、人類に対して再創造の契約をされ、その契約の印として虹をおかれた。(G9:1-17) つまり、ノアは礼拝を通して、他者を慰める人となり、新世界の最初に立つ人とされた。聖書における慰めとは、単に悲しんでいる人を励ますということではなく、神から慰めを受けた者は、その神からの慰めによって、人を慰め、互いに慰め合うことが出来るということなのである。


心理と真理

 精神医学の権威で自殺心理の専門家・大原健士朗氏は、「孤独」が、自殺、鬱病、引きこもりの大きな要因となっていると分析した。著書「孤独の心理学」には、妻に先立たれた氏の悲しみが、切々と記されている。彼は最愛の妻を亡くしたという現実を前にして、心理学・精神分析学によって、徹底的に自分の内にある心理を見つめ直そうとした。彼はこの本の中で、「永遠の命を信じることが出来る人は幸せだ」と言い、実際に孤独に負けることなく、すがすがしく生きた一人のクリスチャン女性(奥さんの友人)の生き方を記している。

 本書の要点は、「人は周囲の人々に支えられながら生きていくもので、一人では決して生きて行けない」そして、「人生目標を設定して、計画的・建設的に人生を生きること」という二であった。確かにそれは事実だが、そこに提示されているのは『厳しい人生における死の現実』であって、そこからの『救い』ではない。

 何故なら、孤独、悲しみというものは、決して心理学や精神分析学では癒すことが出来ないからである。ちなみに聖書には、『孤独』と言う言葉は、詩編に二箇所あるだけで、新約聖書には一度も登場しない。聖書は、人間の孤独という心の状態を語るのではなく、その状態に対する「答え」に重きを置いている。その答えとは「慰め」である。


真の「慰め」は自分のことではなく、相手のことを思うこと

 私の友人の牧師は、その時の体験をこう語った。「私は妻の死という事実と正面に対座し、聖書の御言葉を求め、自分のことを考えるのを止めた時に、悲しみの嵐が少しずつ去って行くのを感じ、希望の光が見えた」と。

 つまり、彼は妻に先発たれた夫という自分の立場から、死んだ妻のことを中心に考えてみた。すると、客観的事実が違った角度から見え始めと言う。それはもし、自分が彼女の立場で、彼女が自分の立場だったら、今頃彼女はどうしていただろう?それを考えた時に、「そうか、妻はこんなに辛い思いをしないで済んだ」という安堵感だった。

 私は天国に行くから良いけれども、残された妻は3人の子供を抱え、女手一つで必死になって生きて行かなければならない。そんなことを想像すると、この辛さを妻が背負う代わりに、自分が担っているのだと思うと、これで良かったのだ。という思いに至った。その時、彼は悲しみのただ中で、神からの深い慰めを受けたと言う。感情に流され自己憐憫に陥ることなく、悲しみの根本を見つめ、本当に慰めを必要としているのは、誰なのか?ということを、知ることである。


天国(永遠の世界)への安堵感こそ真の慰め

 今年の三月、私の父が他界した。その時も、周りの人たちから多くの慰めをいただいた。その時私は、死というものを真剣に考えざるを得なかった。死がやってくると、私たちはこの地上からいなくなる。どんなに有名な人でも、どんなに社会的に影響力がある人でも、死んだ瞬間から過去の人になる。私たちはここに不安を感じる。それは自分という存在がなくなってしまうことに対する不安である。

 そして死は、誰一人例外なく、私たちの立場とか都合とかを全く関係なく降りかかってくる。この事実に対して、人間はどうすることも出来ない。私たちがどういう時に不安を感じるのか?それは、自分にはコントロール出来ないものに自分の運命が支配されている時。だから人は死が怖いのである。

 キリスト教と他の宗教の違いは、この三次空間とは別に、四次元(多次元)空間、つまり霊世界の存在を明確に信じているという点にある。しかも、三次空間において与えられた時間は、たかだか百年、しかし、天国においては時空を超えた永遠の時。つまりクリスチャンとは、悔い改めることなく、天国に行けなかった大統領より、悔い改めて天国に行った泥棒の方が、幸せなんだという価値観で生きている人のことである。

 では、天国は実在すると、何故そう言えるのか? それは、キリストが十字架の死後、三日目に復活された方が、本当に天国も地獄もあるのだということを証言しておられるからである。天国は、哲学でも宗教でもなく、目撃者による証言なのだ。つまり、最愛の人は死んでいなくなってしまったのではなく、今も天国で生きている。しかも、そこは悲しみも、涙も、分れも、病も、罪も悪もない美しく、平安な世界なのだ。


ケネスのこと

 キャサリン・マーシャルというクリスチャン作家が、ケネスという不治の病を患っている12才の少年の話しを書いている。彼は自分の体がどんどん衰弱していく内に自分は死ぬんじゃないかと考えるようになる。ところが、死とは何なのか。死ぬということは、どういうことなのか、教えてくれる人は誰もいなかった。

 ある日、ケネスはとうとうお母さんにこう質問した。「お母さん、死ぬってどんな感じなの?死ぬって痛いの、死ぬってどういうことなの?」不意を突かれた母親は絶句し、こらえきれずに一旦部屋の外へ出た。そして、神に祈り、心を落ち着けながら、ケネスの所に戻ってこう説明した。

 「ケネス、あなたはよく、表でへとへとになるまで遊んで家に帰って来て、疲れて着替えることもしないで、よくソファやお母さんのベッドで寝てしまっていたでしょう。でも、朝目が覚めたらどうなってた?あなたはパジャマを着て自分のベッドで寝ていたでしょう。それは、お父さんがあなたをちゃんと抱きかかえて部屋まで運んで、パジャマに着替えさせてくれたからでしょ。死ぬって言うことは、そういうことよ。

 あなたが目が覚めたらイエス様が、あなたのために用意してくれていた部屋にいることに気付くの。イエス様はあなたのことが大好きで愛してくださっているから、あなたをしっかりと抱きかかえて、天国というあなたの部屋に連れて行って、光輝く栄光という光のパジャマを着替えさせて、輝かしい朝を迎えさせて下さるのよ。」

神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。(黙示録21:3-7)


悲しみは人を真の救いへと導く扉

 「死への不安」の反対に位置する言葉は何か?「死への平安」は間違いではないが、もっと具体的・積極的な言葉がある。それは「信頼」である。人間は絶対的に信頼出来る存在と繋がっている時に、不安から解放される。何があっても、自分を助けてくれる存在を信頼している時、人は不安を生じることはないのである

 人は、失った存在が自分にとって大きければ大きいほど、その悲しみは大きくなる。しかしその一方、悲しければ悲しいほど、辛ければ辛いほど、神の究極の愛が私たち心に迫ってくる。何故なら神もまた、最愛の一人子イエスを十字架の上で亡くされたから。しかも最も惨い方法で。こんなに辛く、苦しく、悲しい思いをしてまでも、神は私たち人間が死後、永遠の地獄に行かないために、その身代わりにイエスを裁かれた。

 人生の目的は、悲しみをなくすことではなく、悲しみを実りあるものにすることである。事実、私たちの最も重要な働きは、私たち自身が最も苦しんだ体験から生まれてくると言っても過言ではない。それが、私たち人間が持つ真の優しさとなり、真に人を慰められる力となる。自分の力を誇るよりも、自分の弱さの中に現われてくださった神の恵みと慰めを分かち合った方がどれだけ聞く人の励みになるだろうか!?

 人は悲しみによって、キリストに近づき、祈り、考えることが出来るようになる。深い悲しみには、虚栄や傲慢が入り込む隙間がないからである。そういった究極の場所に立たされた時、どんな話や、どんな心理学の本よりも、イエス・キリストの愛によって、心と霊が慰められる体験が、必ず出来るはずである。

 「幸いなる哉、悲しむ人々よ!彼らは慰めを受ける!」と、イエスが山上(5:4)で叫ばれたように、私たちは、ただ悲しみを体験しただけではなく、その悲しみの上に更なる神の慰めを受けた。その慰めを受けた者同志は互いに慰め合うことが出来る。この救いの福音には、人間を罪と死から解放し、あらゆる苦難と悲しみを慰める力が備えられているのだ。

 私たちの周りには、悲しみ、傷つき、人間不信に陥り、孤独で、正体が分からない不安に怯えている人たちで溢れている。そんな彼らの孤独な魂に、真の慰めであるイエスの愛を伝えよう


 




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輝く人々 フィリピ2:12-16

2010年09月12日 | Celebration



 日本には、One&Only的な特殊な技術力を持つ企業が数多く存在する。その傑出した商品開発・改良能力は、人々に感動体験を与え、彼らの受容に応えることで社会に貢献し、企業として存続して行く。彼らは、マーケットリサーチ等の情報整理・収集、専門的な研究等に対する日頃の鍛錬と努力を怠っていない。

 そこで注目したのは、人の心を動かす感動体験。それがリピーターにつながるからである。その原動力は、利潤追求ではなく、企業人としての使命感である。日本人が優れた日本製品を世界に供給しているように、日本の教会も、これから起こり来る世界リバイバルに大きく貢献することになるだろう。

 私たちクリスチャンにとって「命」より大切なもの。それは、神から与えられた「使命」である。命が人生で一番大切なものであれば、殉教者の人生は間違っていたことになる。命のために使命があるのではなく、使命遂行のために命が与えられているのである。

 ピリピは、ヨーロッパ(ギリシア)とアジア(トルコ)をつなぐ中間点に位置し、パウロがヨーロッパで建てた最初の教会。パウロが第二次宣教旅行中、アジア州で御言葉を語ることを禁じられた。すうとその夜、マケドニヤ人が夢に現われ、「マケドニヤに来て、私たちを助けてください」と言った。この夢がピリピ教会設立のきっかけとなったのである。神の導きと、婦人たちの熱心さによって、ピリピ教会は短期間の内に建てられた。

 献金・献品は受け取らないのが、パウロの基本的な伝道方針であったが、唯一、パウロはピリピ教会からの支援だけは受け取っていた。この手紙は、パウロが第三次伝道旅行中にエペソで投獄された時も、献品を届けたくれたことへの感謝(喜び)の手紙である。

 パウロは、ピロピ教会から送られた献身の印を感謝し、喜び、ピリピ教会への更なる愛を抱きながら、「心を合わせ思いを一つにして」と書いた。それは、エボディアとシンティケの二人の女性教会指導者たちが、互いの主義主張を棄て、キリストと同じ思いとなることであった。そのことをパウロは、愛する者を諭すように、敬意と期待を持って、ピリピの教会に伝えている。

目的
私の愛する人たち、いつも従順であったように、私が共にいるときだけでなく、いない今は尚更従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。

 人間は指導者がいる時は、指導を受け、従って行くことが出来るが、目の前からいなくなると、教えられたところから離れていく傾向がある。しかし、本当に教えられたことを受け入れたどうかは、指導者がいないときにこそ試される。

 「自分の救い」の原語は、「自分たち自身の救い/one’s your own salvation」で、save、rescureではなく、救済・救助である。つまりこの箇所は、個人の救いのことではなく、神に対する恐れ(命令)に従って、自分たちの救済を達成すべく、そのための共同体を形成しなさい。キリストの十字架と大宣教命令という事態にふさわしく、教会をつくなさい。教会生活を(work out / to complete) しなさいという意味である。


信頼
あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

 この箇所で、神は私たちの心(霊)の中に、ご自身の願いを置かれると言っておられる。例えば、「あの人に救われて欲しい、癒されて欲しい」と強く願うようになった時は、自分が自主的に願ったのではなく、主を私たちの心に、ご自分の願いを置かれ、私たちの器を通して、その人を救おうとしておられる神の働きなのである。

 ここで、私たちが確認しなければならないのは、DoingとBeingの位置付けである。例えば、仕事も、家事も、育児も、結婚生活を構築するために必要不可欠な要素だが、それは、相手に対する愛と信頼が土台となっている。つまり、家族(Family/Being)にための、家・家具・車(Home/Doing)であり、家のための家族などはあり得ない。

 しかし、通常の世の中は全て何をしたか、何を持っているかという、Doingが判断の基準となっている。しかし、外側だけに拘っていると、内側が疎かになり、内側が崩れていくと、やがて外側も崩れていく。真に大切なことは、何をしたかという、目に見えるDoingではなく、どうであったか?目に見えないBeingなのである。

 神がこの世で最も愛している(生命と成長を気遣う)ものは、キリストの身体である教会であり、その教会の頭はキリストである。その教会の本質と原動力は愛にある。教会が問われるべきことは、何をしたかではなく、キリストとの関係がどうであったかであり、教会のDoingは、Beingの上に自然と現れてくるのである。


従順
何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい

 自分勝手な独断と偏見(自己流)は、自らの可能性を狭めてしまう。人間は、今まで自分の価値観になかったものや、それに反するものと接すると、先ず、拒否反応を起こしてしまう。しかし、今まで自分になかったもの、知らなかったものを知って見ようと言うOpen Mindさが必要。聖霊の導きに従順に従う謙虚な心を持つこと。


労苦
そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。

 聖書は、この世の終わりが近づけはそれだけ、不法がはびこり、愛が冷え、人々は神に背を向けるようになると教えている。現代は、便利さ・簡易さ・速さを追及した社会。人々は労苦なしに収穫を得る方法ばかりを考えている。多くのクリスチャンも然り。「祈りが聞かれない」の内訳は、多くの場合、欲しいものを、欲しいだけ、欲しい時に得たいと思っているからである。このようなよこしまな時代(人々)だからこそ、神は人々の心(霊)の中に志を立て、ご自身の良い働きを行われようとされておられるのだ。

 神から与えられた目的に向かって、神に信頼しつつ、聖霊に導きに従順に歩み、キリストが受けられた十字架と共に歩む時、私たちクリスチャンは、この世の人々に希望と感動を与える。それは、感情・感覚中心の一時的なものではなく、意志と理性に訴えた霊の感動である。神の御国を継承する者は、この暗闇の世にあってのように輝いているのである。

 




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幼虫から蝶へ Ⅱコリント4:14-18

2010年09月05日 | Celebration
生と死
 人は生まれ、成長し、老い、そして死んで行く。「人間は死を考えたくない故に、お金を儲けること、知識を高めること、仕事や趣味、飲食、異性関係、家族サービスなど、他のことで意識を逸らせようとする。」という心理学者の言葉通り、人間は忙しさを理由に「死」を考えない。しかし、信仰を持っていたら大丈夫かと言えば、そうでもない。私の父方祖母はキリスト教徒、母方祖母は仏教徒だった。彼らは双方共、熱心で信仰深く、とてもよい祖母たちだった。

 私は、イエス様か仏陀か、どちらかを選択したいと思った。死後の世界について、仏教は輪廻転生を説き、クリスチャンは天国か地獄のどちらかに行くと言う。仏教の祖母は「死」が何かを知らない苦しみの人生だった。一方、キリスト教の祖母は、「死」の向こうにあるものを見ていた。人は、生きている間に「生死」に対する態度を決めなければならない。ある日突然、ギャングの凶弾に倒れて帰らぬ人となった従兄弟の死を通し、私は「死」への態度を決め、クリスチャンとしての人生を歩み出した。


祈りの力
 クリスチャンになって「祈る」ということを知った。クリスチャンはどこでも、いつでも祈ることができる。この教会でも、牧師先生に、また教会の皆にいつも祈ってもらい、また自分自身も祈りの時を大切に守り、その祈りの力で、今まで人生の困難を乗り越えてきた。アメリカに来た当時、英語が話せず、日々の生活で言葉を体得して行ったように、祈りも人生の中で学んできた。

 そして今は、祈りの大きな力を知っている。だからどんなに大変な時も、どんな困難に対しても、祈る。ずっと殺された従兄弟の悪夢に悩まされていた頃、祈りによってその悪夢の恐怖から解放された。自分ではどうすることのできない問題に対し、「祈り」によって神様に助けを求める、神様の力を信じる。それができることが、クリスチャンの大きな特権だ。


幼虫から蝶へ
 幼虫は、ただ目の前の青葉を食べることに集中している。しかし鳥などの外敵は周囲に多い。時に人も、目の前の自分の欲求を満たす仕事やお金や快楽に集中し、外敵に目をやることなく無防備に生きている。それが次から次に襲い掛かる問題にうんざりしてしまう原因だ。問題の根本にある「死」という外敵を見ていないのだ。

 クリスチャンになるということは、幼虫がさなぎになること、そしていつかは蝶になることを知ること。狭い葉っぱの上だけを這い回り、空を飛ぶなんて自分とはまったく無関係だった世界に生きるようになると知ること。蝶になる前のさなぎの頃は、動けない分、敵から身を守るには神様だけに頼る。それしかない。それがクリスチャンの祈りによる成長であり、聖化の段階だ。クリスチャンは、美しい蝶になって遠く遠くへ飛んでいくことができるようになる。これこそ、自然の営みを通して語られる創造主からのメッセージだ。 (執筆担当:睦美)


主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。 すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 (Ⅱコリント4:14-18)




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