Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

事実か真実か? ネヘミア2:11-18

2007年08月26日 | Celebration
ネヘミヤ記は、エルサレム城壁再建の記録。バビロン捕囚から70年が経ち、イスラエルの民は帰還を許されて故郷へ戻り、先に帰ったエズラは、国として存在も機能もしていない荒れ果てたその地にまず神殿を建てた。そして10余年後、献酌官というトップレベルの政府高官としてペルシャ王に仕えていたネヘミヤは、「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」という悲惨な状態を聞いて嘆き、神様に断食して祈った。ご存知の通り、祈りは必ず聞かれる。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。(ヘブライ11:6)

 ネヘミヤは「聖書中最強の祈りのネゴシエーター」と呼ぶにふさわしい。王の安全を警護する献酌官という仕事上、細部に亘って把握して可能性を見極め、対策を講じて交渉する才能を持ち、また物事を判断する鋭い頭脳と積極的な行動力の持ち主だった。それらの賜物を信仰と祈りの力でパワーアップさせ、神様の導きを得、王と民を動かし、失われたアイデンティティ回復へと導いた。

 聖書には歴史的、道徳的、そして霊的解釈がある。このネヘミヤ記、ただ読めば、廃墟と化したかつての黄金の都、エルサレムの再建という史実が記されているが、霊的解釈で読み込む時、これはキリスト者のアイデンティティ回復のことだとわかる。私たちキリスト者は、イエス様を受け入れて神様の救いを得た。その時、何が起こったか。天使が祝歌を奏し、神の子とされ、永遠の命を得、命の書に名前が記され、そして、心の奥にある霊の部分に神殿が建てられた。聖霊様によって。

 だから万事OK?一件落着?もう、果報は寝て待て?いや、これからが『聖化』へのスタートだ。確かに神様の手による素晴らしい神殿が建った。でもその周囲は未だ荒れており、瓦礫やゴミがゴロゴロしているのを見る。『聖化』とは、これらを一つ一つ片付けていくこと。この回復へのステップを着実に進む。私たちを愛してくださる神様は、その回復を心から望み、そのために導いてくれる。ネヘミヤにそうしてくださったように。

回復のための⑤ポイント。
(1) 私たちの内には聖霊様の宿る神殿がある。
(2) 神殿は確かにあるが、周囲はまだ瓦礫の山。
  古い自我はそのまま残っている。
(3) 足元注意。瓦礫に躓かないように。誰もが工事中なのだから。
(4) 自分の瓦礫、自分の城壁修復を優先。
  たとえ傷つけられたことでも、原因究明に躍起になるのではなく、
  相手を赦し、現状を認め、片付ける。それが癒しへ繋がる。
(5) 一人でできない時は、仲間と共に。教会はそのためにある。
  問題があることは問題ではなく、問題を問題と思わないことが問題。

この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。(ヘブライ10:10)

彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ53:5)

 そう書いてあるのは知っている・・。でも、クリスチャンになったからと言って、全ての傷が癒されたわけではない・・。確かにそれは事実かも知れない。だが、イエス様は十字架上でこう仰ったではないか。「完了した」と。これが聖書が語る真実である。ところが私たちは、自分の頑なまでの狭い視野にあまりに囚われている。キリスト者が立つべきは、自分側の事実ではなく、聖書側の真実ではないか。事実が真実を凌駕することは決してない。信仰よって真理の側に立った時、私たちの小さな事実は真実に内包されていく。そしてイエス様の声が聞こえるだろう「あなたの信仰があなたを救った」と。

〔写真:CCSMC最後の礼拝の後、みんなで記念撮影〕

長距離ランナーの栄光 ヘブル 12:1-4

2007年08月19日 | Celebration
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。(ヘブル12:1)

 今回のタイトルは、『長距離ランナーの孤独』という、近代英国文学の代表作から。メッセージは、東京オリンピックとロサンゼルスオリンピックのマラソンから始まった。1984年、ロサンゼルスオリンピックの女性マラソンに出場したスイスのアンデルセン選手。熱中症に冒され、脱水症状でフラフラになりながらも、必死でゴールを遂げようとする彼女を、上部からの命令を無視してでも撮り続けた某TVディレクター。彼はインタビューでいみじくもこう語った。

 「誰がメダルを取るか、誰が勝つか負けるか、そんなことは重要ではない。彼女があんな状態になりながらも完走したこと。そこにこそ、オリンピックの意味があるのだ!」と。彼が確固とした意志と決意を込めて撮り続けた数分間に及ぶシーンは、20年以上経った今も、多くの人の心に焼き付いている。

 確かに私達の人生は、生まれてから死ぬまで走り通すレースであり、信仰生活もまたレースと言える。人それぞれに走るべきコースは異なっており、誰一人同じものはない。その人だけの生きる道、走り通すべきコースがある。そこで自分でコースを深めたい、彩りたいと思う。私たちはもっと複雑なこと、もっと幅広い知識、もっと多くの挑戦に惹かれる。

 しかし、私達の人生のコースを与えてくださっているのは神様だ。大切なことは、今、神様が与えてくれているものに対して、誠実に力を尽くすこと。聖書の真理を真摯に学びたいと思うなら、今日はあそこの集会、明日はあそこのセミナー等々と、目新しい知識や情報を追いかけることはやめて、今、自分に与えられていることを、忠実にマスターすることである。

 事を始める最初、誰もが「絶対にやり遂げる!」という固い決意を持つ。が、実際に最後までやり遂げることは容易ではない。日本のクリスチャン寿命は約3年半と言われている。辛く苦しいマラソンを棄権してしまいたいこともあるし、また、方向転換が必要なこともあろう。しかし、人間には絶対に最後まで、血を吐いてでもやり遂げねばならないことがある。

 キリスト者はそれを知っているはずだ。神様から与えられた信仰者としての課題を。それを最後までやり遂げて行く。勿論、それは自分の力では適わない。聖霊様の導きとパワーによって、それははじめて可能となる。そしてそのゴールには、神様が待っていてくださり、こう私たちに仰ってくださるのだ。「よい忠実なしもべよ、よくやった。わたしと共に喜んでくれ!」と。

神と信仰との接点 マルコ 1:40-45

2007年08月12日 | Celebration
 見回すと「癒し」を求める人々がいる。その肉体に、精神に、そして霊の部分に。他人ばかりではない。自分自身の内にも、傷ついている部分を知り、癒しを求めることはしばしばある。肉体の傷や病はもちろん、心の悩みや精神的苦痛からの解放を強く願うのは当然。だからこそ、第一コリントに記されている九つの霊の賜物の中でも癒しの賜物を特に重視してしまう。その結果、癒しにのみ集中して体験主義に陥るペンテコステ派や、逆に一線を引いて遠ざかる傾向にある教会、という極端な例を見る。キリスト者は絶えず聖書に還らなければならない。「では、聖書はどう語っているのか?」と。それが、それだけが真実だからだ。今日は、聖書が語る「癒し」について、7つにまとめて語られた。

(1) 癒しはイエス様の宣教活動の中心であった。
 イエス様が最初に会堂で読まれた御言葉は、イザヤ書61章。イエス様は、その公的生涯の始まりにおいてなされた宣言通り、9割以上を癒し、解放、救いに費やされている事実がある。

(2) 癒しは御心である。
 「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」「よろしい。清くなれ。」
皮膚病人は人前に出てはならないよう律法で定められていた。しかしこの病人は、律法違反を犯してでも癒されたい!と切望してイエス様の前に出た。英語では「want」の語が使われていたが、原語でも「神様!あなたが私を清めたいですよね!?」「もちろんだ!!」のような熱い遣り取りだそうだ。因みに文語訳では、「御意ならば、我を潔くなし給ふを得ん」「わが意なり、潔くなれ」とある。私達はしばしば「御心ならば」と条件付の祈りをしてしまう。それは癒されたい人を悲しませ、神様を悲しませる。癒しは全て神様の意志、御心であり、だからこそキリスト者には癒しの力を与えられているのだ。

(3) 癒しは人の手を通して神の力が働く。
 キリスト者は癒しの力を与えられている。ただ、間違えてはならないのは、自分の能力で癒しを行うのではない、ということ。キリスト者は常に「通り良き管」であるべきで、その管であるキリスト者の手を通して神様の力が働く。そして癒しがなされるのだ。

(4) 癒しのために祈る。
信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。(ヤコブ5:15)
 周りに癒しを求める人がいればいるだけ、キリスト者はその癒しのために、手を置いて祈ることが大切な務め。また、それこそが自らの信仰と神様との接点となる。

(5) 癒しは霊的状態の癒し。
 イエス様も必ず、癒しを必要とする人の霊的状態をご覧になった。「癒し」は神様の力が働く領域だが、その前に人間がすべき領域もある。皮膚病の彼は、決死の思いでイエス様の前に出た。自らすべきことを脇において、神様の力だけを求めるのは大きな間違い。それに気付き、気付かせよう。

(6) 癒し自体が目的ではない。
 病気が癒されるのは感動だ。しかし、最終的にその魂が救われなければ、感動はただそれだけ。癒されても、癒されなくても、その「しるし」が示す先へと歩みが大切であり、そうでなければ、癒されても結局永遠の滅びに至りました、という最悪の結果になる。癒しの「しるし」は道しるべであり、標識なのだ。

(7) 癒しは必ず成る。
 御国に病気があるだろうか。悩みや苦しみがあるだろうか。否。ならば、キリスト者の病は必ず癒される。今すぐかもしれないし、時間をおいてかもしれない。または御国においての時もある。しかし、全て神様の時に成ると約束されている。

 イエス様の十字架による「救い」の語は「癒し」と同義であり、「解放」をも含む。イエス様は尋ねられた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 (ヨハネ11:25-26)キリスト者はそれを受け入れて御霊を受け、魂も精神も心も体も全てが癒され、永遠の命という他のいかなる手段でも決して得られないものをいただいている。その希望を見て生きる。そして、イエス様の同労者として託された神様の権威を用いて行こう。神様の励ましが聞こえて来る。「わが意なり。」

主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。

7つの祝福と6つの呪い ローマ8:9-17

2007年08月05日 | Celebration
 本日のキーワード:なんとなくクリスチャン
 「あなたはクリスチャンですか?」と問われた時、GNSにいる人ならすぐに答えるだろう。「はい、そうです。」ここまでは良いが、続いて「証拠は?」と問われたら?ここでハッキリときっぱりと答えられなければ、『なんとなくクリスチャン』度がピッ!と上がることになるかもしれない。神様との関係はReligious(宗教)ではなく、Relationship(関係)だ。『なんとなく』神様と関係を持っていることはあり得ないのだ。結婚関係や家族関係が本来『なんとなく』ではないように。しかし現代、人間関係すら『なんとなく』に至っているところに、この世の恐ろしさがある。すべての関係は『なんとなく』ではあり得ない。自らが選び、認め、互いに保ち続けなければ、存続し得ないのだ。

  キリスト者には7つの祝福が与えられている。私達はそれをどれだけ知っているだろうか。知ろうが知るまいが祝福は与えられているのは事実。しかし神様の権威同様、それを持っていることをわかっているか、わかっていないかで、それを使う心構えが大きく違うのは間違いない。キリスト者アイデンティティをしっかりと確認するために、キリスト者しか持たない「7つの祝福」について教えられた。

Ⅰ. 聖霊様の内住
私達の内には、神様の霊が宿っていること。これはスゴさを知ろう!御言葉を下さるその方が私達の内にいらっしゃるその力を。

Ⅱ. 永遠の命を得る
この世の先に、永遠の天国ライフが待っている。神様と愛する人々と共に。

Ⅲ. 私達の人生には聖霊様の導きがある
「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。~ しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハネ16:7-8、13)
聖霊様の示しがなければ、罪や世の誤りについてわからない。罪の覆いがかかっているのだ。人間的基準ではなく、真実である神様基準に従って生きるため、聖霊様の導きが絶対必要!

Ⅳ. 天国ライフ&価値観をこの世においても経験できる
「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ18:18)
キリスト者が経験するこの世の苦難、試練、問題は、すべて御国での生の前哨戦であり、そこで益とされることだ。苦しみには神様の助けがあり、逃れられないことはなく、無駄になることはない。

Ⅴ. 祈りは必ず聴かれる
キリスト者の祈りは、必ず神様によって叶えられる。この確信を持っていよう!(ヨハネ14:14)

Ⅵ. 悪による支配と権威からの解放
アダムの犯した罪以来、人間はずっと悪によって束縛されていた。その先には滅びしかない。しかし、イエス様の十字架を信じることで神様の子供とされ、その権威をいただいた。聖霊様は悪霊よりも強い!キリスト者は、悪を封じ込めることができる!

Ⅶ. 福音を伝えること
万能の神様にとって人の心を変えることは簡単なこと。しかし、イエス様の「Good News=福音」を伝えるという最も大切な働きは、キリスト者に託された大切な使命だ。神様との関係を保つために。そして、神様と共に喜ぶために。

 そしてキリスト者でない故に被る6つの呪いがある。①霊的に死んでいる、②人生の真の目的を持たず、偶像にすがる、③精神的に病む、④肉体的に病む、⑤悪の支配下にいる、⑥永遠の滅び、だ。自分の家族、知人、友人がまだこの呪いの下にいるとしたら?だからキリスト者の祝福を思い出そう。神様へ祈ろう!その人々を縛る悪を封じ込めよう!そして、皆共に喜ぼう!伝道は祝福だ!!!
神様の御心はここにある。

わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。(ヨハネ6:39-40)

リバイバル聖会 by 有賀喜一

2007年08月01日 | Special
日本から有賀喜一先生をお迎えし、7月27-28-29日の3日間にわたって開催された韓日合同リバイバル聖会は、主の臨在に溢れた素晴らしい集会となりました! 日本のリバイバルのため、そして世界のリバイバルのために、心を合わせて一歩ずつ前進していきましょう!