Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

聖霊様のお役目 奥山実師

2009年06月28日 | Celebration





 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

 本日は神様の御導きで、田中先生が牧会されている教会で御奉仕をさせていただける恵みを心から感謝いたします。先ほど読んでいただきました使徒の働き1章8節は、この一節に神様の真理がいっぱい詰まっている箇所です。今日は、『聖霊様のお役目』と題してメッセージをさせていただきます。


人は誰でも罪人

 聖霊様のお役目とは、イエス様が開かれた救いの道を世界中に広めることです。聖霊様はこの働きを、人を使って人と共になされます。イエス様の場合はたった一人で働かれました。イエス様は一人でなければならなかったのです。何故でしょう。それは、イエス様は人類の代表として神様の前に立ったからです。人類の代表だから一人です。聖書ではこのイエス様のことを最後のアダムと言っています。(Ⅰコリント15:45)第一のアダムは、神様の前に立ったときに失敗しました。サタンの誘惑に破れて、神様を捨て、サタンを選んで堕落したのです。実は私達はその子孫、サタンに従った者の子孫なのです。だから、生まれながらにして、神様を拝まずに偶像礼拝をします。後で、大きくなってから、「神は石や木や動物じゃないよ。造り主が神だよ。」「神とはただ一人の造り主のことだよ」と言うことを教えられて分かるのです。こういうわけで私達は堕落したアダムの子孫ですから、毎日罪を犯します。罪を犯しているから地獄へ行くのです。それが人間の運命なのです。

 だから、この運命を救わないといけません!しかし、誰も神様の前に立って罪を清算できる人が誰もいないのです。そこで、神様は、御自分のひとり子を人間の代表とするために地上に送ったのです。こうしてイエス様は、人間の代表としてこの世にお出でになられました。「おぎゃー!!」と産声を上げた時から、神様の輝かしい姿ではなく、人間の代表ですから、人間として生まれ、人間と同じように成長したのです。どこから見ても人間のイエス様は、人間の弱さも持っていました。旅をすれば疲れる。水を飲まなければ乾くのです。ところが、一つだけ人間とは違っていました。それは罪がなかったことです。(へブル4:15、Ⅰペテロ2:22) 人間はみんな罪人、真っ黒です。イエス様だけが罪がなく真っ白でした。その罪のないイエス様が人間の罪の責任を全部背負って神の刑罰を身代わりに受けたのです。ですから、イエス様の十字架は有効です。イエス様は罪がありませんでしたから、唯一罪を担うことがお出来きになった方なのです。そういうわけで、イエス様を信じたら誰でも罪が許されて、天国へ行くことが出来ます。天国行きに、人格は関係ありません。何をしたか、何をやったかも関係ありません。どんな人であろうと、イエス様を信じることで救われるのです。


どんな人でも救われる! 

 今、ヤクザの親分達がどんどん救われています。元ヤクザの親分で吉田芳幸さんという方がおられます。ヤクザの世界でこの人を知らない人は誰もいません。何故かと言うと、彼は、日本最大の暴力団山口組の田岡組長を殺しに行った人なのです。これは、映画化されたほどの有名な話しです。その吉田さんがクリスチャンになったのです。すごいことです。彼は日本の90%の麻薬を動かしていた人でした。彼のせいで多くの若者がだめになり、多くの家庭が崩壊しました。ヤクザの世界は恐ろしい世界です。吉田さんはそういったヤクザの中のヤクザ、とても悪い人でした。そんな悪い人でもイエス様の十字架で救われるのです。イエス様の十字架は、神の刑罰を身代わりに受けて下さった死ですから、どんな人でも罪許されて天国行きです。

 何故、吉田さんがクリスチャンになったのでしょうか? 彼は韓国によく行っていたそうです。ヤクザの親分である吉田さんに寄って来る女性はみんな、堅気の女性ではありません。吉田さんは、自分はヤクザのくせに、まともな女性と結婚をしたいと思っていました。吉田さんの理想の女性は、絶対に堅気で、絶世の美女で、もの静かで、清らかな女性だったそうです。そして吉田さんは、自分がヤクザだと言うことを隠して、今の奥さんと付き合い始めました。しかし、女性は賢いです。ある時、何百万もするミンクのコートをプレゼントした時、彼女はコートを脇に置いて、「あなたは何者ですか?」と聞いたそうです。それで、吉田さんは遂に自分がヤクザであることを告白しました。

 ところが彼女は、「この人を救おう!」と、吉田さんがヤクザだと言うこと承知で結婚するのです。彼女はクリスチャンでした。しかし、結婚したらメチャクチャな生活が待っていました。彼女はいつも祈っていました。「主よ、夫を救ってください。」奥さんがそう祈る度に吉田さんは彼女を殴ります。それで何度も救急車で運ばれたそうです。そんな生活が暫く続きました。そうしてどうなったのでしょう・・。吉田さんは、奥さんを殴るのが怖くなったのです。殴り倒しても殴り倒しても、祈り続ける彼女見て怖くなったのです。そして、吉田さんは奥さんの祈りによって、クリスチャンとなりました。奥さんの命がけの伝道が遂に実ったのです

 そういうわけで吉田さんはクリスチャンになったのですが、救われた当時はまだまだヤクザの勢いが残っていました。ヤクザをやめたと言っても、彼の首には何千万円という懸賞金がかかっているほどの大物です。しかし、その吉田さんが会う度にどんどん変わっていきました。神様によってどんどん聖められていったのです。彼は海外に行く度に刑務所を尋ね、そこで大勢の人をイエス様の救いへと導いています。イエス様を信じたらどんな人でも救われるのです。


主役は聖霊様

 この福音を世界中に広めるのは聖霊様のお役目です。聖霊様はこの働きを人と共にされます。私達はひとりで伝道しているのではなくて、聖霊様に用いられているのです。何年か前にベニー・ヒンが日本に来られた時に、『聖霊様、おはようございます』と言う本が売られました。私はそれを読んで非常に恵まれました。と言うのは、「聖霊様は私たちの前におられる」ということが分かったのです。当たり前のことのようですが、私はそうではなかったのです。私は福音派の牧師でしたから、とにかく聖書信仰!聖書を読んで「よし!やるぞー」と立ち上がるのです。そこで、後ろを振り向き、「聖霊様、私はこれをやります。助けてくださいよ!お金も沢山必要なんですから、満たしてくださいよ!」。つまり、私のビジョンに聖霊様を使っているような感じだったのです。しかし、それが間違いだったということに気が付きました。聖霊様は私たちの前におられる。聖霊様が主役なんだ!私は用いられているだけなんだ!と。

 今からちょうど10年前に京都の国際会議場で世界宣教会議が行われました。私はその議長でした。莫大な資金が要るこの会議は、聖霊様が主役なのだということを私は知っていました。「聖霊様がやられるのだから、大丈夫なんだ!私はついて行くだけだ」そう思うと、とても安心しました。さて、会議を行うことは決定したものの、場所が決まりませんでした。関西でやるのか、関東でやるのか。議長の私がはっきりしなかったからです。何故なら、主役は聖霊様なので、私が聖霊様より前に立つことは出来ません。私は、京都の国際会議場でやりたいと思ったのですが、そこは既に3年前から予約でいっぱいで無理だったのです。それで、大阪の浪江ホールと交渉を進めていました。そして、契約の日になりました、決定するには私がサインをしなければいけません。そして、サインをしに約束の場所へ行くと、肝心の書類が届いていません。浪江ホールの担当者が、書類を郵送したため、未だ届いていなかったのです。すると、そこで電話がなりました。京都国際会議場で急にキャセルが出たと言う連絡でした。私は背筋がぞくぞくしました。創世記22章でアブラハムがイサクをささげるところがありますね、正に最後の最後に最良のものを神様が用意していて下さったのです。聖霊様は初めから京都国際会議場を用意されていました。もし、私が人間的な判断に頼っていたらだめだったのです。

 私はいつも平安な気持ちで会議に臨んでいました。あまりに私が平安な顔をしているので、会議に参加していた諸先生方は「奥山先生は資金をたくさん持っているのだろう」と、思っていたそうです。そこで、一人の牧師が遠慮がちに私に聞いてきました。「先生は、この会議のための資金をどれくらいお持ちなのでしょうか?」と。私は「ないよ。」とあっさり答えました。その瞬間、周りの空気が一変しました。不安そうな先生方に私は答えました。「お金があってやるのは誰だって出来ます。先生方、教会堂を建てる時にお金がありましたか?なかったでしょう。最初にビジョンが来て、それから必要なお金が与えられるのです。心配する必要はりません。主役は聖霊様なのですから。」この会議には9千万円のお金が必要でしたが、会議が始まる頃になると、献金がどんどん集まりました。実際には一億円かかったのですが、それ以上の献金が集まり、余ったお金は台湾の地震救済の為に献金することができました。それが聖霊様の業です。聖霊様は決して失敗されることはないのです。

 聖霊様は私たちを用いて働かれます。私たちにとって大事なことは、聖霊様が使易い器になることです。使い易い器とはどのような器でしょうか?それは全てを奉げた器です。主人にとって、使いにくい僕とは条件付の僕です。「ご主人様、東へは行きますが、西へは行きません。これはしますけれど、あれはしません。」使いやすい僕とは、「ご主人様、何でもやります。どこへでも行きます。」と無条件にささげる僕です。強い、弱いは関係ありません。全部ささげる器が使いやすいのですから。では、何をささげるのでしょうか?あなたの人生の舵をささげるのです。聖霊様にあなたの人生を明け渡すのです。


自分の命を捧げよう!

 私がまだ駆け出し牧師の頃、京都で学生伝道に力を入れていました。京都大学の学生や、京都府大の学生が大勢教会に来て、多くの学生たちがイエス様を信じました。共産党員の人たちも沢山救われていきました。その頃、私は本田弘滋牧師、羽鳥明牧師とお付き合いするようになりました。この先生方の賜物が素晴らしいのです。本田先生は伝道の賜物。本田先生が説教をされるとどんどん救われるのです。また、羽鳥先生はラジオ伝道の賜物。時間通りにピシッと治めるメッセージ。そこでふと、自分は何を持っているのだろうか?と思わされました。私は、学生伝道を頑張っていたのですが、主の前に静まってみると、私には何もない!? と言うことが分かったのです。私は学生時代、野球部のキャプテンになって県大会優勝したり、全国学生弓道の委員長もしましたが、野球も弓道も牧会には何の役にも立ちません。牧師がバットを持って信徒のお尻をたたくわけには行きませんから・・。

 「いったい自分には何があるのだろうか・・?そうだ、命がある!神様、私には命しかありません。この命をささげます!」と言って私は神様に自分の命を捧げました。そうしたら、何と才能が後からブワーッと出てきたのです。中学高校と、勉強しないで本ばかり読んでいた私に、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治の文学論を書かせてくださいました。それは、神様に捧げた後で才能が出てきたのです。強い、弱い関係ありません。何もない弱い者ほど用いられるのです。私は体育会系の人間ですから、人前で話すのが苦手でした。そういう人を神様は言葉の人として用いるのです。今では誰も信じてくれませんが、言葉の人でない私が、毎日こうして人々に教えているのです。どうぞ皆さん、人生を聖霊様に捧げてください。「聖霊様、こんな者ですがどうぞ御自由にお使いください!」と全てを捧げるのです。そうすると豊かな素晴らしい人生になります。どうぞ聖霊様によって、素晴らしい人生を歩んで下さい。


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幸福への姿勢Ⅱ マタイ 5:1-7

2009年06月21日 | Celebration
先週一週間、人から誉められた!これを読んで励まされた!これを聞いて嬉しかった!勇気付けられた!と言う方はおられますか?また、友達を励ました、アドバイスをした、家族を慰めたという方はおられますか? 私たちの日常生活では、叱られた、注意された、いじめられた、と言ったことに比べると、慰められた、励まされたと言ったことが、とても少ないこと気付かされますね。今日は、先週に引き続き、“山上の垂訓”からのメッセージです。

 イエス様が開口一番、群衆の向かって言われたのは「幸いなるかな!」という、驚くべき励ましの言葉でした。当時、イエス様の周りにいた人々は、社会に虐げられ、今日の食べる物もないような貧しい人々でした。また彼らのほとんどが今まで本を読んだり、字を書いたこともありません。イエス様はそういう人たちに対して、「幸いなるかな!心の貧しき者よ!」と言われたのです。イエス様は、誰にでも理解できるように分かりやすく神の国の福音を語りました。でも、その言葉はとても深いのです。今日はその神の御心の深さをご一緒に分かち合いたいと思います。

柔和な人たちは、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ
 私たちが考える『柔和な人』というと、おそらく「優しくて穏やかで親切な人」ではないでしょうか。ところが、イエス様が言う『柔和な人』にはもっと深い意味があります。“柔和な人は地を受け継ぐ”とありますが、何故、イエス様は地を受け継ぐと言われたのでしょう。“地を受け継ぐ人が柔和な人である”と言う事になります。聖書の言う柔和な人には3つのことが備わっています。①情緒が安定している。②堂々として落ち着いている。③人のことを思いやれる。では何故、柔和な人はそのようにできるのでしょうか?

 アメリカでも有名な格闘家に須藤元気さんという方がおられます。彼がこんなコメントを話しておられました。「格闘家は決して人が思うほど強い人間ではありません。何故なら、弱いから強さに憧れるのであって、強い人は別に強さに憧れたりはしないからです。弱い人はやられたらやり返します、でも、本当に強い人はやられてもやり返しません。でも、決して相手に屈することなく、毅然とした態度を持ち続けるのです。私は、本当の強さとは何だろうかともっと考えて行きたいと思います」と。

 どんなに酷い仕打ちを受けてもやり返さず、毅然とした態度をとり続けると言うことは、よほどの信念がなければ出来ることではありません。それは、単なる無抵抗主義とは違います。優しさは強さに裏付けられ、強さは正しさに裏付けられていなければならないのです。イエス様は、侮辱され、誤解され、唾を吐かれ、ボコボコに殴られ、蹴られ、最後には十字架に架けられました。しかし、彼は一つも言い訳をせずに「父よ、彼らを許してください!」と父なる神に赦しを祈られました。

 何故そんなことが出来たのでしょうか? それはイエス様にある主なる神への200%の信頼です。采配は神にある、神がすべての決着を付けてくださるという信頼が土台にあるのです。神への信頼がなければ、絶えず不安を持ち、懐疑的になってしまいます。口先の同情では人を本当に慰めることはできません。神の愛と義を確信して、謙り、神の御心を行うのだ!という神への信頼が土台にある柔和なひと。こういう人が、サタンの支配下にあるこの世において、私の御旨を受け継ぐのだよとイエス様は言われたのです。


義に飢え乾く人々は、幸いである、その人たちは満たされる
 飢え乾くとはどんな状態でしょうか。極限状態で義に飢えていると言うことです。義に飢え乾く人々は、満たされるよ、とイエス様は言うのです。すべての人が“満たされたい”と思っておられるでしょう。しかし、どうしたら満たされるのか、と言う質問をしても誰も“義に飢え乾くことだ!”などとは言わないでしょうね。イエス様は面白いことを言われます。

 ある有名な俳優がどんな人間でも5つの段階を経験すると言いました。第一段階:「ウィル・スミスって誰?」→無名時代 第二段階:「ウィル・スミスを連れて来い!」→売れた時代 第三段階:「ウィル・スミスみたいな奴を連れて来い!」→人気絶好期 第四段階:「もっと若いウイルスミスを連れて来い!」→人気下り坂 第五段階:「ウィル・スミスって誰?」→忘れられている。というものです。いくら有名な俳優になっても、これでは結局、満たされませんよね。俳優志望の若者が沢山いる中、マリリン・モンローは富、名声、美貌、全てを持っているように見えましたが、死んでしまいました。複雑な事情があったにせよ、そこには本当の幸せがなかったのです。人生を満たしてくれるものは、結局お金、権力、名声、物質、異性と多くの人が考えていますが、これらのものでは人間は決して満たさえwることはないのです。では、どうしたら人間は満たされるのでしょう。聖書は、義に飢え乾く人が満たされると言っているのです。

 長い鎖国が解けた明治時代、世界から様々な人々が日本へやって来ました。そこで、明治政府は日本は西洋文化からもっと学ばなければならないと、富国強兵策の一環として、アメリカへ留学生を何人か送りました。その中には7歳の女の子、梅子ちゃんがいました。彼女のアメリカでのホームステイ先はクリスチャンのご家庭でした。そして彼女は9歳の時に、明確にイエス様を信じてクリスチャンになりました。11年間のアメリカ滞在後、18歳で日本へ帰った梅子ちゃんが見た日本は、聖書に根ざした社会とは全く違う、偏見と偏狭さに満ちた日本の社会でした。

 梅子ちゃんは女性の人権が無に等しいのを見て、「こんなことはおかしい!日本の女性の為に人生を尽くそう!」と立ち上がるのです。そして、彼女は日本で初の女性の高等教育英語学校を創立します。梅子ちゃんとは津田塾大学の創始者、津田梅子さんです。梅子さんのアメリカのホストファミリーヘ宛てた手紙の一部を御紹介します。「この冬はまだ何もしませんが、来年には20人ほどの生徒を集めて、彼女達と共に生活する事になります。色々と不快なこともあるでしょう。---人生は、難しいものですね--でも、私はきっと満足すると思います」

 義には2つあります。1つは、社会的正義。もう一つはイエス様の十字架による義、神様の義です。真理を求めて、福音にたどり着き、へり下って、十字架による赦しを受け、神の前で義とされ、神の子とされた者は、人間社会においても義を求めるようになります。人間社会の義と神の義は相反するものではなく、十字架(神の)の義は、社会の正義を包括するのです。梅子さんは聖書の真理に立って、「今の日本は間違っている!」と働いたのです。そして、どんな困難な状況の中にあっても、自分は必ず満たされると確信しておられたのです。


憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける
 日本語で「憐れみ」と言うと、同情する、気の毒に思うという意味ですが、原語の「ヘセド」という言葉には、そのような意味ではありません。実はこの「ヘセド」に当たるぴったりの言葉が日本語にはないのです。では、イエス様が言われた“憐れみ深い”とはいったいどんなことなのでしょうか?

 あるアメリカ人の熟年カップルが“カルカッタのマザーテレサのところへ見学に行こう!”と言うツアーに参加しました。実際にマザーテレサの働きを見ることができ、参加者は感動しています。そこで最後に、「マザー、お言葉を!」と声をかけます。私たちなら、そんな暇とお金があるなら・・・迷惑も考えないで・・・などと批判めいたことを思ってしまいますね。ところがマザーはこう言いました。「奥さん方、御主人に対してもっと微笑みなさい。ご主人方、奥さんに対してもっと微笑みなさい。それで十分です」と。さすがはマザーテレサです。つまり、憐れむとはその人の心の中にまで入って、その人の心を満たしてあげること、その人が感じているように感じ、その人が考えるように、考えてあげることなのです。そういうことが出来るようになると、人に対するお節介や間違った親切をすることがなくなり、しなくり、人を赦してあげられるようになります。私たちがその人の立場に立ってあげられないのは、私たち自身が満たされていないからです。私の内に、怒り、不満、悲しみ、嫉妬などがあるからです。

 クリスタルキャセドラル教会で、元神風特攻隊だった人が来て、自分が救われた証しをされたことがあったそうです。そこで、普段よく奉仕をしておられるあるご夫人が「その日は欠席します」と言うのでした。実は彼女は息子さんを神風特攻隊によって亡くされていたのです。そして当日、彼の証しが終わり、場内は感動で満たされていました。ところが、実はそのご婦人は、会場に来ていて、話が終わった後、元神風特攻隊だった人の前に出てきて立ちはだかったのです。そして彼女はこう言いました。「私の息子は神風特攻隊に殺されました」場内は一気に緊迫し、誰もが次の言葉に息を呑んでいます。

 そしてその御婦人はこう続けたのです。「神様はあなたの罪を赦されました。そして、今日、神様は私の罪も赦して下さいました」そうして、そのご婦人と元神風特攻隊だった人は二人で抱き会い、暮雨だの涙を流されたそうです。そのご婦人は今まで、誰が見ても素晴らしいクリスチャンでした。でも、彼女の中には人を赦せない心があったのです。それと同じように、心の痛みを持った人が沢山おられます。あなたにも赦せない人がおられるかも知れません。しかし、私たしは赦さなければなりません。何故なら、イエス様が赦しなさと言っておられるからです。イエス様は私たちを十字架にかかって赦して下さいました。このイエス様以外に私たちの内にある、怨み、憎しみ、不当に対する文句など全てをクリアーにしてくださるお方は誰もいないのです。

 最後に、BBCのインタビュアーがマザーテレサにこう尋ねました。「皆さんは一生懸命奉仕されていますが、御無理をされているということはありませんか?」マザーは答えます。「心身共に傷ついている方に神の憐れみを届けることほど、幸せなことはないのですよ。」

 憐れみ深いとは、その人の立場になること、相手に対して本当に必要なことをしてあげられることです。イエス様の十字架に背を向けて、私は私でやる!私の義が正しいのだ!と主張している限り、真理を見つけることができません。イエス様は、人々からバカにされ、ボコボコニされても何も抵抗されませんでした。それは神様への全き信頼があったからです。神様の御旨を受け継ぐクリスチャンである私たちは、風が吹いても決して動じない、イエス様に倣う者として、この世を生きて行くのです。だからイエス様は「幸いなんだよ」と私たちを慰められたのです。どうぞ、争いの心でなく、イエス様に信頼してこの地を受け継ぐものとして歩いてまいりましょう! (Ako)


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幸福への姿勢 マタイ 5:1-4

2009年06月14日 | Celebration
 山上の垂訓は、イエス様による大切な神の国の教えの幕開け。社会の不条理に苦しみ、経済的に逼迫し、明日の生活の見通しも立たずに喘ぐ群集を前に、声高らかに福音が宣言された。「幸いなる哉、貧しき者よ!!」。続いて八つの幸いが語られた。さて、その意味は?イエス様の最初の教えだから、ありがたいなぁ。当時の人々はたいへんだっただろうから、励まされただろうなぁ。イエス様が貧しささえも何とかしてくれるのだなぁ。。。などと、聖書の御言葉は他人事として聞いても何の意味もない。イエス様が開口一番、私たちすべての人間に向かって叫ばれたメッセージには、福音が凝縮されている。これを知らずにのうのうとしていたら、クリスチャンの名折れだ。

 このイエス様の福音大宣言は、山上の垂訓と呼ばれるように「山」でされた。「山」は、アブラハムがイサクを捧げたモリヤ山然り、モーゼが十戒を授かったシナイ山然り、イエス様の御姿が変わった変貌山然り、神様の啓示が降る場所とされている。「口を開き」教えられた、とあるのは、神の権威ある重要なことを教えるよ、という特別な表現。更に、「教える」の動詞は未完了過去という時制で、イエス様がこの後ずっと引き続き教えられていた、という継続性を表している。

 さて、最初の福音宣言、「幸いなる哉、貧しき者よ!!」。この「貧しい」は、少し足りないレベルではない。所謂「極貧」、最早にっちもさっちも行かない「どん底」で、助けを求めるしか生き延びることのできない極限状況だ。3月に放映されたNHKドキュメンタリー番組、「仕事の流儀」に出演した奥田牧師のお話が出た。彼がケアするホームレスと呼ばれる人は、「どうしてこんなことになったのだろう?」とヘロヘロになった自分に問う。奥田牧師は、彼らと一緒に考える。彼らが自分の状況をはっきりと知り、真の助け手を求めるようになるまで。人は、自分の非を認めたくないものだ。犯してしまった間違いに対し、社会や人や周囲のせいにしたいと思う。自分を可哀想だと甘やかす。しかしそうしている間は、自分を見つめ続けるから、神様に会うことはない。自分の小ささ、自分の限界をはっきり知って初めて、助けとなる大きな御方に頼ることができるのだ。取り繕うこともなく、一人で生きられないことをわかった時、「幸い」を得る。

 続いて、「悲しむ者は慰められる」。生きている間、どうしようもない「悲しさ」に遭うことがある。愛する者の死、癒されない病や傷、尽きない争い。悲しみを好む人はいないだろう。一刻も早く、そこから抜け出したいともがく。だからこそ、真の悲しみには虚栄も傲慢も入り込む隙がなく、ただ真理と対座する時となる。その人の持つ人格的資質すべてを懸けて、真に大切なものが何か、と黙考させる。悲しみが真理を求めさせるのだ。そして、その必死な思いが、同情ではない、苦難を乗り越える希望となる「慰め」に至る。

 「天の国」は慰めの究極だ。内村鑑三師のお話を聞いた。娘のルツ子さんは、若くして病に倒れた。死の直前、病床で聖餐式を行った彼女は、にっこりと満面の笑みを浮かべて「先に行きます。」と家族に別れを告げて昇天された。『クリスチャンはしばしば花嫁に喩えられる。娘を送り出す家は悲しい。しかし、花嫁を迎え入れる家は、喜びに沸いている。この世での別れは辛いが、天での祝着はこの上ないものなのだ。』内村師は、愛する者の死から、復活と永遠の命の「天国」を知った。

 最後に、「幸い」。巷では、「人生ハッピーが一番よ!」が絶対視されている。しかし、HAPPYは、たまたま起こる、降りかかる、という意味のHAPPENが語源で、時代や環境、偶然に左右される不確かなものだ。聖書にある「幸い」は原語でマカリオスと言い、至上の幸福、そして祝福を意味する。至上の存在から与えられる祝福。人が使命に従って生きる時に、神様から与えられる祝福だ。それはHAPPYのような実体なく、感情に左右されるものではない。目的に向かって歩く時、自然に湧き出る充実感が真の幸せであり、使命という目的があってこそ、後から付いてくるものだ。目的のない人生はない。目的無しの幸いもない。幸せそのものが目的にはなり得ないのだ。精神科医のカール・メニンガー博士の言葉、『態度は現実よりももっと重要だ』。幸せの場合も同じだ。幸せそのものではなく、幸せに対する態度、生きる姿勢こそがより大切で、あなたの人生を祝福されたものに変えていく。このイエス様の福音に込められた幸福への姿勢を今こそ知ってほしい。あなたの人生に「幸い」あれ!(睦美)


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試練の意味 Ⅰコリント 10:11-13

2009年06月07日 | Celebration
これはある映画(Lars and The Real Girlfriend) に登場する一人の男性のお話です。ラーズ君は20代後半の大人しくてひっこみ思案で心優しい男性。少し引きこもりの傾向がありますが、ちゃんと仕事もしているし、教会にも毎週通っています。でも、彼には一つの問題がありました。女性にはとても優しいのに、女性に触れることができないのです。彼はゲイではないのですが、彼が生まれて直ぐにお母さんが亡くなられたことがその原因の一つかも知れません。ところがある日、ラーズはお兄さん夫婦の家に、今、自分の家にガールフレンドが来ているのだけど、同じ部屋に泊まるわけには行かないから、彼女を泊めてあげくれないかとやって来ます。

 お兄さん夫婦は大喜びで二人を歓迎しますが、ラーズ君が連れて来た彼女は、何と等身大の人形だったのです!? 勿論、彼はふざけているのではありません。彼は本当にその人形が、自分のガールフレンドだと思い込んでいるのです。これは大変なことになったと家族会議が開かれます。「早く病院に連れて行くべきだ」、「人形を隠したらどうか」等々、色んな意見が飛び交うのですが、適当な解決方法が見つかりません。そこで、その会議に参加していた牧師さんが一言、「何か選択に困った時は、What would Jesus do? ジーザスならどうされるのか?」結局この意見に落ち着き、教会全体、町全体で彼の問題を担い、彼がその問題に気がつくまで待とうと言うことになりました。。。

 世の中には様々な問題があります。政治家の汚職、警察官の不正、教師のセクハラ、子供の殺人・・・・それを見る私達は「こんなことをする人もいるんだなぁ」と自分たちとは一線を引きます。しかし、その人たちもその事件の前日までは、私達と同じように普通に暮らし、かえって周囲から尊敬されていた人物であったりするのです。彼らだけがおかしかったのでしょうか。彼らだけが問題を持っていたのでしょうか? 今、世の中には様々なカルト宗教がはこびっていますが、カルトにはまってしまう人には共通した一つの特徴があります。それは、「私は絶対にカルトなんかにはまらない!」「私だけは大丈夫!」と言う人なのです。


だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に合わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(Ⅰコリント10:12-13)
 

 今日の聖書箇所は、クリスチャンなら大抵の人が覚えている御言葉です。皆さんも、何かの時は思い出し、この御言葉に励まされているのではないでしょうか。ほとんどの人が13節から覚えておられますが、実は、12節が大切なのです。『立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。』 この意味は、自分だけは大丈夫!と思っている人こそ、注意しなさい。この警告の後に、この御言葉があるのです。ラーズ君を受け入れた町の人々と同じように、問題を持っている人と共に重荷を担い、癒されていくと言う使命が、私たちの教会(GNS)にあります。問題は誰もが持っています。それが表にはじけ出たか出ていないかだけの違いなのです。誰の人生にも、問題や試練があります。今日は、人生における試練に対して、どのように対応して行くべきかの4つのポイントをお話します。

試練は人間の人格形成に必要なプロセスである
 13節にある『試練』は、苦難や苦しみという意味ではなく、神様からの試み、テストと言う意味です。つまり、試練は人格形成のために必要なプロセスなのです。誰でも自分の子供が、明日行われるピアノの発表会で緊張して眠れないのを見て、「そんなに大変なら、もうやめなさい」と言う親はいないでしょう。こういったストレスは、その子の成長にとって必要なストレスなのです。高層ビルのプラントは、必ず半年で枯れてしまいます。何故なら、24時間同じ温度、同じ環境にあるからです。プラントには、夜露や風にさらされたり、直射日光を浴びたりすることが必要なのです。人間も同じです。問題があることが問題ではありません。人生に問題がなくなることはないのです。私たちが注目するべきことは、問題に対してどのように向き合うか、問題をどのように対処するのかなのです。

試練に対する正しい理解と対処方法
 私達は問題が起こって、その答えが出てこない時に当惑します。しかし、神様は言われます。 “人間として耐えられないようなものはなかったはずです”と。これはどういうことかと言いますと、今のこの試練は、何もあなたに初めて降りかかったものではなく、先人のなかには同じような経験をされた人がいて、同じような試練に対して、乗り越えられた人と、乗り越えられない人もいたのです。リンダさんのお話をしましょう。リンダさんはノンクリスチャンの御主人の浮気に悩んでいました。カウンセラーからは、「彼を責めてはいけません。彼を包み込んで上げなさい」と言われ、その通りにするのですが、御主人はそれを良い事に、ますます浮気にのめりこんで行ってしまいました。リンダさんは思い悩んだ末、ジェームス・ドブソン博士と言う、有名な、クリスチャンのカウンセラーに手紙を書きました。「私の夫は、私を愛しているし、子供たちも愛している。でも女とは別れられないというのです。私はどうしたらよいのでしょうか?」

 ドブソン博士の返事はこうでした。「今、あなたのしていることは間違っています。罪を犯しながら、一向に悔い改めようとしない人を全面的に受け入れようとすることは、愛ではありません。愛とは真理に裏付けられてなければならないのです。今あなたのしていることは、最悪の事態を避けたいと言う、人間的な弱さから来る考え方で、かえって事態を混乱させます。彼のしていることは罪です。それは、あなたに対する罪であると同時に、神に対する罪でもあります。これは単なる法的な問題ではなく、実は霊的な問題です。ですから、心理学で直すことは出来ません。彼が悔い改めて神の前に出ない限り、この問題は解決することはありません。あなたは彼にこう言うべきです。「あなたがその女性と付き合っている限り、私達はあなたと家族でいることはできません。あなたはどちらかを選んでください。ただ一つだけはっきりしていることは、今あなたのしていることは、必ず神の前で裁かれる事になります」 リンダさんはその通りに御主人に話しました。するとこの御主人、目から鱗が落ちたように改心して、家に帰ってきたのです。

 私達は試練に対する対応を間違えて、かえって混乱を引き起こしてしまっていることが多々あります。私たちは、問題を正しく理解し、正しいアドバイスを得、正しい対処が必要です。

どんなに難しい問題でも答えは必ずある
 “逃れる道をも備えてくださっています” 時に、問題の難しさに解決できるのだろうか、と思う時があります。しかし、神様は、必ず解決があると言っておられます。この世の中で一番なるのが難しい職業は何でしょう? おそらく宇宙飛行士は、最も難しい職業の一つですよね。何しろ、強靭な体力、頭脳明晰、複数の語学堪能、目が悪くてはいけない、虫歯もだめと言うのですから、ほとんど天才です。宇宙飛行士を育てるには莫大な費用がかかるそうですが、その宇宙飛行士になるための最終クリア項目が6つあります。

① 何事にも寛容で耐える力を持つ人
② 同僚として魅力のある人
③ グループの為に貢献できる人
④ 思いやりのある人
⑤ 孤独に耐えられる人
⑥ 危機の時に落ち着いてリラックッスできる人

また、反対に宇宙飛行士には絶対なれない5つのタイプは・・・。

① 短気でイライラする人
② 完璧主義で、物事にこだわる人
③ 衝動的で、軽はずみな行動をする人
④ 力余って行動過剰な人
⑤ 物色欲強く、攻撃性の強い人

 とても教えられますよね! 人はとかく、自分が抱えている問題に対して複雑に考えたがるものです。しかし、神様はこうおっしゃっています。「あなたの問題の答えは、あなたの足元にあるんだよ」と。

神様以上に大きな問題はない
 “逃れる道を備えていてくださいます” これは神様が逃れる道を既に備えてくださっていると言う意味です。試練には必ず意味があります。試練を通して私達が最も注目すべき問題は何なのか? 本当に知らなくてはならないものは何なのか・・・生きている上で大切なこと、心配事は沢山あります。毎日の子供の宿題も大事、家のローンも心配、仕事の段取り、進学問題等々・・・しかし、これらの問題は、例えば大地震がおきた時にはどうでもよいことです。先ず、私たちが考えなくてはならないのは神様なのです。ヘンリー・ハーレイという神学者がこう言いました。「全人類に課されている重大な決断は、イエス・キリストに対する態度を心の底からきっぱりと決めることだ」と。

 私たちがどのような認識で、イエス・キリストとの関係を考えているのか、この決断に人生の全てがかかっていると言うのです。ですから、私達は決断しなくてはなりません。何が人生で一番大切なことなのか? 目の前の現象に囚われてしまうことなく、本当の愛とは何なのか? 本当の大切なものは何なのか? 私達は、試練の時こそ、神様に心を向けるべきです。そこに必ず正しい解決があるからです。(Ako)


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