Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

弟子になりそこねた人々 ルカ 9:57-62

2007年05月27日 | Celebration
いきなり本日の名言。「聖書は金太郎飴ならぬキリスト飴!どこを切ってもイエス・キリストが出てくるのダ!」 

 本日の聖書箇所には三人の人が登場する。一人目は、「あなたの行くところならどこへでも!」という熱血漢。イエス評判の華々しさに心を惹かれ、自発的に弟子に立候補した。しかし、イエス様はその彼にこう答えられた。「狐は穴あり。空の鳥は巣あり。然れども人の子は枕する所なし。」この時、イエス様はすでにエルサレムへの途上、十字架へ続く道にあった。彼の心をご覧になったイエス様は、歩むべき道が世の流れに逆らい、苦難と犠牲を伴う決死の行程であることを語ってくださったのだ。

 二人目と三人目には、イエス様から声をかけてくださった。二人目も三人目も「主よ!」と呼びかけ、目の前にいるその御方が自らの「主」であることを認めつつも、自分の「まず」を主張した。自分の主である神様以上に優先すべきことがある。それは「家族」との問題だった。実はイエス様がこう言われた背景には、エリヤがエリシャを後継者として召し出した時の話(列王上19:20)がベースとなっている。

 エリヤ(預言者)とイエス様(神様)の対応は少し違う。エリヤは暇乞いすることを許可したのに、イエス様の答えは、
「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」
「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」 という、厳しいものだった。

 ここでイエス様は、「弟子となるためには余計な家族の絆を断ち切れ!」と命じるのだろうか? 一旦決意したからには、家族を気遣って振り返ることも許されないのだろうか? 愛に溢れるイエス様が、そんな冷酷無比な言葉を仰るだろうか?? いや、そうではない。イエス様は、私達が天の御国を継ぐために優先すべきものが何であるのかを教えて下さっているのだ。

 「えっ、家族よりも?」と、ショックを受けられるだろう。実際、かつて日本でもマタイ伝十章の御言葉に激しい拒否反応があったと聞く。しかし、物事には順序というものがある。それを無視して事を進めても結局、空しい結果に終わってしまうのである。であるならば、私達を創ってくださった神様との関係の間に、他の何物も優先して入れることは出来ないということが分かる。この話の少し後に登場する「大宴会の喩え」(ルカ14章)には、天国へ招かれていた人であっても、仕事や所有物、また人間関係を理由に天国へ行かない(行けないのではない)人間の弱さを見る。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)今日の聖書箇所にある人間の「まず」に対する神様の「まず」がここにある。イエス様に従うことは、決して簡単なことではない。それには決意が必要だが、それに加えて知恵と工夫も必要だ。そこで神様からいただく三つの知恵を教えてもらう。

神様への信頼
 完全に信頼する。「それでも私は神様に従う。」という姿勢をとって初めて、得られるものが確かにある。

神様に対する謙虚さ
 キリスト者の周囲では霊の戦いが繰り広げられている。当然、敵もウジャウジャ。もはや自力で何かできるものではない。神様の武具を身に付けるため、へりくだって謙虚になる。

神様からいただく御霊の知恵
 キリスト者は自由を得ている。だから、何でもできるのだ。御霊に知恵をいただけばよいのだ。

 ここで本日の至言が登場した。そして、声が聞こえた。「どうして自由を得ようとしない?どうして求めない?祈らない?従わない?そうすれば与える、と約束しているじゃないか。神様の愛は、いつでも降り注がれている。神を畏れ敬えばどちらをも成し遂げることができる!」と。

善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな、どうして時も来ないのに死んでよかろう。一つのことをつかむのはよいが、ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えばどちらをも成し遂げることができる。(コヘレトの言葉7:16-18)

仙台より

2007年05月24日 | from Japan
ハレルヤ! マイク横井先生の仙台来訪(6月3日)が段々と近付いてます。伊藤家ご二男のアメリカ留学は前回啓介師にお知らせした通り、今回はその本人を含む伊藤家と恭子姉とで、セル教会規模の祈り会と愛餐になるかなと考えてます。啓介師来仙から、横井師へとつながつて、主の霊の家族に在って、仙台から留学生が起こるなど、主のなさることに今後ますます期待します! また連絡します。どうぞみなさんによろしく! 祈りつつ主に在って。ひさひこ


ありがとうございました!

2007年05月22日 | Good News
みなさん、短期間でしたが、とても充実した交わりをさせて頂くことが出来、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

 私達は明日22日に帰国しますが、日本へ帰国後も、神さまとのふれあいを大事にし求めつつ、少しずつでも近くなれたらって思っております。また、日本とアメリカという距離の問題はありますが、教会のみなさんとも、いつも心がつながりあえるように神さまに祈りつつ毎日を送りたいと思います。

 今後とも娘(妹)共々よろしくお願い致します。

 帰国後もこのブログを通して、教会のみなさんと深いお交わりが出来たらとてもうれしいので、またいろいろと私達に教えて下さいね。宜しくお願い致します。本当に、本当に、貴重な機会を与えて下さった神さまに感謝ですね。ありがとうございました。(Hozrin Family)

モーセは一日にして成らず ヘブル書3:7-15

2007年05月21日 | Celebration
 『われわれは何処から来たのか、われわれは何者か、われわれは何処にいくのか』・・・有史以来、幾多の哲学者達が永遠に求め続けている人生究極の問い。

○私という存在は何なのか?
△私の存在意味は何だろう?
□私はどこへ向かっているのだろう?

 これは一見、非日常的な問いのように思える。でもこれは私達の存在の根本に関わる問題なのだから、それをないがしろにしていたのでは、私達の存在そのものが危うくなってしまう。とはいえ、その問題を大上段から振りかざし、慌てふためくこともない。聖書は私達を創ってくださった神様の言葉であって、哲学書ではない。だから、誰にでも分かるように語りかけてくださっている。神様は愛すべき人間の知恵が如何に小さいものであるかを、よくご存知だから。。。

 今回のメッセージに登場したのは、昔から映画でも大活躍で、世間的にも名の通ったモーセさん。聖書はまた、道徳書でもない。だから、そこに登場するのは私達とは別格の「ガラスケースで囲まれたエラ~い先生」などと思ってはならない。私達と同じ、欠点だらけの人間くささが、聖書には実にリアルに描かれている。

 モーセも然り。当時の法の下、生まれてすぐ殺されそうになったものの、母親の愛ある機転によって命が助かったばかりか、エジプトの王子様として40年間、何の不自由なく過ごした。しかし、ユダヤ人としての民族意識を持つことが出来ず、真の家族関係を保つこともできず、自己アイデンティティを喪失したまま壮年となったモーセはある日、性急な殺人事件を起こしてまう。そうして、王宮生活から一転、羊飼いという社会の底辺で彷徨うこと40年。実に長い時間をかけて、神様はコツコツとモーセのプライドを砕き、「私は何者でしょうか?」の答えを導き出された。以下、モーセの人生から学んだ、自己アイデンティティを確立するために必要な4つの対話である。

(1)自分との対話
 先ずは自分を知ること。自分と仲良くなること。自分を愛すること。

(2)他者との対話
  人は周囲にいる人々と対座することによって、初めて自らを客観的に見ることが出来る。

(3)時間との対話
  時間は有限であり、全ての人に公平に分け与えられている。その使い方、管理によって、人生は大きく変わる。

(4)神様との対話
  信仰は、神様に対する正しい理解から生まれる。その神様が私達に与えてくださった目的を離れて、人生の実を結ぶことはあり得ない。

 出エジプトの3章には、40年間にわたって砕かれ続け、聖書中『最も謙遜な人物』として名を残すようになったモーセが、神様と出会うシーンが書かれている。そこで交わされるのは、自己アイデンティティの確認であり、果たすべき人生の使命であり、そのために奉げるべきもの、そして代わりに与えられるもの。『われわれは何処から来たのか、われわれは何者か、われわれは何処にいくのか』・・・この人生究極の問いの答えは、実にここにあった。私達は神様の前に出て初めて、真のアイデンティティを見付けることが出来るのだ。

神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』」と。(出エジプト3:14)

クリスチャン・ライフの刷新 Ⅱコリント5:11-17

2007年05月13日 | Celebration
 「諸悪の根源は愛の欠如に因る!」と、真理を語られた。人間の言動を決定付ける3つの要因がある。「愛」と「感情」と「セルフイメージ」だ。冒頭の颯爽たる言葉は、「愛」の説明の内にあった。

 人間はかなり頑なだ。自分という枠からなかなか解き放たれず、固定観念に縛られている部分が往々にしてある。そんな人間を動かすことができるのは、「愛」しかない。自分のことを本心から心配し、気遣ってくれる人の忠告に、心が全く動じないことはないだろう。『たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。(Iコリント13:2)』、『なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。(IIコリント5:14)』と聖書にもあるように、人間の意志に働きかけ、動かし得るのは、「愛」に他ならない。

 2つ目に感情。心は知性・感情・意思から成り、物事の判断材料は知性かと思いきや、実は感情によって決断していることが多い。つまり、白猫がいるとする。知性としては、白猫は「哺乳類ネコ科」に過ぎないが、目の前の白猫に対する言動はそれへの感情、好きか嫌いかの違いによって変わる、ということだ。猫への対応は人生全体に影響を及ぼすことはあまりないだろうが、これが人間関係であれば只事ではない。その人、その事に対しての感情が言動を決定する一つの要因であるなら、バランスの取れた理解に根差すことが大切だ。

 そしてセルフイメージ。神様が人間をこよなく愛してくださっていることを、聖書全体から感じることができる。聖書は神様からのラブレターだから。

『わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)』

なんて真摯な愛の告白!「人間は罪を犯した。」「義人はいない。」、あるいは「私なんて。。。」、それらはイエス様が十字架という究極の手段ですでに解決してくださったことであり、イエス様の愛の前には問題にならない。神様の目に私は尊い!この自分の価値を知った時、人は創造主の前に謙遜になれる。いや、ならざるを得ない。オリジナル意識があって始めて、他者との比較競争、傲慢と卑屈の往復から解放される。たった一人しかいないオリジナルだからこそ、私だけの存在目的があり、生かされている使命がある。神様の愛を受け取って、周囲の必要としている人に与え、神様の愛のソーラーシステムとなることだ。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。
 古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(IIコリント5:17)

 神の家族とされた時、私達はキリストに結ばれた者となった。御霊によって生まれ、御霊の導きによって生きる者となった。しかしある部分、已然古い自分・古い自我が残る。心理学で「敗者のシナリオ」と呼ばれる喜びのない人生を紹介された。方向転換できずに苦しんでしまう人生だ。キリスト者は、悔い改めを経てそれらから解放される!古い自我はなくなる!それはただ、神様への従順によって。これが私達を愛してくださる神様の約束。だから、神様に従おう。足元にある真理を手に取ろう。最早、手を離れてしまったはずの古い荷物に執着することなく。

 神様はいつでも私達を待ち、愛し、抱きしめ、守っていてくださる。その愛は無限であり、絶対だ。主の慈しみは絶えることがない。揺らぐことはない。その信仰に立つ時、私達のクリスチャンライフは一新するのだ。

『すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。(ローマ11:36)』

真心と純潔 黙示録19:6-8

2007年05月06日 | Celebration
 風薫る五月最初の礼拝は、黙示録の大クライマックス、『小羊の婚礼』からのメッセージ。タイトルとなった『真心と純潔』、現代社会ではもはや死語・化石と見なされがちな概念であり、真心を尽くし、純潔を守ることを軽視する風潮があるのは事実だろう。しかし、本質的に『真心と純潔』と『偽りと不純』を並べた時、本当に私達が求めているのがどちであるかは言うまでもない。

 この当たり前のことを軽視してしまうのは、真実の愛から離れ、どんどん悪くなり続けて行く現在社会に生きている人間が、『善』を保つことができないことに対する言い訳かもしれない。しかし、神様は決して諦めない御方。私達の状況がどうであろうが、何時でも『真心と純潔』を持って私達を愛してくださる、熱情の神様だ。

 聖書には結婚や夫婦について、多く記されている。何故なら、この『小羊の婚礼』が語るように、私達と教会の関係は、夫婦関係にとても似ているから。男が女を妻として一体となるように、教会の頭であるイエス様と霊の交わりを持って一体となる。教会は花嫁に喩えられる。

 また、聖書を読むと、神様がとても嫌われていることがいくつかあることに気付く。その内のひとつは『偶像礼拝』であり、もう一つが『性に関する不道徳』である。『偶像礼拝』はしばしば『姦淫』という言葉でも表現され、この二つは根っこの部分で繋がっている。つまり、霊的な不道徳と肉的な不道徳。神様は私達のお父さんであり、一体となるべき存在であり、私達が神様の家族であることを知る時、子供を見守る親として、これらの不道徳から如何に子供を守るか、という親心と痛感する。

 メッセージの中で、滝元明先生のお証しをいくつか伺った。日本でリバイバル運動を始められた当初、かつての首相であった佐藤栄作総理に福音を伝える時が備えられた。その時、靖国神社参拝を否定するクリスチャンに対し、「信仰とは何か?」と、佐藤総理から問われた時、滝元先生はこの御言葉で答えられた。

わたしたちは、キリストの体の一部なのです。 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」 この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。(エフェソ 5:30-32)

 そして、暴漢から妻の生命と安全を命を懸けて守り通す喩えをお話しになったそうだ。「どの神様でもいいじゃないか」というのは、「女なら誰でもいいじゃないか」と言っているのと同じこと。家族への思いと同様、信仰は決していい加減なものではない。『愛』は他の何物にも代えることができない。命を懸ける対象こそが『愛』なのだ。それを聞いた佐藤総理は、「そうか、それで分かった。」と、頷かれたそうだ。

 イエス様は、花嫁である私達を守ろうと、血みどろとなって敵と戦い、命を捨てて下さった。真実の愛には必ず『真心と純潔』が伴う。そして、神様は天上で真実の愛を持って、一日千秋の思いで私達聖徒との婚礼を待ち望んでいらっしゃる。私達は神様に対する『真心と純潔』を守り通して、婚礼の支度をしよう。小羊の婚礼こそ、キリスト者の最終目的なのだから。

  ヘンデルの『メサイア』でも歌われる天上の大祝典であり、王なるイエス・キリストと私達教会との讃美と歓声に満ちた『小羊の婚礼』。御霊によって新たに生まれたキリスト者はすでにキリストに結ばれた者とされている。地上にある間は離れていても、いつか必ず来られる花婿であるイエス様を待ち望みつつ、真っ白な衣を着て結婚式に備えたい。

ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。 わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。 花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。(黙示録 19:6-8)

〔写真:フリージア(浅黄水仙)花言葉は純潔〕