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本日の聖書箇所には三人の人が登場する。一人目は、「あなたの行くところならどこへでも!」という熱血漢。イエス評判の華々しさに心を惹かれ、自発的に弟子に立候補した。しかし、イエス様はその彼にこう答えられた。「狐は穴あり。空の鳥は巣あり。然れども人の子は枕する所なし。」この時、イエス様はすでにエルサレムへの途上、十字架へ続く道にあった。彼の心をご覧になったイエス様は、歩むべき道が世の流れに逆らい、苦難と犠牲を伴う決死の行程であることを語ってくださったのだ。
二人目と三人目には、イエス様から声をかけてくださった。二人目も三人目も「主よ!」と呼びかけ、目の前にいるその御方が自らの「主」であることを認めつつも、自分の「まず」を主張した。自分の主である神様以上に優先すべきことがある。それは「家族」との問題だった。実はイエス様がこう言われた背景には、エリヤがエリシャを後継者として召し出した時の話(列王上19:20)がベースとなっている。
エリヤ(預言者)とイエス様(神様)の対応は少し違う。エリヤは暇乞いすることを許可したのに、イエス様の答えは、
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ここでイエス様は、「弟子となるためには余計な家族の絆を断ち切れ!」と命じるのだろうか? 一旦決意したからには、家族を気遣って振り返ることも許されないのだろうか? 愛に溢れるイエス様が、そんな冷酷無比な言葉を仰るだろうか?? いや、そうではない。イエス様は、私達が天の御国を継ぐために優先すべきものが何であるのかを教えて下さっているのだ。
「えっ、家族よりも?」と、ショックを受けられるだろう。実際、かつて日本でもマタイ伝十章の御言葉に激しい拒否反応があったと聞く。しかし、物事には順序というものがある。それを無視して事を進めても結局、空しい結果に終わってしまうのである。であるならば、私達を創ってくださった神様との関係の間に、他の何物も優先して入れることは出来ないということが分かる。この話の少し後に登場する「大宴会の喩え」(ルカ14章)には、天国へ招かれていた人であっても、仕事や所有物、また人間関係を理由に天国へ行かない(行けないのではない)人間の弱さを見る。
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①神様への信頼
完全に信頼する。「それでも私は神様に従う。」という姿勢をとって初めて、得られるものが確かにある。
②神様に対する謙虚さ
キリスト者の周囲では霊の戦いが繰り広げられている。当然、敵もウジャウジャ。もはや自力で何かできるものではない。神様の武具を身に付けるため、へりくだって謙虚になる。
③神様からいただく御霊の知恵
キリスト者は自由を得ている。だから、何でもできるのだ。御霊に知恵をいただけばよいのだ。
ここで本日の至言が登場した。そして、声が聞こえた。「どうして自由を得ようとしない?どうして求めない?祈らない?従わない?そうすれば与える、と約束しているじゃないか。神様の愛は、いつでも降り注がれている。神を畏れ敬えばどちらをも成し遂げることができる!」と。
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