Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

三人の献身 ルカ10:38-42

2010年06月13日 | Celebration




献身と礼拝

 献身という言葉を広辞苑で引くと、「身を捧げて尽すこと。自己の利益を顧みないで力を尽すこと。自己犠牲」とある。つまり、日本語では、「献身=自己犠牲」というイメージがあるので、「献身」というと、何か自分には関係のないこと、特別に信仰深い限られた人たちのことだと捉えられている。しかし、聖書が言う献身とは、何も特別な生き方のことではなく、神を信じる者全ての人にとってのスタンダードな生き方。ある意味当たり前の生き方という意味である。

 パウロは、すべてのクリスチャンに向かって、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。(ローマ12:1)」と献身の生活を勧め、それが、私たちの「成すべき礼拝」だと言った。つまり、言葉を代えれば、礼拝とは献身であり、自分自身を神に献げることのない礼拝は、礼拝ではないということである。イエスが律法学者たちを批判されたのは、正にこの点であり、いくら表面的に完璧な礼拝を献げていようが、その礼拝に献身の姿勢が欠けているのなら、それは礼拝にはならない。献身こそが礼拝の本質なのである。

 つまり、礼拝とは、日曜日の午前中90分だけのことではなく、日々、イエスにと共に生きていこうとする生活への姿勢が、礼拝中心の生活・献身の生活ということなのである。献身とは決して特別な行為のことではなく、日々、イエスと共に生活するということである。その意味において、私たちは、献身ということを、もっと身近な自分のライフ・スタイルとして捉えるべきである。

 私たちが属する南部バプテスト連盟は会衆制の教会である。教職者だけが献身して、信徒が献身していない教会というのはおかしい。信徒も牧師も皆神を第一にして生活しており、万人が祭司の働きを担うのだから、皆で教会を担い合おうというのが、バプテスト教会の主旨である。その前提として、教会員は皆献身しているということがあるのだ。

 今日は、献身とは何か?ということについて、“マルタの献身”、“マリアの献身”、そして“ユダの献身”から学ぶ。この三人の組み合わせは、意外と思われるかも知れないが、彼らは同じ時、同じ場所、同じ状況の中で、彼らの本心が神によって、照らし出されているのである。


マルタとマリア

 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:38-42)

 このマルタのマリアの話しは、ルカだけにたった5節記載されている記事だが、あまりに有名な箇所である。よく教会で、「彼女はマリアタイプよね」とか、「私はマルタ型だから」と言いながら、本当に忙しく教会の奉仕のために、働いておられる姿をよく目にする。この忙しく働き回るマルタと、静かにお祈りするマリアという対照的なイメージは、教会においてはかなり定着している。

 ここでイエスはマリアの方を誉めているものの、かと言って、マルタのような人がいなければ、教会は愛餐会も行なうことが出来ない。事実、マルタは、「人をもてなす」という、聖書の最も大切な教えを実践しているのである。この話を聞いて、一生懸命働いているマルタに同情する人は多い。実際、彼女がいなければ、イエスの一行は休むことも、食事もすることも出来なかったのだから。

 この外向的で行動派のマルタと、内向的な思索好きなマリアという、この姉妹の対照的な気質の違いがあり、無論、イエスはそのどちらも愛されていたことは言うまでもない。イエスは決してマルタの行為自体を否定しているのではない。であれば、イエスはマルタに「あなたもマリアと同じようにしなさい」と言われただろう。では何がマルタの何が問題だったのか?


マルタの問題

 マルタの問題は、奉仕という行為自体は素晴らしいのだが、「多くのことに思い悩み、心を乱していた」ことにある。心を乱しているということは、心が神から離れているということである。つまり、彼女は働けば働くほど、その本来の目的から離れてしまっていたのだ。一生懸命神に奉仕しているつもりが、心の中で自分の予定や計画などの思い入れの方が大きくなり、それが自分の思い通り行かないから心が乱れてしまう。そして遂にその不満は爆発し、マリアにではなく、イエスにぶつけたのである。「主よ、私だけ働いているのを見て、何とも思いませんか!少しはマリアに手伝うようにおっしゃってください!」と。

 ここでイエスはマルタに、「マルタ、マルタ」と呼びかけている。これは、ルカ22章31節でペテロに「シモン、シモン」と呼びかけ、使徒9章4節で、パウロに「サウル、サウル」とイエスが呼びかけておられるのと同じ言い方である。この名前を繰り返して呼ぶという呼びかけは、決して叱責ではなく、そこには相手に対する憐れみと希望が込められているのである。

 では、ここでマリアが取った行為に目を留めて見よう。マリアが主の「足もとに座って(10:39)」という「足元」という言葉は、使徒22章3節で、パウロが「ガマリエルの元で先祖の律法について厳しい教育を受けた」の「元で」と同じ言葉である。つまり、マリアがした行為はイエスの弟子としての態度であった。

 ここで問われているのは、静かに祈るとか、聖書を読むとかという、宗教的な行為なのではなく、イエスの「弟子」としての正しい姿勢なのである。イエスがここで彼女たちに心から望んだことは何だったのか?それは、「イエスの弟子となること」つまり、イエスの御言葉を聞きに従うこと。それが、最も大切なことだと、イエスは言われたのである。

 マルタは優秀な人であったが、今目の前にいるイエスが何を本当に望んでいるのかということを、考える心の余裕がなかった。確かに彼女なりの精一杯の善意ではあったものの、この時点で未だ彼女は、自我の思い込みから抜け出せていなかったのである。


エルサレム教会の問題 

 神が私たちに望んでおられる献身には三つある。それは、「神への献身」、「教会への献身」、そして「社会への献身」である。この三つの献身は三つで一つであり、どれ一つ欠けてはならない。そして、最も大切なことは、献身には順序があり、この順序を間違えると総崩れになってしまうということである。

 ここでイエスが「大切なことはただ一つだけ」と言われた大切なこととは、神に信頼し、御言葉に聞き従って生きること。つまり、「神への献身」である。神への献身が先ず最初にあり、それが教会への献身につながり、その教会が社会に対する献身の業を行なうのである。

 このマルタとマリアの対比は、教会と信徒の献身という意味において、とても重要な意味を持っている。実は、このベタニアの家で起きたことが、エルサレム教会の中で最初に起った問題だったのである。

 それは、同じルカが書いた使徒6章1-7節、エルサレム教会に人が増え、食事の分配のことで問題が起きた時、教会のリーダーたちは、「神の言葉をないがしろにして食事の世話をするのは好ましくない」と言って7人の執事を再選し、「祈りと御言葉の奉仕に専念する」ことになったという出来事である。

 この2節にある「食事の世話」の「世話」と言う言葉と、ルカ10章6節のマルタが「もてなした」という言葉には、「ディアコニア・奉仕」と言う同じ言葉が使われている。つまり、エルサレム教会は、この食事の奉仕という場で起きた問題の解決策として、「霊と知恵に満ちた」御言葉の世話係が、食事の世話係りを兼任することになった。つまり、教会の奉仕は、先ず御言葉を第一とする神への献身者でなければ、ならないということなのである。

 教会での奉仕が、先ず自分と神との関係において、神の必要に応えるために行なっている奉仕であるなら、その奉仕の内容が何であろうが、たとえその奉仕を誰も手伝ってくれなくても、全く気にはならないはずである。何故なら、それは神が私に依頼してくれた奉仕なのだから、感謝してそれを行なうことが出来る。ところが、神の必要より先に、人の必要に応えようと行う奉仕は、やっている内に、必ず自分がしている奉仕の内容や、他の人の奉仕の具合が気になってしまう。そして、「どうして私だけが」とか、「何故あの人は何もしないのだろう」という疑問や不満が必ず湧いて来てしまうのである。

 つまり、マルタは、神の必要に応える前に、人の必要に応えようとしたのである。ここでイエスが問題とされたのは、「奉仕」か「祈り」かという二者選択ではなく優先順位である。そしてもう一人、この優先順位を間違えてしまったが故に、自ら人生を崩壊させてしまった人物がいる。イスカリオテのユダである。


ユダの献身

 おそらく彼は、聖画などに描かれているような、見るからに卑怯そうで、詐欺師のような風貌ではなかった。それどころか彼は12弟子の中では、最も真面目で、最も頭も良く、最も信頼されていた人物であったと思われるのである。

 何故なら、最後の晩餐の席で、イエスが裏切り者はユダであることを明確に示しているにも関わらず、弟子たちは全員、イエスが言っていることが理解できなかった。(ヨハネ13:21-29)また、12弟子にはマタイというお金に関するプロがいたにも関わらず、経理をしていたのはユダであった。これらのことは、よほどユダが周囲から信頼に足りる人物だと思われていたことを物語っている。

 ある説によると、ユダは熱心党のシモンのように、イスラエル新政府建設を目的とした、過激な民族抵抗組織に属していたのではないかと言われている。(イルカリオテには「刺客」と言う意味もある)いずれにせよ、ユダには、今のこの社会を変えたい、自分はこの世で何かを成し遂げたいという熱い思いがあり、彼はイエスこそが今のイスラエルを革命に導くリーダーと期待していた。革命を起こすには資金が必要である。だからこそ、ユダは弟子たちの中で最も真面目で、最も献身的だった。だから他の弟子たちは、このコチコチで真面目一方なこの男が、イエスを裏切るなどとは夢にも思わなかったのである。

 ところが、イエスは群衆の注目を集めてはいたものの、お金を集めることもせず、組織をつくることもせず、街の有力者どころか、どう見ても、革命の戦力などにはなりそうにもない社会の弱者たちとばかり交わっている。こうしてユダのイエスに対する疑惑が、だんだんと彼の心の中で膨らんで行った。

 何故なら、彼には自分はこの世で何かを成し遂げたいと言う、社会に対する献身の熱意があったのだが、その彼の献身には、神への献身も、教会への献身も欠けていたのである。その土台のなさ故に、彼の人生は脆くも崩れ去った。このマリアとユダの献身に対する態度の違いは、ヨハネ12章1-8節に記されているベタニアでの出来事に明確に表れている。


ユダの躓き

 ここでのマリアの行為に対して、最初に非難の声を上がたのがユダである。「なぜ、この香油を3百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか!?」このユダの言葉を、私たちは単純に非難することは出来ない。300デナリというお金は、一家族が一年間暮らせるだけの金額であり、そんな大金(3-4万ドル)を一瞬にして使い切るなど、普通に考えれば浪費としか思えないからである。

 しかし、この時マリアは愛しか見ていなかった。そして、ユダは4万ドルというお金しか見ていなかったのである。マリアとユダの対照的な姿が照らし合わされた。ユダは自分の意見に自信を持っていた。ところが、イエスはユダの主張を退けてマリアを弁護した。その時に、ユダが大いに落胆したであろうことは想像に難くない。そしてそれは、ユダがイエスを心の中で見限った瞬間だった。

 ここでもう一度繰り返す。献身には、「神への献身」、「教会への献身」、「社会への献身」の三つがあり、それはどれ一つ欠けてはならず、この三つの献身には順序があり、その順序を間違えると全てが崩れてしまうのである。


献身はクリスチャンとしての正道

 どっぷりとこの世に浸かっておきながら、こんな私を恵んでくださいと祈っても、神は祝福しようがない。私たちは、この世に倣うのではなく、何が神の御心なのかを絶えず祈り求め、神の御心に自分を従わせて生きること。それが献身であり、そのような姿勢に神の恵みが豊かに注がれて行くのである。それが「神への献身」である。

 そして、教会から切り離された献身、キリストの体を立てあげることのない献身というものは存在しない。自分は何か人よりも特別に献げている、努力している、何かを成している、というような思い上がりは、献身とは無縁である。体は互いに補い合って、動いているのであり、周りを無関係に大きくなるのは、癌細胞だけである。つまり、私たちにとって献身とは、修行でも、自己実現でも、教会奉公でもなく、キリストの体の一部となって、輝いて生きること。それが、「教会への献身」である。

 従って献身とは、単に自分の願いや思いを遂げる生き方ではなく、自分の役割を知り、賜物を知り、互いにキリストの体としての成長を願い、世のため、人のために精一杯自分を献げて生きて行く人生。神の最善のために生きることが、自分にとっての最善となる。それが私たちの「社会に対する献身」である。

 実際、私たちクリスチャンにとって、歩むべき道は二つしかない。それは世に倣うか、神に倣うか。献身するか、献身しないか、そのどちらかであって、その中間はないのだ。そして既に私たちはそのどちらかの道を歩んでいる。献身とは、私たち全てのクリスチャンに求められている正道なのである。

 神は私たちが自力で、そのような献身の道を選ぶことが出来ない弱い存在であることを知っている。だから神は私たちに聖霊を送ってくださった。つまり、献身とは、自分の努力で才能で出来ることではなく、聖霊に導かれて初めて、そのような生き方を実践することが可能となるのである。

 私たちの祈りが、「主よ、私を恵んでください。私を祝福してください」から、「主よ、あなたの喜びが、私の喜びとすることができますように、私の心を変えてください!」という祈りに変えられた時、主と共に教会を立て上げていくという、喜びの献身生活が始まって行くのである


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4 コメント

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感想 (睦美)
2010-06-15 05:07:51
 マルタのようにいろいろなことに心を奪われ、平安を失っている私に、神様は「睦美、睦美」と呼びかけてくれることを感じました。そして、今少しずつ、その呼びかけを求めて、神様の思いに向かいあって来ているように思います。奉仕は神様が「私のために」与えてくださったものだ。「奉仕」そのものに目を向けるのではなく、イエス様の弟子となることを望んでくださり、奉仕のチャンスをくださった「神様」に向き直ること。マリアのような弟子の姿勢で、イエス様の足元にくつろいでその御声を聞くことで、神様の思いを深く知ることができるのです。田中牧師が何度も言ってくださるように、大切なのは動機。まったくマルタだった私は、彼女同様その余裕を持ち合わせていませんでした。ロマ書12章は、私が信仰を持って初めに選んだ聖句でもあり、ただただ神様を礼拝することに一生懸命だった頃も思い起こし、同時に今日教えられた献身の意味、「自分の役割を知り、賜物を知り、キリストの体としての成長を願って生きていく」ことに照準を合わせて、一瞬一瞬の霊の礼拝を献げられる私のライフスタイルを作り上げていく導きをいただき、喜んで受け取れる今を感謝します。そして今まだ実践中の神様からのミッションにも、御声に従って、聖霊様に助けていただいて完成させる励ましもいただくことができました。ありがとうございました。
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深く読むには? (勉強中)
2010-06-17 04:11:22
今までのユダ像が180度変わりました。聖書が表面的にしか知らないことだらけと実感。どうしたらもっと深く読めるようになるのでしょうか?
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自分の献身 (暢夫)
2010-06-18 15:48:15
マルタの件から考えさせられるのは、自分中心で物事を考え進めてしまうのか、あるいは、聖霊様により頼み発言、行動を決定するのかという日頃の自分が思い浮かびます。とかく自分で考えを進める場合、周辺の人達がそれに対応しないことにより、そうして彼らはそうなのかと非難の対象となって気持ちのあせりだけが先行してしまいます。私のチャレンジは、神への献身とは、仕事、日頃の生活、教会におきましても、常にまず聖霊様をより求める祈りの行為からあるのではと考えます。でも毎日失敗の連続で、めげてします毎日です。でも毎日がチャレンジです。

イエスキリストの十字架を前に、ユダ、律法学者、また取り巻きの一般市民を思う時、それまでのイエス様の恵みを信じない頑なな心の人達がどうしてもいるのだと思うと、残念でなりません。悪魔が彼らの心を掌握してしまうのでしょうか。
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感想 (Ako)
2010-06-19 11:27:15
もちろん、私は神に倣う者としてこの世の人生を歩みたいと思っていますが、これには、マルタとマリアの信仰でイエス様が教えてくださったように、心を乱さず、イエス様の弟子としての正しい姿でいることを心したいと思いました。イエス様のために神の家族のために一生懸命働くいつくしみ深いマルタと成れるように、イエス様に倣う者として常に学ぶマリアのように私もなりたいと思います。

また優先順位を間違ってしまうと、どんなに優秀な献身者であっても、ユダのような大変な罪の人生、転落してしまうことも他人事ではなく受け取りました。
ユダは、自分の志との食い違いに疑問を持ったことで、尊敬していたイエス様の言葉に傷つき、イエス様から離れてしまった。すべての献身者(クリスチャン)にはこのサタンの罠に陥らないために、神に倣う者としてしっかり目を開いて御言葉を読むことなのだと思いました。 それに加え、キリスト教から離れてしまった人たちの傷も考えさせられ、裁くのでなく怒るのでなく、イエス様に立ち返る信仰をいただけるようにとりなしたいと思いました。
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