本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

いわゆる「無謬性」一般について。

2009-03-10 11:41:44 | 社会
私は自分がしょっちゅう錯覚・錯誤を連発しているから言うわけではないが、人間という動物はむしろ「過ち得る動物である」という点が値打ちなのである。麻生を見ろと言いたい。およそ無謬性とは縁の無い男が今この国の総理大臣で、しかもこの間の小沢スキャンダルで僅かとは言え支持率を上げたというのである。笑。ナベツネにんまり、大満足の図だろう。今どき検察の無謬性だとか公平中立性だとかを信奉している奇特な連中は博物館か動物園にでも入れておけばいい。彼らは畢竟「統治の手段・道具」「政治の手段・道具」以上ではあり得ない。『法曹一体』とか『検察一体』とかいう概念もあるが、弁護士だって金で買われるし、司法裁判所だっていざとなれば「ハイガバメントを考慮」などと地裁所長が言い出すのである。これは要するに「ハイ」などという無用な修飾語を取り除けば「自民党がヤバクなったら我々裁判所は擁護しますよ」と臆面も無く公言しているのである。何を言ってるのかわかんない人は「赤沢国家公安委員長」か「横川所長」あたりをサーチしてみてねっとんとん♪・・だもんで、個々の検察官は水戸黄門でもなければ暴れん坊将軍でもなく、大岡越前でも遠山の金さんでも長谷川平蔵でもないただの役人だ。出世も望めばときには同僚を出し抜くことも謀る一介の人間である。しかしまあ、これら勧善懲悪の時代劇ものというのも一種刷り込みの手段としての側面も当然備えているわけである。今は宣伝・喧伝・流行(モード)の時代であって、テレビその他メディアを使っての「刷り込み」「暗示」(「洗脳」と言ってもいいくらいだ!)は日夜絶えることがない。これは「うかうかしていると」などといったレベルの話ではない。どんなに注意深く警戒していたって、社会生活を営む我々にはこの「誘導」から逃れることはおよそ不可能なのである。・・といったところで、今日はその辺の話を少々。w . . . 本文を読む