GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「不毛地帯」「「インビクタス」の大義

2010年03月20日 | Weblog
「不毛地帯」良かったですね。
このような骨太物語はあまりに重くて受けないのですが、
「官僚たちの夏」同様、どんどん製作して欲しいと思います。

「不毛地帯」は大義と私心の争いのドラマでした。壱岐正の大義を本当に理解していた人がいたのでしょうか。哀しいかな、大義は崇高であればあるほど周囲には理解されることは難しくなります。<孤高の人>という言葉が生まれる所以はここにあります。

 映画「インビクタス 負けざる者」では、マンデラ大統領の就任1年目が描かれていましたが、妻や娘が官邸にいないのです。家族が一人もそばにいないのです。私はとても哀しくて本当に心が痛みました。白人と共生して、初めて南アフリカが自立できると考えていたマンデラ氏は、官邸に入った初日、今までいた白人の職員の全員が首になると思い込み荷物を片づけている場面を見てこう云いました。

「新政権で働きたくない人は去ってもいい。
 しかし私は君たちの手助けを必要としている。
 過去は過去だ。
 皆さんの力が必要だ。
 我々が努力すれば、我が国は世界を導く光となるだろう」


 この崇高な大義を今まで酷い差別を受けてきた家族は理解できなかったのです。27年間も刑務所で虐待を受けながら、マンデラ氏は復讐心が南アフリカの真の自立を妨げると確信していたのです。黒人のマンデラ氏が大統領となった南アフリカでは、(黒人の)庶民は今までの恨みを晴らそうと白人への復讐を考えていたのです。マンデラ氏の家族もまた同じです。<白人との共生>など思いも寄らないことだったのです。マンデラ氏はこの大義を広めるために、黒人を交えた弱小チームがフットボールのワールドカップで優勝することによって、<白人との共生>という高い理想を全庶民に示したかったのです。

 現在の南アフリカは「黒人の中から200万人規模の富裕層が生まれる一方、貧困層が以前の倍に拡大しています。特権を得た一部の黒人による逆差別現象も生じ始めた。ある黒人の金融機関では、黒人に融資する場合の利息が3%、一方白人に対しては15%、アジア系に至っては28%もの高利を堂々と行なわれている」(ウィキペディアより)

 大統領を退いたマンデラ氏はこの現状をどう見ているのでしょうか。<白人との共生>という高い理想を実現するには時間が必要です。生まれてくる子供たちに「平等とは何なのか」を熱い言葉で語り続けなくてはなりません。しかし、大半が同じ黒人でありながら以前より貧困層が拡大している現実があります。貧富の差が広がれば広がるほど、子供にいくら平等という考え方を浸透させようとしても、歪んだ考え方が蔓延っていくのは止めようがありません。そしてストリートギャングと呼ばれる連中が跋扈するのです。

 戦後の日本にも愚連隊と呼ばれたヤクザになれない若い連中が数多くいたましたが、その当時とよく似た現象です。それを打開するには教育の徹底はもちろんのことですが、経済の発展も欠かせません。中間層が豊かになって教育の大切さを実感し、平等の尊さを学び、マンデラ氏が勝ち取った偉大な理想を改めて追求していくしかないのです。

 TVドラマの「不毛地帯」では、近畿商事の大門社長が壱岐正の大義を最後まで見抜けませんでした。大門社長は豪放磊落な性格と立派な経歴を持ちながら最後は権力を固守するあまりに壱岐の本心を見誤ったのです。葉巻をこよなく愛し、「和製チャーチル」と呼ばれた吉田茂氏も、1590年に初めて日本を統一した秀吉も、晩年はよく似た状況に陥っています。とても哀しいことですが、どうやらこれは権力者という人間の性のようです。

 映画「インビクタス 負けざる者」ではマンデラ氏の周囲に家族が一人もいませんでした。まさに孤高の人と云えます。どんなに孤独な想いだったでしょうか。27年間牢獄という隔離された生活から解放されたにも関わらず、理解を示す家族が一人もいないのです。想いを伝えられないという人間の哀しさがここに滲み出ていました。

 「不毛地帯」の壱岐正の家族も又、心通わせることがありませんでした。妻や娘、息子に自分の想いや社会での出来事をすべて説明しきれるものはありません。その苦しみや孤独が痛いほど私には理解できました。日本陸軍の大本営参謀だった壱岐正には大義という血しか流れていなかったのです。西郷や大久保の血と同じです。龍馬や岩崎弥太郎とは違う血です。日本で云えば大義の血とは、武士の血と云えるかもしれません。そしてその血は今の政治家に最も求められる血だろうと思います。

 「不毛地帯」や「インビクタス 負けざる者」を見ていて、人の心は別個のものであり、共感できることは奇跡の出来事だという私の信条に触れるものがありました。人と人が共感し合えることなど通常はありえないと思っていた方がいいようです。このように考えることは否定的で哀しい考え方かもしれませんが、そう考えていれば、もし共感し合える人と出会ったら、きっとその関係を大切にしようと想う気持ちが高まるはずです。

 すべてを肯定的に受け入れるという神懸かり的なことは私にはできません。共感できる人と出会ったらその絆を大切にしたい。そして家族を含め、仕事場や周囲の人たちとの共感の場を広げていきたいと思っています。そして自分なりの大義を見出して欲しいと願っています。


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