GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「脱原発」

2011年05月09日 | Weblog
政治を正しく機能させるものは市民の「漠とした不安のほかにない」。「科学は安全だ」と科学者、政治家が口を揃えようと、市民の「不安」は消えない、そのような新技術は受け入れてはいけない -「国民的合意なき国策」が究極の「リスク社会」を生む。
 前世紀末、ウルリッヒ・ベック(ミュンヘン大学教授)は、このように「リスク・ソサエティ」の概念を構築した。

 1985年、デンマークは「原子力はこれを永久に放棄する」と宣言した。同国では「コンセンサス会議」がもたれる。デニッシュ・ボード・オブ・テクノロジー(デンマーク技術協議会)と呼ばれている。市民20名程度を集め、遺伝子操作、原子力、地球温暖化問題などをテーマに学び合う。男女の割合、学歴、地域、さまざまな条件をバランスさせて、参加者を選び、そこに中立的な専門家、科学者、研究者、つまり、高度のエキスパートが加わり、徹底した専門知識を市民に与えながら議論を尽くす。
 あるものは「科学的にはそうえいるかもしれないが、しかし、私は不安だ」といい、他の市民は「これだけ勉強したけれども、それでもなおこのように不安が残る」と率直に意見を開陳する。それら全てがこと細かに記録され、議会をはじめ科学者、メディアに全て公開される。最終的な意志決定は議会だとしても、誠実に行われた末の国民的議論は、議会も科学者も誠実に聞かなければならない。こうした対応が「リスク社会」時代にふさわしいあり方という認識が徹底していのだ。
デンマークは原発エネルギーを避けたことで、「エネルギー消費を減らしながら国民生活を豊かにする」という国策に向けて英知を結集することができた。いま同国はエネルギー消費の総量をふやすことなく、石油ショック時以降、GDP(国民総生産)を2倍の規模に成長させている。
 デンマークに限らずアメリカでさえ住民投票でサクラメントの「ランチョ・セコ原子力発電所」が廃止され、イタリアでも1987年に20基の原発すべてが国民投票で廃止が決定。90年に全て閉じられている。オーストリアも78年の国民投票で原発廃止を決め、現在原発は1基もない。           (5/8 神戸新聞 うちはし・かつと氏の記事を抜粋)


さて、現在の日本の原発是非の世論はどうだろうか。
2009年4月は、79%(原発容認)、17%(脱原発)
2010年4月は、56%(原発容認)、41%(脱原発)

これだけの大被害を被りながらもまだ国民の半数以上が、原発を容認している国民の意識はいかがなものか。もし今、原発が自らの町や村に作られるということを聞かされたら、100%に近い住民が反対するに違いない。にも関わらず、56%の人が容認してるこの現状をどのように受け止めればいいのか、残念でしかたがない。

 大沢在昌氏は、『天使の爪』の中で、日本人をこのような表現している。『日本人は奇妙な民族だ。大きな夢を持ちたがらない。小銭で車を買ったり、洋服やバッグを買えば満足する。ほとんどの人間は、あきらめて生きている。自分が大きな夢をかなえることなど、ありえない、と。金が好きなのだ。大人も子供も。バブルと呼ばれた、経済が異常に好調だった時代からこっち、日本人は金を使うのが大好きになった。そのくせ、大金持ちになれないと思っている』

 少し過激で小説的な表現だが大沢氏の言葉に共感するものがある。高度成長を経験し、ものを買う喜び=幸福という公式が浸透してしまったように思えてならないからだ。盲目的な資本主義の行き着く先は個人主義でしかない。個人の幸福が他に優先するということだ。周囲の人や自分の家族でさえ優先されることはないのだ。家族の絆や恋愛という言葉は、個人主義の前では価値も重さ暖かさも見いだせなくなってしまったのか。究極の個人主義者が、犯罪者となる。つまり現在の日本は犯罪者予備軍が多数いるということになる。親族を巻き込む悲惨な出来事が数多いのはもしかしてそのせいかもしれない。

 企業の存続の為に首を切られる本人でさえ、あきらめてリストラを受け入れる。契約社員と言う制度は日本と隣国の韓国以外存在しない。企業が国家を動かし新しい法を作る珍しい国家、それが日本だ。そんな両国の資本主義の深耕が、国民一人一人の思想をも歪なものに変えていったのかもしれない。
 大沢氏が云うように、本当に「ほとんどの人間はあきらめて生きている」のかもしれない。誰が首相になろうと、どんな政党が政権を取ろうが、大きな変わりがなく、大企業が国家を動かしているとあきらめて生きているのか。いつの間にか企業存続という大義名分に、まず政治家や国家が心酔し、国民一人一人の心までその意向が深耕してしまったのか。原発容認56%という数字は、国家の成長経済への義務感と国民の過剰な個人主義的購買欲が存在し、電力エネルギーの30%以上を占める原発維持は、現状の経済発展に不可欠と考える国民が過半数以上存在しているということだ。

電力提供はどの国でも基幹産業だが、日本は政治家や国家まで膨大な資本の前にひれ伏してしまった結果が、今回の未曾有の大被害を起こしたと云える。原子力の危険性は衆知の事実だったが、今までそれを力を入れて啓蒙してきた政治家も研究者もほどんどメディアには登場しなかった。それは大企業の権力の前に国家もメディアも媚びへつらってきたからに他ならない。そして国家自身が経済発展という打ち出の小槌によって豊かで安全な市民生活を保障するかのごとく教え諭してきたのだ。国家と電力会社のような大企業が結託してきたからこそ成せる技といえないか。しかし、今後はそれができなくなろうとしているのだ。

 民主党は2009年のマニフェストに既存の水力・火力と風力・太陽光などの再生可能エネルギー源を組み合わせた分散型電力供給システムを構築をめざすと未来図を示した。このとき、私は拍手して喜んだものだ。しかし、昨年6月、民主政権下の「エネルギー基本計画」としての国策は、30年に向けて電力構成の50%を原発に依存し、原発を戦略的な輸出産業に育てると掲げ、原発の新設は14基、既存54基に加えて合計68基とした。私たち国民はいつこの計画に合意したのか。

日本は今大きな岐路に立っている。今後も今までの路線、つまり個人主義を助長させる盲目的資本主義を掲げ(?)、「金を掴むことは正義だ!」とのごとく突き進むのか。それともデンマークのような「コンセンサス会議」を発足し、企業を交えない理性的な協議会を通して、今後のあるべき日本の姿を模索していくのか。大きく分ければこの2択の岐路だ。戦後の高度成長やバブル経済を経験した私たちは、過去の栄光による負の遺産を数多く見てきたはずだ。今回の原発被害はその最たるものかもしれない。デンマークは原発エネルギーを避けたことで、「エネルギー消費を減らしながら国民生活を豊かにする」という国策に向けて英知を結集することができたのだ。決して日本もできないはずがない。勇気と理性と時間をかけ強い信念を持ってすれば。

 企業にひれ伏す政治家たちではそのリーダーシップは取れない。政治家は誰もが臆病な風見鶏だ。だからまず、「デニッシュ・ボード・オブ・テクノロジー」のような国民と議論できるコンセンサス会議を発足し、メディアはその議論の様子を茶化すことなく正確に報道し、国民意識を高める必要がある。この流れを感じて政治家たちは初めて本気になって動き出すに違いない。そして大きくなった民意を背景に、数を増やし議会で将来の電力計画を可決する。道のりは決して容易ではない。経済成長の鈍化を企業や一般市民も望まないなからだ。頼もしいことに災害のための増税や福祉の為の消費税アップを可とする理性的な民意も存在する。政府はその民意に甘えることなく、国民とコンセンサスを得るための議論場を発足し、そして議論を重ね進むべき道を選んで欲しい。

 原子力の代替えエネルギーコストは膨大な数字になる。しかし、今後の国策として民意に基づき、たとえ政権が変わろうとも政府の明確な決定がなければ、今後も代替えエネルギー研究は本腰を入れて進むはずがない。史上初の原子力発電は、1951年、アメリカ合衆国の高速増殖炉EBR-Iで行われた。この時に発電された量は、200Wの電球を4個灯しただけだった。その後日本もまた原子力発電は民意である多数決を得て、発展してきたことはまちがいない。しかし、その多数決に不安がなかったことは一度もなかったはずだ。民主主義の代名詞、「多数決」を得るには、個人主義たちが大喜びする膨大な金が動く。そしてその末端にはヤクザが存在する。民主主義の危険はここにある。つまり資本(金)に動かされるという人間の哀しい性だ。日本民族は戦後この渦中で道を誤ったと云える。今回の大災害を経験して気づくべきだと思う。

 戦後我が政府は、新たなエネルギーに本腰を入れたことは一度もない。米国の原子力開発に追随してきただけだ。エネルギーに関して自立など皆無だった。政権を取った途端に方向転換した民主党は、電力会社から「原発の代替え費用はこれだけかかる、いいですか?」と脅されたに違いない。ならばその内容を開示し、マニフェスト変更のために国民の是非を問わねばならない。それが国策であるマニフェストの意義のはずだ。しかし、政権交代のためのお飾りマニフェストであったことを我々国民は見抜けなかったために、国民はその是非も問えない。
 だからこそ、もう一度云いたい。理性的なデンマークに真似て「ジャパニーズ・ボード・オブ・テクノロジー」のようなコンセンサス協議会の発足を提案して欲しい。そして国民は同じ目線で、このような日本の悲惨な現状を憂い、解決策を模索する場で真摯に議論して欲しい。そしてメディアは誠実にその議論状況を国民に提示して、全体の意識の向上に努めて欲しい。東京湾の先に原発を作る計画は「NO!」で、過疎が進む市町村なら「OK!」という自分だけ良ければいいという個人主義的発想から早急に脱して欲しい。そして将来の家族のために、将来の日本のために、理性的で正しい決断ができる国民にならなければならないと思う。


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1 コメント

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ソーラーシステム (むらさきいも)
2011-05-28 09:51:44
屋根の上のシステムが壊れてから、20年放置。もっとコストが下がれば、新しいパネルをつけたいと震災以来、考えていますよ。
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