GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「出会い」を考察する(1)

2011年12月17日 | Weblog
 人との出会い、本や映画との出会い、音楽での出会い、スポーツでの出会い、そんな出会いが、刺激を与え、微妙に、あるいは大きな影響を人に与えます。その時の自分の心情や前向き、後ろ向き、斜め向きの姿勢によって影響度が違ってくるように思います。私の場合、夢中になってクラブ活動や仕事に取り組んでいるとき出会った人や本・映画が、少なからず影響を与えてきたように感じます。出会いを優先していたのではなく、夢中になるものがあって、その時の二次的な出会いが、今も長く続いています。
 商売や企業で云えば、儲けることが優先ではなく、消費者・生活者が喜び、満足していただくことを優先している姿勢が大切です。つまり出会いや金儲けを優先すれば、決していい出会いはなく、よりいい人と出会いたいとか、もっと儲けたいという邪(よこしま)な気持ちが生じてしまうのです。

 人の中には孤独を酷く恐れる人がいます。いつも誰かがそばにいて欲しいと思っている人です。友だちや恋人は作ろうとするのではなく、できると考えている人もいます。こういった人は孤独を恐れることはありません。また、歳を重ねることで食事の好みが変わってくるようにDoing志向からBeing志向へと移行して、出会いのスタンスそのものが変わる場合もあります。


 
 Doing志向の場合、自分で選ぶことを優先します。自分の人生をコントロールしたいという願望が強いと云えます。この場合、人間関係の状況を把握しづらい現象が生じます。自分の感情を満たすことが最大の目的ですから、当然自分のいる位置にも周囲の状況にも無頓着になりがちです。その分想いがより強くなります。若い人の象徴と云えますが、これらがミスを犯す要因となります。つまり強すぎる想いが相手を見誤らせるのかなと思います。

 Being志向の場合、受け止める穏やかな気持ちですから、人間関係の状況も把握できており、気持ちは穏やかです。よって人の言動をじっくり観察できていることが多いのでミスの発生が少ないのではないかと思います。Beingの場合、常に心は穏やかですから、何事も正対しているように思います。平常心という言葉もBeingの気持ちを表していると思います。
 どちらにしても、大切なのは自分自身が邪ではなく前向きな姿勢です。いつでも正対していることが重要だと考えています。ただ自分にとって前向きとはどの方向かを自覚していなくてはなりません。

 出会いを求めて合コンに出席する人たちがいるようですが、私はこの種の出会いを求めようとしたことはありません。自分の信条に合わないと思っているからです。そんなところに出かければ、身も心も着飾ってしまい、メッキはやはりメッキでしかなく相手の方々にも失礼だと思うからです。だからmixiやbookfaceに参加することは私にはとても特別な出来事です。半世紀以上も生きてきて、出会いを求める気持ちが薄れてきているのでいいかなと思っています。



 中学時代、違うクラスの女の子に恋したことがあります。俗にいう一目惚れです。色の白い貴婦人のような雰囲気に一目ぼれしたのです。2年生になったとき、偶然同じクラスになり大喜びしたのでが、この子の言動があまりにも薄っぺらく、自分の想いと違っていたので、あっという間に熱が冷めてしまいました。そんな経験から一目惚れを避けるようになりました。同じクラスになってその子の言動を何度も観察したのでしょう。そして、自分の理想像と無意識に比較したのかもしれません。まさにDoing時代の真っ直中でした。

 一目惚れが一瞬にして冷めた原因を思い出していると、あの頃の自分自身が無意識に求めていた女性像の存在に気づきました。さて、どんなイメージだったのか。
「誰に対しても同じ笑顔で、同じ口調で、同じ態度で接し、自分を飾らない誠実な人」
この想いは今も変わらず、今では人を見る時の自分の信条となりました。

 多感な中学生時代、無意識のうちにすでに理想の女性像を作り上げていたことに気づきませんでした。そんな女性が近くにいたのか、中学生の頃までにそんな女性と出会っていたのか。これもまた、初めて振り返ってみました。

いました!まさにぴったりの女性が。

 小学校6年生の後半から読み始め、1年かかって読み終えた吉川英治の『宮本武蔵』のヒロイン<お通>さんがその人でした。半世紀以上生きてきて、初めて自分自身の理想の女性に気づいたのは自分でも驚きでした。

剣の道に一生を捧げた宮本武蔵
その武蔵を一生愛した女性<お通>
女を愛するという邪心を追い払い 武蔵は剣の道に精進した
そして、お通は一途にそんな彼を追い続け、想い続けたが、結ばれぬ恋だった…

   
    
 悪童だった武蔵は千年杉に吊されましたが、お通さんの助けを借りて逃げ出し二人で故郷を出奔します。沢庵和尚は若い二人を引き離し、武蔵を万巻の書がある姫路城天守閣に閉じ込めます。今考えると沢庵和尚はまるで映画「ニュー・シネマ・バラダイス」のアルフレード的存在です。お通さんには天守閣が見える花田橋の茶屋で武蔵の帰りを待てと説得します。武蔵は3年間全ての書を読み自分自身と初めて向き合うことができました。そして、自我に目覚め、今までの無知に気づきます。そして、剣の道に命を捧げるという目標を立て、姫路城天守閣から出てくることになります。花田橋の茶屋でお通さんに出会った途端に決心が揺らぐ武蔵。しかし、そんな未練を断ち切り、お通さんが荷造りをする間に橋の欄干に「許してたもれ、許してたもれ」と書き残し、一人武者修行に出ていきます。お通さんはそんな武蔵を生涯をかけて追い続けることになりました……。


     
 佐々木小次郎との巌流島の決闘までに、お通さんは多くの人と出会います。どんな人との出会いでも彼女の言動はいつも優しく思いやりに溢れていました。どんな時でも誠実で相手を信じ、いたわり続けます。お通さんの許嫁だった又八(武蔵の親友)の母、本位田家のおばばは、又八を捨てて出奔した二人を仇のように何年も追い続けました。そして、ついに我が子(又八)を愛しすぎたために武蔵とお通を見誤っていたことに気づきます。巌流島に向かう浜辺で武蔵とお通さんがようやく再会します。二人だけのわずかな逢瀬を邪魔せず、おばばは木陰からそっと見つめます。おばばもついに武蔵とお通さんを許したのです。お通さんの大誠意が頑固なおばばの心を動かしたのです。(私が最も感動し涙した場面)

             

 多くの人が無意識である方向を選んで進んでいくように思います。行く道を自分で意識して行くことはとても大切ですが、これを自覚することは容易ではありません。映画や小説で、「こんなことをしていたら、ろくなもんにはならないよ」というような年輩者の言葉に遭遇します。特に若者は知識と経験が少ないためその先が見通せないのです。私はこの原因は無知によるものだと思っています。若い人の自殺や怒りのために切れて他人に刃傷をしかける場合も、無知が原因の場合が多いのではないかと思っています。もっと広い世界や違う世界の存在を知らないために、行き詰まってしまうと考えています。見聞を広め自分の未来を信じ、可能性を信じることによって、このような生涯を送りたいと望むことは、決してその後の行動や出会いにマイナスにならないと思います。ただ寂しさを癒すために出会いを求めすぎたり、反対に待つだけの人生も決して楽しくはありません。このような道を歩むんだという漠然とした意思を持つことでも、単なる出会いを大切にしていく気持ちが生まれるのではないでしょうか。

 お通さんのようにどんな人との出会いも常に誠実であるべきですが、邪な気持ちが生じる出会いも決してないわけではありません。また自分の邪な気持ちに気づかない場合も多いのですが…。その時、この出会いは自分のためにならないと気づくかどうか、一線を越えてはいけないと自分を律するかどうかで、その後の人生が大きく変化していきます。人は邪悪な心が常に生じる生きものであることを意識しておく必要があります。つまり、人は永遠に不完全な生きものであり、永遠に純粋無垢であり続けることなど不可能だと自覚しておかねばなりません。そして、すべて自分が選んだ結果として受け止める覚悟をもつことです。

 道を歩めば様々な出会いがあるのは当たり前です。ただ、その時の姿勢や心の有り様によってその後の道行きが変わってくると私は学びました。そして邪な気持ちとは如何なるものかも気づきました。随分時間がかかったようにも思いますが、あっという間のようにも思います。残された道のりを惜しみながら今の気持ちを忘れずに歩んで行こうと思っています。