百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

終戦日前後事情(作戦命令《信濃1号》)

2007-08-19 18:58:30 | Weblog

  8月19日  (日) 
                          平成17年1月1日より 961日目
                                        歩いた歩数      その距離
                          本日          12,275歩         8,593m
                          総計   13,430,818歩  9,401,573 m
         北京より保定・石家荘・刑台・邯鄲を経て洛陽に向かう。347,577m

             
                                   新幹線工事で妻の実家取り壊し

  正確な月日は覚えていないが20年の初夏だったと思う。「作戦命令《信濃1号》が発令されたときの各自の守備位置について前以て言い渡す」と言われた。その守備位置を聞いていると、碓氷峠誰某、軽井沢誰某、など長野県内に守備位置を指定されたことだ。私は「薬剤行李」の管理を言い渡された。

 この作戦命令は何時発令されるのか?それは関東平野に敵が侵入して来た時だという。先に松本の部隊は3分裂して、部隊長は護沢(ごたく)部隊を編成して千葉海岸に出陣した。また新たに長野師団へということで一部が長野市の学校などの施設に移った。私は召集事務などに携わっていた為か松本に残留することになった。

 護沢部隊は千葉海岸で連合軍の上陸に備え、蛸壺を掘って死守するのが使命、各兵は蛸壺から竿の先に付けた破甲爆雷をもって、上陸する敵戦車を粉砕する役目、私たちはこれを貼り付け(磔)部隊などと呼んでいた。長野師団は松代大本営を守るためと思われるがその実態は知らされていない。

 連合軍が海岸線を突破して関東平野を席巻して信州に向かって攻撃開始の時を予測しての残留部隊への作戦命令なのである。その時、東京はどうなっているだろうか? 天皇は松代大本営に移るだろうが、内閣は何処で政治を執るのだろうか?

 私は「薬剤行李」の係りだ。行李といってもその量は松本市外に3棟の土蔵に収蔵されていた。部隊のすべての薬剤・衛生材料の管理だから連隊本部直属で、追い詰められて最後はアルプス山中でゲリラ戦を展開、最後の最後は万歳攻撃で玉砕する覚悟。それにしても日本民族全滅最後の一人だろうなどと空想していた。当時、白旗掲げて捕虜になるなんて考えている者は誰独り居なかった。

 だが、こんな作戦命令「信濃1号」が既に用意されて居たなんて、覚えている者・知っている者は今どれほど居るだろうか?

  


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1 コメント

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驚きました (宮崎汎)
2007-08-20 10:09:29
想像したとおり凄い記憶力でかかれた内容ですね。
「ウチテシヤマン」1億玉砕の話は母からもよく聞きました。そういう心構え、覚悟で戦えという比喩と受け止めてましたが、本当に作戦命令書という形で公式にあったのですね。
関東平野に敵が・・・・といった具体的なシュミレーションが軍隊でなされていたというのは信じがたいことです。
私もこの目で実際みた教練で、竹槍で戦うなんて子供でもおかしいと感じましたし、防火訓練もバケツの手渡しや、ボロキレで造ったモップを振り回して猛火を消せると本当に軍部は考えたのでしょうか?
今の平和な時代に考えれば馬鹿馬鹿しい事だらけでしょうが、当時の世相、すり込まれたマインドコントロール、戦時教育・・などで至極当然と誰しも思っていたのでしょうか。満鉄にいた民間人の父は抑留されたが脱走して家族と再会したが、すでに病を得てまもなく悲惨な状況の下で他界してしまった。戦争許すまじである。耳にタコが出来ていた戦争の話が、高主さんの実体験を聞くことによって、にわかに身近なものになり、改めて戦争とは実に恐ろしいものに感じられた。汎
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