あさノンの日常(※「住宅を建てたい!岡山の工務店㈲ハウジングアトリエ」から改名しました)

日々のことを書いていきます!楽しんでいただけるとすごくうれしい♪

やっと心に落ちた詩2 (永訣の朝)

2015-02-19 21:43:51 | あさノンのつぶやき
つづき


彼が信心深かろうと、妹の死は実際は24歳であろうと、別の詩からのエピソードがあろうと、裕福であろうと、私には”最初に感じた詩”がこの詩そのものだ。

高校の国語の先生らしき授業の進め方を書いたウェブページもあった。
詩なのだから、解釈は多少の個性が出るはずなのに、融通のない「問い」と「解説」にちょっと驚いた。
朗読して、生徒の意見を出させてから問いを投げかけて解説に入るようなのだが、
  「宗教的な心境になっている」
  「私もとし子だけでなく皆の為に生きたい」
これがラストのまとめ。これが教師に勧められているスタンダードな解釈なのだろうか?

この詩が試験問題になったら、私には点が取れると思えない。
(元々そんなに勉強できないだろってつっこみは置いておいて)

まだ死んでいないとし子から執着が消えて、急に自分のあり方を考える事に気持ちが移るのは、
「人の為に何かしたい」というとし子の遺志を継ぐとはいえ、
それまでの「とし子が全て」の賢治との熱量のギャップが、違和感。

薄情というか、思考停止というか、単純な人間の出来上がりというか、弱ってる時って極端に走るよね・・・って(その終わり方だと)私は思う。
私がひねくれているのかなあ。

更に、”人の為”が宗教観から来る言葉として解説される、そうなると、
宗教をただ信仰する人のおそろしさをも見た気がする(宗教に対してどうこういうわけじゃなく、言われるがままに受け入れる事や急な思想変更や極端さの姿勢の問題) 
生徒が誤解して総括すると、「愛する妹の死の辛さから宗教にのめり込む賢治の話」、という事になりそうな(驚愕)

他の2篇でも宗教を匂わせるから、その受け取り方が正しいのか・・・(とし子の死を描いた3編はセット扱いされる)

私が授業の解説を覚えていないのは納得できなかったからの気がしてきた。
この詩はそんなんじゃないと解説をシャットアウトしたのかも。

↑に書いた教師がどうのでなく、それぞれの作品に合わせて柔軟な方法で授業を展開してほしい。
高校生になってまで、受け止め方が分かれそうな言葉数の限られた詩で、「1つだけの解釈の解説」は必要なのか?
なにも、授業で答え合わせのように一つの解釈に納得させる必要はない。紹介に留めるだけで十分だ。
小中までで推し量る力はそれなりに培われているでしょ? 細部までは分からなくとも心には伝わる
一辺倒な解説こそ、詩から読み解く力を育む妨げとなりはしないか。

なぜふたわん食べるのかといった「問い」はあった方が考えるきっかけになる、そして感想文なりに纏めさせれば自分で答えを見つけられるだろう。
何より、詩はひとりで感じる文章だ。全体の言葉の流れや音が伝える感覚を楽しむ事が重要ではないか。



ってことで、私が当時感じたものを前提に理解し、今言葉にすると↓となる。
○年越しの「感想文」≠「解釈」だ。
大変だったが↑でえらそうな事を書いたから、執念でまとめた(笑)


↓全て私の勝手な解釈なので、気を付けて下さい。出来れば、前回の記事で原文だけで楽しんでから(^^)


※並列させる為に文字サイズ小さくしました。見にくい方はPCの表示を拡大してみて下さい。Ctrlを押しながらマウスのホイールを上や下にコロコロするとサイズが変わるのではないかと思います。

:賢治、聡明で11歳程
:とし子、6歳程、病気が長く年齢よりも精神的大人に賢治には見える
   追い目があるのか聞きわけが良く、それが兄には寂しく感じられ、不憫に思う気持ちはより強くなる
 2人が子どもである様子を思い浮かべたのは、とし子の言葉が幼い子が言っている様に思えたため
  子どもでないとしたら、賢治は子どもの頃のような気持ちでいる。
  2人の間の世界は、子どもの頃の盲目的な兄弟の繋がりから殆ど変化していない。病気がそうさせたとしても、とし子への想いが強い、純粋すぎないか。排他的に生きてきたのか。
 両親はいないのかもしれない。
・治る見込みがないので自宅で看取られている
・霙を取りに言っている最中に妹を想う詩、動いてはいるがずっと賢治は屋外にいる
・とし子が言った言葉の順番は
 ①(うまれでくるたて こんどはこたにわりゃのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる)
 ②(0ra 0rade Shitori egumo)
 ③(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
 であり、ショックから頭が働きだすと共に遡り思い出す
 なぜなら、あめゆじゅを聞いて飛び出してきたのに、その後にとし子が言うはずもないから
 「」でなく()であるから今発した言葉ではない。
 終わりの方でも一面の雪を賢治は見ているから、賢治はずっと外にいて回想している
 この順番なら、とし子が言った言葉の賢治の反応をとし子は見ている。あめゆじゅにとし子の想いがあったかも
・egumoの後に続く言葉が意図的に抜けているか
・とし子は熱い息を吐きながらしゃべるので、白い息が見える 私の心も熱くなっているので、私の息も白い
 ひらがなが多いのは白い息と 一言ずつゆっくり伝える現実を表現 
 ひらがなの繊細さもこの詩の張りつめた死の間際のもろさやもどかしさ、心を感じさせる
 対照的に、賢治が考えた気持ち以外の事柄は漢字  
・ひとわん→ふたわん はとし子が人にしてやれることを望んでいたから(↓で説明)    
・賢治の”強い”宗教観を元にする考え方があるが(多くの解釈はそう捉えている)、私は賢治らを一般的な兄妹に見立てた
 なぜなら、①子どもとして捉えている為信心深すぎるのは違和感がある、②最後の部分が”とし子”から宗教的な気持ちの方が強くなってしまってはこの詩の流れが途切れるようで望ましくない
・喉を潤す為の雪を持って行ってやれただけでは「救われる」が軽くて、初めの方に出てきたひと言というだけで終わってしまう
 「あめゆじゅとてちてけんじゃ」に賢治が一生救われる この詩の一番肝心なのはそこではないだろうか
 単なる贖罪の気持ちから救われるのでなく、”とし子の望みを叶えさせてやれるかもしれない”と光が見えて祈る
 
 そこが私の解釈の完結点


改行が上手くいってないけど、左が原文、右が私の捉えた補足。水色賢治、ピンクとし子。
原文も読みながら見て下さい。


「永訣の朝」
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ (外に出たら夢の中にいるようだった、だから心でとし子に語りかける)
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ なあとし子、こんなに不憫な時のはずなのに、どうしてこうも世界は明るいのか
                     (明るさに現実感がなく少し放心状態)

   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)    (つい今しがたとし子に言われた言葉が頭にこだまする、まだ頭は働いていない)
うすあかくいっさう陰惨な雲から
みぞれはぴちょぴちょふってくる      (私はただ霙に打たれている)
   (あめゆじゅどてちてけんじゃ)    (こだまする)「雨露とってきてちょうだい」  
青い尊菜のもやうのついた         (ひとつひとつの事柄を確認するように頭はゆっくり働いて現状把握をする)
これらふたつのかけた陶椀に        (陶椀は妹との繋がりをこれまでを体現する 
                     並んであった陶椀を2つ掴んできたのは、いつも一緒だと言う思いからふいに2つを
                     手に取った後、望まれたものを嬉しさのあまり沢山持って行こうと思ったから)

おまへがたべるあめゆきをとらうとして   (何も助けられない思だったが、甘えたように頼んでくれ私ができることを見つけた)
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに  (壁や引き戸にぶつかりながら)
このくらいみぞれのなかに飛びだした    (絶望の中、駆け出してきた)
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)    (こだまする)「雨露とってきてちょうだい」
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる      霙は重く、あたる度に私に沈んでくるようだ
ああとし子                ああとし子、お前からは私の後ろの明るい外が見えたのだろう
死ぬといふいまごろになって        死ぬという今でさえ     
わたくしをいっしゃうあかるくするために  きっと私の為にねだってくれたのだろう 
こんなさっぱりした雪のひとわんを     苦しみの中のお前の迷いない目を思い出す 私がしてやれることを与え、
おまへはわたくしにたのんだのだ      また、明るい下に私を出し、心を整える時間をくれたのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ  私がお前の喉を潤し苦しみを和らげる事で、何もできないと憤る私の心を
                     慰めてくれるつもりではないか

わたくしもまっすぐにすすんでいくから   お前のように強くありたい どうかひたむきに生きるから、安心しておいで
   (あめゆじゆとてちてけんじゃ)    (こだまする)「雨露とってきてちょうだい」 (とし子のくれた言葉をかみしめる)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだか   苦しいだろうに私の事を想ってくれたのだ
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの  この世界の全てのものの中から一番きれいな
そらからおちた雪のさいごのひとわんを…… おまえが口にする最後のものをすくっていこう
…ふたきれのみかげせきざいに       (きれいな雪を探す事に集中)
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろなニ相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ (雪を手に入れ、とし子への想いに意識は飛ぶ)
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ      (死ぬとわかってはいても もうすぐそこだと認めたくはない)
   (0ra 0rade Shitori egumo)      (ふいに とし子の言葉が遡ってよみがえる 
                     意味を理解したくない心が言葉として受け取るのを拒否していた為ローマ字)

                     (「私は私でひとりで逝くけれど、後を追ってはきちゃだめよ」と
                     とし子は言ったが賢治は聞きたくなくて途中で言葉を理解するのさえ拒んだ)

                     …あれは自らの死を受け入れた言葉だ とし子は受け入れているのだ
                     聞き入れない私を見て そして私をこの明るい下に連れてきたのだ 
                     お前は何て強い子なのだろう 許してくれないのだ
                     もう 生きるしかないではないか (後追いも諦めた 回想終了)
  
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ   本当にひとりで逝ってしまう(実感 認めた)
あぁあのとざされた病室の         (庭からとし子のいる部屋をぼんやり見ている)  
くらいびゃうぶやかやのなかに       最後というのに閉ざされた中で
やさしくあをじろく燃えてゐる       静かに、命は燃えている
わたくしのけなげないもうとよ       けなげに生きている
この雪はどこをえらばうにも        雪の一番きれいなところをと思ったが
あんまりどこもまっしろなのだ       どこもそこもまっ白で、お前には多すぎる
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ        とし子の尊さにきっと天がこれほどの美しいものを贈ってくれたのだろう
   (うまれでくるたて          「今度は私の事ばかりにならないように丈夫に生まれるから」
   こんどはこたにわりゃのごとばかりで (=お兄ちゃんが優しくしてくれたように、私も人の為に何かしたい)
   くるしまなあよにうまれてくる)    
                     苦しみの中でさえ人の為に何かしたかったと言う尊い子         
おまへがたべるこのふたわんのゆきに    ひとわんを口にし、もうひとわんは死ぬ時にとし子に持たせてやろう
                     そうすれば、あちらでとし子は人にこの雪を分けてやれるだろう?

わたくしはいまこころからいのる      お前への天からの贈り物のような綺麗な雪に願う
どうかこれが兜卒の天の食に変って     死にゆくおまえが口にする最後の食事となるこれが
                     天の食べ物のように美味しいものであって欲しい

やがてはおまへとみんなとに聖い資糧をもたらすことを  そして、あちらでとし子とみんなの喉を潤おすものであるように願ってやまない
わたくしのすべてのさいはいをかけてねがふ お前は”人の為に”雪を分け合う、死んで望みを叶えるのだ
                     私は何もできなかったが この雪が手助けとなるならば、
                     それは正に私のただ一つの幸いである 
                     わたしはそれだけで救われるのだ
                     一生救われるのだ



当時漠然と読みとったものを掘り下げて、今の私が書き出したものです。
(文字にすると伝わり難くて、言葉を足したり修正するとちょっとくどくなりました。)
やっと私の中でこの詩を理解できて、心に落ちてきた。

心を静かに保とうという意識や、朝の静けさ、厳かな物のように雪をすくい、心の嘆きは激しいのと対象に、息をひそめるように願う最後。(思わず私の呼吸も浅くなる。)
妹の望みが叶うのを願うことで、完全に妹の死を受け入れ、ある意味、死を願ってやれる。
賢治は雪に願うが、その結果はわからない。しかし安らかな死を願えるそれは、賢治は既に救われているように思える。

そうならば・・・完ぺき・・・・(私的に)

(とし子は、意図して賢治を救ったなら既に望みを叶えているが、満足のいく行為とまでは思えないだろう。そうでなくとも、”次は人の為に”と口にした子ならば取り乱さず、家族の状況の方をうれいていたと思う。心は穏やかで、安心させる為に笑おうとしていたんじゃないかな)

私の心も救われる~(TT)
それにしても、日本語、奥が深すぎるぞ~

沢山の人に愛される詩だ。様々に解釈されながら、何度も出会える詩。素敵です。

やっと心に落ちた詩

2015-02-19 21:42:36 | あさノンのつぶやき

少し前の事、母と車の中でした会話から。
確か、会話の流れはこんな風だった。

 良い曲はいつになっても良い曲で、ふと口ずさんでしまうよなぁ
 (どっか心に残ってるんかもなあ)
 歌だけじゃなくて、気になる(心に残る)言葉ってあるよなあ
   どんな?
 ん~難しい言葉じゃなくて、「クラムボンはカプカプ笑ったよ」とか
   ?何それ?知らんなあ
 (びっくり。小学校の国語に載ってたとか、泡の精だった気がするだとか、川を流れながらカニが出てきたりといった説明をする。)
 教科書も中身が変わるけんな~ でも他にもいっぱいあるじゃろ?
 ごんぎつねの「おめめがちんちんする」とか「あめゆじゅとてちてけんじゃ」とか。
   何じゃ~知らんよ!
 宮沢賢治知らんのん!?(小学校の分野は仕方ないにしても)雨ニモマケズと同じ位有名じゃろ~
 病気の妹が霙を取ってきてって頼む、ようは忘れたけど、めっちゃ悲しい話。本当に知らん?
   知らん。そんなん習ってないわ~。


といった感じで思い出した私の中にずっと残っていたひっかかるもの。
ネット検索してみたら出てきました。

「永訣の朝」
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)※
うすあかくいっさう陰惨な雲から
みぞれはぴちょぴちょふってくる
   (あめゆじゅどてちてけんじゃ)※
青い尊菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゆとてちてけんじゃ)※
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろなニ相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
   (0ra 0rade Shitori egumo)※
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あぁあのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて
   こんどはこたにわりゃのごとばかりで
   くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜卒の天の食に変って
やがてはおまへとみんなとに聖い資糧をもたらすことを

わたくしのすべてのさいはいをかけてねがふ

註※あめゆきとってきてください
 ※あたしはあたしでひとりいきます
 ※またひとにうまれてくるときは
  こんなにじぶんのことばかりで
  くるしまないやうにうまれてきます

 ※「永訣の朝」には、初版本、宮沢家所蔵本手入れ、藤原嘉藤治氏所蔵本手入れの、少なくとも三つのテキストが存在する。
 初版本は
 どうかこれが天上のアイスクリームになって
 おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに

 である。


さすが。。。改めて読むと、隙のない美しさに感嘆。

(○○の朝ってつくと悲しい話になるのか、私はレナードの朝もトラウマ的になっている。
 朝なのに、明るいのに、終わりが近いという物悲しさ。)


検索したら、北海道大学の方が教材の為の作品研究、としてまとめたPDFがヒットした。
そんなにがっつり勉強するつもりもないのだが、とても分かりやすく纏められていたので、興味深く拝見。
様々な方がこの詩の解釈を考察されたものを列挙してあるので、多角的な捉え方が見えて楽しい。

そうした見方を見ていくと、私の思う捉え方と合致した部分としなかった部分がわかる。
微妙な違いだが、全てを合わせてみると大そうな違いに思える。

私が最初に読んだ時の事を思い出す。
胸がぎゅっと掴まれ、痛んだ。何度か読み返して泣いた。
けれど私の幼さではわからない部分が、疑問があった。
中学か高校の教科書で読んだのだろうが、先生の解説を覚えていない。
夢中になって読んでいたから聞き逃したのか、先生の解説が単に理解できなかったのか腑に落ちなかったのか、忘れてしまった。
疑問は疑問のまま私の心に浮かんだままになった。

今回読み返す事で、やっと心に落ちた。
着地した。
私なりの理解が出来たので、それでいい、という気分だ。
どんな解説を聞こうが、これだけの無駄のない詩であるということは、必要な物は全てつまっていると思う。
読んだ文面からのみの捉え方で(宮沢賢治からしたら)いいのではないか、そう思えるからだ。

ちょっと長くなったので、一旦区切ります。


日曜大工 食卓の表面削り

2015-02-17 20:58:00 | あさノンの とある日常
1年半ほど前の事ですが。
食卓の表面削りをしました。

約30年使っている食卓。何度か表面を削って綺麗にしています。

前回は2年ほど前に父が削ったのですが・・・(本当はもっと長くもつ)
古い塗装があるので紙ヤスリで削るのでは、紙ヤスリを消費するばかりなので、カンナにした。
しかし集成材なので、木目がバラバラで刃の入りが逆手になってしまう部分が出る。
更にそのめくれた穴を埋める為にパテ。パテの色を落ち着かせる為にか、色のついた塗装に。
結果は、不評。

木工所などに持ち込めばいいのでしょうが、大きくて出来ないらしい。

母はもう綺麗にならないものだと諦めていた。
何度か「削れば綺麗になるんじゃない?」と言っても、
父が前回削るのに苦労してイライラとしていた位だから良い事にならんよ、と言われて
時間が過ぎていた。

父もヘッと言って「何もわかってない」とのアピールで取り合わない。

塗装で表面がべたつき出して、我慢の限界!
「失敗してもいいよね?!」と無理矢理始めました。

【始める前】色の濃い真ん中が元のもの。上部下部は削り始めている。
端のグレーが塗装色が濃く残っていた所。
前回のカンナが失敗して木肌がめくれてしまっている部分が見て取れる。


集成材にカンナかけるの初めてだったので、私も最初は失敗してめくれさせてしまった。
カンナの刃の出を本当に僅かにして、かつ、カンナの刃を研いで少しずつ少しずつ丁寧に削る。

【カンナ終了】およそ削ったが、前回のめくれ溝の底までは到達していない。
その部分の塗装のグレーが取れない。机の面積が多く大変でここまでで断念。


【足部分】磨く前。

磨いた後。錆はまだ残っているが、手が限界です。


【ヤスリ完了】カンナのままの方がうまく削れている所はツルツルしていたが、めくれ部分をなだめる為に。
長時間サンダーを握っていると、手が痺れる。


【塗装前】このままのほうが好み。
ヤスリの後に、タオルで力を入れて擦った。気持ちの問題かもしれない。艶が出る気がして。

【塗装後・完成】汚れや水気をはじく為には塗装がやっぱり必要。浸透性のあるクリア塗装。
乾燥させる為に2日程放置する。


我ながら良く出来た!!
実は私、父よりも上手い気がする!!


やる前に「上手ぅいくもんか。」と言われ、ムカっとした。
今回のブログは気持ちが甦ってトゲトゲしい言葉となってしまった。すみません。

ソファカバーを新しくした

2015-02-13 20:10:29 | あさノンの とある日常


少し前にソファカバーを新しくした。
生地を買ってきて、適当に縫い合わせる。

ソファという大きなものが綺麗になると、急に部屋自体が綺麗になった気がする。
部屋が元気になったというか。

そして、急に後ろのカーテンの色が薄くなってきている事に気付いて、
見ていないふりをする。

なぜなら、窓が多すぎて、大きすぎて、一蓮托生がチックショウ!(笑)


だから見ていないふり。
そんなものです。(^^;)えへ。


大掃除の障子の張り替えも5枚でギブアップ。6枚は忘れたふりを・・・。

メーターモジュールの家はサイズ合わない事も多くて大変!って事も、
お施主さんに説明するのすっごく大事だと、改めて思う年末でしたよ。


日曜大工 木の扉

2015-02-11 18:19:36 | あさノンの とある日常


工事で出た使えない端材を近所の人が欲しいとの事で、貰われていっている。
暖炉で燃やすとか、外部のちょっとした事に使うらしい。
そんなこんなで、随分処分できた。

母はそんな様子を見て、私に呟いてきた。

私の家の西南にある物干しデッキ。
近所の家の猫が来て、日向ぼっこや、デッキ下をトイレにしているらしい。
匂いもするし掃除するのも大変!と怒っている。
(以前、車の上にいたのを追い払ったら、爪で傷を付けて逃げられたのも、
 きっと尾を引いている。飼い主よ、何とかならないものか。)



「うちこそ、木を使って作ればええのにな~。
 お父さんは(面倒がって)やってくれんし。」

私に訴えられても・・・と思いつつ、”てけとう”な物でいいなら、作れる気がしないでもない。

サイズを計って、労力の少なそうな木を見繕う。(沢山あってサイズの揃っているもの)
あとは勢いだ。

電動のこぎりを探すが、現役は現場か倉庫か父トラックに乗っているみたいだ。
家にある道具は、普段使われていないもの。
かんな一つを引っ張りだすも、使えないものと成果てている可能性が高そうで
「面倒」という言葉が頭を過る。

やる気の勢いが削がれると、完成は3倍大変になる・・・と私は思う。

だから、道具としての質は良くないのかもしれないが、中学生の時の技術道具鞄を持ち出す。
ある程度のものが揃っているから、とても便利。これ程活用している人も珍しいかもしれない。

何時間ものこぎりを引いて筋肉痛になり、ちょう番のビスのかたさにドライバーが壊れたりしながら
西側と東側の木の扉とデッキ下部の空間を閉じる作業におよそ4日で完成。

一度は釘で作って、強風で作成途中の扉が飛んで、バラバラの板に戻った。母と笑った。
ビスで作り直す。

裏は張りぼてだが、雨がかりするからクリア塗装した。
こうしてみると、合板でも中々綺麗に見えるでしょ?

雨がかりする所に合板(薄い木を貼り合わせて作られたもの)ではどれだけ持つかわかりません。
耐水の塗装に、全てを託~す♪









じゃれる!?

2015-02-11 17:26:17 | あさノンの とある日常


毎回のご挨拶となりつつある。「更新がのろくてすみません。」

さて、何を書こう。
日常が些細過ぎて、PCにある保存画像から記憶の呼び覚ましで始まる。

そうそう、紹介したい写真があった☆

昨年の11月に紅葉を見る&BBQで友人達と小豆島に行った。

後日、母にも紅葉をと思って誘うと、なんと手近に「深山公園」をご所望になり。

結局、深山公園は少ししか紅葉しておらず、単なる気晴らし散歩になるも、
たい焼きとコーヒーにニッコニコだったので簡単・・・いやいや、”幸せな人”だ。

深山公園には池なのか?湖なのか?があり、数種類のカモやらが蒔かれる
パンくずに群がっていた。
よく慣れていて、しゃがんでも逃げようともしないで触れそう。

鳴き声も数百羽となるとけっこうな声量だなあと気圧される。

のほほんとした空気を眺めて、帰りしなにとても心惹かれる注意看板を発見!!

「おねがい 白鳥がじゃれてきますので、ちゅういしてください。」

じゃれてくるの!?

どんだけ市民に可愛がられたんだか、餌に感激したんだか、人懐っこいのか・・・

危険だからと注意書きされる程に毎回じゃれるのか~
どんなじゃれ方するんだ~

ちょっとじゃれられたい。

・・・かなり、じゃれられたい♪

見つけられなかったが、車に乗って離れる途中で池の端の植え込みに
人が群がっていたから、白鳥が居たのかも?

この看板を作った人の気持ちをインタビューしてみたい。
苦笑だったかもしれないが、皆を笑顔にしたんじゃないかな。

白鳥にも、”憎めない奴”って存在がありましたよ(^^)


ついでに、小豆島の紅葉の写真。