「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

「高知ファンクラブ」に投稿された、続きもの・連載記事を集めているブログです。

羽迫博己さんの、土佐人の銅像17・・・山内容堂その1

2011-02-12 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像17・・・山内容堂その1

山内容堂

本名豊信(とよしげ)、隠居後容堂と号した。
 文政10年(1827)分家の長男として生れた。
 嘉永元年(1848)、22歳で宗家を継いで
   15代藩主となった。
 嘉永6年ペリー来航後、幕府の要請に対して「外交意見書」
   を提出、師と仰ぐ吉田東洋を抜擢して
    藩政改革を推進した。
 その後に起こった将軍後継問題では、福井の松平春嶽、
   薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城の三藩主と共に、
    一橋慶喜を推して存在を示した。
 また、条約勅許問題にも関与して、時の大老井伊直弼と
   対立したため、安政6年(1659)には、いわゆる
    「安政の大獄」で隠居、謹慎の身となった。
 「桜田門外の変」のあとの幕政改革を受けて、文久2年
   (1862)4月謹慎を解かれると、再び国政に関与し、
    公武合体策を堅持して時局の収拾を図った。
 翌3年の8・18政変後は土佐勤皇党弾圧に踏み切り、
   武市半平太らを断罪したが、慶応2年(1866)の第二次
   長州征伐の大敗後の長州処理と、兵庫開港問題を
   めぐる四候会議の解体以後、幕府の限界を見抜き、
   坂本龍馬の「船中八策」を基本とする後藤象二郎の
    意見を容れて大政奉還を建白した。
 維新後は中央政界を去り、「鯨海酔公」と称して酒と詩文
    (700首を残す)に明け暮れる豪遊の生活に浸った。
 明治5年(1872)6月21日没。墓は品川区太井にある。
           昭和19年、供出された。

     除 幕: 大正15年(1926)11月7日
     規 模: 本体~3,94 ㍍  台座~4,55 ㍍

     総高~8,49 ㍍
                     事業費: 39,315円

 

羽迫さんの世界

土佐の銅像と 津江美和さんの写真

四万十川流域のひなまつり・・・羽迫博己さんの世界 

投稿数の多い、投稿者一覧

情報がてんこもり  「高知ファンクラブ」パート2    記事一覧はこちらから



最新の画像もっと見る

コメントを投稿