羽迫博己さんの、土佐人の銅像17・・・山内容堂その1
山内容堂
本名豊信(とよしげ)、隠居後容堂と号した。
文政10年(1827)分家の長男として生れた。
嘉永元年(1848)、22歳で宗家を継いで
15代藩主となった。
嘉永6年ペリー来航後、幕府の要請に対して「外交意見書」
を提出、師と仰ぐ吉田東洋を抜擢して
藩政改革を推進した。
その後に起こった将軍後継問題では、福井の松平春嶽、
薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城の三藩主と共に、
一橋慶喜を推して存在を示した。
また、条約勅許問題にも関与して、時の大老井伊直弼と
対立したため、安政6年(1659)には、いわゆる
「安政の大獄」で隠居、謹慎の身となった。
「桜田門外の変」のあとの幕政改革を受けて、文久2年
(1862)4月謹慎を解かれると、再び国政に関与し、
公武合体策を堅持して時局の収拾を図った。
翌3年の8・18政変後は土佐勤皇党弾圧に踏み切り、
武市半平太らを断罪したが、慶応2年(1866)の第二次
長州征伐の大敗後の長州処理と、兵庫開港問題を
めぐる四候会議の解体以後、幕府の限界を見抜き、
坂本龍馬の「船中八策」を基本とする後藤象二郎の
意見を容れて大政奉還を建白した。
維新後は中央政界を去り、「鯨海酔公」と称して酒と詩文
(700首を残す)に明け暮れる豪遊の生活に浸った。
明治5年(1872)6月21日没。墓は品川区太井にある。
昭和19年、供出された。
除 幕: 大正15年(1926)11月7日
規 模: 本体~3,94 ㍍ 台座~4,55 ㍍
総高~8,49 ㍍
事業費: 39,315円
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