沢村昭洋さんの沖縄通信・・・高知人が作った「平城山」を聴く
「ギター伴奏によるテナーの調べ」と題するコンサートが、那覇市の沖縄都ホテルの「虹のチャペル」で開かれ、聴きに行った。毎月、首里にある小さなホールのコンサートで顔なじみの糸数剛さんと奥さんの秀子さんが出演するからだった。
糸数さんは、もとは高校教師だが、声楽を学んだテナー歌手。同時にギターも練習し、自分でギター伴奏をしながら歌えるという珍しい歌手である。
拍手に迎えられて入ってきた。「宵待草」をはじめ11曲を歌ったが、その中に高知出身の2人が作詞、作曲した「平城山(ナラヤマ)」があった。
歌ったのは、妻の秀子さん。楽曲紹介で「平城山は高知県出身の二人の作詞、作曲による曲です」とあった。高知県出身の私も、学生時代に聞いたけれど、もう忘れたのか、初耳だった。
歌詞を紹介する。訳は自己流である。
1、人恋ふは 悲しきものと 平城山に もとほり来つつ たえがたかりき
(人を恋するのは哀しいもの 平城山に めぐってきたが 耐えがたいことだ)
2、古へも 夫(ツマ)に恋ひつつ 越へしとふ 平城山の路に 涙おとしめ
(古い時代にも 夫を恋して 越えてきたという 平城山の路に いま涙を落している)
歌詞は、宿毛市に生まれた北見志保子(1885-1955年)が大正9年(1920)に詠んだ短歌である。奈良県の平城山の丘陵にある磐之姫陵(イワノヒメリョウ)の周辺をさまよったさいに詠んだ連作の一つ。歌には、この当時の彼女の思いが込められている。
志保子は歌人の橋田東声と結婚したが、弟子で12歳年下の浜忠次郎と恋に落ちた。いわば不倫の恋。志保子と浜を引き離すため、親族が浜をフランスに留学させたという。しかし、その後、彼女は夫と離婚し、浜への愛をつらぬき再婚したとのこと。
磐之媛というのは、仁徳天皇の皇后だった。それが、紀州に旅に出ている間に、仁徳天皇は八田姫を迎えたので怒って筒城宮に帰ってしまった、という。
そんな磐之媛の夫への思いと哀しみに、自分を重ねて詠んだのだろう。
作曲は、平井康三郎(1910-2002年)。伊野町生れである。東京音楽学校バイオリン科に学び、作曲や合唱指導者として活動した。名曲「平城山」のほかに「スキー」「ゆりかご」「お江戸日本橋」など多くの童謡も作曲していることで知られる。
(注・ネットの「二木紘三のうた物語」など参考にさせていただいた)。
「平城山」はもう何回となく聞いたけれど、こんなに生々しい恋心が込められた歌謡だとは思わなかった。秀子さんがソプラノで美しく歌い上げた。
糸数さんは、息子さんのお嫁さんが高知県出身だとか。高知にも行ったことがある、と高知との縁を話していた。糸数さんは、「平城山」を歌うにあたって、高知出身の22人によって、作られたことを知り、コンサートでもわざわざ丁寧に紹介した。高知への思いが感じられた。
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