読んでいるときは「おもしろいなあ」と思ったし、読後も「ああおもしろかった」と思ったのに、読後10日以上経っていざその感想文を書こうとしたら結局どこがおもしろかったのかまったく掴めなくなってしまった。
つまりこの本は、実に対談らしい対談であったわけで、読み終わって茫漠とした印象を読者に残してしまう。話があちこちし、途中で吉本隆明なんか言うことがだんだん変わってきたりするし、大塚英志に何か言われるとすぐ「ああそうか、その解釈でいきましょう」なんて納得してしまう。ただ、そのボケかたがけっこうツボに嵌るというか、わたしにはたいそう興味深かった。
特に第1章「エヴァンゲリオン・アンバウンド」。
正直言うと、わたしはエヴァのおもしろさがいまいちよく分からなかったのだ。世代の違いだろうか、わたしにはエヴァより「ガンダム」のほうがずっと名作だと思える。エヴァは謎の多い作品で、何がいいたいのか、若者たちはこの作品のどこに惹かれたのか、さっぱり理解できなかった。
なので、この対談を読んでそのあたりの事情がきれいさっぱりよくわかったので、とても嬉しい。その功績は大塚にある。さすがはサブカルおたくの大塚英志、エヴァとガンダムを比較して、後者には素朴な反戦思想があるが前者にはそれがない、という分析から始まって、大要「戦争をやって葛藤したり傷つくそのさまが、社会化されていないし、敵が何なのか誰なのか最後までさっぱりわからなくて、主人公はひたすら内向的に自滅していく」という結論へと導いていくあたりはとてもおもしろい。とはいえ、そのおもしろさは「分析の鋭さ」とか「目新しさ」にあるのではなく、「うんうん、わたしもそう思ってたよ」という再確認安心理論にある。
大塚英志は、連続幼女殺害犯(といわれる)Mの事件にも弁護側の一人としてかかわっているので、Mのケースを引用してエヴァの母性回帰を語るあたりは、なるほどなと思わせる。
第2章「精神的エイズの世紀」でも第1章に引き続きエヴァやM事件が語られ、オウム真理教事件が語られる。ここでのキーワードは「消費と欲望」。
Mの名言「自分が欲しいか欲しくないかの基準は、流行ってるか流行ってないかだけ」を引いて大塚はこういう。
「欲望がすぽーんと抜けてて、にもかかわらず消費という振る舞いだけは残っている」。
いまや、欲しいものもないような物質的には充足した時代にあって、もう若い世代では欲望の所在が壊れているのではないかと大塚は指摘する。援助交際する少女たちも、「あれが買いたい、これがほしいから」というけれど、本当はそんなところに欲望はないのではないかと。欲望と消費をめぐるシステムの問題は、いまや高度成長期と同じ分析では役立たないだろうという指摘にはなるほどと首肯。
本書に収録された対談は4回に分けて行われ、それぞれが一章ずつの章立てになっているのだが、中身はそれぞれ前章の内容とかぶっている。第2章で江藤淳のサブカルチャー批判に言及すると、3章「天皇制の現在と江藤淳の死」ではそれが大きなテーマとなり、サブカルチャーと純文学の垣根がなくなりつつある現在に対する江藤淳のいらだちというものが語られる。
「大きな物語」が脱構築されてポストモダン言説が流行りだすと、それは一般には戦後民主主義的左翼陣営の敗北のように捕えられがちだが、実は江藤淳のようなマッチョな保守男にも脱力点だったんだとよくわかる。江藤が結局のところ本名の江頭淳夫自身にも戻れず、常に仮構の世界を生きざるを得なかったというくだり、彼が自殺という方法を選んだことなど、「近代主義者の死」として語られると、すとんと腑に落ちる。
こういうのを読むと、江藤淳ってかわいそうな男の人だったんだねって思う。マッチョな男としてしか生きられず、そのマッチョな部分をつきつめていけない時代になれば、彼の焦りやいらだちや絶望がいやます。江藤淳に対するわたしの評価も少し変わった(上昇)し、遅まきながら江藤をマジに読んでみようかという気にもなった。
4章「オウムと格闘技と糖尿」では吉本の糖尿病生活がおもしろおかしく語られる。吉本がちっとも真面目に闘病していないのがいい。やはりこの章でも引き続き江藤淳が語られるし、これまでの対談を踏まえていろんな話題へと飛んでいく。
本書全体としては吉本がよくしゃべり、吉本のしゃべりを大塚が引き出していくという構成になっているのだが、その吉本のしゃべりがいまいちわかりにくい。なぜもっと大塚なり司会者なりが突っ込まないのかといらいらさせられる場面もしばしばある。楽屋落ちのような話題のときは事情を知らない読者にもわかるようにフォローすべきだ。あとは、テープ起こしの編集の問題だろうが、話し言葉ゆえに意味が通じにくいところも多く、校正の段階でもっと手を入れればよいものをと思わずにはいられない。
ただし、大塚はあとがきで、ほんとうはもっと繰り返し同じことを延々としゃべっていたのを、かなり削ったと書いているから、手を入れたことは入れたんだろう。そういう意味で、確かにぼけ老人二人の対談のようにも感じられる。吉本は自身の思想の変遷について語るのだが、大塚がそこをもっと突っ込めばよりいっそうおもしろかったのにと思わずにはいられない。
吉本に「知の三バカ」呼ばわりされている柄谷行人・浅田彰・蓮実重彦はこの本をどう読んでいるのだろう、と笑いながら思った。
つまりこの本は、実に対談らしい対談であったわけで、読み終わって茫漠とした印象を読者に残してしまう。話があちこちし、途中で吉本隆明なんか言うことがだんだん変わってきたりするし、大塚英志に何か言われるとすぐ「ああそうか、その解釈でいきましょう」なんて納得してしまう。ただ、そのボケかたがけっこうツボに嵌るというか、わたしにはたいそう興味深かった。
特に第1章「エヴァンゲリオン・アンバウンド」。
正直言うと、わたしはエヴァのおもしろさがいまいちよく分からなかったのだ。世代の違いだろうか、わたしにはエヴァより「ガンダム」のほうがずっと名作だと思える。エヴァは謎の多い作品で、何がいいたいのか、若者たちはこの作品のどこに惹かれたのか、さっぱり理解できなかった。
なので、この対談を読んでそのあたりの事情がきれいさっぱりよくわかったので、とても嬉しい。その功績は大塚にある。さすがはサブカルおたくの大塚英志、エヴァとガンダムを比較して、後者には素朴な反戦思想があるが前者にはそれがない、という分析から始まって、大要「戦争をやって葛藤したり傷つくそのさまが、社会化されていないし、敵が何なのか誰なのか最後までさっぱりわからなくて、主人公はひたすら内向的に自滅していく」という結論へと導いていくあたりはとてもおもしろい。とはいえ、そのおもしろさは「分析の鋭さ」とか「目新しさ」にあるのではなく、「うんうん、わたしもそう思ってたよ」という再確認安心理論にある。
大塚英志は、連続幼女殺害犯(といわれる)Mの事件にも弁護側の一人としてかかわっているので、Mのケースを引用してエヴァの母性回帰を語るあたりは、なるほどなと思わせる。
第2章「精神的エイズの世紀」でも第1章に引き続きエヴァやM事件が語られ、オウム真理教事件が語られる。ここでのキーワードは「消費と欲望」。
Mの名言「自分が欲しいか欲しくないかの基準は、流行ってるか流行ってないかだけ」を引いて大塚はこういう。
「欲望がすぽーんと抜けてて、にもかかわらず消費という振る舞いだけは残っている」。
いまや、欲しいものもないような物質的には充足した時代にあって、もう若い世代では欲望の所在が壊れているのではないかと大塚は指摘する。援助交際する少女たちも、「あれが買いたい、これがほしいから」というけれど、本当はそんなところに欲望はないのではないかと。欲望と消費をめぐるシステムの問題は、いまや高度成長期と同じ分析では役立たないだろうという指摘にはなるほどと首肯。
本書に収録された対談は4回に分けて行われ、それぞれが一章ずつの章立てになっているのだが、中身はそれぞれ前章の内容とかぶっている。第2章で江藤淳のサブカルチャー批判に言及すると、3章「天皇制の現在と江藤淳の死」ではそれが大きなテーマとなり、サブカルチャーと純文学の垣根がなくなりつつある現在に対する江藤淳のいらだちというものが語られる。
「大きな物語」が脱構築されてポストモダン言説が流行りだすと、それは一般には戦後民主主義的左翼陣営の敗北のように捕えられがちだが、実は江藤淳のようなマッチョな保守男にも脱力点だったんだとよくわかる。江藤が結局のところ本名の江頭淳夫自身にも戻れず、常に仮構の世界を生きざるを得なかったというくだり、彼が自殺という方法を選んだことなど、「近代主義者の死」として語られると、すとんと腑に落ちる。
こういうのを読むと、江藤淳ってかわいそうな男の人だったんだねって思う。マッチョな男としてしか生きられず、そのマッチョな部分をつきつめていけない時代になれば、彼の焦りやいらだちや絶望がいやます。江藤淳に対するわたしの評価も少し変わった(上昇)し、遅まきながら江藤をマジに読んでみようかという気にもなった。
4章「オウムと格闘技と糖尿」では吉本の糖尿病生活がおもしろおかしく語られる。吉本がちっとも真面目に闘病していないのがいい。やはりこの章でも引き続き江藤淳が語られるし、これまでの対談を踏まえていろんな話題へと飛んでいく。
本書全体としては吉本がよくしゃべり、吉本のしゃべりを大塚が引き出していくという構成になっているのだが、その吉本のしゃべりがいまいちわかりにくい。なぜもっと大塚なり司会者なりが突っ込まないのかといらいらさせられる場面もしばしばある。楽屋落ちのような話題のときは事情を知らない読者にもわかるようにフォローすべきだ。あとは、テープ起こしの編集の問題だろうが、話し言葉ゆえに意味が通じにくいところも多く、校正の段階でもっと手を入れればよいものをと思わずにはいられない。
ただし、大塚はあとがきで、ほんとうはもっと繰り返し同じことを延々としゃべっていたのを、かなり削ったと書いているから、手を入れたことは入れたんだろう。そういう意味で、確かにぼけ老人二人の対談のようにも感じられる。吉本は自身の思想の変遷について語るのだが、大塚がそこをもっと突っ込めばよりいっそうおもしろかったのにと思わずにはいられない。
吉本に「知の三バカ」呼ばわりされている柄谷行人・浅田彰・蓮実重彦はこの本をどう読んでいるのだろう、と笑いながら思った。