ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

オリヲン座からの招待状

2007年11月14日 | 映画レビュー
 今年いちばん泣いた映画。

 これを見ると「無法松の一生」が見たくなる!

 京都の下町の小さな映画館を支えてきた男女の物語。それはもう限りなく「ニュー・シネマ・パラダイス」。映画ファンのための映画なのだ。名作「ニュー・シネマ・パラダイス」も映画ファンの紅涙を絞ったが、こちらもやはり女性ファンたちの号泣を誘った映画。わたしは後半泣きっぱなしで、仕舞いにはしゃくり上げそうになるのをこらえるのに必死。後でトイレの鏡でうさぎ目になった自分の顔を見て絶句したけど、劇場からしゃくり上げながら出てくる若い女の子たちを見てちょっと一安心した。「よかった、わたしだけじゃない」

 いえね、そんなに素晴らしい映画だったかって? 実を言うと、辻褄のあわないところとか説明不足のところとかたくさんあるのです。でもそんなの関係ねぇ! 理性的な批判や疑問をふっとばすような、映画への愛情がこの映画には溢れている。

 原作は未読なので、どこがどう違うかはわからない。劇場用パンフレットによれば、かなり恋愛映画の色彩を濃くしてあるそうだが、それがやはり女性ファンの心をつかんだようだ。

 物語は、2007年の現在、57年間続いた小さな映画館を閉めるからぜひご来臨あれという招待状が中年夫婦のもとに届くところから始まる。今はふるさと京都を遠く離れて離婚寸前の一組の夫婦が、かつて幼い頃、二人の憩いの場であった映画館「オリヲン座」の想い出を何十年ぶりか振り返るという物語。映画は、オリヲン座の館主である留吉(原田芳雄)の回想と、招待状を受け取った良枝(樋口可南子)の回想の形をとる。

 昭和32年、オリヲン座のもとへ17歳の留吉(加瀬亮)が流れ着いた。京都の路地の突き当たりにあるその映画館は、映写技師の松蔵(宇崎竜童)とその年若い妻トヨ(宮沢りえ)の二人が切り盛りする小さな映画館だった。松蔵に頭を下げて雇ってもらうことになった留吉は、つらい徒弟奉公仕事もこなせるようになり、やっと映写機にも触らせてもらえるようになった矢先、「おやっさん」と慕った松蔵に死なれてしまう。遺されたトヨと留吉は、オリヲン座を守ることを決意するが、「未亡人と出来た」と噂する町の人々の中傷やら折しもテレビ時代が始まって観客は激減の一途をたどる…


 映画ファンとしては、映画館に人が来ないのはほんとうに寂しい。だんだん観客が減るオリヲン座を見ていると切なさが募るが、とうとう一人の観客も来ない日が来ると、それだけで泣けてしまう。そして、誰もいない観客席でトヨと留吉が語り合うシーンでは、堪えきれずに涙が溢れた。二人は、極貧の中を耐えて耐えて映画館を維持していく。夫亡き後、自分より遙かに年下の留吉に慕われてトヨは二人で映画館を守っていくのだ。だが、周囲の中傷をはねつけるように、留吉はじっと想いを秘めたまま、耐え続ける。ある夜、留吉は、川辺で捕まえた螢を両手の平に包んで家に戻り、蚊帳の中で眠れずにぼうっとしているトヨに届ける。その場面の美しいこと。今思い出しても涙が出てくるほどだ。蚊帳の中を飛ぶ2匹の螢はまるで留吉とトヨのようだ。恥じらうように微かに光をともしながら飛ぶ螢、それは互いを求めながら一緒になれないもどかしさを抱えていく二人の愛の姿なのだ。

 やがてオリヲン座には常連客ができる。それが幼い良枝とユウジだ。家庭がすさんでいる子どもたちは、オリヲン座で映画を見ることを何よりの楽しみにし、留吉とトヨをほんとうの両親のように慕う。


 時は流れ流れて、21世紀となった。今日はオリヲン座閉館の日。トヨは瀕死の重態で病院で寝たきりである。留吉は一人、館主として観客の前に立ち、挨拶を述べることになるのか…


 オリヲン座は昭和30年代の時点で既に死に体だ。いったいそれから何十年もの年月をどうやってしのいできたのだろう? 幼い頃に別れたきりの良枝とユウジのことを留吉はどうやって知ったのだろう? と、数々の疑問がわく。実際、オリヲン座をどうやって支えてきたのかを描いていないために、ラストの説得力に欠けるのだ。

 結局のところ、留吉とトヨが最後までプラトニックな関係だったのかどうかは、映画では釈然としない。二人の純愛に涙した観客は、自分の望むままに二人の関係を想像するだろう。映画は、そのように観客の好みによって最後の仕上げを幾通りにも用意してくれる。ただ、間違いなく、映画を愛し映画館を愛し支え続けた人がいたこと、そして、そこに集う映画ファンがいたこと。映画への愛をいくつも運んでこの映画はそのことを教えてくれる。留吉が同じように古い映画をかけ続け、トヨが何年もアンパンとピーナツを売り続けたように、この映画館では時が止まっていた。何年も何年も二人はひたすら同じ日々を繰り返したに違いない。そして、止まった時の流れのなかで、この映画館を愛し守りぬいた館主たちは、古びた映画館の階段の手すりを錆びさせることなくいつも磨いていたのだろう。市井の人々の日常とはかくも同じことの繰り返しに耐えることによって築かれるのだ。

 原田芳雄と加瀬亮の演技は特筆すべき素晴らしさだ。新旧の役者が本作を素晴らしい作品に仕上げてくれた。いくら瑕疵があっても気にならない、映画ファンのための映画がまた一つ生まれた。望みうるならば、描かれなかった数十年の物語を加えてさらに長尺のディレクターズカット版を作ってほしい。


 劇場用パンフレットの監督インタビューを読むと、この映画の中で上映される作品のなかでも特に「無法松の一生」が大きな意味を持つことが解る。未亡人への想いを描いた「無法松の一生」に託した留吉の想いの切なさに再び思い至る。軍部の検閲によってずたずたにされたという戦中の「無法松の一生」をぜひ完全な形で見てみたいものだ。

 なお、映画観賞後に原作を読んだ。原作については別エントリーで。

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オリヲン座からの招待状
オリオン座からの招待状

日本、2007年、上映時間 116分
監督: 三枝健起、プロデューサー: 佐々木亜希子、原作: 浅田次郎、脚本: いながききよたか、音楽: 村松崇継
出演: 宮沢りえ、加瀬亮、宇崎竜童、田口トモロヲ、中原ひとみ、樋口可南子、原田芳雄

「二十四時間の情事」をカルースはいかに分析したか

2007年11月14日 | 読書
 『トラウマ・歴史・物語』の第2章「文学と記憶の上演」はディラスの脚本によるアラン・レネ監督の映画「ヒロシマ私の恋人」(「二十四時間の情事」)についての分析だ。

 ここからいくつか引用を。主演の岡田英次はフランス語をまったく理解しないという。彼は完璧に音だけでフランス語の科白を覚えた。しかも、撮影のときに同時録音した音が雑音のため使えなくなり、音をそっくりアフレコする必要が生まれたのだという。岡田はこの難業もやってのけた。彼は自分にとって意味不明のフランス語をもう一度最初から流暢にしゃべり直したのだ。


[岡田英次は]自分がしゃべるテクストのセリフを暗記したのではなく、彼にとっては文法的には何の意味もなさない音声としてそのセリフを覚えて暗唱した。まったく驚くべきことである。オカダは、映画の中に差異を導入したが、それは、彼が自分の役を通して演じたわけではなかった。つまり、この物語にとって、フランス語を話す日本人男性は、物まねとか鏡像とかの関係の中で、その役を演じた俳優を表象しているのではないからである。映画の中の日本人男性は、母国語を一時外国語に置き換えるためにその外国語を学んだが、一方、その日本人男性を演じた俳優は、音として覚えた言語の音声を声に出したのである。音声を声として発話すると、彼自身の存在が空になってしまうかというと、実はその反対である。流暢にフランス語をしゃべる物語の中の人物は、指示対象となる日本人像を一部喪失したが、音声を出すことで、オカダと役柄の人物とは、はっきり区別されたのである。オカダが音声を丸暗記したと言うことを、喪失や忘却として解釈するべきではない。つまりオカダは自己内の差異を表象したというより、言葉としてその差異を声に出して演じたのであり、それは翻訳不可能なものである。あの役のために彼がしたことは、自分の声の代替不可能性という具体性を演じたことである。こうしてオカダは自分の話している言語の意味を所有したり、支配したりするのではなく、その声の再を比類なきかたちで伝達する話し方を映画に導入した。そして、このことこそが、『ヒロシマ私の恋人』という映画が語ろうとする、人類の深淵にひそむ哲学であり真実でもあるものとつながっている。(p73-74)


 トラウマ的悲劇は理解し合えない。女が「ヒロシマを見た」と言う。男は「君は何も見なかった」と答える。二人は理解し合えないのではないか。しかし、映画はその「理解できない」ところから、互いへと「聞き合う」道を拓いているように思う。カルースも述べている。


 フランス人女性と日本人男性の対話の中で鳴り響いていたもの、そして、文化や体験の間にある溝を越えて二人を通じ合わせていたもの、それは、二人が直接には理解しあえないという認識から来たものである。映画全体を通じて二人を結びつけることを可能とした者は、いまだ完全にはつかみとられていない体験、いまだ語りつくされていない

物語の、謎に満ちた言語である。相手のことについて知っているというだけでは、二人が情熱的な出会いの中で語り合い、聞き取りあうことはなかったであろう。自分たちのトラウマ的過去について十分に知らないという基盤に立つとき、二人は語り合い、聴き取りあうことができたのだ。(p81)



 ※映画「二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)」の感想は一つ前のエントリーを参照してください。



<書誌情報>

トラウマ・歴史・物語 : 持ち主なき出来事 / キャシー・カルース [著] ; 下河辺美知子訳. みすず書房, 2005


二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)

2007年11月14日 | 映画レビュー
 再チャレンジでやっとこさ全部見た。これ、要するに記憶について語っているのね。被害の記憶、過去の傷についての記憶。しかし、映画として成功しているとは思えないのだけれど…。

 モノクロの画面が過去と現在とを往還し、現在の場面ではアップを多用して登場人物の心理を剔抉することにカメラ=観客の意識は凝縮される。過去は遠い夢の世界のように描かれ、ドイツ兵を愛した若きフランス女性の悲しみが淡々と語られていく。フランス人女優と日本人建築家が24時間だけのゆきずりの情事に耽り、ただひたすらフランス語で会話するだけの映画。会話と言っても語るのはフランス人で、日本人は聞き手に徹する。舞台はヒロシマ。戦争の傷跡をともに引きずる人と街。夜の広島は眠らない。女も眠らない男も眠れない。
 

 岡田英次のバタ臭さに驚いた。甘いハンサムでフランス語をしゃべる日本人男性というのは日本人から見ればとてもキザだ。女優も美しいし、美しい二人の顔が何度もアップになるので、それを見ている分には苦にならないのだが…。

 映画の構成も演出も前衛的で、夜の場面ばかりが映るカメラは凝っているのだけれど、わたしはこういう映画を見るとむしろ原作を読みたくなる。映画の題材には向いていないような気がするのだ。原作を読んで続きを書こう。

 というわけで、原作(というより、脚本および膨大な脚注の束)『ヒロシマ私の恋人』を読了。なるほど、これを読めば映画のことがよくわかる。バタ臭い俳優を起用したのはそのようにちゃんと脚本に注文があるからだし、女性が台詞棒読みのようなしゃべり方をするのも脚本の通り。映画はかなりデュラスの脚本に忠実に作ってあることがわかる。この脚本であの映画だから、逆にすごい作品だということもわかる。描ききれない部分は確かにあって、それは映画では無理なのだろう。その代わり映画では夜の街をさまよう二人が亡霊のように描かれて、ともに固有名詞をもたない男と女の一夜の情事が寓話性を強める。二人は固有名詞の代わりに最後に「ヌヴェール」と「ヒロシマ」という町の名前で呼ばれる。この二つの町の惨禍は人間から固有名を奪うのだろうか。デュラスはそれを肯定したのだろうか。

 次のエントリーでこの原作について分析したカルースの本について触れる。
http://blog.goo.ne.jp/ginyucinema/s/%C6%F3%BD%BD%BB%CD%BB%FE%B4%D6%A4%CE
(レンタルDVD)

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二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)
HIROSHIMA, MON AMOUR
フランス/日本、1959年、上映時間 91分
監督: アラン・レネ、製作: サミー・アルフォン、永田雅一、原作・脚本: マルグリット・デュラス、音楽: ジョヴァンニ・フスコ、ジョルジュ・ドルリュー
出演: エマニュエル・リヴァ、岡田英次、ベルナール・フレッソン、アナトール・ドーマン

アイス・エイジ2

2007年11月14日 | 映画レビュー
 画像がものすごく細かい。画素数がぐんと上がった感じがする。動物たちの毛の一本一本までしっかり見えて、しかも臨場感があるのだ。しかし内容は既にもう忘れている(◎o◎)。そもそも前作もあまり覚えていないのだが、それでもまだ印象が残っているだけましかも。本作のほうはストーリーはおろか登場「人物」のこともほとんど記憶にない。それでも何とか記憶をまさぐると…。

 氷河期が終わろうとしている。氷壁が解けてまもなく大洪水がやってくるという恐怖にかられた動物たちは、安全な土地を求めて大移動を始める。その途中で様々な困難に襲われるが…。というお話。

 キャラクターがなかなか楽しい。絵の動きもよく、そういう点では楽しめる。ただ、絶滅種だといじめられるマンモスがお話の中心になっている点が納得できない。マンモスが絶滅したことは観客は皆知っているのだ。映画の中でどんなにハッピーエンドであろうとも、彼らの行く末には絶滅しかない。だから姑息な結末とも言えるわけだが、逆に、絶滅すべき運命だからこそ、いかに生きるかというテーマが込められているという深読みもできる。人類だっていずれ絶滅するだろう。個々の人間も死は免れない。それでもわたしたちは日々生きて笑ったり泣いたりしているではないか。どうせ滅びの運命にあるなら、滅びを自覚し死を見つめて生きるべきではなかろうか。という主題を読み取るべきかも。しかしこの映画からそういう哲学的香りは漂ってこないね、残念ながら。

 アニメ好きには楽しい場面がたくさんあるので、まあ、見てよしかと。「1」のほうが面白かったけどね。(レンタルDVD)


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ICE AGE: THE MELTDOWN
アメリカ、2006年、上映時間 91分
監督: カルロス・サルダーニャ、製作: ロリー・フォート、脚本: ピーター・ゴールク、ジェリー・スワロー、音楽: ジョン・パウエル
声の出演: ジョン・レグイザモ、デニス・リアリー、レイ・ロマノ、ショーン・ウィリアム・スコット