大峰正楓の小説・日々の出来事・日々の恐怖

☆奇妙な恐怖小説群
☆ghanayama童話
☆写真絵画鑑賞
☆日々の出来事
☆不条理日記

日々の出来事 12月15日 力道山

2018-12-15 10:34:47 | A,日々の出来事_






 日々の出来事 12月15日 力道山






 今日は、力道山が亡くなった日です。(1963年12月15日)
力道山は大相撲出身のプロレスラーで、1953年に日本プロレス協会を設立しました。
当時、テレビ放送が開始された中でプロレスも放映され、力道山の空手チョップを武器にシャープ兄弟をはじめとする外人レスラーをなぎ倒す姿は、戦争に負けた日本人の眼に輝けるヒーローの出現と映りました。
 その後もプロレス人気は衰えず、1963年5月24日の東京体育館で行われたWWA世界選手権での力道山対ザ・デストロイヤー戦は、平均視聴率で64%を記録し、これは今でも歴代視聴率4位にランクされています。
 力道山は、1963年12月8日午後10時30分東京赤坂のキャバレーで村田勝志と口論になり登山ナイフで腹部を刺され山王病院に入院、手術となります。
さらに、その傷がもとで腹膜炎を起こし再手術、この時麻酔を担当した外科医が気管内挿管に失敗したことが原因で窒息し、亡くなってしまいました。
そして、力道山の死後、弟子であるジャイアント馬場やアントニオ猪木が、プロレス界を支えて行くことになります。

 “オールウェイズ三丁目の夕日”で、テレビが始めて家に来た日、近所の人たちがお祝いを持ってやって来て、みんな集まって力道山のプロレスをわ~わ~騒ぎながら見るってのがありました。
駄菓子屋やミゼットや東京タワーが出て来るチョイ昔って何か郷愁を感じます。
日本人みんなが、明るい未来に向かって懸命に生きていた時代です。
今のように物が溢れる時代から見ると不便で不自由でしたが、“何かをやってやろう”と言うエネルギーはあったと思います。








  力道山
















☆今日の壺々話










外人プロレスラー



 来日外国人のプロレスラーって概ね親日派が多い。
しかも正統派レスラーのみならず悪役レスラーも同じ。



アブドーラ・ザ・ブッチャー

「初めて来日した1970年、あらゆるものが美しくてナイスだと思った。」
「俺は故ジャイアント馬場と日本のファンのおかげでここまで有名になった。」
「(自身が経営しているアメリカのレストランに)ジャパンのファンが来るのはいつでもウェルカムだ。」

→実際に日本人が店を訪れてブッチャーに会いたい旨を伝えると、店長からブッチャーに連絡がいき、都合がつけばすぐに来てくれ、写真撮影やサインなんかもきさくに応じてくれる。




ザ・シーク

「日本のプロレスファンは世界一のファンです。」(日本で開かれたザ・シークの引退セレモニーでの挨拶)
・引退後、日本のファン数名を自宅に招き、豪華にもてなしたことがある。
・試合中に混乱して解説の倉持アナウンサーを大流血させたことがある(一種のやらせ演出)。後年、倉持がシークの家を訪ねそのことを話すと、「大変申し訳なかった」と豪華にもてなした。
・甥っ子のサブゥーもプロレスラーとなり、日本人女性と結婚。




タイガー・ジェット・シン

「私が初めて日本に来た頃の日本人は、驚くほど礼儀正しく謙虚だった。
だが、いつの間にかそれが無くなり、気が付けばまるでアメリカ人の様になっていた。
しかし振る舞いはアメリカ人でも、その悪い部分しか真似しないヤング・ボーイがとても多い。
そして決して、アメリカ人の良い部分は真似ようとはしない。
日本人は、アメリカのイージー・ゴーイングな部分だけを真似してしまった。
私は、昔の日本人が懐かしい。」




スタン・ハンセン

・全盛期は一年の半分以上を日本で過ごしていた。現在の嫁さんは日本人。
・好物は納豆、豆腐で毎日のように食べる。
・後年は若い外国人レスラーに箸の使い方、居酒屋での飲食の仕方等のマナーを教える係りを率先する。


















インタビュー





ブッチャーにインタビューを申し込んだら、

「 ヘイユー!本当の話とウソの話どっちがいいんだ!」
「 本当のほうでお願いします。」
「 親は大事にしろ!以上だ!」
「 それでおしまいですか。それじゃ困るんですが。」
「 おいおい本当の話にしろって言ったのはユーのほうだろ!」
「 じゃあウソのほうで」
「 今度のシリーズでババを地獄送りにしてやる!」
「 ありがとうございました。」







スタン・ハンセン




 俺の先輩は上司の結婚式に出席してアトラクションを引き受け、なにやら念入りに準備してたので何をやるのかと思ってたら、会場に突如鳴り響く「サンライズ」!

 我々の世代には馴染み深いあのスタン・ハンセンのテーマで、コスチュームまで用意してノリノリで入場、デンガロンハットに皮前掛けに皮チョッキ着て、口ひげつけて金髪カツラも着け、本物そっくりにカウベルをくくりつけた太い荒縄を振り回し暴れまわって入場、最後は新郎新婦横のひな壇に上がって、「ウィーーーーー!!」っとロングホーン…の予定だったらしい。

 ところが、いささか酒も入ってた先輩は手元が狂い、振り回した縄が、後で点火される予定の「愛のキャンドル」を粉砕。引っ掛けた燭台がそのまま入刀前のウェディングケーキを撃破。
客席に飛び散るクリーム、泣き出す花嫁、激怒するうちの社長。
いいよ、しょうがないよと引きつった笑いでなだめる新郎の上司の前で、土下座して号泣するスタン・ハンセン…。

















タイガー・ジェット・シン



 ミルホンネットが独占してお届けしているタイガー・ジェット・シンの慈善事業や、カナダ・ミルトン市の名誉市民としてWall of Fameに名前が刻まれた”インドの狂虎”であるが、なんと究極の名誉が新たに加わった。自身の名を冠した公立校の開校である。
 ライバル、アントニオ猪木が営利目的の英語学校に名を冠したことはあったといえ、こちらはPublic schoolの話であり、話の次元がまるで違うことになろう。
もちろん、暴力的なプロレスに関わった人物の名を冠していいものかとの議論があったそうだが、これまでのシン一家の数々の人道活動やチャリティでの貢献を鑑み、ついにプロレスラーの名を冠した小学校が認められたという。



チョークされちゃう。



校長はブッチャーで。



インテリと聞いたが。



指し棒はサーベルで。



伊勢丹で猪木が集団で暴行されるわけか。



制服はサーベル着用だな。



プロレスのヒールは良い人多いな。



タイガージェットシンとかけて
黒板ととく
その心は
チョークが付きものです。



ゆーことを聞かないガキへは、コブラクロー。



死んだかと思ってた。



校歌はあの曲か。



何でサーベルの柄でしか攻撃しないんだよ!
先端のほうが効き目あるだろ!



新宿伊勢丹で猪木を襲った奴か。



 タイガージェットシンはカナダのインド系商人の子供として生まれ、体が大きかったので高校でレスリングの選手をやっていた当時、アメリカのプロレス業界者にスカウトされ、アメリカでプロレスの修行をし、やがて悪役として名前が知られる存在になった。
そして日本のプロレス関係者の目にとまり、タイガージェットシンというリングネームで日本で華々しく活躍する事になった。
 彼は父親の出身地であるインドではプロレスラーとして全くの無名ですよ。
何故ならこの人物は、インドでは誰もプロレスラーだと知らないからです。
アメリカで成功したインドの実業家という程度の知名度です。
 彼は日本ではもっぱら悪役レスラーとして名をはせた事を祖国のインド人にとっては屈辱だとして知らせなかったのです。
日本のプロレス関係者らも、彼は几帳面な真面目な人物だと言う評価ですよ!
米国に住んでいると分かるのですが、日本では知られていませんが、これまで数多くの日本人レスラーが悪役専門でリング上で暴れましたよ。
 どこの国のプロレスでも、外人選手は悪役と相場が決まっているのです。
ですからターガージョットシンは祖国のインドでは自分の行為を恥じて、自らプロレスラーとは名乗らなかったのです。



この人かザ・シークかブッチャーか忘れたが、プロレスの場外乱闘で客席に乱入するいつものパターンで逃げ遅れた婆ちゃんが本気で殺されると思ったらしく念仏を唱えてたら、急に方向転換して離れてあげたらしい。



小学校1年生のころ、ホテルのロビーでタイガージェットシンと上田馬之助にだっこしてもらった。
タイガージェットシンはスーツ姿でリング上の人物とは別人のようだった。
ホテルのカウンターから上田さんがマジックペンを借りてきて、ジャンバーにサインしようとしたら、マジックペンがインク切れで上田さんが怒ってた。



おれ、この人が入場してくるとき背中蹴られたことあるよ。
大暴れして入場してきたので逃げようとしたら、市来という女子レスラーに「座ってくださーいw」と、突き飛ばされ席に座ったところを蹴られた。
市来笑ってやがんの。



お気をつけ下さい!お気をつけ下さい!



タイガージェットシンってサーベルしか印象にないけど本当の得意技はなんだったっけ?



キャメルクラッチかな。



コブラクロー。



首四の字。



最近使い手いなくなった。



ここまで平均年齢40歳。
















    ジャイアントスイング




 高3のときに新任の女性の先生にいたずらしようってことになって、先生が体育館に一人でいたときに5人くらいで襲いかかった。
プロレスの、足を持ち上げて宙でグルグル回すあれをしようとしてたんだけど、羽交い締めにしたときに「キャァァァァァー」って先生が悲鳴を上げて、バンッ!バンッ!バンッ!って感じで周囲の準備室の扉が開いて昼休み中の男の先生たちが飛び出してきた。
「お、お前らぁ!」ってもう生徒じゃなくて、不審者を恫喝するときの表情だった。
「こ、この子たちがぁぁぁ!」って羽交い締めにされていた先生も顔をグシャグシャにして叫んだ。
「僕達だけでは処理できない、校長を呼ばなければ!」みたいなことを言って、男の先生達が集まってくる。
 なにか勘違いされてるのでは、と激しく感じていた。
ここは、毅然とした言い訳をしなければならないと思った。
そして、僕はグイッと一歩前に出てよく通る声で言った。

「僕たちはただ、先生を回そうとしていただけです!」

10年前の思い出だ。
この後の怒号は今でも夢に見る。















信じていたこと



 サンタは小3くらいで気付いた。
サンタからのカードの文字が、母親の字だって気付いたのがきっかけ。

 小さい時信じてたのは、ダンプ松本が本物の悪党だってこと。
私が幼稚園の時は、ダンプ松本が全盛の頃で試合を見ては、
((((((;゚Д゚)))))) ガクブルしてた。
 決定的だったのは、鶴太郎かなんかのバラエティーにダンプが乱入して、鶴太郎が本気でビビってたのを見た時。
プロレス以外の場所でもあんなに暴れるなんて、本当に本当に悪い人なんだと確信した。
 それ以来、父親が通勤時に新宿あたりでダンプやブル中野に遭遇して殺されないか、家族で行く遊園地に彼女たちが現れたら・・・、と不安な日々を送ってました。
七夕の短冊にも「パパとママがダンプまつもとにころされませんように」と書いてた。

 それ、ワロタwww。
しかし、自分もデーモン小暮閣下が本物の悪魔だと信じて、テレビに映るたびに泣いてたもんな…。
















ガッツ石松君




 東洋ライト級王者時代、池袋の路上で弟にからんだヤクザ8人を相手に喧嘩をし、たった一人で全員KOしたという事件を起こし現行犯逮捕された。
後に正当防衛を認められ釈放された。
この事件の新聞の見出しは“石松、場外で8人KO”だった。
 その時の事情聴取で、ガッツは“チャンピオンは“いついかなる時でも誰の挑戦でも受けなければならない”と賞状に書いてある“と供述したため、これ以降チャンピオンに渡される賞状からその文言が削除されている。(本来は「組まれたマッチメイクを受ける義務」の規定である。)
 ちなみに、さすがのガッツでも8人と同時に喧嘩をしても勝ち目はないと判断したのか、細い路地に誘い込み8人に対して常に“1対1”で勝負して、勝ちを収めている。


以前どっかの番組で

『ボクサーは3分を身体で覚えるというが、
 カップラーメンの3分も時計なしで身体で判断できるか?』

みたいな実験で、
カップラーメンの前で10分待ってのびのびにさせてしまったのが
ガッツだったような気がするんだけど、違いますか?



 その実験は知らないけど、同じように『ボクサーは3分を身体で~』って証明実験でシャドウボクシングしながら1分経ったらボタンを押すやつなら見た記憶がある。
薬師寺と渡嘉敷と輪島が50秒とか70秒とかの中途半端な数字でボタンを押す中、ガッツが100秒ピッタリでボタンを押して

「 え?1分って100秒だろ?」

と言い切った。

















童話・恐怖小説・写真絵画MAINページに戻る。
 大峰正楓の童話・恐怖小説・写真絵画MAINページ







コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 12月14日(金)のつぶやき | トップ | 12月15日(土)のつぶやき »
最新の画像もっと見る

A,日々の出来事_」カテゴリの最新記事