気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ゆるキャン△の聖地を行く35 その2  みずがき湖ビジターセンターから

2023年11月15日 | ゆるキャン△

 みずがき湖は、平成10年に完成した多目的ダムの一種である塩川ダムのダム湖です。塩川流域の灌漑と発電、上水道用水の供給を行なっています。そのダム湖の周辺に園路や園地を配したのが、現在のみずがき湖自然公園です。

 

 みすがき湖のビジターセンターは、みずがき湖の南側に位置して事務管理棟および売店、観光案内所を併設しています。増富ラジウム温泉郷の入り口にあたる現地の観光スポットや歴史・文化・産業などを紹介するコーナーもあります。

 

 私が入ったのがちょうど10時で、ちょうど売店が開館したばかりでした。売店は主にフェルト商品を扱っているようで、レストランも併設しています。ビジターセンターに繋がる洋館風の二階建ての立派な建物で、レストラン横には天文台もあります。
 みずがき湖ビジターセンターの総合案内サイトはこちら

 

 ビジターセンターの横から園路を経てみずがき湖の湖畔に出ました。湖面はほぼ満水状態にあったようですが、それでも御覧のようにかなり下に見えたので、ロックフィルダム方式の堤防の石積みも高く感じられました。ビジターセンターや観光駐車場のエリアは、ロックフィルダム方式で築かれた遮水区域のエリアに配置されています。

 上図は北をみたところで、奥に鹿鳴峡大橋が白く見えました。みずがき湖に北から流れ込む釜瀬川の谷間に架けられている鉄橋です。

 

 反対側を見ると、そちらにも鉄橋が見えました。みずがき湖に南東から流れ込む本谷川の谷間に架けられています。

 

 みずがき湖の湖面の中央辺りに突き出た部分の丘裾には、展望台が見えました。大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の三人がみずがき湖を眺めた場所です。

 

 ロックフィルダム方式の石積み堤防の上は園路になっています。ここにも既視感がありました。原作コミック第12巻47ページ1コマ目に描かれているからです。

 

 このコマですね。三人が犬山あおいの指差す方向へ歩き出しています。つまり、みずがき湖の周縁路を左回りにたどっているわけです。

 

 私はレンタカーで来ていましたので、作中と同じようにずっと歩いていくわけにもいかず、いったん車に戻って、上図の地点まで移動しました。この場所も作中に描かれているからです。

 

 右のシーンの場所ですね。原作コミック第12巻47ページ2コマ目にあたります。みずがき湖の周縁路は車道ですので、車でも普通に回れます。  (続く)

 

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知波単学園 九七式中戦車(久保田車) 作ります!! その2

2023年11月14日 | ガルパン模型制作記

 ステップ3およびステップ4では、車体やサスペンションを組み立てます。全てガイドの指示通りに進めます。

 

 ステップ3の組み立て前のパーツ類です。

 

 組み上がりました。パーツ割や取り付けの段取りは、以前に作ったタミヤやファインモールドのキットと殆ど同じです。

 

 ステップ4の組み立て前のパーツ類です。

 

 組み上がりました。前照灯がクリアパーツ、車体前端の銘板がエッチングパーツであるのは、ドラゴンらしいパーツ配分だな、と思います。

 

 ステップ5では足回りの各部と車輪を取り付けます。私の製作においては、車輪は全て塗装後に取り付けます。今回の知波単学園の車輛は3色迷彩なので、車輪も3色に塗り分ける必要があり、車体の塗装と繋がるように確認しながら塗ることになりますが、そういった塗装工程は車輪を取り付けてしまうと難しくなります。

 

 それで、ステップ5の組み立ては車輪以外のパーツで進めました。

 

 組み上がりました。サスペンションのスプリングの取り付けなどは、タミヤやファインモールドですと細いパーツが多くて、折ったりしないように慎重に組付けましたが、今回のドラゴンキットではそういった配慮は不要でした。パーツがみんなしっかりしていて厚みもあり、ある程度の耐性をもつので、気楽に組み立てることが出来ました。このあたりもドラゴン製品の特徴のひとつだと思います。

 

 ステップ6では、車体前部の機銃を組み立てます。ステップ7では車体上部を組み立てます。

 

 ステップ6で組み立てる車体前部の機銃のパーツです。

 

 この機銃も、組み立てが楽で、しかも実物と同じようにクルクルと旋回が出来て上下左右に銃身を向けることが出来ます。タミヤやファインモールドのキットではこの機銃が軽快に動かせなくて接着していましたから、ここでもドラゴン製品の可動箇所の作り易さというものを感じることが出来ました。

 

 ステップ7で組み立てる車体上部のパーツ類です。

 

 組み上がりました。

 

 エンジン上部の放熱パネルはエッチングパーツも使って二重に組み付けました。タミヤやファインモールドのキットでは、この範囲のエッチングパーツは無かった気がします。  (続く)

 

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ゆるキャンから始めたNゲージ その23  大井川鐡道井川線のDB1形機関車を作る 上

2023年11月13日 | ゆるキャン△

 2024年4月から放送される予定のゆるキャンアニメ3期に大井川鐡道が登場することが確定し、公式サイトのイメージビジュアル第一弾に千頭駅井川線ホームのアプト式列車が出てきたことで、私の大井川鐡道井川線のNゲージ車輌の製作もピッチが上がってきた。どのメーカーからも商品されていなくて自作するしかなかったDD100形機関車を苦労して仕上げたことで、なにか峠を越して少し楽になってきたため、残る懸案であった上図のDB1形機関車の製作に取り組むことにした。

 DB1形機関車、と書いたが上図のワールド工芸の商品は「KATO 8t」とある。その通り、正式には加藤製作所製8t産業用機関車と呼ばれる小型内燃機関車の一種である。大井川鐡道がこれを昭和11年(1936)以降にあわせて7輌導入し、井川線の前身である大井川電力専用線にて運用し、DB1からDB7までの車番をあてたことにより、DB1形機関車と呼ばれたわけである。

 その後、昭和30年(1955)に専用鉄道が井川駅まで延長された際に、中部電力東上田発電所(岐阜県下呂市)の建設に使用されていた同型車輌が2輌加わり、DB8、DB9の車番を付けられた。このDB8、DB9が平成二十一年(2009)3月に本線運用を離脱して車籍抹消となったものの、いまも川根両国車両区にて入換動車として使用されている現存の2輌である。

 最近にイベントがらみで現役時代の鮮やかなツートンカラーに復しており、ゆるキャン聖地のひとつ両国吊橋から川根両国車両区を見下ろした際に見かけた方も多いであろう。
 私がゆるキャン聖地巡礼の途中で撮影した、こちらの記事の最初の画像でも、左端にツートンカラーのDB9が写っている。

 

 今回のワールド工芸の組み立てキットは、御覧のように車体が2輌ぶん入っている。現存しているDB8、DB9の2輌を意識しているわけではあるまいが、井川線の車輌を可能な限りNゲージで再現して楽しもうと考えている私にとっては、有り難いことであった。現存しているDB8、DB9の2輌を再現出来るからである。

 ただし、上図右端の袋入りの動力ユニットは1輌ぶんしかないので、もう1輌はトレーラー車として作ることになる。ところがこの動力ユニットを試運転してみたところ、動きが不安定でカクカクと揺れるし、時々止まってしまう不具合が判明した。

 川本氏に相談したところ、すぐに駆けつけてくれ、分解メンテナンスも施してくれたが、不具合を完全に解消するには至らず、電圧の高いパワーユニットで操作してみても、カクカクと揺れる点だけは治らなかったのであった。

 

 それで川本氏が言うには、とりあえずキットの説明書のままに組み立てて、1輌に動力ユニットを入れ、もう1輌はトレーラー車として仕上げておいて、動力ユニットの1輌は線路上に静止させておくしかないだろう、とのことであった。

 井川線の客車の追加製作を予定しているなかで、1輌だけに動力ユニットを組み込む積りであったため、先に作ったDD100形機関車をそれに繋いで列車とするのと同じように、DB1形のトレーラー車のほうを動力ユニット客車と繋げば走らせることが出来る。それでいこう、と決まった。

 上図は組み立てガイドである。御覧のとおりカラー印刷で大変に見やすく、パーツの説明もきちんとなされていて初心者の私にもよく分かる内容であった。

 

 組み立てガイドの裏面である。表面が1ページ目、裏面が2ページ目ということだろう。

 

 ランナーごとにパーツを事前チェックしていて、車体のパーツを観察する段階で、奇妙な違和感を覚えた。以前に作ったネコ・パブリッシングのトーマス列車のキットに含まれていたラスティーのDB1形機関車のパーツを取り出して比較してみたところ、上図のように車体の寸法が異なるのであった。

 私はDB1形機関車の実車のほうも、ゆるキャン聖地巡礼中にて二度見かけている。その際に撮った写真画像もパソコン画面に出してみて比較を続けたが、寸法的には今回のワールド工芸の品のほうが近いと感じた。逆に言えばトーマス列車のキットに含まれていたラスティーのDB1形機関車のほうは幅が小さくて車長がやや長く、全体的に細身なのである。

 

 とりあえず、組み立てに取り掛かった。2輌分のパーツをいっぺんに切り出して、同時並行で組み上げてゆくことにした。このキットは素材が一般的なプラスチックではなくてABS樹脂であるため、接着剤もABS樹脂専用のものが必要となる。上図のタミヤのABS樹脂用のセメントを使用した。

 

 組み立て途中の状態である。パーツの成形色はオレンジとブラックなので、それぞれのパーツを入れ替えて組み合わせ状況が分かるようにしようと思い付き、上図のようにパーツを入れ替えた。

 

 組み上がった状態である。パーツの組み合わせ状況がよく分かるし、5個のパーツだけで姿が仕上がることに感心した。連結器は、ガイドにおいては前後ともキットに入っているアーノルドカプラーを付ける指示があるが、前部のものは鉄道コレクションの余りパーツのダミータイプに交換した。

 

 片方の1輌には、ガイドの指示通りに動力ユニットを組み入れた。動作が完全に治っていないので、こちらは井川線レイアウトにおいては側線か留置線に置いて使うことになるだろう、と考えた。

 

 最後に排気管を取り付けて、組み立てを完了した。サイズや寸法的にはこちらが実車に近い。

 

 なので、上図右の白色のトーマス列車のキットに含まれていたラスティーのDB1形機関車のほうは、車体がやや長く、細身に見える。

 

 上から見ると、車幅がかなり違うことが分かる。別の車種ではないか、と思うぐらいにあちこちの寸法が異なるので、この右側の白色の車体は、私のNゲージ井川線においては別の使い方を考えて活用を試みることにした。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く35 その1  みずがき湖へ

2023年11月12日 | ゆるキャン△

 2023年7月29日、夏の山梨ゆるキャン聖地巡礼の二日目の朝は快晴でした。昨日は埼玉県奥秩父の三峰神社と滝沢ダム、そして雁坂みちルートを辿りましたが、この日は山梨県内の山の中を巡るコースでしたから、気持良い程に晴れてくれたのは有り難いことでした。

 

 宿の東横イン甲府駅南口Ⅱにて6時半から朝食をゆっくりいただき、7時からは二時間ほど部屋でまったり過ごし、8時55分に出発しました。この日もタイムズレンタカーさんに予約を入れてありましたが、利用時間が9時からなので、朝早くからバタバタせずに済みました。

 

 この日のレンタカーはスズキのソリオでした。昨日と同じ車種でしたが、ボディカラーが違いました。

 

 9時3分に出発して、甲府昭和インターから中央自動車道に入り、須玉インターで降りて県道23号線へ回り、増富ラジウムラインとも呼ばれる、塩川沿いの谷間の一本道を北東方向へひたすら登りました。

 

 この日の聖地巡礼ルートはみずがき湖および瑞牆山のエリアでした。原作コミック第12巻の第65話から第69話までの舞台ですが、2024年4月スタートのアニメ3期のストーリー範囲に含まれるかは、現時点(2023年11月)でまだ情報が無いので分かりません。その前の第63話までの大井川キャンプ編をどのくらいの話数で放送するかによるだろうな、と思います。

 個人的には、みずがき山キャンプ編はアニメ3期のストーリー範囲に含まれる可能性がある、と思います。なぜかというと大井川キャンプ編は、登場キャラクターが各務原なでしこ、志摩リン、土岐綾乃の3人だけでストーリーが推移するため、残る大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の登場頻度が非常に少なくなります。みずがき山キャンプ編は、その大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の3人がメインとなるので、主要キャラクター5人の登場頻度もほぼ同じぐらいになってバランスがとれます。

 なので、2024年4月スタートのアニメ3期は、おそらく大井川キャンプ編とみずがき山キャンプ編とを共に含むストーリー範囲で放送されるのではないかと予想しています。予想すると同時に、個人的にそれを期待しています。

 

 甲府を出て52分後の9時55分、最初の目的地であるみずがき湖の南の辻に到達しました。前方の看板や標識を確認してみずがき湖方面へ右折しました。

 

 右折してすぐに左手にみずがき湖公園への出入口をみつけて入り、奥の駐車場に車を停めました。そうして再び出入口の脇にあるバス停の近くまで歩いて戻りました。上図の景色を確かめておきたかったからです。

 

 原作コミック第12巻44ページ5コマ目、上図左のシーンがそのまま実際の景色でした。大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の3人が韮崎駅からのバスに乗ってここまでやってきていますので、バス停からの視点で描かれています。

 

 出入口の真上に出ている案内標識には、みずがき湖ビジターセンター、とあります。

 

 そのみずがき湖ビジターセンターは、出入口から右手に見えました。尖塔形の屋根の建物などが、初めて来たにもかかわらず、ものすごく既視感がありました。

 

 この通り、原作コミック第12巻45ページ2コマ目にそのままの姿で出ているからです。作中では秋ですので、高山地域の気温を大垣千明が「冬の寒さに近づいて来るなあ」と形容しています。私の訪問時は夏でしたから、同じように感想を述べれば「ここまで上がって来ると涼しくなってくるなあ・・・」でした。

 実際、この日も甲府盆地は30度超えでしたが、みずがき湖や瑞牆山のエリアはは4、5度ほど低かったそうです。  (続く)

 

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伏見歴史散歩6 伏見稲荷の荷田春満旧宅

2023年11月11日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 35年ぶりの伏見稲荷大社参拝にて、楼門をしばらく見上げました。門前の左右には狛犬ならぬ狐が参道を見下ろしていました。

 

 楼門と共に国の重要文化財に指定されている南北の廻廊の内部を少し見て回りました。35年前の初参拝では友人とともに稲荷山への登山に挑み、朱鳥居のトンネルをくぐって一の峰から三の峰まで回り、旧社跡などを巡っていた記憶がありますが、麓の社殿や建物群はあまり見ていなかったのか、全然記憶がありませんでした。

 

 それで、楼門と南北の廻廊、上図の外拝殿を順に見て回りました。外拝殿は江戸期の天保十一年(1840)の再建で、国の重要文化財に指定されています。
 外拝殿の奥には内拝殿が見え、その奥に室町期の明応三年(1494)再建の本殿がありますが、そちらには回りませんでした。今回の参拝の目的が別にあったからでした。

 

 上図の案内看板のとおり、こちらでも二件の特別公開が実施されていました。一件は荷田春満旧宅、もう一件はお茶屋および松の下屋で、これらの初めての見学が、今回の参拝の目的でした。

 

 まずは楼門廻廊のすぐ南に隣接する荷田春満旧宅へ向かいました。

 

 荷田春満旧宅の旧石標です。荷田春満は「かだのあずまろ」と読みます。この難しい読みを、高校の日本史の授業で習った記憶があり、その直後の復習テストでも出題されたので、きちんと正解を書けました。それで今でも覚えていますから、若い日々の勉強はきちんとやっておくものです。

 

 荷田春満旧宅の外観です。荷田春満は、江戸前期から中期にかけて活躍した国学者で、はじめは江戸幕府所蔵の和書の鑑定などに従事しましたが、享保八年(1723)に京都に戻って国史・古典の研究を深めて復古神道を唱え、近世国学を発展させて「万葉集」「古事記」「日本書紀」研究の基礎を確立しました。
 弟子には賀茂真淵がおり、これに続く本居宣長、平田篤胤と共に、国學の四大人(しうし)と言われました。

 

 荷田春満旧宅は、その位置からも分かるように、伏見稲荷大社の社家の一つでした。伏見稲荷大社の社家としては秦氏が知られますが、これに荷田氏が加わって、江戸期の末には両氏の分家を合わせ十五家が居たそうです。

 この十五家の内の十一家が秦氏、あとの四家が荷田氏であったといいます。その四家のうちの一家が御殿預職、もう一家が目代職を世襲しました。荷田春満は御殿預家の屋敷で生まれましたので、伏見稲荷大社においては御殿預職を務めていたわけです。

 

 なので、荷田春満旧宅というのは、社家の御殿預家の建物であり、素朴な素木造りの床の高い書院式建物として知られます。現在は表門、板塀、神事家及び家屋の一部が現存しています。建物の竣工は元和元年(1615)の大坂城落城の日であったそうです。

 上図は旧宅の南側の家屋跡です。家屋部分はほぼ大半が廃されて取り壊されており、現在は庭の続きのような状態になっています。敷地の東半分は明治十六年(1883)創建の東丸(あずままろ)神社の境内地になっています。

 

 ちなみに今回の特別公開期間中において、荷田春満旧宅の内部は撮影禁止で、庭や建物の外回りのみが撮影可でした。

 それにしては、文化財指定を受けているのかどうか分からないような雰囲気でしたので、ちょっと不思議に思って後で調べてみたところ、大正十年に文部省より史跡指定を受けていることが分かりました。それを現行法の文化財保護法のもとでも引き継いでいるもののようです。

 

 荷田春満旧宅の次に、上図のお茶屋および松の下屋へ行きました。お茶屋の建物は、もとは寛永十八年(1641)に後水尾上皇より御所の古御殿の一部を拝領したもので、つまりは江戸期の京都御所の貴重な建築遺構であり、伏見稲荷大社の本殿とともに国の重要文化財に指定されています。

 

 見学手続きを行なって表門をくぐると、正面に松の下屋への石畳、左手にお茶屋への順路がありました。上図は松の下屋への石畳道です。  (続く)

 

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知波単学園 九七式中戦車(久保田車) 作ります!! その1

2023年11月10日 | ガルパン模型制作記

 私のガルパン車輌プラモデルの第137作目は、久しぶりの知波単学園チームの車輌にしました。知波単学園チームといえば九七式中戦車チハですが、私の計画においては新旧それぞれ3輌ずつを作ることにしています。旧砲塔タイプのほうはこれまでに西絹代搭乗車、細見静子搭乗車、の2輌を作りましたので、残る1輌は上図の久保田りんの搭乗車に決めました。

 

 久保田りんは、劇中ではチーム二番槍の細見静子の率いるグループに属しているらしく、細見の搭乗車に随伴または追随するか、もしくは動きをあわせての行動が目立ちます。一年生の福田はるから呼び捨てで呼ばれているので、久保田りんも一年生と思われます。
 地理や数字に強く、理論派とされていますので、猪突突進型のメンバーが多いイメージのある知波単学園チームにおいては、福田と並んで未来の有力メンバー候補となっているのかもしれません。

 

 久保田りんが車長を務める九七式中戦車チハ旧砲塔型です。最終章第2話の対大洗女子学園戦にて追撃戦の最中に湖畔にて崖面に隠れたあんこうチームⅣ号戦車に撃破されています。従来の突撃戦法に染まることなく、地図を読んでの冷静な判断を行なっていたメンバーだけに、もう少し長く戦っていれば、福田はるが単騎での別行動に移った後の戦闘にて何らかのアシストを成したかもしれないな、と思われます。

 なお、久保田搭乗車の車体の迷彩塗装パターンは、上図で見ると、ガルパンアハトゥンクにて紹介される4種のうちのCパターンであることが分かります。砲塔右側面の縦の黄帯がほぼ真っ直ぐに下にひかれる、前部フェンダー上の茶色と土色の塗り分け、等の特徴で確認出来ます。

 

 その久保田りんの搭乗車を、上図のドラゴンのキットで製作してみることにしました。九七式中戦車チハの1/35スケールキットはタミヤ、ファインモールド、ドラゴンの3社からリリースされており、それぞれに新旧の両方の砲塔タイプを出しています。

 それで、この3つのメーカーの製品を作り比べて楽しもうと考え、全てのキットを早い段階で揃えていました。まず公式キットのファインモールド品から作り、ついでタミヤ品を組んだため、ドラゴンの品は最後になりました。サークルのAFV部会の大先輩の一人で日本軍車輌マニアのD氏に「チハのプラモはドラゴンが秀逸やから、タミヤやファインを作ってからドラゴンを作ったほうがええ」とアドバイスされていたからでした。

 

 「チハのプラモはドラゴンが秀逸や」とのD氏の見解は、実際にドラゴンのキットを開封して中身を見てみると何となく理解出来ました。古いタミヤの製品に比べてモールドが明確で、なにか日本軍車輌独特の質感のようなものも表され、薄手で繊細なファインモールド品と比較するとパーツの肉厚が程よく出ていてガッチリした質感がただよっていました。

 プラモデル製品としては最も新しい時期の発売ですから、先行のタミヤ、ファインモールドに比べて作り応え、精密感などが勝っているように感じられたのも、自然な成り行きであったかもしれません。

 

 組み立てガイドは、いつものドラゴンの縦長の折り畳みスタイルで、表紙にランナーパーツ一覧図が載っています。

 

 ステップ1では車輪を組み立てます。ステップ2では車体前部の上面装甲部を組み立てます。

 

 ステップ1で組み立てる車輪のパーツ群です。上と右に転輪関連、下の左から中央辺りに誘導輪、起動輪、上部転輪が並びます。

 

 組み上がりました。サスペンションアームに組み付ける転輪だけは、塗装してから組み立てますので、上図の状態で保管しました。

 

 ステップ2で組み立てる車体前部の上面装甲部のパーツ類です。

 

 組み上がりました。前照灯はクリアパーツ、銘板はエッチングパーツでした。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)黒森峰女学園 ティーガーⅡ(ポルシェ砲塔)(フェイズエリカ仕様)

2023年11月09日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  タミヤ ミリタリーミニチュアNo.169 (商品コード35169)

  制作期間   2022年10月28日~11月2日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 完成です!!

  総評・備考
 ティーガーⅡは、キングタイガーとも呼ばれて親しまれる、第二次大戦期最強の戦車である。黒森峰女学園チームの重戦車陣の要を占め、逸見エリカの搭乗車として知られる。日本では長らく戦車プラモデルの代表格として知られ、販売するメーカーも国内外を問わず多い。プラッツ発の公式キットは旧シリーズ品(下のキット一覧の1)も新シリーズ品(下のキット一覧の2から4)もドラゴン製品(下のキット一覧の13)を用いており、適応キットのそれぞれと内容的には大同小異である。
 ティーガーⅡは、砲塔形状がポルシェ型とヘンシェル型の2種類あり、コミック「フェイズエリカ」の作中車は前者、アニメの劇中車は後者に該当する。コミック作中車はほぼ実車準拠であるようで、ガルパン仕様への変更点はジャッキ台の形状のみである。あとはストレート組みで仕上げられるため、初心者クラスにもおすすめ出来るガルパン仕様制作の入門キットの一つとされる。
 ティーガーⅡは世界的に人気があるため、適応キットも多数多岐にわたる。下記の一覧表には、コミック作中車向けのキットつまりポルシェ型砲塔タイプの製品のみを収録した。

  公式および適応キット一覧(2023年11月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

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ゆるキャン△の聖地を行く34 その7  万力公園の碑と鹿

2023年11月08日 | ゆるキャン△

 万力公園は、万力公園および万葉の森から成る都市公園の一種です。山梨市の中心を流れる笛吹川の西岸沿いに位置し、中世戦国期に武田氏が造成した防風林および堤防の「万力林」を受け継ぐ形で整備されています。広さは、約14ヘクタールにも及び、園内に色々な施設があります。

 公園の西側には国道140号線雁坂みちが通りますが、その雁坂みちからの出入口の一つに、上図の大きな石碑が建っています。「万力公園 万葉の森」と刻まれています。

 

 作中でも左のコマに同じ姿で描かれていますが、刻字が「万力の森公園」となっています。最初はこの石碑の位置が分からなかったので、食事処「みはらし」のお姉さんに教えていただきました。広い園地に10ヶ所ほどある出入口の、西側のほぼ中央にある、ということで豪雨の後の水たまりだらけの園路を3分ほど歩いていきました。そして国道140号線雁坂みちに出たところで石碑を見つけたわけです。

 

 石碑のある出入口からすぐ内側には、上図の小川が流れていました。豪雨直後なので水嵩が増えて流れも速くなっていました。

 

 その小川には吊橋がかかっていました。ゆるキャン聖地巡礼では、とにかく吊橋を渡る機会が多いです。小川の東側に園内の主要施設が点在するため、この吊橋の他にも幾つかの橋が架けられています。

 

 吊橋を渡って東側の園路に進んで道なりに右へ行くと、上図の「動物広場」と呼ばれる動物園の一角に入りました。正面に見えた柵の形状に既視感がありました。

 

 作中のこのシーンの場所でした。犬山あおいと中津川メイがシカを見ていた所です。

 

 実際に鹿がいる場所でしたが、豪雨の直後なので鹿の姿が見当たりませんでした。

 

 鹿園の檻内は上図のように広々としていますが、その一番奥の木の下あたりに鹿たちが固まって見えました。

 

 犬山あおいと中津川メイがシカを見ていた位置は、鹿園の北側というか北北西になるのかな・・・。

 

 作中の鹿たち。

 

 実際の鹿たち。雨を避けて南側の林の下に集まって座り込んでジッとしていました。故郷の奈良の奈良公園では当たり前のように見られる光景です。

 その後、南の駐車場に戻って万力公園エリアの聖地巡りを完了しました。時刻は16時15分になっていたので、雨宿りも含めて一時間滞在していたことになります。

 

 甲府駅前には、17時過ぎに帰り着きました。駅の北口のガソリンスタンドで補給してから南側へ回ってタイムズさんに車を返却しました。そのまま駅前の吉野家にて早めの夕食をいただき、近くのローソンで買い物をして、宿の東横インに入ったのは17時40分のことでした。

 この日は午前中に三峰神社まで行き、滝沢ダムを見て、午後は道の駅みとみ、広瀬ダムからの雁坂みちルートの聖地スポットを作中とは逆にたどる形で甲府に戻りましたが、とにかくハードスケジュールでしたので疲れました。
 それで、宿に着いてすぐの18時ぐらいには一度ベッドに横になって仮眠をとりましたが、仮眠どころか熟睡に落ちて、そのまま翌朝の5時過ぎまで11時間あまり寝てしまいました。

 以上、犬山あおいと中津川メイが自転車で走った雁坂みちのコースを回りました。レポートも雁坂みち編として括ります。次回は翌日に回った山の中のコースのレポートを綴ります。  (了)

 

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伏見歴史散歩5 伏見稲荷へ

2023年11月07日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 源空寺を辞して、京阪の伏見桃山駅まで戻りました。その時点で正午を回ったため、軽く昼食をラーメンでいこうと思い付き、朝に続いてのラーメン店はしごを試みました。上図の「大黒ラーメン」伏見本店に寄りました。

 

 「大黒ラーメン」は、京都では知られたラーメン有名店のひとつです。私自身はいつも東福寺駅近くの東福寺店で食べますので、実は伏見の本店に行くのは今回が初めてでした。

 

 ですが、味は東福寺店と変わりませんでした。京都のラーメン店は本店と支店とで微妙に味が異なるケースが多いようですが、ここ「大黒ラーメン」は一致して昭和59年創業以来の味を堅守しているようです。

 

 うーん、旨い。昔ながらの京都ラーメンの素朴な味わいが、初めて食べた昭和61年夏の記憶を呼び覚ましてくれます。

 

 この日の二軒目のラーメンに大満足し、京阪の伏見桃山駅から上図の伏見稲荷駅まで乗りました。

 

 伏見稲荷駅から南東に進んで、次の目的地である伏見稲荷大社の参道筋に入りました。コロナ禍後の観光客の激増によって、商店街からは大混雑のなかに巻き込まれました。以前は中国人や韓国人が多かったようですが、このときは欧米からの人々が多かった印象でした。

 

 伏見稲荷大社の大鳥居前に来ました。すぐ南のJR稲荷駅からの観光客の波が加わったものの、大半は商店街での食べ歩きが目的なのか、そちらへ大挙して流れていきました。上図の正参道へ進む観光客は割合に少なく、大部分は門前商店街を経由して裏参道から境内地に入る流れのようでした。海外の観光サイトにおける伏見稲荷大社の案内マップが、商店街巡りや食べ歩きも楽しめる裏参道からの入場を勧めているから、と聞いたことがあります。

 

 私自身は、昭和63年に参拝して以来でしたので、実に35年ぶりの訪問でした。以前よりも参道筋の景観整備が進んだらしく、記憶とは異なる社前の光景が広がっていました。こんなところだったかなあ、と首を傾げたほどの変わりようでした。35年という歳月の長さを思いました。

 

 ですが、参道北側の摂社群のたたずまいは、昔のままでした。変わったのは周囲の建物で、高いビルが目立っていました。

 

 摂社のひとつ藤尾社。祭神は舎人親王、現在は藤森に在って藤森神社と呼ばれる藤尾神社がかつてここに鎮座していた歴史との関連が推測される古社で、いわば藤森神社の旧地としての由緒を示すものと思われます。現在の社殿は江戸初期の建立で、国の重要文化財に指定されています。

 

 藤尾社の隣には熊野社が並びます。平安期以降の歴代上皇らが熊野御幸の途次の稲荷奉幣(いなりほうへい)の際に拝礼されたと伝えられ、熊野大社の分社と位置付けられています。現在の社殿は江戸期の元禄七年(1694)の建立で、国の重要文化財に指定されています。

 

 正参道の二番鳥居より楼門を見ました。境内地の結界口として位置づけられる鳥居です。

 

 伏見稲荷大社の正門にあたる楼門です。天正十七年(1589)に豊臣秀吉が寄進して再建したもので、安土桃山期の神社の楼門としては最大級の規模を持ちます。三間一戸、入母屋造で、屋根は檜皮葺。江戸中期に追加された南・北廻廊とともに国の重要文化財に指定されています。

 

 楼門脇の説明板です。この楼門は、江戸期の修理時に位置を少し西に変え、周辺の整備が行われて石段が設けられ、それに伴って南・北廻廊が追加された旨が述べられています。
 豊臣政権期の正統的な歴史的建造物は移築されていることが多く、建立時の原位置を保っているケースは稀だとされていますが、ここの楼門も例に漏れないようです。  (続く)

 

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ゆるキャンから始めたNゲージ その22  大井川鐡道井川線のDD100形機関車を作る 下

2023年11月06日 | ゆるキャン△

 井川線のDD100形ディーゼル機関車を1/150スケールのNゲージサイズにて再現製作する試みは、上図のプラ板箱組みの段階で車高が高過ぎることによって約3ミリ縮めての修正作業に至ったが、それでもまだ高い気がするのであった。

 

 あと2ミリぐらいは削ろうか、と考えつつもそれをいったん保留とし、車台両端の解放テコをカトーのパーツで作成し、排気管は実車の写真を参考にしてプラ棒などで追加した。

 

 さらに差し込み式のテールライトポールをプラ棒で作り、石除けのフレームもプラ板で作成して取り付けた。この機関車は先頭車にする予定であったので、連結器は、前部のはダミーを使い、後部のはアーノルドカプラーを差し込んで客車や貨車を繋げるようにした。

 

 さらに車高を約2ミリ縮める前の状態。この後で車体を外して下端を1.8ミリほど削った。

 

 車高を約2ミリ縮めた後の状態。運転席内は特に作らなかった。最初の案では動力ユニットを組み込むことにしていたので、内部に部品などは一切入れなかったが、そのままだと強度が足りないように思われた。それで内部中央に板状のプラ材をかませておいた。

 

 塗装に入った。実際に川根両国の車両区で見た現役時代のツートンカラーが良い感じだったので、それを再現することにした。最初に車体全体をミスターホビーの57番エアクラフトグレーで塗り、イエローの帯部分を34番クリームイエローで塗った。

 

 続いて屋根パーツを3番のレッドで塗った。屋根パーツを別にしたのは、塗装後に運転室の窓に透明プラ板を組み付けるためで、その後に屋根パーツを取り付ける予定であった。

 

 車体の赤い部分も3番のレッドで塗った。今回使用した塗料は水性エマルション塗料で、100円均一の細筆にもよくなじんで塗り易かった。

 

 細かく塗り分ける部分はマスキングテープを使った。今まで1/35スケールのガルパン戦車をずっと作っていたので、1/150スケールのNゲージの細かさにはちょっと参りかけた。

 

 床下機器類は、薄くポスカの黒をひいてから、57番エアクラフトグレーで混ぜるように塗り重ねて、やや濃いグレーに仕上げた。排気管はミスターカラー8番のシルバーで塗った。

 

 塗装後に窓ガラスを透明プラ板で貼って屋根を取り付け、台車もセットした。そのまま線路の上にのせて「入線」したのが上図である。車台前部左側のポールは、プラ棒の色の白のままにしてアクセントを付けた。

 以上で大井川鐡道井川線のDD100形機関車がなんとか1/150スケールにて完成した。走らせる場合は動力車のDD20形と重連にするか、別にスロフ客車の動力ユニット付きを1輌作って客車の中に入れて繋ごうか、と考えている。現時点で客車はまだアルナインのキットで製作した3輌しかないため、あと5、6輌ぐらいを追加作成する必要があるかな、と思う。

 それで、手元にある、鉄道コレクションの各車輌の動力化に伴う交換後の不要車台の幾つかをスロフ客車に改造しようかと検討中である。実際の井川線のスロフ300形客車の多くが、余剰となったcトキ200形貨車の車台を流用して製造されていることに倣っての、パーツの有効利用の一環である。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く34 その6  万力公園へ

2023年11月05日 | ゆるキャン△

 七日市場のスーパー「おかじま」を15時6分に出て、再び国道140号線雁坂みちを南西に急ぎましたが、5分もしないうちにとうとう雨が降り始めました。ウインドーを叩く雨粒が次第に大粒になり、15時15分に万力公園の横に着いたときには土砂降りになっていました。

 

 万力公園の南側の駐車場に車を入れて、ホッとしましたが雨はいよいよ激しさを増し、遠くから雷鳴も響き始めてきました。今回の雁坂みちルートの終点がここ万力公園でしたので、まあ、これまで雨に降られなかっただけでも幸いだったな、と思いました。

 

 とりあえず、雨が止むまで駐車場の南にある上図の食事処「みはらし」の売店にて、ゆるキャンのアイスをいただくことにしました。

 

 作中でも左のコマにそのままの姿で登場しています。犬山あおいと中津川メイがサイクリングの一回目の休憩を「パンビオロジック空我」でとった後、甲斐盆地を北へ横断して万力公園南端にある笛吹川サイクリングロードの終点に至り、そのまま二回目の休憩を「みはらし」にてとっています。

 右のコマは、万力公園の南口から「みはらし」の北側に曲がる辻で、その北側に私が車を停めた駐車場があります。

 

 その「みはらし」にて犬山あおいは「ラムネアイス」、中津川メイは「紫芋アイス」を食べています。私の訪問時には「紫芋アイス」は売切れていましたので、「ラムネアイス」のほうをいただきましたが、写真を撮り忘れました。

 

 食べ終わって、さきに七日市場のスーパー「おかじま」で買ってきたコーヒー牛乳を飲んだりしているうちに、激しかった雨がピタリと止みました。まさに夕立でした。

 食事処「みはらし」の公式サイトはこちら。食事処なので、お昼のランチもいただけるお店です。

 

 それで、この日の聖地巡礼のラストコースに進みました。ここ万力公園内の複数のスポットを探して回りましたが、まず上図の根津嘉一郎の銅像に行きました。「みはらし」の西隣なので、すぐに分かりました。

 

 これが「ミスター・バイス」ですか・・・。(違います)

 

 作中では犬山あおいのホラ話が炸裂していますので、公園や銅像の本当の情報がまったく出てきません。中津川メイも先輩のホラ話を鵜呑みにしたまま、感心しながら聞いていますので、全く話になりません。

 万力公園は、笛吹川中流域の右岸に位置する総合自然公園で、かつては笛吹川の氾濫が多発した災害地域でありました。戦国期に武田信玄が赤松を植えて防水林となし、霞堤と呼ばれた雁行形の堤防を築いて治水工事を行ないましたが、その防水林や堤防が「万人の力を合わせ強固な堤を造り守っていく」という意味にて万力林と呼ばれるようになり、現在の万力公園の名称にも引き継がれています。

 万力公園は、中世戦国期の万力林の規模をほぼそのままに受け継ぎましたので、公園敷地は笛吹川右岸に沿うような細長い形状になっています。公園の北端には笛吹川の水を引いた人造湖「ちどり湖」が設けられ、湖から流れ出す小川が公園内の雑木林を流れています。園内には「ちどり湖」のほか、ふれあい動物広場、噴水広場、子供の広場などが設けられ、近隣住民の憩いの場となっています。

 公園の南側には、犬山あおいが「ミスター・バイス」と呼んだ根津嘉一郎の銅像があります。根津嘉一郎は、万力公園の南隣の旧正徳寺村の出身で、後に実業家となり、根津財閥の創始者となりました。東武鉄道や南海鉄道(現在の南海電気鉄道)など日本国内の多くの鉄道敷設や再建事業に関わり、「鉄道王」と呼ばれました。

 

 上図は「みはらし」の西側にある、笛吹川サイクリングロードの終点です。身延町のコンビニでスタートして甲府盆地を北へと横断したきた犬山あおいと中津川メイが、ここに到達したわけです。

 

 このシーンですね。長い道のりだったことでしょう。このサイクリングロードのルートは自転車でないと辿れませんから、私の聖地巡礼では対象外にしていますが、それでも途中の聖地の幾つかへ立ち寄っていますから、この地点にも行けたのは良かったと思います。

 

 終点から少し戻った、この県道216号線根津橋西詰の橋下のサイクリングロードの景色も、作中に描かれています。

 

 このシーンですね。二人の背後上の橋の描写が一致します。中津川メイが終点を指差していますが、ここから終点までは約25メートルぐらいです。試しに、中津川メイの位置に立って同じ方向を見ると、終点の緑色のポールが見えていました。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)黒森峰女学園 Sd.Kfz.251-1D型 装甲兵員輸送車(フェイズエリカ仕様)

2023年11月04日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  タミヤ ミリタリーミニチュアNo.195 (商品コード35195)

  制作期間   2022年12月1日~12月2日

  製作記事   その1 その2 その3 完成です!!

  総評・備考
 Sd.Kfz.251は、ドイツのハノマーク社が1937年から開発を開始した中型装甲兵員輸送車の制式番号を指し、第二次大戦期のドイツの装甲兵員輸送車の代名詞となった。1939年6月から生産されたA、B、C型と、1943年9月から生産された簡易型のD型とがあり、バリエーションもSd.Kfz.251-1からSd.Kfz.251-23までの多種にわたる。ガルパンではコミック「フェイズエリカ」にて黒森峰女学園チームの移動用車輌として登場しており、Sd.Kfz.251-1のD型に該当する。
 適応キットは幾つかのメーカーより多様多種のキットが出ているが、ガルパンの作中車と同じSd.Kfz.251-1のD型を再現出来るキットは下記の4点となる。いずれも出来は変わらず、作り易いので初心者クラスにもおすすめ出来る。

  公式および適応キット一覧(2023年11月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

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伏見歴史散歩4 源空寺の旧伏見城城門

2023年11月03日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 御香宮神社を辞して、旧伏見城大手門の表門から外の大手筋に出ました。もと来た道を引き返し、上図の奥に見える朱色の大鳥居を再びくぐりました。

 

 そのまま西へまっすぐ進み、近鉄の高架下をくぐり、京阪の踏切を渡って、上図の伏見大手筋商店街のアーケード下に入りました。京阪の踏切をわたってから三つ目の、右側にサンマルクカフェがある交差点を右(北)に曲がりました。

 

 交差点から約30メートルほど北進して右側に、上図の看板を見つけました。この日の二ヶ所目の見学地、源空寺の門前に出ています。

 

 門前脇の案内説明板です。この寺の山門が、伏見城から移築された遺構、と述べられています。「いわれており」とあるので確証があるわけではないようで、つまりは伝承の類であるのかもしれません。

 

 その山門は、寺の入り口から上図のように見えました。入り口から山門までのスペースは参拝者駐車場になっています。

 

 パッとみると、浄土宗寺院の山門としては相当変わった建物だと分かります。二層の山門の建築としても、こういった外観の建物は寺院ではあまり見ません。というより、全然といってよいほど浄土宗寺院には似つかわしくない形の建物です。

 

 逆に、城郭の建物として見ると違和感があまりありません。櫓のような外観ですから、伏見城からの移築云々はただの伝承では無いのかもしれません。

 いまは二層目にこの寺の山号である「宝海山」の額が掛けられていますが、花頭窓の上という不自然な位置に無理して懸けられている感が強いです。

 

 門の通路空間の左右に部屋があり、向かって右側は寺の事務所のようになっていますが、左側は上図のように仏壇が設けられていて、中央には大黒天像がまつられています。

 

 この大黒天像は、源空寺では朝日大黒天と呼ばれています。かつて豊臣秀吉の持念仏であったもので、伏見城の巽櫓(たつみやぐら)にあったものと伝わります。

 その巽櫓が、いまの源空寺山門の前身ではないのかな、と思いましたが、寺でも確かな史料類は無いようです。もとは木幡の里(現在の宇治市炭山)にあって天台宗に属していた源空寺が、慶長十七年(1612)に現在地へ移転して浄土宗に改宗した際に、徳川家康より桃山城内の一宇を寄進された、という経緯が寺伝として伝わっている程度です。

 この徳川家康から寄進された桃山城内の一宇、というのが史実であった場合、その建物は徳川期伏見城の一部であった可能性が高いです。それ以前の豊臣期の伏見城は慶長五年(1600)6月の伏見合戦にて焼亡全滅しているからです。

 

 したがって、伏見城からの移築という伝承が本物であれば、この建物は慶長七年(1602)6月に徳川家康が藤堂高虎を普請奉行に任じて再建させた伏見城のそれ、ということになります。最初からこのような山門つまり櫓門の型式であったかは疑問ですが、白壁に包まれた外観はいかにも徳川期の城郭建築らしい雰囲気に包まれています。

 

 細部を見ると、やっぱり造り替えが随所に見られます。移築の際に寺院の山門に仕立て直すための改変があちこちで行われているとみたほうがよいかと思います。また材も新しくなっていますので、近年に修理か材の取り替えが行われている可能性もありますが、お寺が留守のようでしたので、お話を聞いて確認することは出来ませんでした。

 

 山門内部の戸口にかかる門扉です。これは完全に寺院の門扉の型式になっていました。というか、もとは櫓であった建物を山門形式に改築したのであれば、門口部分は全て新造になるわけですから、門の通路空間全体の造作が新しい感じに見えるのも当然か、と思いました。

 

 全体的にみても、この門の通路空間全体の雰囲気、そして材が新しい感じでした。もとの門柱の内側に材をコの字に張り増していることが分かりますが、この張り増し部分に門扉が付けられているので、もとは門扉の無い開放式の通路空間であったように思われます。
 問題は、移築前からこのような通路空間が設けられていたか、ということですが、それを確かめるには解体修理を行なって木材の使用状況を調べないと分からないでしょう。

 

 個人的には、伏見城からの移築云々は可能性が高いかな、と考えました。が、現在見られる山門形式の建物が城郭の櫓門からの系譜上にあるのか、それとも改造の結果であるのかは、ちょっと分からないな、と思いました。確証が無ければ、色々考えても机上の空論に終始してしまうからです。

 ですが、なかなかに興味深い、ロマンを感じさせてくれる建築遺構ではありました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く34 その5  七日市場のスーパーとドラッグストア

2023年11月02日 | ゆるキャン△

 道の駅「花かげの郷まきおか」の西側には、上図の古風な建物があります。ゆるキャン原作コミックのシーンにも描かれる建物なので、どういった施設なのだろうかと気になり、近づいてみました。甲府駅の北口広場にある藤村記念館と似たような感じの建物で、明治時代の役場か学校のような雰囲気だな、と思いました。

 

 説明板です。やっぱり明治時代の尋常小学校の建物でした。山梨県はこういう古い建築遺構をあちこちに保存しているなあ、と感心しました。元の位置は現地から南西640メートルの地点であったそうで、道の駅の施設区域内にて保存し観光資源として活用しているもののようです。

 

 14時49分に出発して次へ向かいました。駐車場を出る前に、原作コミックの場面のアングルで撮りました。

 

 この場面ですね。犬山あおいと中津川メイはこのあと雁坂道をさらに登って「みとみ笛吹の湯」へと向かうわけです。私のほうは逆方向へ進んで雁坂道を下りましたが、天気がドンドン崩れていって雲も黒っぽくなり、不気味なほどの広がりになってゆきました。こりゃ、夕立ちになるな、と感じました。

 

 15時3分、上図のスーパーマーケットおかじまに着きました。空は今にも泣き出しそうな気配でした。

 

 このお店は、正式には「おかじま七日市場店」といいます。山梨市七日市場831-1に所在するからです。運営会社は「山梨さえき」といい、ゆるキャン聖地として有名な身延町の「セルバみのぶ」も同じ「山梨さえき」の店舗です。

 

 作中では「なかじま」となっています。犬山あおいと中津川メイがここで大垣千明たちといったん合流しています。大垣千明は鳥羽美波先生の車で先に着いていて、この「なかじま」にてキャンプ用の食材などを調達していました。

 

 で、この方角から犬山あおいと中津川メイが合流しています。向こうに県道205号線が通っていますので、二人は万力公園から山梨市役所の前を通ってここにやってきたものと思われます。国道140号線雁坂みちからは少し離れた場所であるからです。

 

 作中ではこんな感じで「おかじま」の西隣の「ウエルシア」が描かれています。

 

 このシーンですね。大垣千明たちと合流した場面です。左奥のウエルシアは「エルシノア」となっています。  (続く)

 

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ゆるキャンから始めたNゲージ その21  大井川鐡道井川線のDD100形機関車を作る 上

2023年11月01日 | ゆるキャン△

 前回の記事にて、「次は川根両国車両区にて健在である初代機関車のDB1形を、ワールド工芸の組み立てキットにて製作する予定である」と書いたが、そのDB1形の動力ユニットを試しに動かしてみたところ、ガタガタと変な動きをしたあげく止まってしまうという不具合が判明したため、DB1形の製作をいったん保留にし、その次に作る予定だった二代目機関車のDD100形を先に作ることにした。

 上図はネット上で見かけた、川根両国の車両区にて静態保存されているDD100形の107号機の姿である。私が2021年7月に両国吊橋から見た時は、車体の塗装が現役時代のツートンカラーに復元されていたので、上図はそれ以前の状態であろう。DD100形は昭和29年に6輌、昭和35年に2輌が製造されて、計8輌が井川線にて運用されたが、現在は上図の107号機のみが昭和61年に最後に廃車となって以来、川根両国車両区に留め置かれて今に至っている。

 

 その107号機の現役時代の勇姿である。御覧の通りのツートンカラーで、新型のDD20形と重連となって列車を牽引している。このようなDD20形との組み合わせを、出来たら自分のNゲージでも再現して楽しみたいな、と考えた。

 しかし、井川線の多くの車輌がNゲージの主要メーカーから未だに商品化されていないのと同様、このDD100形も現在に至るまで全くNゲージ化されたことが無いようである。
 したがって、再現を試みるには自作スクラッチしかないわけであったが、あえてチャレンジしてみることにした。無いものは作ろう、という発想は、私の場合においては戦車でも鉄道でも同じであったからである。

 

 しかし、鉄道模型を初めてまだ4ヵ月にも満たなかった身には、車輌の完全な自作スクラッチというのはハードルが高すぎた。既存の車輌をベースにして改造する、という手法に落ち着いたのは必然の流れであった。

 DD100形にサイズが近い車輌をNゲージにて色々探したところ、上図の鉄道コレクションの第1弾に含まれている名鉄デキ100形、俗に凸型機関車と呼ばれる車輌が、長さにおいて最も近似するタイプであったため、中古ショップで500円で購入して確保した。

 

 そして車台と車体に分割して、車台をそのまま利用して改造するという方法を採った。

 

 この名鉄デキ100形は、上図の状態まで分割解体出来るが、DD100形の製作に転用出来そうな部品は、車台と台車の他はヘッドライトぐらいであった。あとは、プラ板などで作ることにした。

 

 車台の寸法を測ってみると、車長がやや短いことが分かったので、両端をプラ材で延長してDD100形のサイズに合わせることにした。その前提で車体の基本設計図を上図のように描いて、各所の寸法の比率なども計算した。

 最初は動力ユニットを組み込むつもりだったが、車体の内部空間が動力ユニットよりも小さいので無理だと分かり、トレーラー車に仕上げることにした。動力車を別に作って繋げば、列車として走らせることが出来るからである。

 さきに現役時代の画像を示してDD20形との重連のケースを見たが、私の手元にはアルナインのキットで作った動力車のDD20形があり、同じようにして繋げばNゲージで走らせる事が出来る。
 それとは別に、客車の1輌に動力ユニットを組み込んで繋ぐという方法もあり、いずれ鉄道コレクションの幾つかの不要車台を転用して客車を追加製作する予定であったので、その際に客車タイプの動力車を作ってみよう、と決めた。

 

 車体の基本設計図にしたがって0.5ミリや1ミリ厚のプラ板をカットして部品を作っていった。

 

 車台の上に組み合わせて車体を構成していった。

 

 3時間ほどで、上図の状態になったが、車高がやや高いかな、と感じた。計測し直してみると、約2ミリほど高いことが分かったので、後で下端を切り詰めて調整することにした。車台の両端にもプラ材を足して車長を長くしておいた。

 

 この時点で車台と車体は仮組みのままだったから、何度でも外して調整が出来た。とりあえず下端を2ミリカットしてみた。

 

 まだまだ背が高い感じがした。あと1ミリは縮めておこうか、と決めた。1/150スケールでの1ミリは、実車では15センチに相当するので、先に2ミリ、あと1ミリと詰めてゆくと、実車ではあわせて45センチとなるので相当の変更となる。このあたりも1/35スケールのガルパン戦車とは全然違うのであった。

 

 車高調整後の状態である。3ミリ切り詰めたにもかかわらず、見た目には余り変わらなかったので、ちょっと不思議な気がした。設計を間違えたかな、と不安にかられたが、再度寸法を測っても3ミリ高さを下げている事には変わりがなかった。  (続く)

 

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