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伏見歴史散歩6 伏見稲荷の荷田春満旧宅

2023年11月11日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 35年ぶりの伏見稲荷大社参拝にて、楼門をしばらく見上げました。門前の左右には狛犬ならぬ狐が参道を見下ろしていました。

 

 楼門と共に国の重要文化財に指定されている南北の廻廊の内部を少し見て回りました。35年前の初参拝では友人とともに稲荷山への登山に挑み、朱鳥居のトンネルをくぐって一の峰から三の峰まで回り、旧社跡などを巡っていた記憶がありますが、麓の社殿や建物群はあまり見ていなかったのか、全然記憶がありませんでした。

 

 それで、楼門と南北の廻廊、上図の外拝殿を順に見て回りました。外拝殿は江戸期の天保十一年(1840)の再建で、国の重要文化財に指定されています。
 外拝殿の奥には内拝殿が見え、その奥に室町期の明応三年(1494)再建の本殿がありますが、そちらには回りませんでした。今回の参拝の目的が別にあったからでした。

 

 上図の案内看板のとおり、こちらでも二件の特別公開が実施されていました。一件は荷田春満旧宅、もう一件はお茶屋および松の下屋で、これらの初めての見学が、今回の参拝の目的でした。

 

 まずは楼門廻廊のすぐ南に隣接する荷田春満旧宅へ向かいました。

 

 荷田春満旧宅の旧石標です。荷田春満は「かだのあずまろ」と読みます。この難しい読みを、高校の日本史の授業で習った記憶があり、その直後の復習テストでも出題されたので、きちんと正解を書けました。それで今でも覚えていますから、若い日々の勉強はきちんとやっておくものです。

 

 荷田春満旧宅の外観です。荷田春満は、江戸前期から中期にかけて活躍した国学者で、はじめは江戸幕府所蔵の和書の鑑定などに従事しましたが、享保八年(1723)に京都に戻って国史・古典の研究を深めて復古神道を唱え、近世国学を発展させて「万葉集」「古事記」「日本書紀」研究の基礎を確立しました。
 弟子には賀茂真淵がおり、これに続く本居宣長、平田篤胤と共に、国學の四大人(しうし)と言われました。

 

 荷田春満旧宅は、その位置からも分かるように、伏見稲荷大社の社家の一つでした。伏見稲荷大社の社家としては秦氏が知られますが、これに荷田氏が加わって、江戸期の末には両氏の分家を合わせ十五家が居たそうです。

 この十五家の内の十一家が秦氏、あとの四家が荷田氏であったといいます。その四家のうちの一家が御殿預職、もう一家が目代職を世襲しました。荷田春満は御殿預家の屋敷で生まれましたので、伏見稲荷大社においては御殿預職を務めていたわけです。

 

 なので、荷田春満旧宅というのは、社家の御殿預家の建物であり、素朴な素木造りの床の高い書院式建物として知られます。現在は表門、板塀、神事家及び家屋の一部が現存しています。建物の竣工は元和元年(1615)の大坂城落城の日であったそうです。

 上図は旧宅の南側の家屋跡です。家屋部分はほぼ大半が廃されて取り壊されており、現在は庭の続きのような状態になっています。敷地の東半分は明治十六年(1883)創建の東丸(あずままろ)神社の境内地になっています。

 

 ちなみに今回の特別公開期間中において、荷田春満旧宅の内部は撮影禁止で、庭や建物の外回りのみが撮影可でした。

 それにしては、文化財指定を受けているのかどうか分からないような雰囲気でしたので、ちょっと不思議に思って後で調べてみたところ、大正十年に文部省より史跡指定を受けていることが分かりました。それを現行法の文化財保護法のもとでも引き継いでいるもののようです。

 

 荷田春満旧宅の次に、上図のお茶屋および松の下屋へ行きました。お茶屋の建物は、もとは寛永十八年(1641)に後水尾上皇より御所の古御殿の一部を拝領したもので、つまりは江戸期の京都御所の貴重な建築遺構であり、伏見稲荷大社の本殿とともに国の重要文化財に指定されています。

 

 見学手続きを行なって表門をくぐると、正面に松の下屋への石畳、左手にお茶屋への順路がありました。上図は松の下屋への石畳道です。  (続く)

 

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