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伏見歴史散歩9 栄春寺の旧伏見城土塁と石垣

2023年11月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 伏見の栄春寺の境内地は、本堂以下の諸建物がある南側エリアと墓地の北側エリアとに分かれます。そして北側エリアは一段高くなっていて、一番高いところで約10メートルほどになるようです。

 上図は墓地への階段の途中から南側エリアをみたところで、ちょうど視線が本堂の屋根の大棟あたりに近づいています。そのあと更に階段を登りましたので、一番高い場所では本堂の屋根よりも上に視線があがりました。

 

 墓地全体が高い幅広の土塁の上にあるので周囲の見晴らしがよく、旧伏見城の惣構えの土塁がいかに高く築かれていたかが実感出来ました。規模的には京都市内にある御土居よりもやや大きいかな、という感じですが、墓地化によって上部はやや削られているので、当初はもう少し高さがあったものと推測されます。

 墓地の南側、つまり本堂や観音堂の背後にあたる範囲には、上図のように石垣が二、三段ほどみられます。

 

 これらの石垣は、大半が江戸期に積み直したか、墓地化に伴って土塁斜面を補強するために設けたかのいずれかだろうと思われますが、一部には戦国期までの野面積み(のづらづみ)の様相がみられて、伏見城造営期のものが残されているように感じられます。

 上図は一番下の段の石垣で、本堂や庫裏の背後の裏庭に面した範囲のものです。積み方がどこか雑で、石も積み方も中世や近世のそれとはちょっと違うような印象を受けました。

 

 墓地の地面からみると、下に向かって二段ないしは三段に石垣が積まれていて、いわゆる土留め石垣の姿を示しています。上図は土塁南東側斜面の中央、二段目の石垣ですが、この辺りが古いのではないか、と思いました。

 

 同じ石垣を、今度は西側に回って見上げました。一帯は竹林になっていて、立ち入り禁止の区域にあたるため、近づいてみることは出来ませんでしたが、それでも上図のようによく見えました。

 

 全国各地の近世城郭の石垣とあんまり変わらない外観、雰囲気です。この下にも石垣がありますが、そちらは近代のもののようで、石積みの隙間にコンクリートが使われていました。

 

 デジカメの望遠モードで撮影してみました。これはどうみても古い石垣ですね・・・。墓地の東側斜面にも似たような雰囲気の石垣の一部が見えましたが、その周囲には水路が巡っています。この水路はかつての外濠の一部が土塁とセットで残っているもので、土塁の北側と東側にまわっています。

 なので、外濠に面した北側も見ようと考えて墓地の北端から見下ろしましたが、墓地化によって地形が変わっているようで、民家との境界線になっている外濠の名残の水路しか見えませんでした。

 ちなみに、現地は、伏見城の城郭エリアから見ると北西にあたり、城下町の北西の塁線の突出部に該当するようです。その東約300メートル地点では、2013年に発掘調査が行われて、ひな壇造成された整地層と惣構え土塁の南斜面、井戸、そして伊達家に関連すると見られる建物の遺構が検出されています。

 

 個人的には、墓地の南側斜面の中央、下から数えて二段目にあたる上図の石垣が、本来の土塁土留めのそれであって今に現存している可能性が高い、と考えます。

 

 現在、西側に通る旧奈良街道は、平安期以来の大和大路を踏襲していますが、伏見城築城期にはもう少し西側を通っていたようです。土塁は現在の栄春寺の北側で外濠とともに屈曲して北に張り出していたことが古絵図や京都市考古資料館発の調査資料類の図から知られますが、その場合でも、さきに見た上図の総門が、その土塁に関連してどこかに位置していて、門として機能した状況が想像されます。

 なので、現在の総門は建てられた当時からの位置ではなく、元は別の場所にあったものが移築されてここに至ったものと考えられます。

 

 西の旧奈良街道から土塁を見ました。最近に民家が撤去されたのか、御覧のように土塁の断面が分かる状態になっていたのは幸運でした。下から一段、二段、三段と、ひな壇状に段差を設けて築かれていて、その段差面の裾部に石垣が積まれて土留めの役目を果たしています。上図でも右側(南側)の二段目に石積みの一部が崩れかけた状態で残っていますが、古い部分であるのかは識別出来ませんでした。

 土塁の規模は、左の三階建ての民家と比べると、現存部分だけでもかなりの大きさがあることが分かります。上は墓地になっていて、墓地化で削られた部分があったと思われますから、築かれた当初はもう少し高かったものと推測されます。

 京都市内の御土居が豊臣期に築かれて当時の京都の防御線ともなったのと同じく、豊臣期に築かれて伏見城の城下町の防御線となり、それが徳川期伏見城にも受け継がれたという、その土塁の唯一の現存部分です。御土居に似た雰囲気があるのも偶然ではありません。ともに同じ豊臣政権の土木事業によって築かれていますから、似ているのが当たり前です。

 旧伏見城の城郭部分の石垣や土塁は各所に残されていますが、城下町の惣構えの土塁は、一般的になかなか残らないので、一部だけでも現存している事自体が奇跡に近いです。その歴史的重要性のわりには、あまり知られていない遺構ですので、見てみる価値は大いにあるでしょう。  (続く)

 

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