火曜日のブログで(K)さんから、15日に平壌で行われたFIFAワールドカップブラジル大会アジア3次予選、朝鮮民主主義人民共和国対日本の試合について書いて、というリクエスト(?)を受けたので、書いてみたい。
試合の結果はご存知の通り、朝鮮が日本に1-0で勝利。9月2日、埼玉スタジアムでの敗戦の雪辱を果たした。朝鮮は11日の対ウズベキスタン戦(アウェー)で負け、この試合が始まる前から3次予選突破の可能性は消えていたが、それでも自国のチームが勝ったことはうれしい。
私の職場では、みながテレビの前で試合を観戦。ゴールの瞬間は思わず歓声を上げていた。私は、といえば、その直前にかかってきた自分宛の電話に応対していて、ゴールシーンを見逃してしまった(私のデスクはテレビを背にした位置にある)。
そして、ここからが本題。
今回の朝・日戦もサッカー以外のことが話題になった。国交がなく、関係がよくない両国の代表チーム間の試合なので、サッカー以外のことが話題に上ってもある意味仕方がないのだが、日本メディアの報道には看過できない問題が孕んでいたように思う。
日本のメディアはサポーターや報道陣の入国制限、空港での入国審査の厳しさ、物品の没収、ホテルでの監視など、朝鮮側の対応のひどさと日本チームの「アウェー感」について書き立てていた。一方で、前回、日本での試合の際に朝鮮側が受けた待遇について言及した報道はほとんどなかった。朝鮮代表チーム一行は入国の人数を厳しく制限され、空港の入国審査では2時間以上足止めされ、トランクの中身を全部検められ、持ち込んだ食品も没収され、滞在中の行動も著しく制限され…。日本政府は選手団の入国は「特例」としつつ、これらの対応を「制裁」の名の下に正当化した。
相手を無礼に扱っておいて、自分たちには礼を尽くせというのはあまりにも身勝手すぎる。もちろん、「やられたらやりかえせ」が正しいのか、という問題はあると思うが、元々朝鮮の入国審査は初めての人間に対しては厳しく、さらには国交が無い国に入国するということは簡単ではない。
日本にとって平壌が「いまだかつてないほどのアウェー」だったことは確かだ。しかしなぜ、平壌がそこまでの「アウェー」になったのか。その背景にある問題を真面目に検証する報道がなかったのが残念でならない。
そして、日本の国歌斉唱の際に沸き起こった激しいブーイング。その光景をテレビで見ていた私は一瞬ドキッとし、その後、悲しい気持ちになり、さらに後になっていろいろと考えた。
「スポーツと政治は別物」「ルール違反、マナー違反だ」。その通りだろう。しかし、これを単にルールやマナーの問題で片付けてしまっていいのだろうか。試合の会場となった金日成スタジアムでは、国家斉唱の際は静粛にするよう事前のアナウンスがあったそうだ。にもかかわらずブーイングは起きた。係員の制止も効かなかったという。理由なきブーイングなどない。人々の偽らざる国民感情が噴出した5万人のブーイングの意味を考えずに、「こんな国はサッカーをやる資格などない」という批判を繰り返す一部のメディアやネット右翼には怒りがわいてくる。
「スポーツを政治的に利用するな、スポーツに政治を持ち込むな」は正しい。しかし、スポーツとは草サッカーや草野球だけではない。国家代表チーム同士の対戦という国別対抗の形式をとる限り、サッカーというスポーツもまた国家やナショナリズムといった問題から自由ではない。自国の国旗を掲げ、国歌を歌い、自国の名前を連呼しながら応援することがすでにある種の政治性を帯びた行為になる。
日本のサポーターやメディアの中で朝・日間の植民地支配を含む歴史の問題、そして今も続く朝鮮敵視や在日朝鮮人差別の問題が果たしてどれほど自覚されているだろうか。日の丸を見たり君が代を聞く朝鮮の人々が自分たちとは異なる感情や歴史的な背景を持っているという事実に真摯に向き合っているのだろうか。 外国で、それも自国との間に歴史的な問題が横たわる国で、国の看板を背負ってプレーするということ、そしてそのチームを応援するという行為が意味するものに少しでも自覚的であるべきだ、と私は思う。
今回平壌に行ってきた日本人サポーターの中から一人でも朝・日間の歴史に目を向ける人が現れることを願ってやまない。
日本ではとかくスポーツを「脱政治化」したがる傾向が強い。でもそれがあらゆる場面において正しいことなのか。競技それ自体に政治性はないが、スポーツをするのはあくまで人間であり、国家代表戦のように試合そのものが政治性を帯びる場合もある。朝・日戦のように、すでにさまざまな問題に取り囲まれているのに、それらを「政治的」だからという理由でネグレクトするのが果たしていいことなのか。
国の看板を背負ってプレーしたり、国家代表チームを応援したりすることは、このようなやっかいな難問を引き受けることだと思う。私が鄭大世選手をはじめ在日同胞選手に感動を覚えるのは、彼らが朝鮮半島の北と南、そして日本の狭間に立ち、このような難問に真摯に相対しながら、サッカーというスポーツの可能性を信じプレーしているからだ。(相)
試合の結果はご存知の通り、朝鮮が日本に1-0で勝利。9月2日、埼玉スタジアムでの敗戦の雪辱を果たした。朝鮮は11日の対ウズベキスタン戦(アウェー)で負け、この試合が始まる前から3次予選突破の可能性は消えていたが、それでも自国のチームが勝ったことはうれしい。
私の職場では、みながテレビの前で試合を観戦。ゴールの瞬間は思わず歓声を上げていた。私は、といえば、その直前にかかってきた自分宛の電話に応対していて、ゴールシーンを見逃してしまった(私のデスクはテレビを背にした位置にある)。
そして、ここからが本題。
今回の朝・日戦もサッカー以外のことが話題になった。国交がなく、関係がよくない両国の代表チーム間の試合なので、サッカー以外のことが話題に上ってもある意味仕方がないのだが、日本メディアの報道には看過できない問題が孕んでいたように思う。
日本のメディアはサポーターや報道陣の入国制限、空港での入国審査の厳しさ、物品の没収、ホテルでの監視など、朝鮮側の対応のひどさと日本チームの「アウェー感」について書き立てていた。一方で、前回、日本での試合の際に朝鮮側が受けた待遇について言及した報道はほとんどなかった。朝鮮代表チーム一行は入国の人数を厳しく制限され、空港の入国審査では2時間以上足止めされ、トランクの中身を全部検められ、持ち込んだ食品も没収され、滞在中の行動も著しく制限され…。日本政府は選手団の入国は「特例」としつつ、これらの対応を「制裁」の名の下に正当化した。
相手を無礼に扱っておいて、自分たちには礼を尽くせというのはあまりにも身勝手すぎる。もちろん、「やられたらやりかえせ」が正しいのか、という問題はあると思うが、元々朝鮮の入国審査は初めての人間に対しては厳しく、さらには国交が無い国に入国するということは簡単ではない。
日本にとって平壌が「いまだかつてないほどのアウェー」だったことは確かだ。しかしなぜ、平壌がそこまでの「アウェー」になったのか。その背景にある問題を真面目に検証する報道がなかったのが残念でならない。
そして、日本の国歌斉唱の際に沸き起こった激しいブーイング。その光景をテレビで見ていた私は一瞬ドキッとし、その後、悲しい気持ちになり、さらに後になっていろいろと考えた。
「スポーツと政治は別物」「ルール違反、マナー違反だ」。その通りだろう。しかし、これを単にルールやマナーの問題で片付けてしまっていいのだろうか。試合の会場となった金日成スタジアムでは、国家斉唱の際は静粛にするよう事前のアナウンスがあったそうだ。にもかかわらずブーイングは起きた。係員の制止も効かなかったという。理由なきブーイングなどない。人々の偽らざる国民感情が噴出した5万人のブーイングの意味を考えずに、「こんな国はサッカーをやる資格などない」という批判を繰り返す一部のメディアやネット右翼には怒りがわいてくる。
「スポーツを政治的に利用するな、スポーツに政治を持ち込むな」は正しい。しかし、スポーツとは草サッカーや草野球だけではない。国家代表チーム同士の対戦という国別対抗の形式をとる限り、サッカーというスポーツもまた国家やナショナリズムといった問題から自由ではない。自国の国旗を掲げ、国歌を歌い、自国の名前を連呼しながら応援することがすでにある種の政治性を帯びた行為になる。
日本のサポーターやメディアの中で朝・日間の植民地支配を含む歴史の問題、そして今も続く朝鮮敵視や在日朝鮮人差別の問題が果たしてどれほど自覚されているだろうか。日の丸を見たり君が代を聞く朝鮮の人々が自分たちとは異なる感情や歴史的な背景を持っているという事実に真摯に向き合っているのだろうか。 外国で、それも自国との間に歴史的な問題が横たわる国で、国の看板を背負ってプレーするということ、そしてそのチームを応援するという行為が意味するものに少しでも自覚的であるべきだ、と私は思う。
今回平壌に行ってきた日本人サポーターの中から一人でも朝・日間の歴史に目を向ける人が現れることを願ってやまない。
日本ではとかくスポーツを「脱政治化」したがる傾向が強い。でもそれがあらゆる場面において正しいことなのか。競技それ自体に政治性はないが、スポーツをするのはあくまで人間であり、国家代表戦のように試合そのものが政治性を帯びる場合もある。朝・日戦のように、すでにさまざまな問題に取り囲まれているのに、それらを「政治的」だからという理由でネグレクトするのが果たしていいことなのか。
国の看板を背負ってプレーしたり、国家代表チームを応援したりすることは、このようなやっかいな難問を引き受けることだと思う。私が鄭大世選手をはじめ在日同胞選手に感動を覚えるのは、彼らが朝鮮半島の北と南、そして日本の狭間に立ち、このような難問に真摯に相対しながら、サッカーというスポーツの可能性を信じプレーしているからだ。(相)
確かに朝鮮とイタリアは国交があります。ザッケローニ監督などイタリア人の関係者は選手たちに比べると入国審査に時間がかからなかったという報道を見たような気がするのですが。手元にないので、調べてみます。
どうあれ朝鮮で普通に暮らしている人々がいるという事実は認めて尊重しなくてはならないのではないでしょうか。まず、自分が訪問してみて、自分の目で見て確かめてそれからものを言ってほしいです。
国家斉唱のブーイングの件に関しても、「理由なきブーイングなどない。」というのは確かですが、ウリサラムとして、それで、納得していいのでしょうか?朝日友好のために頑張っておられる日本の方や、それ以外の一般の方々にそれはどう映ったのでしょうか。自己満足的な一連の態度、行動は、相手の行動に反映され、正当化されかねません。ウリナラ人民の想像絶するこれまでの苦労を思うほど、より誇り高い行動を、実行してほしかった。その上での勝利ならば、よりいっそうの感動が得られたような気がします。
ザック監督とイタリア人コーチは国交はあるのだが。