わたしたちが長生郡市の合併協議を通して学んだものは?
あじすっか=どうしたらよいだろうか(地域の言葉も大切にしたい)
あじすっか(一宮町発) 地域・生活者を起点に地方分権型社会へ
一宮城址の桜

一宮城址の桜もまもなく満開です。
一宮町指定文化財
記念物史跡 一宮城址
昭和六十二年(千九百八十七年)三月二十五日指定
一宮白は天然の地形を利用した標高約30メートルの
台地上にある容量の山城。築城時期は南北朝時代から
十六世紀とされるが詳細は不明。通称「城山(しろやま)」と
呼ばれ、周辺には守護神としての寺院や神社が配置され、
城に関する地名(城之内、追手、院内、陣屋、櫓前など)も
残っている。
一宮城については、永禄五年(1562年)九月に
一宮城主内藤久長が館山城主里見義頼、万木城主土岐頼春、
大多喜城主正木盛賢らに攻められ落城、あるいは同年七月に
一宮城主糟谷大炊助が勝浦城正木時忠、時通親子に攻撃され
数ヵ月後に落城、また永禄八年二月から六月頃に落城、と
諸説あり史実は判然としない。
天正十八年(一五九〇年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に
落城した房総の四十八カ城の中で一宮城も本多忠勝ら数万の
軍勢に攻められ再び落城した。
文禄元年(一五九二年)、本多忠勝の支配する大多喜領と
なった後、領主の変遷を経て明暦三年(一六五七年)には
脇坂淡路守安元、また文政九年(一八二六年)には
加納遠江守久儀によって陣屋が、明治維新によって取り壊された。
平成一二年二月
一宮町教育委員会
一宮町指定文化財
記念物史跡 一宮城址
昭和六十二年(千九百八十七年)三月二十五日指定
一宮白は天然の地形を利用した標高約30メートルの
台地上にある容量の山城。築城時期は南北朝時代から
十六世紀とされるが詳細は不明。通称「城山(しろやま)」と
呼ばれ、周辺には守護神としての寺院や神社が配置され、
城に関する地名(城之内、追手、院内、陣屋、櫓前など)も
残っている。
一宮城については、永禄五年(1562年)九月に
一宮城主内藤久長が館山城主里見義頼、万木城主土岐頼春、
大多喜城主正木盛賢らに攻められ落城、あるいは同年七月に
一宮城主糟谷大炊助が勝浦城正木時忠、時通親子に攻撃され
数ヵ月後に落城、また永禄八年二月から六月頃に落城、と
諸説あり史実は判然としない。
天正十八年(一五九〇年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に
落城した房総の四十八カ城の中で一宮城も本多忠勝ら数万の
軍勢に攻められ再び落城した。
文禄元年(一五九二年)、本多忠勝の支配する大多喜領と
なった後、領主の変遷を経て明暦三年(一六五七年)には
脇坂淡路守安元、また文政九年(一八二六年)には
加納遠江守久儀によって陣屋が、明治維新によって取り壊された。
平成一二年二月
一宮町教育委員会
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