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加納久宜没後90年(番外1) 新撰大人名辞典 1937年発行

「新撰大人名辞典」昭和12年発行に、
加納家の人々が載っていました。
(もちろん加納久明千葉県知事はありませんが)

立花種恭と加納久宜は三人兄弟です。

長男・鐘之助(立花種恭)
次男・英次郎(夭折5歳)
三男・嘉元次郎(加納久宜)

「二人兄弟」「久宜は次男」とする記載がまま見られます。
この人名事典が出展となっているのか、
別の出展からそうなったものか、前後関係が気になるところです。

次男が早くなくなっているので、普段の二人の会話からは、
他に兄弟がいることがわからなかったことは、
無理もないと、推察します。

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日本人名大事典(新撰大人名辞典)第2巻 
1937年7月23日発行
カノーヒサヨシ
加納久宜(かなふ ひさよし)
(一八四八-一九一九)

 明治-大正時代の殖産家。旧上総一
宮藩主。遠江守と称す。立花豊前守種善の
一族種道の二男、加納久恒の嗣となる。慶
應三年襲封し、明治元年従五位下、遠江守
に叙任、二年版籍を奉還し一宮藩知事に任
ず。大学南校に入り、卒業後六年文部首八
等出仕に補し、諸学校長を嘱託せらる。十
四年転じて判事に任じ、のち検事に転じ、
十七年子爵を授けらる。二十三年貴族院議
員に選ばれ、二十七年より三十三年まで鹿
児島県知事として令名があつた。同年九月
休職となり、日本体育会長、日本赤十字社
監事、十五銀行取締役などに選ばれ、また
殖産漁業に盡し、産業組合会、帝国農会な
どの会長となつた。四十五年二月旧領地一
宮町に推されて大いに町政及び民風を改良
した。大正七年満期退職、八年二月二十六
日没、年七十二。従二位勲二等。(津田)
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