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加納久宜没後90年(8) 思春期を実兄 立花種恭のもとで

安政地震で8歳にして両親を失った立花喜次郎(加納久宜の幼名)は
深川の本家、実兄の立花種恭夫婦に引き取られました。

阪神淡路大震災のころから
被災者や被害者のトラウマ(心的外傷)や、
その結果として生ずる PTSD((心的)外傷後ストレス障害)などへの
「こころのケア」の重要性が
注目されてきました。
両親の遺体を庭の下記の木の大木のもとに安置し、
雨戸をさしかけて過ごしたあの恐怖の一夜、
時折り襲う余震と燃えさかる赤い炎を
予は障害忘れることはできぬでだろう
-と晩年彼は語っている。

傷ついた心は、癒しても癒しきれないものですが、
「彼が両親を失ったショックからいち早く立ち直れたのは、
実に延子のあたたかい愛情のおかげであった。」
と伝えられるように、
少年の心を大きくあたたかくうけとめ、
一員として迎え入れてもらえる家庭が
そこにありました。

小伝では
「久宜生来の学問嫌いは相変わらずである。」
と書いてあるが、本当にそうなのでしょうか。

「習字の時間に草紙を水びたしにして逃げ出す」
という状況を、指導管理する立場からみれば、
「手を焼いた」ということになります。

しかし、
書道は、勝負ではなくや達成感がわかりにくく、
目標の設定が難しいものです。
そして、書道という集中の場においては、
潜んでいた心が表に出やすいものです。
勝敗や達成感がわかりにくく、目標の設定が難しいものです。

では、じっとしていることができずに、逃げ出して、
どうしていたのでしょう。
何か好きなことをしていたのでしょうか。
それとも、人知れず涙していたのでしょうか。

それもこれも受け入れてくもらえた少年期(9歳10歳(小学校中学年))
だったのではないかと想像しています。

また、剣道、馬術では一流の指導者のもとで
稽古に励んだこと。
弓道の稽古を通して、兄(種恭)とのコミュニケーションを
とったことなども、
大切な体験となったことと思います。


「立花家の家法によると、男子十一歳以降は教育一切女手を離れて
表屋敷に住むことになる。」
「久宜が本格的に学問に励んだのはこのころから」と紹介している。

小伝では、「名家の子にしては大変な”晩学”である」と
していますが、ここも大切な部分で、再評価が必要だと思います。

何しろ、20歳代には、フランスへの留学を熱望していたいほど
向学心、探究心が旺盛に育ちました。
「大器晩成」を目標とすることこそ、本当の教育の目的であると考えます。

疾風怒濤の思春期は、体が成熟し始め、心が大人になろうともがく時期です。
そして、知識もどんどん吸い込み始める時期となります。

11歳を節目に「一歩大人扱いして過ごさせる」ことは、
とても大切なことだと思います。
そのように、人生の節目をいくつか作ることによって、
大人(自立)へと導いていったのでしょう。

形式も経験から生れてきます。
その本質をつかみ、創意工夫を続けることで、
伝統が生れます。

今日の教育をめぐる諸問題を解決する鍵のひとつが
ここにもあると考えます。


ところで、
兄の立花種恭は、後に学習院の初代院長となります。

そこで、
「加納久宜が、8歳から19歳(数え年)の間(中高一貫校に相当)、
種恭から、さまざまな場面で語ってもらえたことが、
その後の人生のさまざまな場面で活かされていったことでしょう。
たとえば、授業での先生の雑談のように。」
この記事を書き始めるときは、このように、
「いい人に育てられたから」とまとめようと思っていました。

しかし、
書いているうちに、成長と発達の視点が大切だと、あらためて思いました。
現代の発達を続ける脳科学の立場では、どうなのでしょう。

また、種恭が学習院の初代院長を引き受けた思いの中には、
安政地震で、娘を失ったことや、
被災した弟久を育てたことなどの体験が、
逆に活かされていたのではないかと想像します(仮説)。


種恭は、嘉永2年に従兄弟の立花種温がなくなったため、宗家の養子となり筑後国三池藩の後を継いでいます。

徳川家茂の側近として活躍し、加納久宜もその関係者(人脈)との縁も
生れています。

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『加納久宜小伝』(『加納久宜 鹿児島をよみがえらせた男』)
 一夜にして孤児となった久宜は、本家に引き取られることになった。深川の本家の被害は本所以上であった。一帯に原型をとどめた満足な家とて一軒もなく、道路に累々と放り出された俵詰めの遺体、瓦礫の中に半身乗り出したままの黒こげの遺体-。本家もわずかに馬小屋半分を残して建物は全部倒壊し、ここに兄の家族は起居してた。一家七人のうち、出雲守の義妹ら四人が圧死していた。
 そんな悲運の中で、兄出雲守の養母延子は、快く久義を迎えてくれた。彼が両親を上日なったショックからいち早く立ち直れたのは、実に延子のあたたかい愛情のおかげであった。
 兄も幼い弟の境遇を不憫がり参勤交代のたびに滞在し、亡父にかわって読書、習字の指南をする一方、剣道は幕府の御指南番小谷精一郎に入門させ、馬術は大久保本流磐井槍吉の弟子となし、また弓術は自ら師となって久宜をきたえた。
 だが久宜生来の学問嫌いは相変わらずである。習字の時間に草紙を水浸しにして逃げ出すなど、兄もこのヤンチャ末弟には手を焼いた。立花家の家法によると、男子十一歳以上は教育一切女手を離れて表屋敷に住むことになる。久宜が本格的に学問に励んだのはこのころからという。
 名家の子にしては大変な『晩学』である。




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