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加納久宜没後90年(7) 馬と耕作 少年期の体験

加納久宜元町長は馬好きでした。

一宮町長になる以前のことです。
鹿児島県知事を辞めた後に、
安田伊左衛門との出会いがありました。

岐阜県海津市のホームページにある、競馬の父安田伊左衛門
の資料から大きな出会いであったことが伺えます。

そこには、純粋にその手で馬を愛でる姿があり、
良馬を産み育てることの意義や、喜びについて
語り合い、意気投合する様子を想像します。

二人は、出会いから2年後(1906年2月)に
日本の競馬の先駆けとなる「東京競馬会」を発足させました。

もちろんそれは、射幸心をあおるのが目的ではなく、
産馬振興の一環としての、ひとつの手段であったと、
理解します。

ですから、「東京競馬会」の発足後に複数の「競馬会」が乱立し、
運営に混乱があったであろうことに、
二人は心を痛めたことと察します。


それは加納元町長が、
鹿児島県知事時代(日清戦争から日露戦争のころ)にも、
「登庁から地方視察までいっさい愛用の白馬を車がわりに」使う
ばかりでなく、畜産の振興にも力を注いだことからもわかります。

「薩馬」復活に情熱を注ぎ、
着任早々に、「種馬組合規則」を発布するとともに、
振興予算を計上し、種馬を県が直接購入した。
さらに、「生産馬籍規則」により
すべての地域の産馬組合の馬籍をづけました。
これらと、「牛馬売買営業取締り規則」によって、
従来の野放しばい売買の慣習を改めました。

あわせて、
解散寸前の競馬会社へのてこ入れをし、
懸賞基金を優勝者に贈り表彰する形で
鹿児島競馬は、安定した運営をするようになっていきました。


このように、産馬振興に特別な思い入れがあったのは、
工作(凧作り=流体力学)や耕作(農作業)とともに、
少年期に父親と過ごした本所の下屋敷の広い敷地での
乗馬の経験によろり染み込んでいたものがあることを
感じさせます。

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