わたしたちが長生郡市の合併協議を通して学んだものは?
あじすっか=どうしたらよいだろうか(地域の言葉も大切にしたい)
あじすっか(一宮町発) 地域・生活者を起点に地方分権型社会へ
町文化財「加納久宜公の墓」の清掃活動
町民ボランティアによる
町指定文化財の史跡「加納久宜公の墓」の清掃活動が
昨日(25日)から始まりました。
ちょうど、曾孫の麻生太郎氏が23日に自由民主党総裁となり、
24日に第92代内閣総理大臣に就任しました。
これも何かの因縁なのでしょうか。
もちろん、地方自治には政党は関係ありません。
史跡は加納久宜元一宮町長への町民の評価だと理解しています。
9月1日付けで、一宮町(千葉県長生郡)のHPに
参加の呼びかけがありました。
初日の9月25日の参加者は4名でした。
素人ができないような大きな枝は
すでに強く剪定され、篠も刈られていたので
明るく、九十九里を見渡すことができるようになっていました。
30分ほど簡単に草刈をしました。
第4木曜日の午前10時からと決まったので
わずかな人数でも継続していけたらと思います。
そこで今後は、
10月4日(土)午後の第2回文化財講座
「平の広常の功績とその一族の末裔たちをたずねて」
などの教育委員会の行事も
「広報いちのみや」の広報カレンダーなどに
載せていただけると
見落とさなくてよいのではないかと思います。
ところで
Wikipiedで「麻生太郎」でみると
残念ながら、
父方の曽祖父にあたる「加納久宜」がほとんど紹介されていません。
私は、Wikipediaの編集にかかわる方法がわからないので
ぜひ鹿児島県の関係者に
元鹿児島県知事が曽祖父であることを
紹介していただければと思います。
母方の祖母の父親と祖父
(曽祖父:牧野伸顕氏と高祖父:大久保利通氏)
については、トップのほうに紹介してあります。
さて、
私どもは細々と「加納久宜を読む(読書会)」を
今年の3月から月1回(第2木曜日)のペースで
細々と続けています。
内容は、「加納久宜 鹿児島を蘇らせた男」
大囿純也著(高城書房)を
少しずつ読みすすめながら
自由に情報交換・意見交換をしています。、
どのような人物だったのか、
なぜ当時評価が高かったのか、
だんだん分かってきました。
「不偏不党」の精神で、
「勧業(産業の育成)」「教育」に尽力した。
と一言でいっても、どういうことか分からない。
印象深い部分の一つを引用(書記官当の名は伏せました)して、
不偏不党といわれる人物像を紹介します。
(次回は、10月14日:第8回第五章「水産土木」の続き(P113))
第二章「鹿児島着任」 民党、吏党の暗闘 より(p30~)
県知事着任当時の状況
他にも、人材育成など興味深い部分がたくさんあります。
麻生太郎首相の父方の祖母(夏子)は、加納久宜元熊本県知事の末子(六女)で、
明治27年の着任にあたり、東京から鹿児島へ一家転住してきました。
食事をともにしていたようですので、
「鹿児島県史上、まれにみる躍動の”加納県政時代”」を
肌で感じていたことと思います。
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町指定文化財の史跡「加納久宜公の墓」の清掃活動が
昨日(25日)から始まりました。
ちょうど、曾孫の麻生太郎氏が23日に自由民主党総裁となり、
24日に第92代内閣総理大臣に就任しました。
これも何かの因縁なのでしょうか。
もちろん、地方自治には政党は関係ありません。
史跡は加納久宜元一宮町長への町民の評価だと理解しています。
おらがまち探検隊 ~文化財保存体験~
文化財を見るだけでなく、もっと身近に感じてみませんか?
9月1日付けで、一宮町(千葉県長生郡)のHPに
参加の呼びかけがありました。
初日の9月25日の参加者は4名でした。
素人ができないような大きな枝は
すでに強く剪定され、篠も刈られていたので
明るく、九十九里を見渡すことができるようになっていました。
30分ほど簡単に草刈をしました。
第4木曜日の午前10時からと決まったので
わずかな人数でも継続していけたらと思います。
そこで今後は、
10月4日(土)午後の第2回文化財講座
「平の広常の功績とその一族の末裔たちをたずねて」
などの教育委員会の行事も
「広報いちのみや」の広報カレンダーなどに
載せていただけると
見落とさなくてよいのではないかと思います。
ところで
Wikipiedで「麻生太郎」でみると
残念ながら、
父方の曽祖父にあたる「加納久宜」がほとんど紹介されていません。
私は、Wikipediaの編集にかかわる方法がわからないので
ぜひ鹿児島県の関係者に
元鹿児島県知事が曽祖父であることを
紹介していただければと思います。
母方の祖母の父親と祖父
(曽祖父:牧野伸顕氏と高祖父:大久保利通氏)
については、トップのほうに紹介してあります。
さて、
私どもは細々と「加納久宜を読む(読書会)」を
今年の3月から月1回(第2木曜日)のペースで
細々と続けています。
内容は、「加納久宜 鹿児島を蘇らせた男」
大囿純也著(高城書房)を
少しずつ読みすすめながら
自由に情報交換・意見交換をしています。、
どのような人物だったのか、
なぜ当時評価が高かったのか、
だんだん分かってきました。
「不偏不党」の精神で、
「勧業(産業の育成)」「教育」に尽力した。
と一言でいっても、どういうことか分からない。
印象深い部分の一つを引用(書記官当の名は伏せました)して、
不偏不党といわれる人物像を紹介します。
(次回は、10月14日:第8回第五章「水産土木」の続き(P113))
第二章「鹿児島着任」 民党、吏党の暗闘 より(p30~)
県知事着任当時の状況
長めの引用となりましたが、関心を持たれた方は、本を手にとってお読みください。
県庁を根城として民党弾圧を一手に引き受けていたのは、先に述べた書記官○○○○。野党臭い職員は片っ端からクビ。そのかわり独立倶楽部に”転向”したり、民党のスパイなど買って出る者は直ちに昇任、栄転思いのまま。警察部長の○○○○、保安課長○○○○(ともに鹿児島市出身)も全面的にこれに協力、警察官はおろか、学校教職員、町村長まで”吏党一色”に塗りつぶされてしまった。
小学校の訓導など「自今出勤に及ばず」という紙切れ一枚でクビになる者続出。特に下伊集院村尋常小学校では教員四人のうち一人は転校させられ他の三人はクビ。先生が全部いなくなって休校やむなきに至った。思いあまって村長や学務委員が県庁をたずね免職の理由を聞いたが「職務上理由は言えない」と○○。「では廃校にしろというのですか」と聞くと「いや、それでは気の毒だ。次の生徒が師範を卒業するまで待ちなさい」と放言したそうだ。
こんな露骨な干渉にもかかわらず、その後吏党はさっぱり伸びなかった。あせる政府はますます民党弾圧に力を入れ、民党も死力を尽くして抗争にあけくれた。県庁は吏党の選挙本部、県議会は両者のかけ引きの場、町村役場と警察は情報収集と実力弾圧の出先機関と化したのであった。
各地で流血事件が続発し、隣村に行くにも武器を携帯しなければ命が危ない。農民まで田舎壮士然として棍棒(こんぼう)を持ち、有権者カン詰の見張りや争奪を演ずる。田んぼの所有者の色分けで「吏党田」「民党田」と呼ばれたぐらいだ。勧業も農政もあったものではない。着任した加納は、このようなありさまを見て、「どこから手をつけていいのか、一時は呆然として見当がつかなかった」。
なんといっても、まず県庁を本来の姿に戻さなければならぬ。彼は大決心をもって次の方針を公にした。
(1)吏員を採用するにあたり党派の関係を眼中におかざること。
(2)技術専門の人を除くの外はなるべく本県人を採用すること。
(3)技術者を要するも本県に適任者なき時は該専修学校の教官又は当該官に選択を乞ふて其人を採用すること。
(4)久宜の親族知人旧臣は一切官吏に任用せざること。
(5)官吏服務の模範として高等官以上は出勤時間に先立ちて出頭し退庁時間に遅れて帰宅すること
・・・
他にも、人材育成など興味深い部分がたくさんあります。
麻生太郎首相の父方の祖母(夏子)は、加納久宜元熊本県知事の末子(六女)で、
明治27年の着任にあたり、東京から鹿児島へ一家転住してきました。
食事をともにしていたようですので、
「鹿児島県史上、まれにみる躍動の”加納県政時代”」を
肌で感じていたことと思います。
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