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加納久宜没後90年(11) 立花種恭と加納家 家茂、和宮つながり

加納久宜は、
立花家の遠縁ということでの加納家の養嗣子となったが、
実兄の立花種恭と加納家の関係は、
徳川家茂時代の江戸幕府つながりが大きいと思います。

加納家の先々代藩主の加納久徴(文化10(1813)年生まれ)は、
嘉永2年(1849年)に大番頭に任じられ、
安政2年(1855年)に講武所総裁を兼任している。
安政4年(1857年)に奏者番に任じられ、
文久元年(1861年)には若年寄に任じられるなど、
幕末期の要職を歴任した。
和宮が江戸幕府第14代将軍・徳川家茂のもとに降嫁する際には、
江戸までの警護役を務めた。
(その功により頂戴したといわれる和宮の籠が一宮町の東漸寺に
今も残っている)


一方、立花種恭(天保7(1836)年生)は、
幕末期には佐幕派として行動し、
徳川家茂の側近として文久2年(1862年)6月に大番頭となり、
長州征伐でも幕府軍として参加した。
慶応3年(1867年)には老中格となっていた。


ちょうど、第14代将軍・徳川家茂の時代に(1858年 - 1866年)に
江戸幕府の中心で活躍していたことがわかる。

そのような関係から、若く急逝した加納久恒も
直接交友をもち、
とても信頼していたのではないかと
想像します。

(天璋院篤姫との関係はどうだったのか、
気になるところです。
ここに、もうすでに鹿児島との縁を感じます。)


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