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本日 加納久宜を読む 第2回

今日(4月8日)は
加納さんを読む(加納久宜読書会)第2回でした。
第2章「鹿児島着任」(P20から)

明治 4年(1871年)加納久宜24歳
廃藩置県により、旧藩主はすべての公職が禁じられ
久宜氏が一宮藩知事を止めて
てから

明治27年(1897年)加納久宜47歳
久宜氏が鹿児島県知事になるまで
をよみました。

この間、久宜氏の歩みと
鹿児島県の状況を比較をすることが
中心の話題となりました。


26歳(明治6年、1873年)から
34歳(明治14年、1881年)まで
「学制」の翌年から
教育関係を足掛け9年

文部省督学局
→岩手県(師範学校校長・学区取締総監督)(2年)
→新潟学校校長(3年)

34歳(明治14年、1881年)から
47歳(明治27年、1894年)まで
旧刑法・治財法(明治15年1月1日施行)とともに
司法関係を足掛け16年

熊谷裁判所判事(足掛け2年)
→大審院検事(足掛け13年)

その後、加納久宜氏は、
鹿児島県、そして一宮町の
地方自治で活躍し、実績を残しましたが

その背景には、
幼少からの体験とともに、
この教育、司法での経験こそが
基礎となったのだのだろうと
語り合いました。

なお、この間
辞表を二度も出したことから、
地位や職にこだわらない姿勢が
伺えました。
(兄、立花種恭氏の影響と配慮があったことが
他の文献からわかると、会員からの紹介もありました)

また、
検事になったばかりのときに
用語が「フランス語より難しい」とは
おもしろい指摘だと理解しました。
旧刑法は、フランス刑法典(1810)を基本に
草案が作られました。
フランス語に堪能な久宜氏には
専門家どうしにしか通じない日本の漢字を使った単語より
フランスの法律書のほうが
すんなりと読めたのではないかと推察しました。

「東京から法律書を取り寄せ、第一章から勉強をはじめた」
とは
フランス語がどのように日本語に訳されているか
勉強したのではないかとも考えられます。

なお、
47歳になり、大臣によばれたとき
「いよいよ司法界から永の御暇をいただくか、と推量」した
背景については、会員の意見が分かれました。

何が筋を通したために追われた、という意見と
業績をたたえ後進に道を譲るため、という意見と
分かれました。
どちらだと思いますか?

(自分は前者です。証拠はありません。当て推量です。)








結局P29までしか読めませんでした。




鹿児島に着くまでの
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