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加納久宜没後90年(9) 震災から14年 

あの兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)から、14年が経ちました。

先月、このブログでも、震災を取り上げました。
加納久宜没後90年(6)安政江戸地震 下屋敷全壊、八歳で両親を失う
それは、安政2年(1855年)のことです。

加納久宜小伝では、
「両親の遺体を庭の柿の大木のもとに安置し、雨戸をさしかけて過ごしたあの恐怖の一夜、時折り襲う余震と燃えさかる赤い炎を予は生涯忘れることはできぬだろう - と晩年彼は語っている。」
と伝えています。

震災から14年後の1869年、版籍奉還とともに一宮藩知事となりました。
(19歳で加納家の養子となり、一宮藩藩主となっていました)


その後、加納は、震災による心的外傷を克服し、
幾多の業績を残しました。

いえ、もしかすると、
この壮絶な体験を克服する人生だったのかもしれない。
読書会を始めて一年、そのようにも考え始めました。

鹿児島県知事、一宮町町長

岩手県師範学校校長、
新潟学校校長、
大審院(最高裁)判事、
貴族院議員、
日本赤十字社支部長、
帝国農会初代会長、
都内初の信用組合(現城南信用金庫)設立、
日本体育会会長、
同体操学校(現日本体育大学)校長、
荏原中学(現日体荏原高)初代校長、
東京競馬クラブ初代会長、など


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『加納久宜小伝』(『加納久宜 鹿児島をよみがえらせた男』)
 しかしそのころ、彼の両親はもういなかった。久宜八歳の時、すなわち安政二年十月二日の大地震は、父母もろとも一夜にして奪い去ったのである。
 この日、午後十時過ぎであろうか、ただならぬ轟音に目をさました彼は、あっという間に母親の腕に抱かれ、抱かれたまま数回ころび、そのままどすんと二、三間先に投げ出された。暗闇の中にメリメリと柱の折れる音、地鳴り。近くで母の苦悶のうめきが聞こえた。彼は幸運にも、大きな柱のすき間にすっぽり入り込んだかっこうで、身体の自由はきかなかったが、ケガはなかった。母は苦しい声で 「助けを呼べ」 と言う。彼は声を限りに叫び続けた。しかし、厚い屋根の底から子供の声が外に届くはずもなかった。
 数時間後、本家付きの家来たちがカワラをはがして助け出した時には、もう母は虫の息であった。父の遺体も間もなく発見された。両親の遺体を庭の柿の大木のもとに安置し、雨戸をさしかけて過ごしたあの恐怖の一夜、時折り襲う余震と燃えさかる赤い炎を予は生涯忘れることはできぬだろう - と晩年彼は語っている。
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