goo

千葉県の先覚(1) 志田 太郎 (しだこうたろう)

私たち千葉県人は、残念ながら千葉県の先覚者についてあまり知らない。(知らな過ぎる)
一宮町の関係者を調べているうちに、「千葉県の先覚」という本をつけました。
(昭和48年6月15日発行 編集発行千葉県企画部千葉県民課)

今回、特に注目したのは、大正時代の加納久宜一宮町長との志田太郎一宮実業学校創設者です。

一宮藩最後の藩主の加納久宜氏は、鹿児島県知事に就任した後、大正時代に町長になるまでの間、一宮のことを忘れてしまったのかどうか、気になっていました。


両氏の関係について、意識したことはなかったのですが、
志田太郎氏のところで
「別荘地にはなんとしても電話が必要であると力説して、加納久宜と協力して特設電話をもうけた。」とありました。

「一宮が銚子、八日市場、木更津とともに県下で電話架設がもっと古く、明治四二年に開通したことも人々のよく知るところであろう。」
とはあります。
情報網の基盤整備はとても重要で、歴史的な経緯は、ほとんどの人が忘れ去っていることですが、先覚者たちの見識の先見性にさすがだと思いました。

特にNTTはじめ通信業者や行政の関係者に感じていただきたい感覚だと思います。


思い起こせば、一宮町での「なのはな県民会議」で、「房総情報ハイウェイ」の提案をしたことを思い出します。
「岡山情報ハイウェイ」の状況を参考に、太平洋から海底ケーブルの上陸する丸山町などを基点に、高規格道路網を基準に、県としてブロードバンド網を整備してほしいというものでした。
人口集中部にだけ情報網を整備しても、高度情報化の恩恵はえられないという考えです。
たとえば成田や幕張にいて、一宮の状況がわかるように。
また、一宮にいても都心にいるのと同じような情報環境にある。
「観光立県」と位置づけるなら必要なことではないか、と提案しました。

しかし、残念ながら、
「民間に任せる」という担当者の答弁が繰り返されるだけでした。

今後、千葉県の将来を担いたいと考える方々が、情報通信についてどのような見識があるか関心があります。(今年は、千葉県知事選挙もあることですし・・)

なお、残念ながら、千葉県のHPでは現在、一宮町での「なのはな県民会議」の状況が検索できなくなっています。
知事の指示によるものなのか、担当者の独断によるものなのか、気になっています。

 ↓ このカテゴリーのブログに関心がある方はこちらにもどうぞ
にほんブログ村 千葉情報 地方自治
地域生活ブログ 教育 医療 政治・社会問題
地方・郷土史 偉人・歴史上の人物 史跡・神社仏閣 歴史 環境


「千葉県の先覚」(昭和48年6月15日発行 編集発行千葉県企画部千葉県民課)
志田 太郎(しだ こうたろう)
  郷土の発展につくした文化人

一八六八~一九五一(明治元年~昭和二六年)

 束京で、志田純一郎の長男として生ま
れる。明治一九年大学予備門に入る。二
七年東京帝国大学法科大学卒後、大学院
に移り商法のうち会社法、保険法を専攻
する。三〇年東京高等商業学校(現、一
橋大)教授となり、かたわら各私立大学
で教鞭をとる。三一年ヨーロッパへ留
学、三六年法学博士の学位を得る。四一
年には清国商法編さんのため大陸へ渡
る。大正一四年一宮実業学校の初代校長
となり、大いに育英事業に尽力。明治三
〇年以来教鞭をとってきた明治大学にお
いて商学部長に就任。昭和一五年同大学
総長となり昭和一八年退職、一宮に閑
居。二六年三月、八三才で没した。

 太郎は生れつき明敏で、人表勉学にいそしんだ。のち保険学の権威となったが、昭和一五年一一月従来の保険学会とは別に日本保険学会が創苦れた。これは太郎が事実上の会長であった。
 太郎に教えをうけた学生ほ数えきれない。専門は法律であったが、経済学や社会学にも造詣が深かった。つねに学生に向って「偉大なる凡人」になれと力説した。そして自己の生活の指針としては用心深く、合理主義に徹していたという。
 太郎は長生郡一宮町をこよなく愛しつづけた。教育の振興をさけんで同町に中学校の必要を力説し、ついに一宮実業学校を創設してみずから校長となった。彼は開校以来昭和一一年同校が県立に移管されるまで、校長としての報酬を一切受けなかったという。のちに町当局は太郎に感謝のしるしとして町有地の一部をおくったが、彼は没する直前、それと私有地をあわせて率先これを県に寄付した。いま県林業試験場一宮分場の地がそれである。
 太郎は一宮が別荘地としてすぐれていることを見抜いていた。大勢の知人をこの地にさそったのも彼である。別荘地にはなんとしても電話が必要であると力説して、加納久宜と協力して特設電話をもうけた。一宮が銚子、八日市場、木更津とともに県下で電話架設がもっと古く、明治四二年に開通したことも人々のよく知るところであろう。一宮学園の創設にも大きな力があった。こよなく一宮の地を愛した文化人太郎のたましいは、永遠に一宮町に生きつづけている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 加納久宜没後9... 千葉県の先覚(... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。