わたしたちが長生郡市の合併協議を通して学んだものは?
あじすっか=どうしたらよいだろうか(地域の言葉も大切にしたい)
あじすっか(一宮町発) 地域・生活者を起点に地方分権型社会へ
加納久宜没後90年(12) 加納家と兵法 (伝統山鹿流からフランス兵法へ)
一宮海岸の松林には、加納藩台場跡(一宮町指定史跡)があります。
(写真:碑は昭和40年7月10日、千葉県教育委員会、一宮町教育委員会)
一宮町HPの解説
徳川幕府が海岸防衛を重視し始めた折、外圧対策に応え、
他藩に先駆けて着工され、完成は天保15年(1844年)でした。
当時の一宮藩第6代藩主加納久徴は、
山鹿流の兵法家でもあります。
天保13年に29歳で襲封しましたが、
すぐに着工したことがわかります。
このように、積極的に取り組んだことが伺えます。
「加納久徴こそ、日本国土防衛の先駆者と称すべきであろう」
(碑の説明文より(平成10年町教育委員会))
品川のお台場は、ペリーの来航した嘉永5年(1853年)の着工でした。
大棟梁平内大隈の指揮の下、日本の伝統工法により、
わずか半年で完成させていきました。
(費用がかかりすぎたために、平内家は責任を取らされ、「お家取り潰し」となってしまいました。平内家は、日光廟大猷院、木割書「匠明」、和算など重要な家柄だっただけに、継承されず非常に残念です。明治維新後、日本の伝統建築工法が衰退していきます。このことはまた別の機会に。)
お台場建設の提案は、伊豆の江川太郎左衛門によるものでした。
西洋式の図面で、頭の中で考えただけでしたので、
とても実現できると思われなかったのは、当然でした。
しかし、
このように大公共事業を、平内大隈の力で短期間に完成できた上に、
大儲けできたのですから、鼻高々だったことだと思います。
加納家と江川家との関係は、
この後、世代を超えて鳥羽伏見の戦いで出てきます。
さて、
慶応2年、加納久宜は養子となり弱冠19歳で一宮藩第8代藩主になります。
兵法については、
佐久間象山の高弟蟻川功に師事してフランス兵学を学んでいました。
実兄の老中立花種恭が幕閣の軍制改革にも取り組んでいたの影響です。
新政府軍は主にイギリスから、列藩同盟軍は主にドイツから、
軍事教練や武器供与などの援助を受けていました。
「国入り早々近習の侍を集めてフランス式操練を行った。」(加納久宜小伝)
とありますが、側近がそれを認めたのは、
藩主の個人的な意気込みだけでなく、そういう社会的な背景があったから
だと想像します。
折りしも、鳥羽・伏見の戦いが始まります。
幕府は、この最新の西洋式兵団を、内戦に使うか、国防に使うか
悩むところです。
次回に続きます。
(識者は「漁夫の利」という故事を理解し、目先の勝敗を超越していたことと思います。)
参考文献
一宮町HP
「ふるさと今昔」上総一ノ宮郷土史研究会
「鹿児島の勧業知事 加納久宜小伝」加納知事五十年祭奉賛会編 大囿純也著
「加納久宜 鹿児島をよみがえらせた男」大囿純也著 高城書房
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(写真:碑は昭和40年7月10日、千葉県教育委員会、一宮町教育委員会)
一宮町HPの解説
加納藩台場跡の碑
鎖国をしていた江戸時代の終わり頃、房総半島の沖にも外国の船がひんぱんに来航するようになったため、太平洋に面した海岸の警備として当時の一宮藩主加納久徴は砲台を作らせました。5ヶ所の砲台の跡には今でも台場という地名が残されています。
徳川幕府が海岸防衛を重視し始めた折、外圧対策に応え、
他藩に先駆けて着工され、完成は天保15年(1844年)でした。
当時の一宮藩第6代藩主加納久徴は、
山鹿流の兵法家でもあります。
天保13年に29歳で襲封しましたが、
すぐに着工したことがわかります。
このように、積極的に取り組んだことが伺えます。
「加納久徴こそ、日本国土防衛の先駆者と称すべきであろう」
(碑の説明文より(平成10年町教育委員会))
品川のお台場は、ペリーの来航した嘉永5年(1853年)の着工でした。
大棟梁平内大隈の指揮の下、日本の伝統工法により、
わずか半年で完成させていきました。
(費用がかかりすぎたために、平内家は責任を取らされ、「お家取り潰し」となってしまいました。平内家は、日光廟大猷院、木割書「匠明」、和算など重要な家柄だっただけに、継承されず非常に残念です。明治維新後、日本の伝統建築工法が衰退していきます。このことはまた別の機会に。)
お台場建設の提案は、伊豆の江川太郎左衛門によるものでした。
西洋式の図面で、頭の中で考えただけでしたので、
とても実現できると思われなかったのは、当然でした。
しかし、
このように大公共事業を、平内大隈の力で短期間に完成できた上に、
大儲けできたのですから、鼻高々だったことだと思います。
加納家と江川家との関係は、
この後、世代を超えて鳥羽伏見の戦いで出てきます。
さて、
慶応2年、加納久宜は養子となり弱冠19歳で一宮藩第8代藩主になります。
兵法については、
佐久間象山の高弟蟻川功に師事してフランス兵学を学んでいました。
実兄の老中立花種恭が幕閣の軍制改革にも取り組んでいたの影響です。
新政府軍は主にイギリスから、列藩同盟軍は主にドイツから、
軍事教練や武器供与などの援助を受けていました。
「国入り早々近習の侍を集めてフランス式操練を行った。」(加納久宜小伝)
とありますが、側近がそれを認めたのは、
藩主の個人的な意気込みだけでなく、そういう社会的な背景があったから
だと想像します。
折りしも、鳥羽・伏見の戦いが始まります。
幕府は、この最新の西洋式兵団を、内戦に使うか、国防に使うか
悩むところです。
次回に続きます。
(識者は「漁夫の利」という故事を理解し、目先の勝敗を超越していたことと思います。)
参考文献
一宮町HP
「ふるさと今昔」上総一ノ宮郷土史研究会
「鹿児島の勧業知事 加納久宜小伝」加納知事五十年祭奉賛会編 大囿純也著
「加納久宜 鹿児島をよみがえらせた男」大囿純也著 高城書房
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