創価学会の没落

悲鳴をあげる学会員

公明党本部にあったSCIA

2018-12-28 08:58:37 | 公明党・選挙

 下山氏が当時、公明党の本部内にあった、創価学会の渉外三局の仕事をするようになったのは、四十二年ごろからで、そのころ反共雑誌を発行していたZ社に、時折原稿を書いていた関係上、総支部長の渡部氏にすすめられ、渡部氏の勤務する渉外三局に、その直轄として仕事を手伝うようになったそうです。(中略)
 下山氏に伺うと、はじめ渉外三局が、なにをするところかも知らず、なぜ、渉外三局だけが公明党の本部内にあったかもわからなかったそうです。
 また、そうした学会本部の組織を知っている学会員は、いまでも、一割もいないだろうとのことで、誰もそうしたことに、不思議は感じていなかったということです。当時の渡部氏の上司は渉外三局長の館岡総務で、渉外三局のボスは北条浩副会長だったのです。
 下山氏がはじめてやらされたのは、そのころ、室伏高信( 評論家) が書いたZ社の『池田大作論』の内容を探れという任務で、その本の中身にどんなことが書かれているか、「もし池田先生を誹謗するようなことだったら、何か考えなければいけない…… 」ということで、「… … できれば、ゲラを手に入れて欲しい」ということだったそうです。
 Z社の編集員から、あっさりと印刷所を聞き出し、報告をすると、「あそこは、戸田先生のころに学会誹謗をやったことがある。だから、Z社の出入りを注意して、積極的につきあいながら、いろんな報告をしてくれ---」と、渡部氏に厳命されたとのことです。

  以来、日本興信所の社長に紹介され、( タテ線の地区部長候補の役職は解かれて) 情報調査専門の特訓を約十日間受け、少しずつ高度な調査活動をやらされ、時には、陸軍中野学校出身の、専門のスパイとも行動をともにしたそうです。
下山氏にお会いした折、私は、
「学会の情報活動として、一番印象に残っている仕事は、どんなことでした---? 」
と、尋ねますと、
「共産党機関紙『赤旗』の発行部数調査に関連し『赤旗』の新聞用紙をどこから仕入れているか、その探知に成功したことですが、そのとき、仕入れ先の商事会社を探るため、新聞用紙のヤレ( 印刷不良) 拾いをした苦労はいまでも忘れませんよ」
そう、苦笑し、
「大阪のPL教団や、立正佼成会の調査、毎日新聞記者の内藤国夫氏の『公明党の素顔』に関して、内藤記者を内偵したとか、いろいろありましたね…… 」
と、遠い出来事のように思い出していました。
「その間、報酬のようなものは---」
そう、伺うと、
 「大阪のPL教団の調査にいったころ、一万円ぐらい渡された程度で、その他、ある事件で某氏と警視庁での対決が終わった数日後、池田先生からだ、ということで渡部氏から十五万円ぐらいお金を渡され、これでいろいろなことを整理しろといわれたことがあります。
 しかし、そのお金の渡し方が、まるでスパイみたいなやり方で、秋葉原何時何分発の何行きに乗ってこい。オレは信濃町から乗るから、 ということで、前から何両目と指定されて、そこにいたら渡部氏が乗ってきました。ちょうど私も扉に近いところにいて、彼がポンと乗ってきたので、自然に向かい合うかたちになり、彼は懐から封筒を出して。すぐしまえ、 というので、私もパッとポケットに入れたんです。すると渡部氏は、
 〝これは会長先生から北条さんがいただいてくれたんだ、就職先を探さなきやならないと心配しているぞ---〟
と、まるで、秘密文書を渡すような調子で封筒を渡し、すぐに代々木で降りていっちやったんです」
 下山氏はそういって、渉外三局の三年間を省み、広宣流布のためとはいえ、その間いかに個人的負担を強いられたかを追憶していました。
(『創価学会からの脱出』三一書房)


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