下山氏が当時、公明党の本部内にあった、創価学会の渉外三局の仕事をするようになったのは、四十二年ごろからで、そのころ反共雑誌を発行していたZ社に、時折原稿を書いていた関係上、総支部長の渡部氏にすすめられ、渡部氏の勤務する渉外三局に、その直轄として仕事を手伝うようになったそうです。(中略)
下山氏に伺うと、はじめ渉外三局が、なにをするところかも知らず、なぜ、渉外三局だけが公明党の本部内にあったかもわからなかったそうです。
また、そうした学会本部の組織を知っている学会員は、いまでも、一割もいないだろうとのことで、誰もそうしたことに、不思議は感じていなかったということです。当時の渡部氏の上司は渉外三局長の館岡総務で、渉外三局のボスは北条浩副会長だったのです。
下山氏がはじめてやらされたのは、そのころ、室伏高信( 評論家) が書いたZ社の『池田大作論』の内容を探れという任務で、その本の中身にどんなことが書かれているか、「もし池田先生を誹謗するようなことだったら、何か考えなければいけない…… 」ということで、「… … できれば、ゲラを手に入れて欲しい」ということだったそうです。
Z社の編集員から、あっさりと印刷所を聞き出し、報告をすると、「あそこは、戸田先生のころに学会誹謗をやったことがある。だから、Z社の出入りを注意して、積極的につきあいながら、いろんな報告をしてくれ---」と、渡部氏に厳命されたとのことです。
以来、日本興信所の社長に紹介され、( タテ線の地区部長候補の役職は解かれて) 情報調査専門の特訓を約十日間受け、少しずつ高度な調査活動をやらされ、時には、陸軍中野学校出身の、専門のスパイとも行動をともにしたそうです。
下山氏にお会いした折、私は、
「学会の情報活動として、一番印象に残っている仕事は、どんなことでした---? 」
と、尋ねますと、
「共産党機関紙『赤旗』の発行部数調査に関連し『赤旗』の新聞用紙をどこから仕入れているか、その探知に成功したことですが、そのとき、仕入れ先の商事会社を探るため、新聞用紙のヤレ( 印刷不良) 拾いをした苦労はいまでも忘れませんよ」
そう、苦笑し、
「大阪のPL教団や、立正佼成会の調査、毎日新聞記者の内藤国夫氏の『公明党の素顔』に関して、内藤記者を内偵したとか、いろいろありましたね…… 」
と、遠い出来事のように思い出していました。
「その間、報酬のようなものは---」
そう、伺うと、
「大阪のPL教団の調査にいったころ、一万円ぐらい渡された程度で、その他、ある事件で某氏と警視庁での対決が終わった数日後、池田先生からだ、ということで渡部氏から十五万円ぐらいお金を渡され、これでいろいろなことを整理しろといわれたことがあります。
しかし、そのお金の渡し方が、まるでスパイみたいなやり方で、秋葉原何時何分発の何行きに乗ってこい。オレは信濃町から乗るから、 ということで、前から何両目と指定されて、そこにいたら渡部氏が乗ってきました。ちょうど私も扉に近いところにいて、彼がポンと乗ってきたので、自然に向かい合うかたちになり、彼は懐から封筒を出して。すぐしまえ、 というので、私もパッとポケットに入れたんです。すると渡部氏は、
〝これは会長先生から北条さんがいただいてくれたんだ、就職先を探さなきやならないと心配しているぞ---〟
と、まるで、秘密文書を渡すような調子で封筒を渡し、すぐに代々木で降りていっちやったんです」
下山氏はそういって、渉外三局の三年間を省み、広宣流布のためとはいえ、その間いかに個人的負担を強いられたかを追憶していました。
(『創価学会からの脱出』三一書房)
かつて学会の幹部が僧侶をつるし上げをしたことは、歴史的事実だが、驚いたことに北条元会長、前会長・秋谷氏、現会長・原田氏までもそれにかかわっていたという、当事者である僧侶の手記が存在している。
▼▼▼引用▼▼▼
池田門下の優等生といわれた原田稔副会長、野崎勲青年部長(当時)らに、青年御僧侶たちが、次々に学会本部や各地方会館に呼ばれ、延々六時間から九時間にわたって「土下座しろッー」と怒鳴られ、罵声を浴びせられ、あげくの果て「詫び状」まで書かされたという、とても普通の常識では考えられぬ事件であります。
(中略)
まず、つるし上げを受けた一人、福井県・宝珠寺住職の栗林開道師の特別手記からご紹介しましょう。
(略)それは、忘れもしない昭和五十二年二月十二日、午後三時から夜中の十二時半まで約九時間、野崎(当時男子部長)、原田(当時青年部長)、中村(当時関西青年部長)、魚谷福井県長、橋本県青年部長の五人によって、さんざんツルシ上げられたのであります。( ほとんど原田、野崎の二人がどなっておりました)
その時の私の気持は、妙に冷静で相手のつり上った目とか、いろいろな言葉とか表情が、いまでも手に取るように浮かび覚えております』と、当時のなまなましい状況をリアルに表現し、
『(略)十二時近くなって原田(副会長) が「お前がガタガタ文句を言うから、こんなに長くなったんだ!」「詫び状を書け! 」「書くまで帰さん!」と言われた時は非常に腹がたった。
その翌日と聞いておりますが私の「詫び状」を幹部会の席上で、鬼の首を取ったかのようにして、全員に見せたそうです。
十四日には、学会本部で五時間半もやられました。その時、別れぎわに、秋谷副会長に、二度とこんな事をしたら、ただじゃ置きませんよ」と言われました。私は生涯、この言葉は忘れることはできない(略)』
と、固く心に誓っておられます。
(中略)
松本珠道師は、その一週間前の一月二十日につるし上げ第一号になった千葉県・蓮生寺の菅野憲道師(当時、現大阪・源立寺住職) と同様、「富士学報」(宗門理論誌) 第五号に掲載された論文が、学会からとがめられたものです。
『午後五時頃に学会本部へ着き、二階の部屋(注- 第六応接室) で待たされること十五分前後、北条理事長、秋谷副会長の二人が横柄な態度で入ってき、ソファに座る。型通りの挨拶の後、謝罪させられる。(略)』
と手記はいよいよ核心に入り『北条氏は「(略)お前は節操のない、いい加減な奴だ。大体、お前の論文は、菅野憲道の論文より、もっと悪質で、たちが悪い。菅野憲道の論文は、読めば学会批判ということがすぐにわかるが、お前の論文は気を付けて読まないと看過してしまう。よく読まないと学会を批判していることがわからないから、知能犯的なたちの悪い、悪質な論文だ」
と罵り、(略)横から秋谷氏が「左京日教というのは、法主におべっかをつかって、のし上ってきた奴だ。お前は、左京日教と同じだ。法主におべっかをつかって、のし上ろうとしているんだろう。(略)お前は僧階はなんだ」と喚くので、「講師です」というと、秋谷氏は「講師にもなって、その程度のことも知らないのか。法主におべっかをつかうんじやなく、先輩に聞けばいいんだ。先輩に聞かないからそうなるんだ。猊下の弟子だと思って偉そうな顔をするんじやないよ」と、顔に似て爬虫類を思わせるような調子でいう』
(『創価学会からの脱出』三一書房)
▲▲▲▲▲▲
池田会長は,かつて職員幹部にこう言い放ったようである。
▼▼▼引用▼▼▼
『五百億で新本部、完ぺきにしちゃう。土地を持ってる人が全部(学会に)売るように指導を徹底して。三百億、五百億だ。末法万年の根本を完全にしておきたい。学会が盤石であれば全てが繁栄する。お山は坊主だから、ともかく、一万年先のために私は手を打っている』
『学会のために(公)(公明党)が犠牲になる。学会のために本山が犠牲になる。学会が全ての主体である。・・・略・・・創価国、創価王国を地球上に、宇宙に作ってみんなを守ってあげよう』
(50年6月10日、東京第二本部最高会議)
(『創価学会からの脱出』三一書房)
▲▲▲▲▲▲
この指導が本当なら、創価学会は宗教を利用した池田大作の野望実現のためのものになる。
それにしても、土地を売らせ学会に全部寄付させる指導をしていたとはおそれいる。
会員は、王国貴族たちの奴隷以下であることは明瞭だ。
////////////////////////////////
池田発言
68万坪に独立国を作ろう。創価王国、創価共和国だな。
(第10回社長会 昭和43年3月22日)
65万坪、文京区位あるんだから独立国を作ろうか。創価王国を作ろうか。帷幕の内に謀りごとをめぐらそう、ゆっくりやろう。
(第51回社長会 昭和46年7月27日)
「学会っ子は名前もいらない、金もいらない、身体もいらない。奴隷のように学会につかえよ、それが御本尊様につかえる事だ」(昭和46年7月8日 社長会)
「サンフランシスコの皆さん、今回は関西の交流団がお世話になりました、と、お世辞を使っておいた方が、広布基金がたくさん取れることを、私は声を小さくして申し上げておきます。」 (平成5年 1月25日)