昭和45年9月30日、『第一回全国登山責任者総会』で池田会長は登山会参加者について、次のような数字を挙げております。
昭和11年
牧口会長を中心として小人数で夏季講習会
昭和21年正月
戸田会長ら7名
昭和27年10月
『月例登山会』開始 380余名
昭和33年
『記念登山』 一ヶ月で20万余名
昭和36年
これ以降、登山会が毎月行われる
昭和47年
正本堂落慶記念登山により1千万人総登山
※戸田会長時代で100余万人の登山参加
※池田会長時代(S45年まで)で2千9百万人の登山参加。この時、月あたり30万人の登山者。
となっているそうです。
また、法華講の登山についてもこう述べている。
一方、法華講においても、昭和37年に法華講連合会が結成されてから、正月の初登山および春夏と、年三回、登山会が行われ、年間、約二万人が登山するようになっております。
そして、池田さんはこの総会において、以下の5項目の「登山会の意義」として重大な指導しているのでご覧ください。
登山会の意義
次に、登山会の意義について申し上げたい。私どもにとって、信仰の根本の対象は、いうまでもなく本門戒壇の大御本尊である。その大御本尊にお目通りすることが、登山会の最も大事な目的であり、意義である。
この登山会の意義について、五項目に分けて整理しつつ、最確認しておきたい。
一つは、私ども一人一人の無始以来の深重の罪障を消滅し、現世安穏、後生善処の幸福をお願いすることにある。罪として滅せざるはなく、祈りとして叶わざるはなしの大御本尊であります。
人生にあって、絶対的幸福を実現する道は、大御本尊への真剣な祈り、すなわち境智冥合以外にないことを知っていただきたい。
第二には、久遠元初の生命の故郷に帰る。生命を本源的に洗い清めて新たなる生命力をいただくのである。末法の衆生にとって、主・師・親の三徳を具備された仏は日蓮大聖人であり、人法一箇の大御本尊である。
大御本尊のましますこの大石寺は、私どもにとって根源の故郷であり、尽きることのない生命力の泉である。
第三は、私ども同志が等しく日蓮大聖人の門下であり、地涌の菩薩であるとの自覚をもち、そのうえに立った真の団結を築くことである。
私どもの団結は異体同心ということに尽きる。同心の心とは大御本尊への信心であり、信心によって結ばれ団結である。
第四は、末法広布流布への戦いの決意を、大御本尊にお誓い申しあげる。広布流布の大目的にまざめ、広布流布実現に戦う人を真の地涌の菩薩というのである。
私どもは、この目的遂行のために生まれてきたことを確信しなくてはならない。黄金の人生は、この広布流布への花々しい実践のなかにこそ開かれることを知っていただきたい。
第五は、全人類の幸福と平和を祈願し、また、その理想に向かって前進を誓い合うのである。大御本尊は一閻浮提総与の御本尊であり、全世界の民衆の幸福と平和の鍵はこの御本尊に秘められている。大御本尊なくば、この世界は暗黒である。そして地獄であるといっても過言ではない。御本尊の光明をば、全世界に伝えきっていく使命は、私どもが担っているということを誇り高く確信してほしい。
そして、『南条殿御返事』を引き
「此の砌」とは大聖人のいらっしゃるところであり、大聖人ご在世の本懐たる大御本尊のましますところであります。
大御本尊の前に詣でるならば、無始以来の罪障は即座に消滅し、全ての悩み、苦しみを転じ、解決して、絶対幸福の境地を開くことができるとの御金言であります。
あな嬉し 永遠の故郷 大石寺
(池田さんが詠んだ和歌)
と指導している。
学会は如何なる理由で、上記の重大な意義を消失したのか
創価学会は正宗時代、延べ人数にして億を超える会員を、登山に参加させてきた。学会は、これらの会員の労苦をどう説明しているのか?
破門後6年余りは、会員は信徒として登山資格があったにもかかわらず、学会本部はそれを制止。現在でも、脱会した法華講員に対しても、『登山してはいけない』とふれ回っている。
現在の学会は、上記のように重大な意義を持っていた登山を『家庭の御本尊は大御本尊と通じている』『本山は魔の巣窟』だから『行く必要はない』などと、単なる僧侶誹謗によってあきらめさせている。
これらの言い訳で、五項目の意義が消滅したとは言えるはずがない。
それら一つ一つを、学会本部は誰もが納得する説明などはできない。
信仰の根本意義を180度変えたことに対し、なんら説明できない組織に、どんな正義が存在するのか。