もう、さんざん言い尽くされてきたが、学会が否定する「塔婆供養」について、その大切な意義を纏めてみたいと思います。
学会が現在、塔婆供養を否定する理由
1.御書二編にしか言及されていない。
2.必要不可欠なものではない。
3.塔婆は信徒が立てたものである。
大聖人が信徒へ指導する際、お手紙だけではないことは子供でも分かるというもの。直接指導されることもあれば、各地の弟子である御僧侶からもあるわけです。御書も全てが現存しているわけではないのです。
学会は今、御書根本をスローガンにしているのだが、それを、「御書二編にしか言及されていない」だとか「必要不可欠なものではない」などとはよく言えるものだと思う。「塔婆は信徒が立てた」も彼等の妄想でありそんな文証は存在しない。
まず、学会のかつての指導から紹介しましょう。
戸田会長指導
「色心不二の成仏、草木成仏の深い原理からきているのであります。塔婆供養の原理についていえば、人が死ぬと宇宙に溶けこみます。色心不二の二法であるゆえに、この生命を塔婆という体を作って供養すれば、聞いた題目が生命に感じて業が薄くなり、苦悩を少なくしうるのです。一個の肉体を塔婆として、これ自体が死人の肉体に変わり、自身の生命を強めることができます。この功徳は、一心法界ですから、自分の身に帰るのであります」
「聖僧を呼んで供養すべきであります。だが、聖僧といってもいません。真の聖僧は、日蓮正宗の御僧侶のみであります」戸田城聖全集2
池田指導
「塔婆供養の意義について述べておきたい。死後の生命は、宇宙に冥伏し、生前の因縁に応じて、十界のそれぞれの世界で、苦楽の果報を受けているのである。塔婆供養による唱題の回向によって、諸精霊に追善がなされ、生命の我を゛悪夢゛から゛善夢゛へと転換していけるのである。」大白蓮華 昭和59年5月号
と、ちゃ~んとその意義深さを指導をしてたね。
戸田会長が塔婆供養は色心不二、草木成仏の法門として、単なる形式ではないことを指導してるじゃないですか。
この法門のことは多くの御書に説明されてるわけですから、「二編にしか言及されていない」など言う学会はバカも甚だしい。
どうでも良いお手紙を御本仏がどうして書く必要があるのか?
ですから、今の学会は法門を否定していることと同じ!
塔婆供養は事の上で、その法門を現じることになるといっていいのではないでしょうか。
人が死ぬと生命は
仏道修行しっかり行じ、成仏を遂げた人は御本尊に帰入するとされ、地獄に堕ちる人は「地獄は赤鉄に住す」と言われる具合に、生前の業因に応じてそれぞれ異なる果報を体とします。
「人死すれば魂去り」と御教示されるように、そのまま遺骨に生命が留まっているわけではありません。
100歩譲って学会員が成仏すると仮定した場合、本人はそれで良いかも知れないが、未会員の親族は成仏できず、どこかを体としてその業を感じ続けることになります。
いったい、学会員はその故人の生命をどのように、成仏に向かわしめるのでしょうか?
ただ、題目を送れば地獄に堕ちた人も、成仏させられるとでも考えているのでしょうか?
大聖人は亡くなられた方に対しては「智者あって法華経を読誦して骨の魂となせば、死人の身は人身、心は法身(中略)彼の魂を変じて仏意と成す。成仏是なり」と、正法の行者による供養によって、遺骨に魂を呼び戻し成仏させると御教示されています。
「空」の状態でどこかに存在する死者の生命を呼び戻し、きちんと成仏させることは学会のおっさんたち(偽典部員)には不可能です!
学会員の追善供養
邪教に染まった学会の信心で死者を供養することは、「目連尊者が当初、餓鬼界に堕ちている母親を救おうとして、さらに苦しめた」ことと同じ結果になるだけです。
死者と遺族は影響し合う
そもそも、子は親の身を分け生を受け、身も心も親の影響を受けて育つものであります。生前、同じ家で暮らす両者は、互いに影響し合うことは容易に理解できるでしょう。大聖人は親が死しても、その影響は子に及ぶと御教示です。
「其の身(遺骨)に鬼神入れ替はりて子孫を亡ず」
これほどまでに、影響すると言われています。
ですから、逆に死者を供養することは自身を幸福へと向かわしめると言うことになります。
現在の法華講員で大きな功徳を受けられている方は、塔婆供養を欠かさず行っている共通点があると見て感じます。
学会員が「毎日の勤行で回向している」と言っても、成仏に向かわしめる最上の方法である塔婆供養をしないのは、本当の孝行ではないことが理解できるはずです。
亡くなった家族の成仏なくして、本人の幸福は実現しません。
そのためには、早く宗門へ戻ることしかありません!
池田大作の塔婆供養は
早瀬日如能化(当時)ご証言
池田大作は『私は大願寺(新宿区)の第一号の信者です』なんて言ってね。お盆やお彼岸にも来たし、また、「外国に行くからご祈念をお願いします」と言って、大願寺へは時々参詣していたね。ところが、それから五十二年路線に向かって、だんだんおかしくなっていったんだよ。
編集部 五十二年路線が一応終息した後に、池田大作が大願寺に塔婆供養に来たり、参詣したりということはあったのですか?
いやあ、全然なかったよ。それ以後、池田大作は大願寺に来たことはない。
「富士の法統」妙教編集室より
学会が現在、塔婆供養を否定する理由
1.御書二編にしか言及されていない。
2.必要不可欠なものではない。
3.塔婆は信徒が立てたものである。
大聖人が信徒へ指導する際、お手紙だけではないことは子供でも分かるというもの。直接指導されることもあれば、各地の弟子である御僧侶からもあるわけです。御書も全てが現存しているわけではないのです。
学会は今、御書根本をスローガンにしているのだが、それを、「御書二編にしか言及されていない」だとか「必要不可欠なものではない」などとはよく言えるものだと思う。「塔婆は信徒が立てた」も彼等の妄想でありそんな文証は存在しない。
まず、学会のかつての指導から紹介しましょう。
戸田会長指導
「色心不二の成仏、草木成仏の深い原理からきているのであります。塔婆供養の原理についていえば、人が死ぬと宇宙に溶けこみます。色心不二の二法であるゆえに、この生命を塔婆という体を作って供養すれば、聞いた題目が生命に感じて業が薄くなり、苦悩を少なくしうるのです。一個の肉体を塔婆として、これ自体が死人の肉体に変わり、自身の生命を強めることができます。この功徳は、一心法界ですから、自分の身に帰るのであります」
「聖僧を呼んで供養すべきであります。だが、聖僧といってもいません。真の聖僧は、日蓮正宗の御僧侶のみであります」戸田城聖全集2
池田指導
「塔婆供養の意義について述べておきたい。死後の生命は、宇宙に冥伏し、生前の因縁に応じて、十界のそれぞれの世界で、苦楽の果報を受けているのである。塔婆供養による唱題の回向によって、諸精霊に追善がなされ、生命の我を゛悪夢゛から゛善夢゛へと転換していけるのである。」大白蓮華 昭和59年5月号
と、ちゃ~んとその意義深さを指導をしてたね。
戸田会長が塔婆供養は色心不二、草木成仏の法門として、単なる形式ではないことを指導してるじゃないですか。
この法門のことは多くの御書に説明されてるわけですから、「二編にしか言及されていない」など言う学会はバカも甚だしい。
どうでも良いお手紙を御本仏がどうして書く必要があるのか?
ですから、今の学会は法門を否定していることと同じ!
塔婆供養は事の上で、その法門を現じることになるといっていいのではないでしょうか。
人が死ぬと生命は
仏道修行しっかり行じ、成仏を遂げた人は御本尊に帰入するとされ、地獄に堕ちる人は「地獄は赤鉄に住す」と言われる具合に、生前の業因に応じてそれぞれ異なる果報を体とします。
「人死すれば魂去り」と御教示されるように、そのまま遺骨に生命が留まっているわけではありません。
100歩譲って学会員が成仏すると仮定した場合、本人はそれで良いかも知れないが、未会員の親族は成仏できず、どこかを体としてその業を感じ続けることになります。
いったい、学会員はその故人の生命をどのように、成仏に向かわしめるのでしょうか?
ただ、題目を送れば地獄に堕ちた人も、成仏させられるとでも考えているのでしょうか?
大聖人は亡くなられた方に対しては「智者あって法華経を読誦して骨の魂となせば、死人の身は人身、心は法身(中略)彼の魂を変じて仏意と成す。成仏是なり」と、正法の行者による供養によって、遺骨に魂を呼び戻し成仏させると御教示されています。
「空」の状態でどこかに存在する死者の生命を呼び戻し、きちんと成仏させることは学会のおっさんたち(偽典部員)には不可能です!
学会員の追善供養
邪教に染まった学会の信心で死者を供養することは、「目連尊者が当初、餓鬼界に堕ちている母親を救おうとして、さらに苦しめた」ことと同じ結果になるだけです。
死者と遺族は影響し合う
そもそも、子は親の身を分け生を受け、身も心も親の影響を受けて育つものであります。生前、同じ家で暮らす両者は、互いに影響し合うことは容易に理解できるでしょう。大聖人は親が死しても、その影響は子に及ぶと御教示です。
「其の身(遺骨)に鬼神入れ替はりて子孫を亡ず」
これほどまでに、影響すると言われています。
ですから、逆に死者を供養することは自身を幸福へと向かわしめると言うことになります。
現在の法華講員で大きな功徳を受けられている方は、塔婆供養を欠かさず行っている共通点があると見て感じます。
学会員が「毎日の勤行で回向している」と言っても、成仏に向かわしめる最上の方法である塔婆供養をしないのは、本当の孝行ではないことが理解できるはずです。
亡くなった家族の成仏なくして、本人の幸福は実現しません。
そのためには、早く宗門へ戻ることしかありません!
池田大作の塔婆供養は
早瀬日如能化(当時)ご証言
池田大作は『私は大願寺(新宿区)の第一号の信者です』なんて言ってね。お盆やお彼岸にも来たし、また、「外国に行くからご祈念をお願いします」と言って、大願寺へは時々参詣していたね。ところが、それから五十二年路線に向かって、だんだんおかしくなっていったんだよ。
編集部 五十二年路線が一応終息した後に、池田大作が大願寺に塔婆供養に来たり、参詣したりということはあったのですか?
いやあ、全然なかったよ。それ以後、池田大作は大願寺に来たことはない。
「富士の法統」妙教編集室より
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