for today 科学に目を向けよう

短文


我是三四六岁 
(旅の相棒募っています 乙女)

#  トランプの人物調べ   ♤

2019年08月28日 07時44分36秒 | 日常の発見
♤A屈原(BC340-BC278)「楚辞」「離騒 」を残したとされる楚の時代の詩人・政治家。秦の張儀の策略を見抜けない楚の無能な王に絶望し、入水したとされる。この理由でドラゴンボートの起因となったり、水の神様として祀られる。楚は現在の揚子江中央部辺りに位置し、当時では地方の特異な風習やシャーマニズムなどもあり、詩にも影響がみられるようだ。今世紀では文学において屈原は国民的愛国詩人の位置にあり、切手にもなった。学究的な検証が残されているようだ。
♤2司馬遷
8月28日 ここまで
♤2司馬遷(BC145-BC87)秦の暦を改変し新たに正確な暦の制作に携わる。多くが知る「史記」ー黄帝(BC 2697–2597 or 2698)から司馬遷が生きていた頃までの歴史を記す。記述手法はアジア諸国(韓国・日本・ベトナム)にも20世紀まで影響を与えた。歴史家の努めは、記述により悪を打ち勝つ善の勝利とある。歴史事例について発生した場所・見聞した証言者・関連した周辺の様々な地域と時空を考慮した記録に努める。卓越した人物の自伝・統治者の家族系譜を時間軸で残す。論考は天文・音楽・宗教・土木工学技術・経済等の章に及び、個人の見解として男性・貴族主義を超え男女問わず、詩人・官僚・商人・道化者・暗殺者・哲学者についても網羅。人間社会の発展のパタンーを探ろうとしていた。出自や親・遺言の話題その他は各自で楽しみ、「史記」についてのここでの説明は英語wikiに因ります。
夏休みの課題、久しぶりに学生の気持ちになれます。
♤3李白’701-762)唐代の詩人。4歳の頃に父親とともに成都近くの四川に移り隋の時代を過ごす。当時は家柄の習慣でもある読書に親しみ、古典・詩経(舞踊・楽曲などの歌謡体系)・書経等を読み、青蓮居士というペンネームで詩を創作していたそうだ。若者の李白は自然探索・旅・狩り・弱者救済や、剣術等の活動を広め、騎士道にも及ぶ。725年、20代半ば、旅を始め、時の首相でもある孫と結ばれた。730年、仕官を試みていた。740年頃、有名な道教の僧に遭い、742年、僧が皇帝に召喚された際に、李白の創作が認められた。酒仙・摘仙人・詩狭他のニックネームなどがあり、楊貴妃を讃えたにもかかわらず、酒の禍で宮廷から遠ざけられた。創作は栄華を極めていた唐の繁栄・平和並びに懐古が現れる。酒は饒舌な語り手に導き、苦も無く詩が現れ、民衆への同情や不必要な戦いへの反感等もあるが、懐古感から渇望する将来への発展を期待する心情でもあろう。←バートン=ワトソン
いろいろな偉人の一生を知るのは楽しみでもある。

♤4杜甫(710-770)生後すぐに母親が亡くなり、父方の子だくさんの伯父に養われ、詩作にも登場する。普通の学者の息子として育てられ、青年期には役人になる将来に備え、歴史・儒学・哲学などを学ぶが、後に多くを創作に費やしたかったそうだ。730年詩のコンテスト、735年、科挙などあったが、旅にいそしむ結果になる。744年、李白、隆盛期の詩人との関りに、若い杜甫はひとり遠い星としてあこがれていた。その後の科挙の失敗、子供の喪失、我が身の病などに見まわれる。755年の人口52.9milが10年で三分の一ほどになる戦況と殺戮などを経験し、杜甫の創作のテーマの根幹となった。759年、飢饉・飢餓に見まわれた時期には理性が旺盛に働いて多くの創作を残している。役職にも就くが、窮地の際に友人からの援助を受け、安定し幸せな時機で、友人に捧げる詩を多く創作。762年から郷里から旅を始め766年頃まで、弱視・難聴・糖尿病・結核などの状態だったが、創作は黄金時代で、多い。770年、58歳で没。
人が生きた社会環境で(生い立ちをも含め)、一生の人生の推移に、精神と脳は肉体や家族を伴い、どう感じ、残したか、つくづく感じ入ります。
詩は読んでいないのに。
今日はここまで
♤5 白居易(772-846)安史の乱以降の唐が回復する時期(8,9代の皇帝が交代)を生きる。家族は貧しいが学者の家の生まれ。10歳頃、戦禍を避けるために親戚に預けられる。800年に科挙合格の後、長安で職につくが、804年に父親の喪のために儒教の慣習により職を離れ、再び復帰するものの母親の喪でも慣例に従う。広州に赴任した時には西湖にダムと堤防を築き、白居易に因んだ名前が堰についたそうだ。洛陽・蘇州
に赴任し、引退。創作は一般の民衆にもわかりやすい漢の形式のようで、(そのために批判に上がったりもし、日本にも影響をもたらす。)楽府に収められた作品もある。西域の影響があった時代に、音楽や詩も同様に宮廷に取り入られていたが、口承文芸には相応の道徳や社会に向けた制限も必要だと主張していた。
♤6韓愈(768-824)有名な貴族家系の家に生まれるが、2歳の時に父親と死別し、哲学や儒学を身につけた伯父家族の中で育つ。781年伯父が亡くなり、韓愈は792年に科挙を通過し、802年頃には中央の役職に就くが、批判を受けて左遷されたり、洛陽、長安で服務が819年ごろまで続く。皇帝の講義役をも務め、824年に没。古典儒学の復興を唱え、唐で盛んであった仏教・道教は、経済を発展させるためには社会的に劣ると主張。孟子の説いた理論-政策は学究的な宋理学を基盤として後に形成されるーを強調。が、韓愈自身の哲学には仏教・道教からの影響が根付いている。討論したり、考えを伝えるのは漢の時代の装飾によらない古文復興による完結・正確・有益性を根差す。エッセイ・散文・詩詞などあり、客観的に自分の一生を図りながらも機知にとんだ作り話も数多い。話好きで発想力のある胸襟の開いたまっすぐな性格で、ユーモアある人がらのようで、受講生や友からの回想があったようだ。

中国語の言葉の概念には届かないので、自分学習という意味合いになります。
♤7柳宗元(773-819)唐の時代の政治家・著述家・詩人。793年21歳で科挙を通過し、有名になった。26歳で宮廷の試験を受け,昇級。韓愈同様、古典復古の表現活動。たいていの識者が経験しているように権力の考え・指向が反感に遭うと左遷される。永州・柳州で職に就き、様々なジャンルの散文や寓話(短く洗練され、比喩は意味が深い)を書いたり、紀行回想文(優雅かつ科学的に的確で深い狙いが込められている)・儒教・道教・仏教などに見出される随筆などを生みだす文学的な経験となった。
♤8王安石(1021-1086)宋の時代に生きた経済学者・政治家・詩・詞人で、社会経済学で新しい改革を宋に導く。宮廷職に就く科挙で1042年、4位で通過し、初めの20年は地方の下級官僚の仕事に就き、実践を積み、経験が国庫改革の分析に繋がっていった。貨幣の流通を良くし、独占的な停滞を失くし、国の規則と社会福祉を形成するのがその考え。改革は地方兵士の拡大・仕官制度の改革(法律・軍事・薬学に加え1104年に数学が入った)・朝廷官僚の旧体質改革の縁故抑制などに及んだ。(宋の時代に領土の拡大や飢饉に伴う課税逃亡や重い課税で国庫は困難が続き、インフレが進んでいたため、皇帝が王安石に意見を求めた。)晩年になって皇帝に招かれたが、研究に就きたい希望で辞退。1086年に没。
♤9蘇軾(1037-1101)眉山で生まれ、道教僧が運営する村の学舎で学ぶ。著述・詩・詞・書画・薬理学。17歳で知的で物静かな女性と結婚するが、1065年には子供を生んで没。10年後に忍んで「江城子」を残す。2番目、3番目の女性との永別にも詩を残している。19歳で兄弟とともに科挙通過し、1060年から20年の間は各地で様々な役職に就く。王安石とは政策論で対立し、訴追され、困窮に瀕しては仏教の瞑想にふけり、この時期に多くの詩を残している。左遷された途上の1101年に64歳で没。生前に描かれた書画・訪問先の碑文など赤壁を含め多くが有名になった。
♤10 司馬光(1019-1086)宋の時代を生きた歴史家・著述家「資治通鑑」・政治家(王安石とは反対の意見)6歳の時の逸話(紀元前4世紀の春秋時代の歴史書講義を家に帰って家族に暗唱するほど)があるほどに聡明で学者・官吏を約束されたように、20歳で都の科挙を通過し、仕事に就く。BCE403(戦国時代から唐が分裂するまで)から959年(秦が起こり五代十国が終わり宋の始まりまで)の歴史書5巻(書き手は当時の専門家・史学研究者)を編纂。王安石と対立した点は、性急すぎる新改革の危険性であり、王安石の主張由来には、地理的な要素がありそうだと、吐いている。“閩人狹險,楚人輕易,今二相皆閩人,二參政皆楚人,必將援引鄉黨之士,充塞朝廷,風俗何以更得淳厚 ?」

♤J李清照(1084-1151)蘇軾に学んだ学者一家に生まれる女性詩人・随筆家。中国史では、偉大な詩人。一家の所蔵本は膨大で、幼いころから蔵書に親しみ、学究一門としては女子でも、外交的。創作詩は仲間内でも知られていた。1101年3歳年上の書画書籍の研究・碑文研究に情熱を寄せる者同士が結婚。1127年開封(宋の都)陥落する頃に家が消失し、所蔵品を携えて南京に移り、1年ばかり暮らした後の1129年、夫は役職に就く予定だったが、亡くなる。二度目の結婚をするが、数か月で離縁。詩・詞を書き続け、夫が執筆した「金石録」を完成させる。数百が知られている詩は、夫への愛であったり、戦争の憎悪や彼女自身の愛国心だったりする。
♤Q辛棄疾(1140-1207)偉大な詞人・南宋の軍指揮官。金が北方から侵入する頃、祖父が霍去病(漢の武将)にあやかり、病封じに命名。祖父の語りに影響され、愛国心が育つ。軍事経験は22歳。詞は蘇軾と比較されるほどで、作風は広大な世界で暗喩を用い、600の作品が現存しているそうだ。
♤K 曹雪芹【-1762/64)中国四大小説のひとつ「紅楼夢」の著者。漢民族で、清朝の康熙帝治世下では祖父曹寅はお抱えの遊び相手で、18世紀には絶頂期で、巡礼のホスト役を務めたり、唐代の詞‣詩編纂を曹寅は皇帝から命じられた。雪芹の曽祖父は皇帝から織物製造を命じられ、南京に移る。1715年に没。康熙帝没後の雍親王帝に粛清を受け、一家は北京に移り住むころ、雪芹はまだ幼く、貧しくて、自分の絵を売っていた。酒の常習者で才能があると認められていた。「紅楼夢」執筆に情熱を注ぎ、80章まで書き上げ、亡くなる。息子の死が引き金になったようでもある。

プラハ城 一番乗り

2019年08月27日 20時58分43秒 | 旅行
だなんて、自慢するわけでもないけれど、時差があるから仕方ない。
きまって朝の5時ごろにはもう起きてしまいます。それ以上は眠れない、つまり日本時間の体だとすれば、昼頃まで私は寝ていられない、ということです。
というわけで、音を立てないように動いて、朝食を済ませて外出すれば、路に迷いながらでもプラハ城に入場し、職員よりも前についてしまうわけです。

宿泊先は、個人のマンションを改造したような、くつろげる居間続きのキッチンで朝食を済ませ、☕を飲んで毎日8時ごろには出かけていたので、管理主と会うことはありませんでした。3,4日経て、初めて面会したほどでした。因みにホステルは優秀賞を受賞したことのある施設です。派遣社員のように1週間をホステルで過ごす男性もいて、私と同じ早朝にいつも出掛け、週末に家に戻る暮らしを続けているようです。






設計者





こちらは旧宮廷 広いもそのはず、馬も走れたほどで



これ、令和遅れ?

2019年08月24日 21時04分48秒 | 日常の発見
私にとってはハッシュタグが♯に見えるものだから、♯っていれたけれど、
どうも違う。ハッシュタグマーク違いだから、七日連続しても認められません、なんて
言われるかしらねえ。
でも、アマゾンは、もっと提供してもよいはず。というのは、市で廃棄処分としてフリーで置いておいた書物が、ネット上で2000円の定価で売っているんですからねえ。


多様性は消費者アクションから

2019年08月23日 10時08分32秒 | 日常の発見
始まるでしょうねえ。
自分にとって塩梅が良いように変えて日々を暮らしている。
例えば、夏場の女性用靴下で脛半分辺りまでを保護してくれる靴下はあまりない。それも夏場だから空調の冷え予防目的で、自分が必要とする部分のみ、綿が素肌に気持ちよいのがいい。サポーターをつけたり、靴下をはいたりなどごちゃごちゃしなくて、結局は男性用の靴下で都合良さそうなのを見つけて自分用にした。けれど、やや緩いのが欠点だ。

衣生活にしても、女性のその年代なりの声に着目すれば、多様に商品開発ができるだろう、とは今世紀具合の要望です。年若い女性でも秋冬のソックスを履き、真夏のスカート姿です。ソックスはやはり短くて、脛半分は保温にやや遠いようにも・・・

🐤マメにニンニクと塩を入れてフムスが売られていることがある。ネットでは、自分で作っている人も多い。乾物が手に入った時には、同じように作るときもある。金時豆で自分用にアレンジしてみると、それもイケた。味も、好みで甘酸っぱくもできる。

                      お気楽多様性は自分流で

♯ 夏休みの課題 トランプの偉人調べ 💛

2019年08月22日 15時58分40秒 | 日常の発見
💛A 老子  姓を李、名を耳とし、、河南出身。中国哲学に影響を及ぼした道教の創始者とされる。権威主義に疑問を抱き、現実に照らした法治国家を理想としたようだ。
💛2墨子(468-376)封建主義を批判し、人々に自己抑制と自己肯定、物質と精神のバランスを教えとく。墨子が広めようとした考えはキリスト教と似ているようで、秦の時代に焚書坑儒に遭い、以後忽然と消え、清の時代になって時代の変化とともに再評価にあがっているようだ。執筆物の53章が現存。
8月22日 了 トランプの哲学者を説明書きするのは、非常に負担を感じている。
💛3荘周(369-286)書物「荘子」を残している。老荘思想という言葉のように道教の始祖とされる。司馬遷「史記」63章に記述があるが、「荘子」からの引用抽出で、寓話が多いようだ。官僚への招聘に対し、平然と自分の在り方を自然の中でみいだし、隠遁者とも受け止められる。玄宗皇帝からは、敬称として「南華真人」を受けている。文章には逆説的な洒落や便法が多く見られ、封建社会には皮肉やユーモアを交えているようだ。
💛4荀況(313-238)「史記」によると、漢の時代の官僚制度を敷く基礎として影響力をもたらしたとされる法治国家を説く「性悪説」。塾長に任ぜられた後、楚の宰相春申君(ドラマ  ミーユエでは、彼女の永遠の想い人)に採用された。日本では荻生徂徠が「荀子」の注釈を行い、現代でも再評価にあがる。
💛5韓非(280-233)吃非 があったため周囲から阻害視されることもあったそうだが、文才に長け、書くことで自分の考えを説明するようになった。故郷の韓が秦に飲み込まれそうな頃に自分の思想を現わしたのが「韓非子」。法実証主義。

8月23日 とりあえずここまで
💛6
今日は出かけて歩いてきたから、取り組もうとしたけれど、夜の9時では私の目には不都合で、取り組むのも孟子だから、明日にする。
8月24日とりあえずここまで
💛6孟子(BC372-289)人の本質は生まれながら善だと説き、自らの努力によって各々が能力を伸ばせば社会全体が治まり、君主が君主たりえる姿になる、と楽観的な 未来志向といえそうだ。北宋の時代1071年になって科挙の試験科目に「孟子」が加わった。
💛7王充(27-97)「論衝」を現わし、人間と取り巻く世界との自然科学的視野を展開。天文学・気象学に及び、実際に水の循環を記述に残している。他の多くの同時代思想家と違い、貧しく、本を立ち読みして記憶したそうだ。漢の時代に洛陽の宮廷の学舎に招かれ学ぶが、彼への賞賛者は、ただ単に裕福さと学派によるものだとし、落胆し、郷里で先生になるが、諍いのため辞めて執筆に就く。宮廷学者への招聘もあったが、受け入れていない。合理的哲学者としての著作物は曹操にも届けられたが、当時ではまだ受け入れられなかった。王充の気象についての考えが曹操に受け入れられたら、戦はどうなっていただろうか・・・
💛8范 缜(450-510)肉体は物質であり、精神は副次的なもので、肉体と精神は一個の物である。「神滅論」を現わす。当時浸透していた仏教に対する考えで、宮抱えの学者が彼に宮廷の役職と引き換えに考えを改めるのを試して、64の課題を課したそうだが、それに対して75を返し、論を変えず、追放された。
8月25日 ここまで了
💛9李Zhi(1527-1602)明の時代の思想家。「焚書」「続焚書 」「蔵書 」郷里で試験に通過した後、講師に任命されるが、家族の喪に服し、職を離れ、後に宮廷に入り陽明学・仏教を学ぶ。その後河北で講師に招かれるが、異端者から攻撃に遭い、剃髪の仏僧スタイルになる。マテオリッチ(イエズス会)と会い、仏教とキリスト教との違いなどを論じる。従来の儒教思想家以上にジェンダーの平等を説き、女性は生来優れた道徳包括力があると受け止めている。童心こそ、あらゆる嘘偽りから自由になり、完璧な真理だとする。異端の批判に遭い、投獄され、自殺。
💛10黄宋義(1610-1695)宋明理学(新儒学)において、憲法の必要性を説いたひとり。皇帝に対する公然とした批評・支配者が国に対して努める責任・皇帝の宮廷大学や官吏に尊敬を払う責任・地方で氏族、学者学生は供に審判事例を討論し、学ぶ場を作る必要があると説く。「明儒学案;」「宋元学案」など、明の時代に思想家・重要な学者・批評を体系化する。明末期の興亡が影響しているでしょうか。
8月26日 ここまで 景品で頂いたトランプのひとりひとりが、大変な時間を伝えている。どれだけ私に残るか怪しいかぎりではあるけれど、こうして出会えたのは、確かに貴重な機会です。
💛J顧炎武(1613-1682)14歳頃から学校教育が始まり、1945年に南京の宮廷職に推薦されるが、満足できずに辞めて帰郷。「音楽五書」「日知録」王夫之、黄宗羲と並び、卓越した儒学者とされる。明朝交代時に満州から流入する反清活動をし、清には仕えず、各地を旅し、研究に努めた。
💛Q王夫之(1619-1692)学者の家に生まれ、古典に親しんでいた。24歳で試験に通過し、職につくが、明の宮廷では満州民族の侵入で難を浴びることになり、逃亡と学究に費やす。唯物史観は現代中国の政治・歴史に影響を与えた。物自体には価値はなく、対象に徳と価値が帰属し、人の行為によってもたらされる。政治は人に益をもたらすべきで、権力においてではない。歴史は継続した変革の循環であり、混沌と希求(安定と繁栄)が社会の変革をもたらし、人民と皇帝の徳の程度に因る。封建地主の力は弊害であり、税で弱めれば、小作農家が増加すると、考えた。法治による社会管理が必要だと認識。「船山遺書全集 」他100以上の執筆があるが、消失。
8月27日 ここまで マイペースだけれど、きっと1週間は過ぎたと思う。
💛K嬴政 (BC259-210)秦の始皇帝 中国を統一した初めの王で、皇帝とした。中央集権国家(土木工事・通貨度量の統一・漢字書体の統一・万里の長城・兵馬傭他)の事業。生い立ちから暗殺事件・亡くなるまでのドラマは書かれなかった当時の事情・信ぴょう性・推察をも含め、大事業樹立者ゆえ、今でも楽しませてくれる。