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for today 科学に目を向けよう

短文


我是三四六岁 
(旅の相棒募っています 乙女)

プラハ城 一番乗り

2019年08月27日 20時58分43秒 | 旅行
だなんて、自慢するわけでもないけれど、時差があるから仕方ない。
きまって朝の5時ごろにはもう起きてしまいます。それ以上は眠れない、つまり日本時間の体だとすれば、昼頃まで私は寝ていられない、ということです。
というわけで、音を立てないように動いて、朝食を済ませて外出すれば、路に迷いながらでもプラハ城に入場し、職員よりも前についてしまうわけです。

宿泊先は、個人のマンションを改造したような、くつろげる居間続きのキッチンで朝食を済ませ、☕を飲んで毎日8時ごろには出かけていたので、管理主と会うことはありませんでした。3,4日経て、初めて面会したほどでした。因みにホステルは優秀賞を受賞したことのある施設です。派遣社員のように1週間をホステルで過ごす男性もいて、私と同じ早朝にいつも出掛け、週末に家に戻る暮らしを続けているようです。






設計者





こちらは旧宮廷 広いもそのはず、馬も走れたほどで



プラハで見たユダヤ教寺院 と周囲  見学

2019年08月21日 16時55分10秒 | 旅行


壁面に記された犠牲者
各地に繋がるルートを記している?

癒し対策だろうか、美術指導が子供たちにあり、展示されていた。写真に収める勇気はなかった。テレジンには行きません。
10歳はひとくくりの年齢のようだった。ブダペストで遇ったサラさんを思い出し、勇気ある賢い決断だと今更ながら感じている。

ホロコーストの起きた街?
赤十字の車で偽装して運んだそうな・・・
寺院に張り付いた狭い墓地にそびえる。墓碑は寸分隙間なく狭い敷地に置かれている。



周囲
ユダヤ教寺院の内部
教徒による葬式を行うために選出された、当時の方法が記されていた。

寺院

お洒落なプラハの周囲





サラは「私、この場にいたのです。」

2019年08月16日 14時51分23秒 | 旅行
と、アッテナ
6月26日 交通利用(※1)に慣れて、ヨーロッパでも最大というユダヤ教のシナゴーグに出かけた。
中欧の旅では、プラハにいても、クラクフにいても、ユダヤ人のホロコーストをつぶさに浴びた旅になった。



ブダペストにあるユダヤ教寺院の展示物を見学してから外に回り、中庭を眺めながらパネルの写真を見ていた。
(スピルマン君が赤ちゃんだったころ、お母さんが拵えた数々。お母さんは1944年までスピルマン君を大切にしていました。)


「私、ここにいたのです」とすぐそばにいた年長の女性が私に話しかけ、首からチェーンを手繰り寄せてペンダントを持ち上げて見せた。(過去にもユダヤ人のこうした仕草をアムステルダムで経験したことがあった。)フランスから来たという婦人は、83歳だそうだ。私も彼女に釣られて、胸に下げていた体内笛といっしょについていた奇跡のマリアのペンダントを見せて、「これ、フランスで買いました」と言った。
私が見ていたパネルは、過去の庭で殺戮が行われた写真だった。
「6歳と〇か月の時」と告げ、当時、フランスに逃げたそうだ。
どんな状況かなどとは、聞く心境にはなくて、記念だからと彼女を写真に写した。
きっと、身のすくむような当時が、走馬灯のように走り、写真を見て思わず声に漏らしたのだろう。
サラさん、生き延びて良かった。まだ貴女には貴重な時間が繋がっています。
※ 1 ブダペストの地下鉄は世界で初めて電気運転を実現  「ハプスブルグ帝国」岩崎 著 

「私、東京の大学に通っていたことがありましてね」

2019年08月03日 07時20分26秒 | 旅行
とあってな。
私の旅の移動はウイーン→プラハ→クラクフ→ポポラドタタリ→ブダペスト→ブラスチラバ→ウイーンでした。
クラクフ(ポーランド)から移動してスロバキアに移動し、タタリ山脈に行くのに、山岳鉄道に乗り、歩く場所の駅を車内で探していた。
近くにいた女性に尋ねたところ、共通の言語はなくて、子供を交えた一団と一緒に歩くことにした。そう!指と顔表情でも私たちは通じ合えます!

1時間ほど歩いただろうか、後ろから日本語が聞こえる。(えっ?どうして日本語がこんなところで聞こえるの?)
中年のご夫婦の女性が日本語で後ろから話しかけ、驚きやら嬉しさで日本語を話し始め、しばらく会話をしながら山路をいっしょに歩いた。

慶応の三田と中央大学で研究や教授を行っていたのだろうか、京王ホテルにも滞在していたそうだ。そのときに日本語を学び、山が好きで高雄にもでかけたそうだ。
女性は経済学者で、御主人は数学者だそうで、日本に滞在中は篤くもてなされた様子を知った。
山が好きで、タタリの山を説明しもしてくれた。
ある一時期、残雪雪崩で森林の一部が大規模に損害に及び、その時を機会にして雑多な種類の樹林を植林する方針に変えたそうだ。
私は旅中だったので、長い時間を滞在できないので、ある地点でお別れした。
帰りには始めに歩き始めた一行と合流し、再び一緒に歩き始めた。
お互いに帰路が違うのに、私に鉄道の帰り方を示した男性もいて、旅には嬉しい出会いになった。
感謝


「私、東京オリンピックに行きました!」と

2019年07月25日 06時55分31秒 | 旅行
あってな。
ブダペストは今回の私の旅では4番目の訪問先だった。
宿泊先が市の近くにあり、便が良く(のをたいてい選ぶ)、キッチンで食事を済ませて博物館に出かけた時には、まだ観光客への便利な交通パスカードの販売はなくて、博物館を出た後に地上駅の近くで受付嬢が販売していた。

私はそのカードを利用して美術館に行こうと地下鉄の車内で案内のチラシを見ていた。閉館時間を確かめ、下車駅を探していたのだが、なんとも小さい文字で、ペンダントを取り出して焦点を合わせていた。と、私の仕草を「あら、貴女もですか」とでも声が湧いただろう長身の男性が、そばでにこやかな表情をしていた。私が傍に立っていた若い女性に駅を尋ねたところ、「○○駅なら、こちらでいいですよ」と他から聞こえた。すぐ目の前に立っている男性の奥様だった。「あの人、ひとりで旅行しているね」と立っていたご主人に相槌すると、「わかっている」と返した。

美術館ではブダペスト特有のアートを見たかったが、交じり合った文化の影響か、閉館時間という事情もあって、パプリカのいわれを受け付けで知って(他国産物をバラエティー豊かに愛用だそうで)、帰りの順路に進んでいった。

と、宿泊先に向かうバスを待っていた。と、「あらま!」地下鉄で会ったご夫婦と同じバス停で出くわした。「こんにちわ、また会いましたね!」と、綺麗な日本語を話すのは、あの男性だった。「えっどうしてこんなところに日本語を話す人がいるんですか?!」商売でもしているのかと思ったほどだ。
「私、東京オリンピックに行きました!」
「えっ アスリートですか?今度東京でオリンピックがありますよ!」
会社は「ニップン?・ニッ○○」とかいう会社の配属で(ブダペスト?)から派遣されたようだと知った。代々木・神宮外苑などの地名が口から飛び出した。
と、詳しくお話が繋がらないうちに乗りあうバスがやってきて、ふたりで入り込み、👐を振ってお別れをした。

来年に開始のオリンピックに備え、都内は多少の変化が見られ、暮らし向きにも影響がありそうで、その声援が届けられる。

食にまつわるオリンピックの関連ドラマを知った。
ブダペストであった長身の男性は、いったいどんな活躍をかつての日本で成し遂げたのだろうか・・・
国会議事堂を見学したブダペストは35,38度という気温。観光客の表情に比べ、衛兵さんの頭から足元、その従事姿にはただただ脱帽です。(緊張は汗をも出さない?!!!)訊いてみたいです。空調はよほどの所以外は、自然空調並でした。