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for today 科学に目を向けよう

短文


我是三四六岁 
(旅の相棒募っています 乙女)

成都滞在中のお出かけ先

2020年02月03日 12時23分45秒 | 旅行
早朝の杜甫記念館
 
早朝9時前後に記念館につくと、朝の湿度の影響だろうか、それとも様々な植物同士がお互いに呼吸しているのだろうか、朝靄を帯びて庭園は、一目見るなり、ため息が漏れる場所だった。朝の早い高齢者が散歩をしていても、それも庭園を彩る装いにもなっていた。10時にもなると、観光客はどんどんやってきます。
 中国庭園はどこから切り取っても写真に納まる風景がある。 いったい何種類の植物がここに育っているだろうか。くまなく歩き、一度はカメラのバッテリー切れで、再度訪れた。







さえずり鳥も朝のご挨拶





金沙遺跡



歴ドラに登場する仮面は史実とは関係ない創作だろうとおもっていたが、この遺跡に来てまさに当時の金のお面に遭遇するとは、思いもよらなかった。
 








呪術として使われたようで、現存する中国では大きなマスクのようです。




下は、やはりこちらの遺跡から発掘されたマンモスの牙。
付属の博物館に行くと、アフリカから移り住んだマンモスや象の移動が
見られ、遥か古代には、パンダが生息する成都の森はなんと、暖かかったのだろうかと、地球の歴史に今更ながら驚かされた。 今世紀温暖化と誰もが認める地球に暮らすのに、人類はどう向き合うのでしょう。









四川博物館
チベットが近いので博物館参りで済ませた。カラフルな装身具工芸品に惹かれた。








こんなのもあって

野菜と虫 故宮でもあったように・・・





旅行の話  直行成都へ

2020年01月03日 20時13分42秒 | 旅行
年明け三が日はたいていが閉館なので、私の好きな旅記録を博物館替わりに綴ろうと思いつきました。

特に詳しく調べもしないで(情報はUSBに入れました)、しかも日本語のガイドを数ページとノートパソコンも入れたのに、役に立ったのは現地での案内でした。
が、成都は綺麗で面白かった。 旅はその気候具合によっても滞在印象が大きく左右される。 成都から移動した重慶は11月間近だというのに暑くて、交通量も激しく、あまり心地よい感覚がありません。

成都では、長梅雨のように雨がしとしと朝から降っていました。三国志の蜀の領地だったそうで、歴史資料館と庭園があり、諸葛孔明の陵墓もありました。


頂いた指示に従い、新幹線切符を購入し、大仏見学へと。バスを待つ間に若者カップルがいたので、挨拶をして、結局3人で乗り合いタクシーで目的地に到着しました。ぴったり三分割料金を払うと、バス代だけでいいのだと、小銭を返してくれました。 謝謝(笑顔)



この大仏の敷地はとても広い。

心臓や足に自信がない人に注意書きがあったけれど、かなりの高齢者も尻を押されるようにして階段を上っていくのには驚きました。河を渡る人への安全祈願として大仏が作られたそうで、川から船で見学するツアーもありました。


帰りはバスで新幹線の駅に向かったが、10月半ば、かなり寒く、風に交じって白い物が舞っていました。
が、こちらへの参拝には成都にある三国志の記念館近くから移動だけのバス乗車が当日購入できました。私のガイドブックにも、宿泊先の情報にもなくて、是非行かれる方は、利用を薦めます。お代を現金で支払い、カメラにチケットを写し、路程のバス番号を記入し、乗車を待ちました。私のお手の物としては、若い方と親しくなり、(英語で通じるので)一安心となり、そうならない場合は、現地語鍛錬と覚悟をしましょう。 無事帰ってこられます。

噴水に集う人たち

2019年12月13日 13時00分15秒 | 旅行
コシツエでは、他の街でも見かけたように台湾や中国からお嬢さんが両親を引き連れた旅のカップルに何組かであった。
「どうやら博物館は休みですね」の会話になったり、旅のルートを交わしたりと、気軽な挨拶も、アジア人同士でほっとするで出会いのひとときでもある。

長期滞在には東欧も選択の一つにあげられるように、物価は安いと感じた。スーパーにはイタリアの食材も日本よりかなり安価だった。そのような理由だろうか、難民と思われるような人もいるだろう。ロマと呼ばれるだろうか、学校に行かない女の子や男の子が駅で物乞い模様で観光客を見極める。

コシツエに向かう電車の中、体格のよいお母さんの隣には、将来そのようになりそうな女の子が座っていて、車窓からの景色に興奮していた。それが言葉でしめすのではなくて、はしゃぐようだったので、初めて出かけるのだろうか・・・が、ふたりも明らかに現地の民族とは違った体躯だった。車内を列になって進んできた小学生たちを見るなり、興奮して身を乗り出していた。言葉に問題があるのだろうか、と思ったほどだった。

  

  

古い街並みを気ままに歩き、ブダペストに向かう時刻に合わせて噴水のある公園のベンチでひと時を過ごしていた。

   
音楽が流れ、スロヴァキアの乾燥した空気は気持ちよい。動き回わらず、噴水に集って写真を写す人たちを見ていた。 
熟年で、着飾った婦人を写す夫。グループでやってきた婦人たち・女学生のグループ。噴水に遊ぶ子供たち。
記念写真にこぞって足取りが喜びを放っている。中国女性ほどでもないけれど、ポーズも仕草もまさに幸せな瞬間を切り取ろうとしていた。
近くのベンチには新聞を読んでいるシルバーヘアーの高齢者や、一人旅とも思われるような男性が座ったり、婦人が入れ替わったりしていた。
少々疲労も見えた旅中に、ゆったりとベンチで眺め、どうってこともない時間で、人の幸せ光景を感じ取っていた。 

6月半ば 以降  クラクフ移動

2019年12月13日 11時38分25秒 | 旅行
夏前に東欧に旅立ち、ソーシャルメディアにでもクラクフ見学先写真を挙げたのを記憶している。
プラハ(10:24)からは8時間をかけて電車でポーランドのクラクフ(17:29)に到着した。
街はひと昔古く、落ち着いていたが、滞在中には祝日が重なり、珍しい光景にも出会えたり、予定していた見学ができなかったりもした。が、世界遺産の岩塩抗 ヴィエリチカという場所にツアーで出かけたり、ザコパネという山岳地帯(温泉滞在込)にも出かけた。

クラクフ現地市内は6月でも暑く、麻のシャツを買ったほどで、けれどヴィエリチカには防寒が必要だそうで、ツアーバスに乗りこんだ。岩塩抗は、地下都市にも匹敵するような地下を巨大にくりぬいた規模で、想像以上だったけれど、電車の駅からそれほど遠くないのを後になって知った。 かなり古くから開発されていたのを後になって知り、災害にも守られるのだろうか、戦時中でも大丈夫ではないか、と教会すら岩塩抗で掘られたのを見て考えていた。その地形に興味を寄せもした。さまざまな地形があるものだ。
というように、旅のずっと後になってから新たに知ることが多い。それもこうして記憶のかけらを表出するからだろうか。
 
 引きつられていくコースは便利だけれど安心するためか、退屈し、半日ツアーから戻った時には宿泊先で眠りについていた。学生さんが旅を始める時期、もう暑いのです。暑さしのぎの場所にでかけたくらいだった。けれど、私には彼らの快適気温とは食い違い、夜間には女性に声をかけたほどだった。 
  
クラクフにはシンドラーのリストに登場した場所もあり、ユダヤ地区にはどことなく気持ちが引き締められてはいた。

ハプスブルグ 東欧 プラハ とはいうものの、今回は、迫害惨劇を味わった旅でもあった。

クラクフ(7:55)⇒オストラヴァ(10:30 11000)⇒ポプラド タタリ(14:25)

数日滞在し、久々のペンションでひとりをゆったりと過ごした。というものの、土日とあって、宿泊先では受付もいなくて、部屋の鍵がうまく作用しなくて観光局のスタッフを通じて持ち主が駆け付けたりもあった。お互いのSMSや通話は通じ合わなかった。食事はショッピングセンターで用を足し、駅近くの宿泊先からスロヴァキアの山岳避暑地帯 タタリ山脈を山岳列車で満喫した。それまでの街散策と違い、気持ちの変化は大きく、気持ちよかった。


2泊滞在し、翌朝 コシツエに向かった。 6月24日 体調やや悪く、スピシュ城を諦めた。
ポプラド タタリ(9:40)⇒コシツエ(10:48  17:12)⇒ブダペスト(18:20)


香港のニュースで思い出してしまったこと

2019年10月06日 08時36分29秒 | 旅行

ブダペストの革命(1966年10月29日)の時にレポーターとして現地にいたフランス人の写真家が10/30日に重い負傷に見舞われ、すぐに病院に運ばれ11/3まで病院で手当てを受けた。が、その後パリに運ばれたけれど、11/7に29歳で亡くなったそうです。