食育マイスターのひとりごと

食育マイスターが日常のひとりごとを綴っています。

実家の話⑤

2023-08-21 10:46:42 | 日常
進学した短大は『でっかいどう』にあった。

私は昔からアメリカに憧れがあり

もちろん、海外なんて夢のまた夢だから

それなら日本の中でアメリカっぽい(おおらかな)イメージがある

『でっかいどう』にしようと思った。

実家は無駄に広くて、冠婚葬祭でもらった引き出物がたくさんあったけど

1人暮らし用に母からもらえたのは、

本当に使わないようなプラスチックのお皿とかのみ。

あとはヘアブラシ。

当時はそれが当たり前だから何とも思っていなかったけど…

寒いところに行くのに、ドライヤーもなかった。

うちは理容業だから、使ってないものもあったはずなんだけど。
(母は捨てられない人)

って、今思えば、子供の頃

髪をドライヤーで乾かしてもらったこともなかった。

髪は機嫌が良ければ切ってくれたんだけど

どれだけお願いしても短くされてた。

多分、ドライヤー不要だったから便利だったんだと思う。

髪を短くされていたから、

編み込みとかをしてもらったこともなかった。

髪を伸ばせたのは高校生になってから。

三つ編みなんかも、自分で覚えた。

年に1回か2回、貯めたお金で美容院に行けた時はちょっと感動した。

言ったとおりに髪を切ってくれるから(笑)

その後帰宅して、母にすごい嫌味を言われたけ


鍋もフライパンも自分で買った。

母曰く『みんなが来た時にないと困る!』で

欲しいものはもらえなった。

冷蔵庫も自分で買った。TVはお金がなくて買えなかった。

色々と調べて、通う短大関係で一番安く生活費が済ませられそうなのが

申し込んだ学生会館。

1人部屋で台所・お風呂・トイレ共同。

集会室にTVがあったから、TVはそれで。

カラーボックスを買って組み立てて。本当に最低限。

学生会館から短大までは徒歩30分近く。

なんか、自転車も買えなかった。歩けばいいや!


初めて学生寮に行った日

他の子達は必ず親が一緒だった。

そうか、普通は心配して親も来てくれるんだと思った。

借りられた奨学金は月44000円。

学生会館は月に29000円。最低限の生活は出来る。

もちろん、バイトはする。

母からの仕送りは期待は出来ないけど…

3~4カ月位に1回、10万円が振り込まれた。

それでも助かった。

後から考えると、短大の学費が2年で140万弱。

父の遺した学資保険が200万。残りの60万円を分割していたのだと思う。

あと、入学式のスーツ代は出してもらえた。

うちの田舎の成人式は夏。暑いからスーツ。

そのスーツ代は出してもらえた。


短大の1年生の終わりにアメリカへの研修旅行があった。

50万ちょっとかかった。


高3の冬、祖父が亡くなる前に

父方の一番下の妹に

私の学費の補助をして欲しいと頼んでくれていたみたいで。

どうしてその妹かというと

ご主人が美容院をいくつか経営していて、都心に住んでいるセレブ。

そのおばさんが祖父が亡くなった時に

『母子家庭のくせに…』と言ってきた人なんだけど。


祖父は私の唯一の理解者だった。

私はもっと勉強がしたいはずだから、協力してやって欲しいと言っていたらしい。

高校を卒業した春休み、1人で東京にお金を受け取りに行った。

本当だったら、母も頭を下げるべきなのじゃないか…と思ったけど

私のことだから、私が一人で。

お金は嬉しかったけど、嫌味を言われた後だったから都合悪かった。

頭を下げて、お金(50万)をいただき、帰宅して母に預けた。

研修旅行にはそのお金と、バイトを掛け持ちして貯めたお金をプラスして。

本当に本当にありがたかったんだけど…

その時いただいたお金は、後から返すべきだったのか…

未だに考えることがある。

それに、そのお金を母が他の事に使わなかった事にも感謝しなきゃ…とは思った。


就職は東京のとある私立大学の事務。

卒業前に一度住むところを探しに来て契約して

敷金礼金払って、引っ越し代も自分で払って。

時はバブル真っただ中。住むところも安くない。

もちろん、契約金も安くない。

仕事に行くための服だって必要。

また貯めたお金がなくなった。

研修旅行なんか行ってる場合じゃなかったかも…とも思ったけど

それがないと、おばさんからいただいたお金は払ってもらえなかった気もするし。(母に預けていたから)


引っ越しして、電話の契約に10万円かかると言われ…

さすがにお金がないから止めようと思ったけど

連絡を取れないとこっちも困ると、それは母が払ってくれた。

あと、最初の給料日まで生活費として3万円ともらえた。

それが、母にもらえたお金の最後。


初任給が出た時に、母に高めのお茶を送ったんだけど

美味しくなかったと文句。


世間の常識として

子どもは親に苦労をかけたから、親孝行を!


月給に対して住むところが高かったから
(それでも安めを探し、通勤に1時間半かけてた)

さすがに毎月の仕送りは無理だったけど

ボーナスが出た時は必ず贈り物をしてたし

夏・冬は必ず実家に帰っていたんだけど
(帰らないと怒る。でも交通費もバカにならない)

何をしても、いつも文句が最初だった。















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実家の話④

2023-08-21 09:57:59 | 日常
中学の卒業式で、先生に

『○○(私)は最後、もう少し成績が伸びると思っていたよ!』と言われた。

まさか、勉強していると母に怒られるなんて、言えるわけもなく。


一時、母に、父が行きたかった私立の高校を勧められたことがある。

父の夢だったんだけど、妹や弟は学力が足りないから

そこに行けるのは私だけだと。(父の夢を叶えろ!)

いやいや、ちょっと離れた公立高校が交通費が高いでダメっていうのに

私立とか何言ってんの?

それなら、交通費が高くても、結果的に行きたかった進学校の方が安く済むし

滑り止めで私立を受けることを許して欲しかったんだけど。

もちろん、受けませんでした。


中学の卒業記念に、小学校の担任の先生から

ちょっと高めのボールペンをもらった。

大事に使っていたんだけど

高校生のある日、宿題をやっていたら

案の定、母が激怒!! 

『お前は本当に何も家の事をやらない!!!』で、

その大事にしていたボールペンを破壊されたことがある。

ちなみに、毎日茶碗を洗い、何なら洗濯もし、廊下も掃除。

母は自分で作った物が好きだったから、料理はしていたけど

母が忙しい時は私だって色々作った。
(家族には文句しか言われなかったけど)

これ以上何をすればいいのか具体的に言って欲しかった。


私が好きで高校に行くわけだし

奨学金ももらえたんだから、お小遣いは要らないだろう!!!で

お小遣いはなかった。

もちろん、お弁当も自分で作った。幸い食べることに制限はなかった。

母はいつも『奨学金をもらえていいね~』って言ってたけど

奨学金は借金。いずれは返すもの。無駄遣いは出来ない。

ただ、私の場合、欲しいものは全て(服も下着も洗顔クリームも)

自分で買わないといけない。

月に9000円借りられたから、5000円を使っていいお金として

残りは貯めた。親戚からもらえたお年玉も全部貯めた。

3年後にまた来るであろう進学問題に備えて。


高校では部活もした。

母はそれも気に入らなかった。
(放課後はお金を稼いで欲しかった)

ただバイトは、その高校では

確か長期の休みとかに申請しないとダメだったような…


高校は就職する人も進学する人もいる普通高校。

2年生に上がると、進学クラスと就職クラスに分けられる。

さらに、進学クラスの中で

特に英語と数学の成績が良かった人たちを集めたクラスがあり

幸か不幸か、そのクラスに入ってしまった。

私としては、進学したい。

母は許さない。

狭い田舎町。そのクラスに入ったことはみんな知ってる。

進研ゼミを勧める仕事をしている同級生のお母さんが家にやってきて

私用に進めるもんだから、母は断れない。(外面は良い)

進学塾なんて、とんでもない話だったけど

進研ゼミは取ってもらえた。


いよいよ、進む方向を決めないといけなくなった時期

昔から(自分のように)手に職をつけるのが一番だと母は言ってきたので

それなら『栄養士』になろうと思った。国家資格だし。

母に言われたのは

どうしても進学したいっていうのなら、出せるお金は200万円。

これは、父が生前、私様に契約した『学資保険』の満期の金額。

母に言うと、

『栄養士なんて、学校出たって(給料の安い)給食センターくらいしか

働き先がないような資格、お金の無駄だ~!!!』

偏見にもほどがある。

結局、本気で考えた職業はあっさり却下。

母と同じ道を進まなくても、とにかく私にお金を稼いて欲しかった。

本当に、私に、父の代わりに大黒柱になって欲しかったんだと思う。

で、進学した短大を選んだ。学費も安かった。

英語科だったから、母の知らない世界だったのが良かったんだと。


高3の12月末に闘病中の同居していた祖父が亡くなった。

葬儀の時、うちの田舎は、

ご近所中の女衆が集まって炊き出しをしないといけない。

もうすぐ入試だったけど、もちろん炊き出し優先。

こんな時だから、2つ下の妹が代わりにやってくれても良かったんだけど

妹はそういうことはぜ~ったいにしない。

もちろん、私がもうすぐ入試を控えているから、あなたがやりなさい!って

妹に言う人もいない。

祖父は父方だから、父の姉妹も来るから、その相手もしないといけない。

父の姉が2人、妹が2人、計4人。結構意地悪をいうおばさん達だった。

母が苦手だったこともあり、その人たちの相手はいつも私だった。

祖父の遺産を当てにしていたみたいだけど

うちの母が独り占めをしたと思い込んでいたらしく

葬儀の時から、4人の態度が悪かった。

一番下のおばさんからは、

『母子家庭のくせにビデオデッキまであって、贅沢しているくせに』と

面と向かって言われた。

出始めのビデオデッキ。

実はどうしても欲しくて、私の貯金から一部お金を出し買ってもらったもの。

別に贅沢なんてしてないけど。


後に祖父の遺言が見つかり、祖父には遺産がないことが分かり

その時の態度を謝ってきたそうだけど。


何だか、とことん、勉強に集中する環境に縁がないんだな…と思った。


高3までに貯めたお金は30万。

受験費用と交通費と引っ越し代に消えた。







コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実家の話③

2023-08-18 11:34:24 | 日常
子どもが出来て初めて、親のありがたみが分かるって聞いていたけど…

私の場合は、子どもが出来て初めて

いかに手を掛けられていなかったかが分かってしまった。


まだ乳歯の頃、私は虫歯だらけだった。

覚えているのは『虫歯19本』

『味噌っ歯』だった。

子どもって虫歯が当たり前で、乳歯は麻酔して歯医者で抜くものだと

本気で思っていた。

だから、私の娘達にほとんど虫歯がなく、

なんならグラグラしているところを自分で抜いちゃったことにびっくりした。

私は当たり前のように

娘達が寝る前に歯を磨いていたけど

私は磨いてもらったことなどなかったんだなぁ…と。

そのせいなのか、歯並びがあまり良くなく…

でも、私だけだときっとそのままだったのだろうけど

母の愛する弟が一番歯並びがダメだった。

歯医者の先生に、母が『子どもの歯並びが悪いのは親のせいです!!!』と

怒られているのを見かけたことがあった。
(怒られている母の姿にスッキリしたことも覚えているから、きっと弟の歯並びが悪いことを、私が世話しないと言っていたんじゃないかと思う)

母は子どもの歯を磨くことをしてこなかったのだと思う。

でも、自分自身も部分入れ歯だったりして。

そんな母を見て、40歳過ぎたら

みんな入れ歯になるのだろうか…と思っていたけど

単に母がだらしなかっただけだったのだと思う。

弟が矯正することになり、同じ歯医者に通っていた私もついでに

してもらうことになった。
(先生が勧めるからね)

でも始めた時期が遅すぎて、治るのは80%と言われたけど。


家族写真とかもない。

そもそも家族旅行にはほとんど行ったことがない。

父と母のお店は月曜日がと第3日曜日が休みだったことも大きいが

母も多分父も外食があまり好きではなく

たま~に出かけてもおにぎり持参だったりした。

まれに外食しても、これなら家で作った方が美味しい!と母。

確かに母はお料理は上手だったけど、母は自分が作った物が

この世で一番美味しいと思っていた。

たま~に美味しくないものがあっても、認めなかった(笑)

パウンドケーキとかお菓子がものすごく粉っぽくて。

今にして思えば、ちゃんと混ぜなかったからだと思うけど。

茹でたそうめんもまずかった。茹でる水も少なく、

差し水が多かったからだと思うけど、私の話を聞くわけもなく。

私が作った物がまずいわけないじゃない!!!だった。

それに、外食は量が多くて、私達が残すのも嫌だったらしい。

うちの娘達が小さかった頃は、まずは子ども達に食べたいものを選ばせて

私は娘達から少しずつもらって食べていた。

でも母にはそんな考えはなかったのだと。


何より、母と買い物に行ったことも一緒に歩いたこともなかった。

嫌いだったし、母は思ったことを大声ですぐに口にするから

一緒にいて恥ずかしかったということもあったと思う。

私の学校の行事に、お前の行事のせいで仕事を休まなきゃいけなくなった!!

とよく怒られていたから

行事には一切来てもらわなかった。別にそれで良かった。

娘達が幼稚園に上がり

自分は母が学校に来て騒ぐのが嫌だったから

私はなるべく行事があっても遠くで見て大人しくしていよう…と思ったら…

長女が『どうしてお母さんは来てくれないの?』と泣いたことがあった。

それまで、私は

子どもって親に見てもらいたいものなんだという感情を知らなかった。

そこからがPTA役員人生の始まり。

他の親よりも多めに学校に行くと娘達が喜んでくれることに感動した。


それでも母は、愛する伴侶を失い、大変だったと思っていた。

母の愛する弟が鼻炎がひどかった時、いい病院にかからせたいと

県立病院まで私が連れて行ったことがあったんだけど

日曜日はやっていなかったはずだから

きっと母に学校を休ませられて電車で1時間以上、そこからバスに乗り

弟を連れて行ったのだと思う。小6だった。

娘達が小6の時、私はこの頃から、電車とバスを乗り継いていたんだと

ふと思い出したことがある。


『毒親』とか今は色んなキーワードがあるけど

弟や妹は母にとっての『愛玩子』

対して私は『搾取子』

家族が嫌いな自分はきっとおかしいのだと色々と調べて

一番しっくりした『キーワード』


中学生に上がる頃には、この家を出ないと

この家族に、私の人生が潰される!と本気で思っていた。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実家の話②

2023-08-17 17:08:47 | 日常
実家は父と母が理容業を営んでいた。

私には、2歳下の妹と4歳下の弟がいる。

もともと父方の祖父と祖母との7人家族だったけど

私が6歳と時に祖母が亡くなった。

物心ついた頃から

私は父も母も妹も弟も大嫌いだった。

田舎の第一子。

時代が違えば、私は売り飛ばされ

国が違えば、私は家族を養うために

裕福な国に出稼ぎに行かされた立場だったと思う。

私は子供の頃から、褒められた記憶がなく

『お姉ちゃんでしょ!!!』と言われ続け

家の事や妹や弟の世話が当たり前だった。

父は妹を可愛がり、母は弟を可愛がっていたのは明白だった。

父は妹の夏休みの宿題を手伝い、

その年の学年の優秀な自由研究に選ばれていた。

私は自分で考えないといけず、考えつかなくて

結局、植物の観察になり、父にバカにされたことを今でも覚えている。

父にはよく、お前は○○川の橋の下に捨てられていたのを拾ってきた!と

からかわれ、それを母も笑って聞いていて。

当時やっていた『みなしごハッチ』の話を自分に置き換えていた。

でも、こんな意地悪な家族、

きっと血が繋がっていないはずだと信じたかったし、

血が繋がっていないことを望んでいた。


何かを教えてもらった記憶は全くなかった。

妹は自転車の乗り方を父から教わっていたけど

私は小学生になってから、自力でなんとかした。

全てがそんな感じ。

心配されたことも一度もない。

私が長女で、しっかりしているのは『当たり前』のこと。


私は好奇心旺盛な子どもで、色々なことに興味があり

小学生の頃はそろばんを習っていた。

小さな大会だけど、優勝したり準優勝したりで

トロフィーを2つ持っている。
(と言っても、結果を両親に報告しても『ふ~ん』だったけど)

日によっては暗く遅くなることもあり

遅くなると迎えに来てくれる友人たちが羨ましかった。

ある時、私が頼み込んで
(暗い中帰るのは怖い←なら、そんなもん、辞めてしまえ!だったんだけど)

遅くなった日はバスで帰ることが許された。

バス停は親戚がやってる商店の前。

ある日、バスに乗る寸前に、バイクに乗る父を見つけた。

私はてっきり、私を心配して迎えに来てくれたのかと思いきや

なんてことない、親戚の商店に用事があっただけ。

ヘルメットもないのに
(その通りなんだけど)

お前を迎えに来るわけないだろ!と怒られたことを

今でも覚えている。


田舎には親戚も多く、農業を営んでいる親戚も多かった。

その親戚の子ども達が(私のはとこ達)早起きして

家の事をよく手伝うのに

お姉ちゃんのくせに、お前は本当に何にもしない!!と

特に母によく怒られた。

ちなみに、食器も洗ったし、家の廊下も掃除した。

簡単な料理も出来た。

それでも何もしないというのなら

私に髪を切って欲しかったのか…

その頃から、ぜ~ったいに家の跡なんか継ぐものか!!!と

固く固く決意した。


小5の時に心筋梗塞で父が突然亡くなった。

その時は私が泣いた理由は

『優しかった父が…』ではなく、

父から私にとっての意地悪な家族を押し付けられた絶望感から。

案の定、私が第一子としてやらなければいけないことが

本当に増えた。


妹や弟は元々、スポーツも勉強も苦手。忘れ物も多い。

でもそれは、私が姉としてちゃんと見てあげてないから!と

妹や弟が先生から注意を受けると、母に怒られるのはいつも私。


私はどちらかと言うと、勉強が出来た方だった。

とは言っても、超田舎の学校だったので、たかが知れているけど。

一番、理不尽だったと思ったのは高校進学の時。

母は私が高校に進学するのは大反対。

理由は、あんたは、勉強ができるから、今ここで高校に行かなくても後からなんとかすればいい。

でも、妹や弟は勉強が出来ないから、行ける高校が限られる。

だからお前が我慢して、妹や弟を高校に行かせて欲しい!!

私からすれば『はっ?何言ってるの?勉強が出来ないから、勉強すればって注意すればいいだけの話でしょ?』と。

母が妹や弟に『勉強しなさい!』と言ってるところを

一度も見たことがなかったし、

『手伝いなさい!』と私に言うように言っているところも

一度も見たことがなかった。


私が考えたのは、周りから固める作戦。

田舎の悪いところは、み~んながみ~んなのことをよく知っている。

それなら私が勉強をすれば

私が成績がいいことがみんなに知られ、

成績がいいのに、高校に行かせてあげないの?と

周りの人が母に言う。

母はバツが悪くなり、私が高校に行くのを許可する…

その作戦は成功して、受験できることになったんだけど…

受験を許可するのは一校だけ。もちろん、行くのは公立。

それなら、行きたい進学校があった。

そこは少し遠かった。もちろん、交通費がかかる!!!で却下。

それでも、高校に行かせてもらえることに喜んだ。

もちろん、奨学金は必須。


母はそんな私が面白くなく、中3の時が嫌がらせのピークだった。

勉強している=自分のことをしている=家の事をしない→長女のくせに!!

で、それはそれは怒鳴られた。

包丁を向けられたこともある。(注:宿題をしていただけ)

私も反抗期。『殺れるものなら、やってみろ!!』だった。

本当に面白くなかったらしく

中3の時にはお小遣いももらえなかった。

『働かざる者食うべからず』ということだったらしい。

私が使った食器も、私の服の洗濯もしない。

それでも、家を追い出させるよりはマシ。

無駄に広い実家には使っていない台所と、使っている台所と2つあり

冷蔵庫も2つあって、片付けが苦手な母は

いつも冷蔵庫をパンパンにしていたから

食べるものには困らなかった。

小さい時から何でもやらなきゃいけなかったから

母が私のことをしなくても、家事全般は出来た。


そんな環境に育ったせいか

なぜか昔から『危機回避能力』みたいなものは備わっていて

そんなこともあろうかと

小さい時からお金を貯めていたから

中3の1年間はそれでなんとかなった。

ただ、女子特有の成長に伴う下着なんかは買ってもらえなかった。
(むしろ気持ち悪がられた)

高校のある街は用品店もある。あと1年の我慢だと。
(うちの田舎にもあるけど、私が買いに行くと母にばれる)


ちなみに、母は中卒。

家庭の事情での中卒ではなく、勉強が嫌いな子だったと思う。

なぜなら、母の兄達は私立の高校に行かせてもらえてたから。
(でもひょっとしたら、女に学は要らないって考えだったかもしれないけど)


そんな母をみて思ったのは

人間、知恵をつけないとダメだ…と。

それには本を読めないとダメだなって。

そう言えば、母は説明書とか読めないし理解出来ない。


それでも夫を亡くして大変だったと思っていたから

自分なりに家の事は手伝っていたつもり。

母はぜ~ったいに何もしなかった!と言い切っていたけど。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実家の話①

2023-08-17 16:18:17 | 日常
これから書くことは

結構重くて暗いお話です。

1年半ほど悶々と考えていて。
(考えすぎて、あんまりブログも更新できず)

読む人によっては

理解されないことも多い内容です。

でもスッキリしたいので、

思い切ってこのブログに書いてみることにしました。

長~くなります。


『終わりの始まり』は1年半前の2月。

関東に大雪が降り、警報が出た日の夜7時過ぎ。

母から電話があり、電話口で泣き叫んでいた。

興奮しすぎて話す内容が支離滅裂だったんだけど

要は、弟と連絡が取れないから

私に弟の住むマンションに行き、様子を見てきて欲しいとのこと。


どうして弟と連絡を取る必要があったのかというと

今からちょうど7年前に、実家がある場所が県道拡張の為に

取り壊しになることが決まり、それに伴い県からお金が振り込まれ

新しい場所に家を建てることになったんだけど

弟が署名をして先方に送るはずの書類がまだ先方に届いていない。

その書類がないと、新しく家を建てるお金を手に出来ない。

母は7年前からず~っと新しい家を楽しみにしていたのに

今書類が揃わないと、また2~3年後になる。

その2週間前には弟と電話で話をした。

なのに、その日は連絡が取れない。

職場に連絡をしたら、なんと辞めていた。

個人情報だから、詳しくは教えてもらえない。

まだまだコロナ禍。

弟はコロナに罹り、倒れているのではないか?

だから、私に見に行って欲しいと…


その日は関東も雪が積もり、ニュースで外出はしないように呼び掛けていた。

私のところから弟の住むところまで、電車だけで1時間半。

電車も本数を減らしているのに、もしたどり着けたとしても

私が家まで帰って来られなくなる。今日は無理だ!

でも母は、そんな私の話など聞いておらず

『じゃあどうするの!!!』の一点張り。

その時はまだ三女が一緒に住んでいて

電話を受けた私のただ事じゃない様子を察してくれた。


家電で母の話を聞きながら、携帯で弟の番号にかけてみたけど、出ない。

ただ、この雪の様子では、私が今から行くのは無理だ。

それなら警察に届けて欲しいと母。最寄りの警察署に行けと言う。

そこでネットで調べると、別に警察署は

最寄りじゃなくても話は聞いてくれるみたい。

それまでの事情を私は知らないから、母が自分で電話して説明すれば?

と話すと、それは嫌だと言う。

こんなに雪も降っているし、私だって帰って来られなくなると話しても

雪国に住む母にとって、たまに雪が降ったくらいでなんだ!みたいな感じ。

とにかく、じゃあ、『どうするの?!!!』と答えを私に求める。


その間に三女が、弟が電話に出ないなら

SNSでもやっていないかどうか調べてくれた(DMでメッセージを送る)

残念ながらやってなかった。

弟が心配だけど、母自身が自分で警察には電話したくない。

私が動くのが一番いいのに、動いてくれないなんて!!と

何か、私が一番悪い流れ…

母の話を聞きながら、夫にもメール。

すると夫は、

書類の署名、やってないから電話に出られないだけじゃないの?と

意外に冷静。私も少し納得。弟には前科がある。(その話は後程)


弟が電話に出てくれないなら

弟の知り合いに電話してみれば?

コロナになるまで、年末に帰省した弟は

毎年、同級生でもあった『はとこ』と遊んでいたはず。

親戚なんだから、電話してみれば?

そしたら母は激怒。そんな家の恥を話せるか!!!

そもそもこんな夜遅くに電話できるか!!!(注:夜7時過ぎ)

私が様子を見に行き、気配がないから警察署に届け出を出すのが一番。

なのになんで協力しない!!!

結局、一番悪いのは私。それは昔から。


とにかく、大雪だからいつ交通機関が止まるか分からないし

次の日も仕事だし、警察署に行くのも無理だから

どうしてもって言うなら、自分で警察に電話して!!!とお願いをして

無理矢理電話を切りました。

その時から、家の電話が鳴るのが怖くなった。


そして、その時から

実家の事が、なんかどうでも良くなってしまった。


ちなみに、その日の2日後は二女と三女の誕生日。

1年休学していた三女の卒業も確定し、

ようやく私も少し楽になるかな…なんて喜んでいた矢先の出来事。

孫の誕生日なんて、母にはどうでも良い話。


その日までは

母が新しい家を楽しみにしていたなら

私も色々と協力してあげないと!とは思っていたんだけど…

家がどうとかは、私は全くの蚊帳の外だった。

私が結婚していることもあると思ったんだけど

母の願いは

いずれは『跡取り』の弟との新しい家を

弟と色々と相談してなんとかしたい。

その願いを叶えてくれない、私が一番悪いみたいな流れ。

その電話で、私も何かがぷつっと切れてしまった。

実家の家族には

昔から色々と思うところがあった。

なんか、もう、どうでも良くなってしまった。















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする