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帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

親のおかしな教育が子供の未来を苦しませる、昨日のこと

2013年07月24日 | 研究-教育・育児

親の教育の仕方が、将来我が子を社会で大きく苦しませるのだと・・・・ そうした事を肌で実感する出来事が有りました。

昨日の事なのですが、自分の娘に現場の状況を仮定的に造って、「どうする?」とたずね、その問に対する返答を聞き、

安心して胸をなで下ろす僕でした。

 

昨日は出張!  本店?に書類を届け、思いの外早めに仕事終了だった僕。

帰宅途中に、行きつけのホームセンターでハイエースキャンピングカーの補強部品を買って、ついでに店内をウロウロしているときに

事に遭遇してしまったわけです。

 

「そろそろオイル交換だよな~?」と 車用品コーナーを歩いていた僕。

ある女性店員 仮に名前を S子としておきますが お客さん怒りが突然勃発。

このお客さんはYさんとしておきますね。

「そこそこ!」、「そこに有るでしょ!」とはS子、 年齢は25~30才くらい。

「どこ?」と聞いているお客さんYは、年齢が殆ど僕と同じくらいで、どうやら車関係のグリスか何かを捜して、S子に尋ねたみたいなんです。

お客さんとS子の距離は約2m程度、 同じような箱が並んでいる陳列棚は、品物が分かり難い。

Yが再び「どれ?」と聞いたのですが、 そのS子はたった数歩の距離を歩かず、立ったままで再び「それそれ!そこ!」と、

するとYが「お前さ~!」と怒り始めた。  

「当然だな・・・・・」 と僕は思ったのですが、 お客さんは分からないから聞いているわけで、こうした時は数歩前に出て、

手に取るか示せば済むだけの事。

なのにそれをしない、尚かつ友達言葉 お客さんはお友達か?あんたは? と僕は思うわけで、YはひとしきりS子の態度を注意。

ところがそのS子 「ハイ、すいません!」、「すいません!」 というだけ。

そのうちYは黙って振り返り品探し、 それでもS子は黙ってそこに立っている。

 

アホか?こいつ・・・・ 

 

と、その直後、今度は他のお客さんが来て、この人はKさんとします。 年齢にして60才くらい。

「悪いけど一寸来てくれる?」とS子に尋ねた。

するとそのS子、「今こちらのお客様の対応しているので!」と返答、するとそのKさんは「そしたら悪いけど店員呼んでくれない?」

とS子に要求。

どう返事するんだ~? とそのまま見ていたら、突然「何の御用でしょうか?」とKさんに言いだした。

 

「はあ~!?」 と思わず目が点になる僕。

するとKさんは 「今日****の品物が入ると、この間来た時に説明されたんだけど、今来たらまだ棚に無いんだけど、

どうなってんの?・・・・うんぬん。」

 

少し離れたところにある、除草剤コーナー品物の事を言っているみたいなのです。

どうすんだ~このS子は?と、そしたら店内通信用携帯をやおら取り出し、係に連絡。

 

数十秒後に、一度棚のところに行って、すぐ戻ってきたKさんに対し、「今連絡しましたから、係の物がお見えになられますと返答。

チュド~~~ン!!!   大爆発! 「あ~・・・・・・・・・・・・・ 駄目だコリャ!」

 

 

「は~」と僕は溜息つくけど、何て~事だろう。 どう考えてもこのS子はガキじゃ~ない。

15、16才の世間知らずならそれも許されるだろうけど、どう考えても30近いS子は、年齢的に最低の言葉使いは出来ねばならないはずだ。

初めのYさんの件にしても、数歩歩けばいいだけの事なのに、それすら出来ない。

そして Kさんでは”何の御用しょうか?”、”係の物がお見えになられる”と、いったいこの女性はどういった教育を家庭で受けてきたのだろうか?

と思ってしまった。

 

風体は一応は普通を装っているが、明らかに元ヤンキーでした!というオーラが滲み出ている。

おそらくまともな家庭教育を受けて来なかった事が、この数分ですべて現れてしまった。

 

まったくの他人でありながら、余りにも恥ずかしいこのS子。

この先どういった人生を歩んでいくのかと、さすがに心配になってしまった。

 

 

ホームセンターを出て運転しながら急に、「家の娘はどうだろうか?」と気になってしまった僕。

もし家の娘が同じレベルなら、親として死にたいくらいに恥ずかしい・・・・・・ 

 

そこで帰つろ、珍しく家にいた娘に、S子がどんな接客をしたか?をもとに、結論を一切言わず、

現場の状況と流れを再現しつつ、どう対応していくか?を娘の言葉で直接聞いてみた。 

 

すると、S子とYさんの件の場合は、「こちらですお客様!」といってお客さんの先に立って案内し、手のひらで直接品物を指し示し

教えるそうだ。

そしてKさんとの対応では、「申し訳ありませんお客様、ただ今こちらのお客様に対応しておりますので、すぐに別の(担当)の者を呼びいたします、

少々お待ちください。」

と返答するとか、それ聞いた僕はホット胸をなで下ろしたわけです。 

 

その後娘に、S子の言葉使いと態度を話したのですが、 「信じられない!」と言っていた。

 

当たり前の事であるが、言葉の使い方から始まって箸の持ち方一つ、話し方一つ、あらゆる事は全てリンクしている。 

どんなにその場で繕っても、ごまかそうとしても、 その人間の普段の姿勢というのはあらゆるところで自然に滲み出てきてしまう。

 

故に幼い頃からきちんと基本を育て、これは型にはめる事その物なわけだけだが、特に女の子はしっかりとした人間性を備えた

品ある女性へ育てねばならない。

 

電車で良く見かける足を開いてスマホいじくる高校生、下品な言葉使い乱発の会話では、まともに社会を歩んでいける娘には育たない。

トイレ掃除一つにしてもしかり、 それまでやったことがない女性が結婚して始めたとて、どうしても汚い意識は抜ける事が無い

 

それ(掃除)が当たり前なのだと、幼い頃より育てない限り、面倒くさいという思いと汚い意識はけして抜けず、

自分の面倒と横着目的で、旦那に座って小便しろ等という愚かな事を言い始める。

 

言葉一つとってもそうだが、家の掃除や片付け、料理すらも幼い頃から身につけさせない限りは、散らかり放題平気、

包丁の握り方すら知らない人間になってしまう。

 

女性としての基本は全て、 出来て当たり前として型に入れて育てない限りは、後で何とかなるだろう!とか上手くいくだろう等、

けしてあり得ない訳だ。

 

 

僕は娘に、会社に入ったら上司や同僚の男性に自ら進んでお茶を出せ!といっている。

出せと言われてやるのではなく、 職場の状況をみて、適時に判断し、自ら進んでやれといっている。

 

理由は簡単だ、 世の中の会社はほぼ99は%男性が動かしており、女性も働いてはいるが、主たる動力として動いているのはやはり男だ。

給与はそうした男性達の頑張りにより得た収益から配分されて来るものでしかなく、全体を見渡してみるなら、

どんな女性もその恩恵を受けているだけに過ぎない。

 

男女平等だ等と滅多なことで口にするな!と僕は常に娘に言っている。

ろくに仕事もできない身分で、しかも恩恵を受けるだけの人間が、理想宜しく平等だ対等だと簡単に口に出来る言葉で有るかどうか?は、

よく考えれば分かることだ。

 

故に進んで「茶を煎れろ!」と言っているわけだけど、 もしそれをやらなくて良いときが来たとするなら、

「それは自分がやります!」という後輩が現れた時。

 

それまではどんなに昇進しようが、部下の男性にも茶を出せ!と教えている。

 

理由は至極簡単、 家の娘は女であるという事、 たったそれだけの理由でしかない。 

女性で有れど 小者に育てて良い等ということは無いわけだ。 

 


小者?、その定義とは? 器があまりにも小さい男って?  そんなら(^0^)俺はどうだ~? その5

2013年07月10日 | 研究-教育・育児

 

 

今回はこれについて、

 

【基本姿勢編】

3)すべて最終学歴で判断する人。





僕が高校を卒業して 某大手に孫請け会社の出向社員として始めて仕事に付いたとき。

その時代はまだ学歴主義全盛の時代だった・・・・・

そうした環境では 「お前は高卒なんだろ? 黙ってろ!」  と頭ごなしに何度言われたことか。

懐かしいな~  だははは!

 

さて、学歴で人を判断する人、 そういった事は、昔ほどありませんが、今でも確実にそうした思考の人間というのはいます。  

高学歴=頭が良いという看板 を提げて、勉強できないやつはバカだと言わんばかり。 

 

でもね~これ、 裏を返せばその人物が持っている物がそれだけもろくて小さい物であることを自分で露呈しているわけで、

恥ずかしい事限りない。 

確かにお勉強が出来る=頭がよい と、学生時代ならそう考えてもしかたありませんが・・・

 

ただ、勉強は 机に向かって 飽きもせずにどれだけペンを動かせるか?というだけのことの積み重ねであって、そうした作業に飽きが来ない、

向いている、好きな?人間であれば、繰り返しの回数が多いほど記憶も正確なのが人間ですから、点数がとれて当たり前。

ところがね、これはあくまでも知識の蓄積作業そのものがもたらした結果でしか無く、言い換えれば極めて受け身作業(言われたとおりにどれだけ忠実にこなせるか)

ですから、これが優れているからといって、 それ以外の全てが優れていると考えるのは余りにも幼稚過ぎる思考。

 

僕もこの年齢まで生きてくると、本当に頭の良い人間は必ずしもお勉強が出来るとは限らない現実を見せられてくるわけで、

ところが一応は点数高ければそれなりに知能も高いですから 頭の良い人間の比重は高学歴の方に偏るのは仕方ないにしても、

そうですね、本当に頭の切れる人間はまず発想が違う、そして判断力も行動力も、何より人間性が優れ、人を自然に牽引出来る大きなキャパシティを持っている。

 

こうしたものは知識とは全く別の物として確立していて、学力とは無関係。   子供の頃からの遊び等を通して構築されている。

 

中卒だろうが、高卒だろうが、様々に態様を変えながら押し迫るようにやって来る様々な問題をテキパキと処理し、疲れも見せずに平然とした顔をしている。

学歴が優れるから頭よいという基準は、社会に出ると殆ど役に立たず、現実的には上記に書いたような 真に頭の良い人間の天下でしかない。 

どんなに学歴が優れようが、 世の中に出るときはまっさらなキャンバスであり、どんな人間もヒヨコである。

 

これは僕の考えなので、大変失礼だとは思うが、 結局、その人間が自分の思うままにどれだけ充実した人生を送れるかどうか?

そしてその為に必要な思考と創意を持ち、 困難を切り抜けていける人間こそが一番ではないのか?

そこにはお金持ちになったとか、有名になったとかいう基準は無く、それぞれの人間が心に描く、その人間にとっての理想的生き方が出来たかどうか? 

が鍵となるのではないか?

そうであるなら、その為に学歴がどの程度役に立つのだろうか? そう思えてならない。

 

学歴が優れれば幸せになる絶対法則でもあるなら、何故巷に高学歴の人間が会社倒産やらリストラで溢れかえっているのか?

そして高学歴ほど再就職が難しいという現実を、 ”学歴こそが”という人間はどう説明するのか?

 

上記に書いた様に、真に頭の良い人間は絶対に人を見下さないし、表面的に見える看板で人物評価もしない。

そうした人物の何人かと出会い、その生き様を見てきた経験を持つ僕は、そうした姿に憧れをある意味抱きながら現在にまで至っている。

いろいろな人間がいるけど、 学歴という看板にもたれかかる様な生き方だけは絶対にしたくないと、 それが僕の考え方である。 

 


 


小者?、その定義とは? 器があまりにも小さい男って?  そんなら(^0^)俺はどうだ~? その4

2013年07月02日 | 研究-教育・育児

今回は その4 いくつか牽連している物をまとめてみます。

{基本姿勢編}

4)すぐ責任転嫁する人。

6)他人に対して、厳しい。自分に対して、甘い。

{デート編}

8)遅刻して、いつまでもグチグチ言う人。

{仕事編}

17)トラブルが起こったとき、自分のミスではないことを必至にアピールする人。

18)トラブルが起こったとき、「最初に言い出したのは自分じゃないから。」という人。

19)「僕は、責任者じゃないから。」という人。


いろいろと紹介されていますが、まとめるとたった一つ、我が身を省みる姿勢の無い、自分勝手人間という事ですね。

生きていると他人の事をとやかく言う人がいますが、「そんじゃ~?」僕はどうなんだろうか?

というなら、 仏様じゃ有るまいし、上記のことに関して責任転嫁などが全く無いとは言い切れない。

 

上記例に当てはまるかどうか?は分からないのだけれど、僕の場合で一番激しいのは ウインドサーフィンやヨットをやっていて、思うようにならなかったとき。  

それ以外で、責任転化や他人によけいな事を言うのは無いのですが、どんなにしても下手な自分から抜け出せずにいると、苦し紛れに 「道具が悪い、 風が悪い、 波が悪い!」 等と腹立てながら八つ当たりしたり、口汚く罵ってみたり。

そういった事は”いけないのだ!”と親から育てられてきてはいるが、 思いが強いほど、限界を越した時にどうしても口走ってしまう。

近くに人がいたら 「何だこいつは?」と 間違いなく思われるだろうが、運のよいことに? セイルパワーで吹っ飛ばされ、ぽつんと海原に浮かんでいる人間の声等、誰にも届く事は無い。

でもね、どんなに悪口言っても自然は一切返事を返してこないし、それどころか更に激しさを増してよけい締められるなんていう事はざらにある。

そうこうしているうちに自分がバカらしくなって、どれだけ小さい人間なんだと認め始めると不思議なことが起きる。

ある時を境にして出来なかった事が、突然に出来るようになる形でやってくる。

その感覚は、幼い時分に過ちを認めず、親から叱られた時の一連の流れのよう様であり、その後に来る、あの何とも言えない、甘えたいような懐かしくて幸せな感覚でもあり・・・・

そうした自然相手のスポーツを通して得た経験は、謙虚で自然体で有り続けようとする姿勢と、他人の言葉を素直に受けとめられる自分を創りだしてくれたのだと思っています。

実のところ、叱られるという事は幸せな事で、人間的感情の対立を恐れずに向けてくれる思いには偽りが殆ど無く、そうした気持ちを幼少の頃より正しくもたらされてきた子は、当然に豊かな心を持っている。

逆にそうした経験が無い者は、批判や叱りを自分への攻撃としてしか認識できず、顕著なのは  誉めて育てられた人間で、間違いなく冒頭の例をそのまま当てはめた様な人間になる。

 

今回は、冒頭例の中に幾度か出てくる責任という物について少し思うことが有りましたのて、それについて違った角度から話をしてみようかと思います。

僕は責任という言葉を滅多なことで口にしません。

何故ならこの”責任”という言葉の持つ意味が、非常に曖昧な物であるからなのです。

実のところ、自分の経験から、この責任という言葉を安易に口にする人間ほど”責任を軽く見ている”傾向が多いと、そう思うことがたくさん有った。

誰かが何かをして、そして失敗なり、こなせなかった場合等、 それが本当にその人間の責任なのか?と。

そう考えるなら科せられた責に対し、任じられた者の能力が適応していたのか? 初めから可能だったのか?、不可能だったか?をまず考える必要が有る。

人はそれまでの人生で得てきた経験と知識の積み重ねの上に能力が建っている以上は、こなせる業の限度にも当然違いがあるわけで。

十分に経験を積んでいれば、それが積層されて=当然に能力は高い で、そうした人物が、今だ能力が未熟な者をさして、責任云々というのは許される物であるわけだが、

言葉を放つ側として、過去にそれなりの苦しい思いをしてきた裏付けがあるなら説得力も強いだろうし、進歩のための原動力として活かす為のノウハウ基礎までもたらしてくれることが多い。

ところが、ろくに経験もないのに、いわゆる社会的常識を盾にして、他人に対して責任どうの?と言う様なまねは、自分の愚かさを逆に露呈していることそのものでもある。

簡単な例をあげるなら、子育て。

一番難しいのは思春期(反抗期)の子供で、その難しさを実体験として格闘しているさなかの親に対し、子育てすら経験無い人物が、責任どうのと子供の起こした問題について親を追求するような事等、正にその代表例。

結局それは、社会常識的範囲から形だけの知識を借りて、”自分なら上手くできるはずだ”という何ら根拠無き自信の上に相手の非を責めると同じであってこうした人間の口からでる責任という言葉ほど軽くて愚かな物は無い。

ただ、そうした重い事案はともかくとしても、普段の生活の中で”当然にこれくらいは理解してこなせるだろう”はずの物が出来ず、更にはそれが出来ない現実を認めない者も現実的にはたくさんいる。

冒頭の例が、そうした人物に向けられている事を前提にして、批判の一つとしているなら正しいと言えるだろう。

列挙されたこれらを見ると、ひたすら自分に都合良い解釈と、 自らを省みない未熟さ、さらには成せる能力が有りながら、やらないという逃げの姿勢が明確に存在しているわけであるから、この場合においての責任を追求されるは、他者から、自分の非を認めろと言う要請であると解釈して良い。

実は、非を認める=過ちを認めることであり、 人は責任追及において相手に何を学んでもらいたいかという事その物なわけであるが、これを突き詰めていくと、自分に対する勇気を持つ事そのものでもある

人は誰しも自分を守りたい、まずいのは、自分に問題があることに対して逃げる場合であり、 

こうした姿勢は精神的にまだ未熟な年齢だと”いじめ”にも結びつく訳だけど、いじめは本能的に正しく、正しい虐めはそれを受けている側の持っている弱さ(問題的)を攻撃するためにある。

それはたいてい、勇気の無さに向けられるのだけど、 故にその弱点を本人が乗り越えた時点で虐めというのが終了する様に出来ている。

*ただし現社会の子供達をとりまくいじめは そうした正しい虐めではなく、単なる暴行、恐喝、憂さ晴らしで有る事が多いので注意

上記をまとめると、責を問われるということは、 その人間がきちんとそれを受け入れ、熟考し、きちんとこなせる人間になることを回りは求めているわけで、

精神的に幼ければ虐めとして、 大人であれば諭すという方法を用いて行われ、

いずれにしてもその根拠と目的は同じところに有るのだといわんや。

 

 


小者?、その定義とは? 器があまりにも小さい男って?  そんなら(^0^)俺はどうだ~? その3

2013年06月26日 | 研究-教育・育児

その3は【基本姿勢編】の 2)「世界で一番、自分は大変だ。」という空気を出す人。

について。

これね~!? 結構こうした男はそこいら中に居て、 同じ男の僕でも結構イライラするんです。

 

実のところ、普段の生活は誰でも大変なものでして、 自分一人だけが大変だなんていう事は有り得ない。

 

すぐにこうした言葉を口にするタイプは、結局仕事にしても普段の生活にしても、自分を取り囲む全ての物に対して逃げの姿勢があるから容易に

口にするんです。 

 

確かに大変な仕事や出来事はあります、誰しもがわかり得るものはともかくとして、それ外の ?????という場合で、それについて書いてみます。

 

実はこんなところにも褒めて育てられた人間と、正しく叱られて育った人間との違いが出る。

 

褒めて育てられると、 その行動の起点が常に誰かしらからの評価となり、しかもそれが自分を絶賛する物でなければならなり。

厄介なのはそうした評価が無いと、物事は単にやらされているだけの苦痛そのもので、ただ苦しいだけになってしまうんです。

 

当たり前の事ですが、 世の中に存在する人の所業は出来て当たり前というのが原則。

それが普通であり、 当たり前を、当たり前としてやって褒めてくれる事等、この世の中には有りませんよね。

 

特に優れた結果でも出さない限り、褒められることも賞賛されることもないのが世の中である以上、特段に恵まれた環境と並外れた才能でもない限り、

いやいやそんな物など普通の人間に、そうそう有るわけがないのだけど(備わっている様に見えても、それは本人の血のにじむ努力の結果)、

褒めて育てられるとそうした視点が実感として頭の中に存在しない。

 

結果として、本人は欲するのに誰も褒めてくれないわけでして・・・

すると代替要求として”じぶんはこれだけやっているのだ!、大変なのだ!”と、自ら喧伝することによって、「大変ですね」という変則的”褒め言葉 ”を求める事になる。

最悪なのは、それを繰り返しているうちに周りの人間がイラつき、職場の皆から冷たい目で蔑まれたり阻害されたり、 場合により「いいかげんにしろよな!」と叱咤される。

 

ところがそれが当然だとして育った本人にはそれが全く見えないわけで、

やがては、 ”正しく叱られて育った人間のように”、耐えて物事を正しく理解する訓練がされていない為、病む事となる。

いかに褒めて育てる教育が、歪んだ人格を生み出す教育法なのかというのをこんな一面でも実感するわけだが、

正しく叱られてきた人間は、 それが大変だと思うと、どうやったら大変でなくなるか? 出来る様に工夫するか?をまず考える。

逃げるのではなく、物事を正しく理解し、そこから未来へ自分はどうあるべきか、というのが常に頭の中に有るわけです。

 

それは、自分の思いが簡単に通らない事、過ちを正される事の繰り返し、我が儘な感情を自分で抑えるために必要な心=忍耐力と我慢を、幼少期より親から正しくもたらされてきたことが、正しく叱られて育った人間の成長環境だからなのです。

 

それ故、褒めて育てられた人間が大変だと思う様な事を、「当然できるでしょ!」というレベルで処理することが出来るように育っている。

そもそもが、正しく叱られて育てられた人間の行動基準は 積み重ねられた上記の具体的経験から”自分に対する満足度を高めるところ”に原点が有り、

自分との戦い?で勝つこと(要求と感情の負荷を適切に処理すること)に喜びを見いだしていく精神構造となっている。

それゆえ 、評価や賞賛は 自分で自分に課す物であり、 人の評価等はさほど重要でないところに特徴がある。

*もちろんそれが得られればさらに喜びは増しますが。 

 

優れた人間性は、自分の中に常に目標を置き、それをクリアする為に自らを磨き上げるわけで、その過程で大変だとは言わない。

評価なければやらされていると思う、 ほめて育てられた思考とは真逆に精神構造が出来ているが故のもの。

 

その磨き上げの結果として、回りの人間の評価として繁栄されるだけで、 その過程は現実的な大変(苦難)の連続である。

 

能力の高い人間は、 大変だ等と簡単に言いませんね。  常に笑顔で余裕があり、ともするとこの人はいつも暇人なのか?と思わせる面を

もっている。

当たり前の事ですが、強い精神力と処理能力、人間的強さと精神的な強靱さの有る人間にとっては、大変という言葉のレベルが遥かに高いところに有る物だからなんです。

 

しかし、 褒めて育てる教育というのは、精神的弱さから簡単に病む人間を育成する、誠に恐怖の教育でもあるのだと・・・・・

 

 

 

 

 


小者?、その定義とは? 器があまりにも小さい男って?  そんなら(^0^)俺はどうだ~? その2

2013年06月20日 | 研究-教育・育児

で、その2

検証していこうかとおもいますが、 あくまで僕の教育研究とそれにより得た知識の範囲内の話。尚かつ、文章的に完全な表現が出来るわけではないので、そのへんはご容赦の程をお願いしたく思います。

 

 

【基本姿勢編】

1)人の話を聞かず、自分の話ばかり。

これね~ 結構いるんです、 自分の話ばかりが優先で、人の話にきちんとあいずち打てない人。

他にも自分の得意な分野に話を持っていこう、持っていこうと、会話中に絶え間ない努力をする人。

結局、そうした人間の話の展開と論旨を読み取っていく事で見えてくるのは、その人の自信のなさ。

一人の人間が持ち得る話のネタや話題等、 普通の人間である限りは、範囲に限界があるのが普通なわけです。

話は、それにより自分が得る知識、相手にもたらせる知識という、いわゆるほぼ対等の情報交換の連続で、その流れの展開の中で感情の変化をキャッチボールしつつ、枝葉のように流動的に発展していく、それが会話です。

ところが、自分の話に対して、相手の反発やら自信、そして力の無さを思い知らされることに怖さを覚えると、自分の話ばかりをするようになる。

会話はコミュニケーションであり、そこには大なり小なり感情の摩擦というものが存在するわけですが、普通はそうした摩擦から、相手が何を言わんとしているのか? 伝えようとしているのか?を、自然と読み取ろうとする物。。

ところが、これが出来ないと、自分の中に防御壁(すなわち人の話を聞かない)をつくることで、少しでも自分の気持ちがかき乱されるのを嫌う。

当たり前ですが、こうした話し方をする人生を送っていると、それは常に情報遮断状態にしているわけですから、当然のように、人間的偏りが出てくる。

普通は話を通して、誰しもが持ち得る偏りやねじれを自然に修正していくわけですから、それが出来ねば、ますますネジれるし、偏りは大きくなりすぎて、最後にはバランスさえ取れなくなる。

僕の教育研究では、褒めて育てられると 間違いなくこうした人間になることが明確に分かっています。

叱られる事は、親から与えられ激しい感情であると供に、人の心のダイレクトな表現。

そしてそれを、繰り返し受け取って育つ幼児期は、これは親だからこそ澄み切って濁りがないわけでして、それを何度も与えられていくことで人として一番難しい怒りの感情が理解出来るようになる。

人のもつ最も難しい感情の中に存在する、正と負の部分を読み取ることが出来る様になるわけです。

しかし、幼少の頃から叱られたことがなく、褒めることをその代用として育てられると。

怒りその物を全く理解出来ず、それが自分の為にあるのか?それとも自分を破壊するために向けられているのか?というのが全く分から人間に成長してしまう。

怒りその物が理解出来ないとなれな、人間はその前の段階でそれに牽連してつながる物を自然と遮断しようとするのが自然の流れ。

それが会話なら、 摩擦その物を少しでもあると怖くなり、無意識のうちに避けようとすることばかりするようになる。 それが人の話を聞かないという行動になる。

正しく叱られて育ってきた子は、 怒りの種類とあり方を実戦経験しながら育つので、

それが負の怒りとして自分に向けられない限りは、防衛する必要もない為に恐れも逃げもしませんし、素直に受け取る事ができる。

褒めて育てられれば、すべて糞味噌一緒、 ただただ恐怖であって、怒りは単に自分を破壊する暴力としか理解することが出来ない。

 

この二つの違いは、例えるなら会社に就職し、仕事の事で上司に叱られたときなどに顕著に出ることになるのですが・・・・

例をあげれば、 叱られて育った者は、その叱りを正しい物として理解するように心が自然と働き、前向きに歩む力へと転換できる。

褒めて育てられた者は、それを単なる攻撃としてしかうけとれず、得体の知れない恐怖感に苛まれて大抵は病み、病院から処方を受け取るか下手すれば退職してニートになる。

まとめれば、人の話を聞けるという事その物は、相手の感情のもつ喜怒哀楽の全てを受け取り、それを正しい方向で判断理解して自分の物とする事の連続である。

話を聞けないというのは 、そのそもが拒絶。

自分だけの範囲に留まり、その範囲で安心感を得ることしかできないわけで、相手の事をうけ取れないものが、相手のことを理解する事など能わず。

残念なことに こうした男は結婚しても伴侶たる女性を守ることなど出来るはずなど出来はしないのですね・・・・

 

同姓である男の視点からみるなら至極臆病者(小さいなプライドを必死で守って傷つきたくないだけの小者)、器の小さすぎる人間その物でしかない。

 

 



 


小者?、その定義とは? 器があまりにも小さい男って?  そんなら(^0^)俺はどうだ~? その1

2013年06月18日 | 研究-教育・育児

ネットを見ていたら、これぞ器の小さい男というのを列挙していた。

あん?待てよ? 普段から小者と自分が思っている奴は腐るほどいるけれど、肝心の自分はどうなんだと?   汗汗汗・・・

 

そうなんですよね、自分の考えや視点だけで物事を全て考えていると、大火傷&人間失格になるのが世の中。

 

で、女性の視点から小者とはどうなのだと? あえて再考してみます・・・・ 

 

ちなみに異性である女性の持つ視点は、同性の視点より厳しく、であるなら、いったい僕はどうなんだべ?というのも合わせて考えてみます 

 

参考にしたのはこれ、 



【基本姿勢編】

1)人の話を聞かず、自分の話ばかり。
自分の話ばかりの人間は、嫌われるようです。

2)「世界で一番、自分は大変だ。」という空気を出す人。
気持ちはわかりますが、それを相手に伝える必要性はないようです。

3)すべて最終学歴で判断する人。
多様な判断軸が求められるようです。さまざまな価値を見出す力を身につける必要があるようです。

4)すぐ責任転嫁する人。
「すべての責任は自分にある。」くらいのスタンスが好感が持たれる模様です。

5)しょうもな内容で子供に文句を言い。同年代の男性に対しては、ヘコヘコし、あとで陰口を言う男。
どんなスタンスであっても、一貫性が必要なようです。

6)他人に対して、厳しい。自分に対して、甘い。
「おれは、そーじゃない。」と思った人こそ、要注意です。本当ですか?本当に、「他人に対して、厳しい。自分に対して、甘い。」人間ではないのですか?

7)「元カレ、どんな人?」としつこく聞く。過去にこだわる人。
気持ちはわかります。でも、知らない方がいいこともあるかもしれません。


【デート編】

8)遅刻して、いつまでもグチグチ言う人。
長時間のグチグチは避けましょう。叱るなら、短期に集中。

9)クーポンのないお店にはいかない人。
クーポンを使うことがダメなのではなく、多様な選択肢を持てという意味のようです。クーポンを発行していないお店にも良いお店、素敵なお店、きっとあります。

10)一円単位の割り勘する人。
ケチだと思われるようです。せめて、百円単位が無難でしょう。

11)携帯をイジっているだけで、「男?」と聞く人。
気持ちはわかります。でも、抑えて。


【トーク編】

12)周りの悪口が多い人。
ネガティブな言葉は感染します。

13)噂話の多い人。
もっと多様な価値を女性に提供するように試みてみましょう。

14)言い訳の多い人。
言い訳は、話し手の自己満足のようです。言い訳したい気持ちをグっと堪えましょう。

15)自慢話の多い人。
多くの人は、あなたに対して、関心がないという悲しい事実。

16)会社の愚痴が多い人。
「自分で変える力を持て。それができないなら、従え。」と女性は思うようです。


【仕事編】

17)トラブルが起こったとき、自分のミスではないことを必至にアピールする人。
どのように解決すべきか?という未来志向が求められています。

18)トラブルが起こったとき、「最初に言い出したのは自分じゃないから。」という人。
このような言葉で、問題解決が図れるとは思いません、確かに。

19)「僕は、責任者じゃないから。」という人。
責任者ではなくとも、責任者として行動しようとすることが、その人をいつか「責任者」となるポジションを得るという話もあります。


【リアクション編】

20)レジでお金を一生懸命お財布から出している子供の後ろで、貧乏ゆすりしながら舌打ちする人。
社会は支え合いです。子供は支えてあげるべきなのだから、見守るべきという考え方が必要なようです。

21)自分の思いどおりにならないと、不機嫌になる人。
世の中、思い通りにはならないことの方が多いです。

22)否定や指摘されると、不機嫌にある人。
否定や指摘は、自分の成長だと捉える気構えが必要なようです。

23)文句の多い人。
寛容な心が必要なようです。

 

ちなみに、僕の教育研究では、ほめて育てるは最悪の男を作り出すというのが結論として出ていますが、

そのあたりも交えながらの連載。

多分数回ですが 

 


積み木

2013年06月11日 | 研究-教育・育児

段々と高度な事が出来る様になるのが人間。 1才9ヶ月になった孫。

 

最近は遊び方が少し変わり、 自分で何かしらを創り上げることが楽しいらしく。

その一つが積み木やレゴブロック等。

以前はただ積み重ねをしただけでしたが、このところ一気に高度化。

形によりいろいろ分類して並べてみたり、それ使って造形物としての橋や建物を創り上げたりと、様々な工夫をしています。

半月ほど前からバランスと高さという概念が出来上がってきたみたいで。

これはまだ積み重ね中の写真ですが、こうして倒れないように微妙な位置を調整しながら高く積み上げていく事が容易に出来る様になった。

故に、ひたすら高さを求めてチャレンジの繰り返をしています。 

 

ちなみに床が傷ついても一切叱りません、僕は。  それどころか一緒になってやる方です (笑)

下に傷防止のキルティングマットなんか引くと、こうした積み重ねが出来なくなるので面白くもなんともないですから・・・・

 

子供がいれば、壁は穴開くし、落書きもされる、床も同様。 でも、それでいいんです。

時間かけて、それが駄目だということを一つ一つ学習させていけばいいだけですから。 

 

今回のは積み重ねられる物の形の違いを認識、幅の長いのや大きいのを基礎として形状ごとにまとめて積み上げており、

不安定になる▽は下に取り分けて、大きさ順に並べています。

 

そうそう、最近は 生意気な事に自分が家の中でどのポジションにあるかという概念が出来てきて。

おそらく僕が一番上、その下が息子、そして孫自身は3番目だと思っている。

上下関係を本能的に探ることで、三角社会を構成する男の子ならではの行動。

 

女性は自分より下と見たいらしく、頑張って意地を張ることを試みています(爆笑)

 

これも極めて正しい行動、 正しい意地張りは正しい成長の原動力。

男は何かなすに強い意地がなければならず、負けたくない気持ちと正しい意地が成長を促す。

泣かないのも意地、怖さに負けずに戦うのも意地、何かなすには意地が絶対必要なんです。

ただ、それが正しくない方向へいくと頑固になるのでその辺が教育のしどころ?

 

褒めて育てるは ”無理しなくていいんです、その子なりにマイペースでやればいいんですから”が基本、 バッカじゃなかろうか? 

それじゃ~逃げる為の理由付けを教えて、さらにはその為の逃避訓練(褒めて育てる)を積み重ねているだけのこと。

そんなことだから女性に飯食わしてもらおうと考える、腑抜け草食男子ばかりが出来上がるんですよ! 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


大学生

2013年05月30日 | 研究-教育・育児

相変わらず甘ったれの我が娘

モデルの仕事をやる暇なんか全く無いまま、ひたすら勉学に、遊びに、と青春謳歌する毎日。

 

「いいよね~ 今が一番楽しくて良い時だもんね。」  ウンウン

 

「卒業したらどうするのかな~?」と 親である僕の悩みは尽きることはありません。

「まあ、今を大切に!」 それだけかな・・・・ 僕が言えるのは。

しかし化粧しないな~この子は    皆そうだろうか?  

「何だかんだと友達は結構やって(化粧)るんだよ!」とは家の娘の言葉。  

「そうですかい!?」(笑) 


1才8ヶ月、親子の会話 (^^)ニコニコ

2013年05月15日 | 研究-教育・育児

1才8ヶ月に入った孫、このところ面白くて仕方ないのが、 息子や家の家内等と孫の会話。

 

例をあげると、食事の時間にテレビとかを見ていて、電車の走るシーン等が出ると。

孫:指さしながら 「ほら!あれ、 でんちゃ(電車)」

息子: XX(孫の名前)は 電車好きなんだよね?」

孫: 「うん」

息子:「ママもこれ好きかな~?」

孫:「好き~」

息子:「何で電車が好きなの?」

孫:指さして右から左へ体と顔を動かしながら 「びゅ~~~~」

 

嫁さん:「電車見に行く?」

孫:「うん、見に行く!」

 

っていう感じの、会話が結構続く。 2語文は安定し、3語分と時々間違え?ながら使います。

言葉で表しきれない場合は(当然語彙に限界有りますから)孫なりのゼスチャーが入り、 それでも表現しきれない時?は家でよく見ている子供向けの図鑑を持ってきて示したり、 何かの形で伝えようと試みている。

 

成長に伴って知能が発達してきた現在、親の放つ簡単な冗談らしきものも理解できるらしく、 カラカイ半分の会話をよく理解してケラケラ笑っている。

その逆に、おちゃらけ?を入れながら大人をからかったりもすることがあり、驚かされることが

このところやたらと多い。

 

観察力というか、親をよく見ているからの事なのだと思うけど、

このくらいになると、こうしたことが出来てくるのか~!?と・・・・

 

自分の子育ての時はどうだっただろうか?と思い出してみるが、忘れちゃうんだよね! これが。

 

そういえば、昨年のこの時期に鎧兜を仕舞おうとして、僕が窓際でパタパタ埃はらいしていた時のこと。

ずり這いしながら?転がりながら? やってきた孫が床に置いてあった毛羽ハタキを手に持って、僕の真似して鎧をパタパタやろうと頑張っていた姿を思い出した。

 

あれから約一年、子供の成長は本当に早い。

でもね、その分僕が年を取っていると言うことでもあるのですが、人間というのは実に素晴らしい生き物なのだと、そう思うわけです。     


娘の恋愛を破壊した酷い親、 それは僕

2013年05月08日 | 研究-教育・育児

 

すでに前の事なってしまいましたが、 僕は娘の恋愛を徹底的に破壊したことがあります。

それも親の権力を前面に押し出しての事・・・。

理由といきさつを書くと、とんでもない文量になるので避けますが、 簡単に言うと交際相手の親がこちらにコンタクトを取り初めて来てしまったということです。

高校1年生から卒業まで付き合いのあった娘の彼氏ですが、 僕は基本的に誰と恋愛しようが口挟むことはしない物の、結婚等という言葉が出てくるようになると、

そうはいかない。

 

本人同士で 「できたらいいね・・・」 位の軽いうちはともかく、そこに親が出現すると簡単なことではなくなる。

何にせよ、 親が交流を始めるという事は、 親同士が認めるた事になるわけで、そうなると最終的流れはどうしてもそちらへ向かわざるをえない。

なんでも僕に話してくれる家の子が、”どういう状態なのか?”は僕もよく分かっていて、「自分の体を大事に!清らかさを保ち続けなさい」と常に言い聞かせてきた。

しかしながら、結婚が現実的に見えてくると必然的にそう流れていく可能性も高まり、 万が一”もしも”がそこで起きたとしたなら、

親としては授かった命をそう簡単に水に流すことはできない。

 

すなわち相手の親が接触してくる = 親としての未来の可能性へ決断を迫られること  そのもので有って、 それは何某のごまかしをして避けられる物ではなく、

なぜなら? それをする事は相手の親を軽視し、なめてかかることと同じとなり、けして許されない。

 

どんな親なのか?という事は、 僅かな時間でも接すれば分かってくる。

ましてや長い時間でなく 短い時間で様々な事が見えてしまう様なら、それは看過できるものとはいえない。

家内から相手の両親に関する様々な情報を受け取り、更に現実的にどう接触してくるかを見るなら、 悪いが「まともか?そうでない親か?」は簡単に判断が付く。

 

結婚は本人達だけの物ではなく、親兄弟含めて広い範囲の人達の将来にも関わってくることであり、若い時分は経済的にも難しくて、色々な面で自立していく上での障害は

必然的に起きてくる。

故に、ある程度までは双方の親からの助力という物が、どうしても欠かせないのだ。

 

親の意向を無視し、言うことを聞かずに 「二人の愛がどうとか?」と夢物語にのぼせ上がることで起きる現実は、メディアのニュースに眼を被うような出来事となって

人々の前にさらされている。 そして常に犠牲者は幼い子供だ。

そうした悲劇を道ずれに崩壊する若い夫婦には、”親を無視しているという点”における共通性があり、 世の中を甘く見た結果がそのまま結果となっただけのことである。

僕からすれば何ら不思議でもなく、極自然的にくる結末だと思っている。

 

初めてにせよ、向こうの親がこちらの方への接触に乗り出してきた以上、その時点で判断をしないと後で引くのが難しくなる。

高校卒業という視点からの接触開始であろうが、 うちの子はこの先まだ学生生活が残っている。

 

で、僕の出した結論は? というならNO!  当然厳しく娘に言いきかせ、 完全崩壊へと強引に導いた。

心の中で、娘の心中を察して痛みの涙を流すが、顔からは絶対に流さない、あくまで冷静に冷徹に徹する。

 

おそらくはのぼせ上がっていたであろう彼氏と、その家族は相当に冷や水を飲まされ、恥を搔かせたと恨みの言葉であふれかえっていると容易に想像できることも辛い。

 

父親は常に苦しい立場にたたねばならないものであり、 あれだけ彼氏との交際に反対していた家内ですらも、僕が娘に突きつける短刀のような言葉に対して

養護する側にまわるほどであった。

しかしながら、そこに父親としての正義があると信じる以上、必ず完遂させねばらならないのだ。

 

もし、娘にそれを超えていく程の愛と勇気があれば、 全て自己責任という重荷を背負って行くだろうし、当然それにより起きてくる結果になんの助力も容赦もしてくれないのは

分かっているであろうし、そうなったとて、その全ては父親である僕の責任だ。  娘では無い。

 

なぜなら、反対を押し切って行く以上、二度と親の顔を見ない気持ちと覚悟が無ければ絶対に失敗する。 逆に言うとその覚悟が有れば何とかなることが多い。

その覚悟を親として間接的に求めることになるからだ。

 

全く違いすぎる二つの家庭に挟まれて中途半端に時を送れば、苦しむのは家の娘。

ほぼ間違いなく親同士が大きな諍いを起こすことが明らかである以上、 それにより起こりうる全ての紛争から僕の家族と僕の親、親戚一同を守るのが父親として当然である。

それほど、世の中というのは厳しい。

 

のらりくらりと、 平和だ 愛だ平等だ、 自由だと、そんな甘ちゃんな言葉で人生がまかり通るほどお気楽な現実などあり得ない。

 

実は、娘の教育に厳しかった僕は中学時代にも頭ごなしに叱り飛ばしたことがある。 まさに理不尽の塊、完全な馬鹿親父に見えたであろう。

 

事は同性の友達の事なのであるが、普段は全く無頓着である僕と違って、家内の方は細やかに娘を観察して注意しているが、 

一時期、親と友達の間に挟まれて苦しんだことがある。

 

事は複雑だが、簡単にまとめるなら”だらしない行動”をする友達の姿にシンクロし、憧れを覚えたのかは分からないけど、精神的解放を要求するみたいな感じだった。

よく言えば友達思い、悪く言えば てい良く従属させられていたという方が正解だろう。

 

当然、それがどんな未来をもたらすか?を大人として分かっている家内から、かなり注意を受けていたのだけど、その時に起きたのが軽い自傷行為。

腕を爪で引っ掻いて後付けたり 髪の毛を引きちぎったりと、だんだんと悪化する傾向が見えた。

 

それを見て怯えてしまったのが家内、 心配になって僕のところにやってきて事の次第を話し始めた訳だが、 家内の言い分を聞くと内容は極正論、 正しいだけで何ら間違はない。

 

ところが、中学生の頃のというのは反抗期絡み自分の友達とで織りなす世界を正しいと信じやすく、親の言葉を軽視し、友達同士の価値観やら考え方を重んじる事が多い。

 

だれしもが自傷的なことは大なり小なりしたことが有るとは思うが、すぐに馬鹿馬鹿しくなって 何度かやればその後にやらなくなる物である、 自分もそうだった。

 

ただし、そうした行為を 親に見えるようにやる=自分を人質にとって、都合良く自分の言うことを聞かそう  と言う、世の中でもっとも惹きようで姑息なやり方を、

親としてそのままにしておくことは出来ない。  

 

盛んに「手首を切るようになるんじゃないか?」と心配する家内の話を黙って聞いていた僕だが、娘が帰宅したのを見計らい部屋へいくと、頭ごなしに徹底的に叱りつけた。

言い分など一切聞かない、 叱るの事はやっている薄汚い行為についてだ。

 

「世の中で最も卑怯で姑息、しかも一番ずるい方法で親を自分の思うとおりにしようとする様な子は家の子ではない」、「死にたきゃどこでも行って死んでこい!」と怒鳴りつけた。

「今すぐ屋根に上げてやるから頭から地面に飛び降りろ!」とたたみ掛けた、

「手首きる? やりたきゃ~やればいい。」 死ぬなら完全に死ねばよい、やるなら自分を人質に取らずに、自分のためだけに完遂せよということだ。

 

子育ては時として激しい戦いを要求される、子供に過ちが有る場合、正すために親はけして負けてはならない。   どんな手をつかってでもだ・・・

そうでなければ子供は自分の過ちになかなか気付けない事というのがあるからだ。

 

世の中に出れば血の涙を流しながら、地面を這いつくばってまで歩まねばならない出来事はいくらでも有る。

たかが親に友達の事で叱られたくらいで、そうしたくだらない事をするような真似は、親として絶対に許すわけには行かないのですね。

 

また、自分で止めたくても 本能がもたらす反抗が心を素直にさせないことは当然であり、心の底では引き留めてくれることを願っていたり、救済を求めていることも多い。

子供を導くのは優しさだけではない、厳しさも必要だし、体罰も当然に必要である。

 

そうして様々な形の愛情を親から学び、それを理解する学習を成人するまで積むからこそ、 人の心がよく分かるようになるし、心が豊かになる。

 

 

子供はその成長していく過程において 様々な外敵要因に影響され、自己を見失うことで間違った要求を突きつけてくる事が多いが、

大抵の親は子供の自主性という言葉に逃げ道を見いだし、単に言うことを聞く奴隷に成り下がってしまう。    

子供によってはそれに味を占め、要求のエスカレートが始まり、どんどんと無理難題を口にする様になる。

 

非行にしても、ひきこもりにしても同じで、自傷行為をする子も、どこかしらに強い親からの救済を求めていることが多い。

特に自傷行為する子の親は 初期段階で”そうした行為で人は動いてくれないのだと”と、強烈に分からせることで、それがどれだけバカバカしい行いであるかを子供は気付く。

親がうろたえると、心配が自分に向くので その時は癒されるが、 弱い親に守ってもらえない不安感が消える事は永遠に無く、少しだけえられた安心に心が支配され、

又癒しを求めてさらに大きな自傷をする。

その繰り返し・・・・・、そして最後には本当の死に至る。

 

現実に取るべき対処は正反対で、”親が激しく叱り、一歩も譲らないこと” これにより子供は、「自分は強い親に守られているのだ・・・・」と強烈に認識することで安心して

、たいていは一発で収まる。

反抗期における 親の愛情確認の一つでしかないからだ。

 

青年期における善悪の判断が難しい出来事において、親が山のように動かず、動じもしない姿で有り続けることは、子供に幸福感と安心感を与えこそすれど、

それにより親を恨むことなど消してない。

 

けだし、そこには親としての常識的正しい判断(正義)が絶対に必要であり、その時に我が子が反抗しようが何しようが、後に親の心が肌で分かって来る物でなくてはならない。

それだけは絶対に必要であるといえる。   

 

わずかながら始まった娘の自傷はこの一発で納まり、 その後に娘は、自分と友達を切り離して、さまざまな関係をどう処理してどう裁いていくか(第三者的展望思考)を自分なりに見つけ、

それが高校生時代の友達関係に大きな影響を及ぼしていたことは、間違いのない事実として僕の目にも明らかである。

 

けして動揺してはならない、それこそが父親にもとめられる姿である。

 

そして今回。

思いの外、娘は冷静だった、 その彼氏との関係を冷徹に処理し、翌日には普通の姿しか無かった。

 

結局、親から見える物は、それが完全な情報遮断状態でない限りは、常に正しいと考えた方が良い。

恋に恋する年齢故、 なんとなく続いてきた恋愛ごっこの果てに起きた小さな?出来事。

 

彼氏の親が自分の親に接触を試みるという状況において、自分の中でどうするべきか?という明確な気持ちと判断が出来ないままの状態で周りが勝手に動き始めてしまっていた。

そう僕は考えている。

 

そのまま行けば、すでに働いている彼氏との結婚だなんだと学業は中断させられ、 商売やっている向こうの父母、特に母親経営先のただで使える都合良い労働力として酷使されるのは

目に見えている。 

自営の父親に、「継げ」といわれて仕事をやらされている息子であれば、当然至極利便上の関係で同居となり、そこにうちの子の意見や考えなど一切通用しないだろう。

 

親に反抗すらできないマザコン息子に、娘との家庭を守れる力等はなから無く、二人そろって親の利益の為の言いなり人生を歩まされる事は間違いない。

 

もしその彼氏が、親の言うことを大人しく聞くような子ではなく、我が道を歩む気概と独立性を持っていて、マザコン要素が皆無なら僕も了承した可能性はあった。

男の子は母親のペットではない、男として父親になって家庭を守れねばならない立場としての最低の力が必要で、少なくとも子供達が独立するまではそうした存在として家庭に

君臨しなければならないからだ。

 

男女平等? 対等の夫婦?そんなもの糞くらえだ!

 

激しく涙したであろう翌朝、僕がいつも通りにおきてPCディスクへ向かうと、”いつも通り”の書き置きがディスクの上に有った。

 

そして現在、そんな出来事等どこえやらで、今は大学生活が楽しくて仕方ない娘。

見てみて!と 講義で習ったことに関して親としての意見と考えを聞いてくる娘、笑顔満面で送る毎日。

 

ただし、この先もそれは永遠に続くものではない事は、僕にはよくわかっている。

しかしながら、親というのは我が子に対して常にベストの環境を提供する心を持ち続ける存在なのだと、 教育学部で研鑽を積み重ねる後ろ姿にそっと投げかけるわけです。

 

格好つけた理論で人間関係がうまくいく事が無いように、ましてや親子なら偽りなき心と心以外にコミュニケ―ション等、無いのだと・・・・

 

 

 

 

最後に とてもよい短編ビデオ、 タイの保健CMに使われていた物。

このビデオには、僕の気持と娘の気持ちの重なる部分も多々有り、見ると涙を抑えきれないのですね。

 

Silence of love

 

テロップの翻訳 by 翔

I want a better father.

普通のお父さんが欲しい

 

Someone who’s not a deaf-mute.

聾唖でないお父さんなら誰でもいい

 

(Deaf  Dump Dad.)

耳の聞こえない役立たず父さん

 

A dad like everyone else’s.

皆と同じ、普通のお父さんが欲しい。

 

Deaf Dump Dad

(聾唖の役立たずパパ)

 

A father who can listen to my hope and fears.

私の望みをその耳で聞いて、辛い事から救ってくれるお父さんが欲しい

 

A father who speaks. Who understand me.

言葉を話せるお父さん、私を理解してくれるお父さんが欲しい

 

 

*Please don’t let anything happen to my daughter!

娘を助けてください、何もなかったように!

 

*I have money. I have a house. Take it all!

お金も有ります。家もあります、全て取り上げて構いません。

 

*My dauther.  Can. Not. Die!

私の娘は、死ぬわけには行かないんです!

 

 

*Eat more dear. It helps you to grow.

可愛い子よもっと食べなさい、そうしないと大きくなれないよ。

* Be good at school.

学生活を楽しむんだよ

 *It’s my Kids birthday today.

今日は子供の誕生日なんだ。

*(Happy birthday! Always be happy. Love dad!)

お誕生日おめでとう! いつも幸せで有りますように、 愛する父より。

 

*I was born a dead-mute.

お父さんは生まれつきの聾唖

*I’m sorry for that

ごめんね、多くの事で(苦労かけて・・・)

*I can’t speak like other fathers.

他のお父さんみたいに話せないんだ

*But I want know you to know that I love you with all my heart.

でも、お前はお父さんの全ての愛情で包まれてることをしっているよね

 

 

*Take my blood!.

私の血をあの子に!

 

*There are no perfect fathers.

完全な父親なんてどこにもいない・・・

*But a father will always love perfectly.

でも、父親の愛にかなうものはない

*Remember to care for those who care for you.

覚えておこう、誰が一番自分を理解してくれているのかを・・・

 

 

 

 


自活

2013年04月25日 | 研究-教育・育児

息子夫婦が実質的結婚生活を始めたのが約3年ほど前の事になる。

二世帯が、狭い家の中で一緒に暮らすのはあまりにも難しいために、 一昨年前のの10月から増築工事を開始し、 終わったのが昨年の3月頃だったろうか。

結婚当初より 息子夫婦に自活する事を進めていた僕だけど、 その理由は簡単で、ずっと親元にいては家の主としての男にならないままの親依存に

なってしまう恐れがあったからだ。    

例としては多少異なるが、 サザエさん一家の、あの腑抜けたマスオ化されてしまう、 といえば具体的にお分かりだと思う。

 

新婚当時の二人を見ていて、 就職して半年程度で結婚し、 そのくらいだと仕事に関して不慣れで不安定でもあり、どう転ぶかわからないことも有った。

故に、僕としては間接的経済支援をすることで、安定した出発を提供し、やがて夫婦としても、経済的にも、安定した時期を見計らって家から離れる事を願っていた。

このまま家にいて同居も悪くはないが、それは単に孫の顔を毎日見られるメリットとしての、いうなれば爺婆の我儘としての利益でしかなく、

それではまずいわけだ。

 

現在孫も大きくなり、幼児として安心できるほどに成長して親の話はほぼ全部解るし、行動面でもそう。

そうですね~ 具体的には お箸をきちんと並べたり、「あれ運んで!」、「これ運んで!」と食卓に食べ物を運ぶ等の、お手伝い出来る様になってきたので・・・・

*しかし、見ていると1歳8か月は非常に危なっかしい (笑)

集合住宅で問題となりやすい、夜泣き等も完全に無い状態となった事もあって、嫁さんにも夫婦としての単独生活を勧めてきたわけだ。

 

ここにきて、どうやら良い物件を見つけたらしく、5月の末頃に引っ越す目途が立ったらしいから、家族としては おめでたい事この上ない。

わずかな期間の2世帯同居だったとはいえ、波風一つ立たずに毎日笑顔で居られたのは、ひとえに息子の嫁さんの人間的能力そのものに他ならないのだが、

非常に頭のよい娘で、しゃしゃり出ず、出しゃばらず、そつなく控えめ、さりげなくすべて完了している姿に 僕と家内&わが娘はすっかりお世話になっていた。

この後は、自分の伴侶と子供だけに心を注ぐ毎日を送ってもらいたい。

 

話変わって、増築の結果として家の床面積は現在1階から3階まで合わせて180平米近い面積があり、万が一生活苦になるようなことがあれば、戻ってくれば良いわけだが

そうでなくとも、子供が高校生~大学生になるころには家計が最も必迫するのはどこの家でも同じ。

 

万が一戻るとしても、親との同居生活が慣れていて「どうしたものか?」をしっかり理解している嫁さんには、再同居も別段難しいものではない。

 

孫とその弟か妹が独立する頃には、丁度この家の寿命も来ているであろうし、そこまでこの家が持ては十分。

いやいやその際には 息子夫婦にこの家を譲り渡して、 僕は家の見えるマンションかでヨットやウインドサーフィンを満喫できる生活に移行しているかもしれない。

そうなれば この家と土地売って、子供の教育資金にしようが、 それを基にして自分たちの住まいを買おうが、 好きなようにしてくれ!となっているであろう。

 

話変わって、 息子夫婦が越すことで既存建物の二階、三部屋が全部空きになる。

僕と家内は一階リビング横の部屋、 娘には増築建物2階と寝られればいい僕には、それ以外の面積は全く必要ない。

 

あまりにももったいないので、 一部屋は 家内と娘の踊り衣装やら何やらの専門保管ルーム(二つ目の共同クローゼットルーム)とし。

北側の一部屋は空き室。

二部屋に区切れる構造となっている一番大きな南部屋は 時々泊まりに来る息子夫婦と、 娘の友達等が3~5人泊まりに来た場合に備えての寝室で使用する予定。

ここも、基本的に何も置かない、がらんどうスペースとなる。

 

他にも 変化が起きるのが 一階現在リビングに低いテーブルを置いて(孫が小さいため)家族全員が食事しているわけだが、 3人だけとなれば高テーブルの復活となり、 

キッチンに十分なスペースあるのでそこに置くことになる。

すると現在のリビング14畳が、テレビとパソコンを除いてがらんどうになり、ソファー等が大嫌いな僕故、当然何にも置かない広々空間となる。

 

ほぼ床面積 全面が使用可能となるので、家内はここに友達を呼んでフラダンスを練習するスペースにしたいと言っている。

 

いずれにしても、この初夏は変動の季節となりそうだ。 

 

 

 


転ぶ

2013年04月19日 | 研究-教育・育児

相変わらず元気の良い孫。 

ただ、お母さんに甘える傾向が此のところ出始め、だんだんと基礎的人間性の骨格部分が出来つつある。

”三つ子の魂 百までも” その言葉の通り、 人は3歳までの成長により出来上がった人間性を基として、後の人生を生きていくことになるわけです。

3歳までで人生をどう送るかの基礎が創造され、4歳になる前にそれまでの記憶が一度リセットされて新たに生きていく、という事なのですが終わかりでしょうか?

4歳は爆発的な脳の成長をとげる時期で、もし知能を伸ばしたいと考えている親御さんがおられたら、 この4歳に出来る限り頭を鍛え上げる経験をさせるべきだ。

 

さて、その3歳までに出来上がる基礎的人間性について少しだけ書いてみようかと思う。

幼児は歩くことが不安定で、うちの孫も例外ではなく 実によく転んでいる。 

階段で転び 道端の草地に入って転びと、部屋でもベタンという音がすると突っ伏して転んでいることが多い・・・・ 

 

まあ、それは別段この年齢では珍しいことではない。

 

ところが最近、なにかに蹴躓いて顔をフルにぶつけたりすると、堪えて泣くまでは行かないものの、しばらく母親から離れようとしない傾向が出てきた。

適度なベタはいいが、ベッタリだけは駄目なので、そうした状況を見ると息子か僕が引き離す、それで泣いてもだ。

 

家では、女の子も男の子も 僕が中心で育てた事から、 父親不在家庭という状態で無かったわけですが、そうした家庭環境にて二人とも成長し、

一度は激しい不良行動していた息子も、今では一人の父親として子育て真っ最中。

見ていると、驚くほど子煩悩でありながら、僕と同じ基準で子を叱っている。

 

当然その家庭も僕と同様に父親中心であり、夫婦はこれまた僕と同じ完全分業制。

当然、平等という言葉等、初めから存在しない。   

これは本能の投げかけ そのままに家庭があるわけだが、

いうなれば古来からこの国の大地にあったはずの、極日本的(男尊女卑)子育てと思われる方法をとっている。

 

*男尊女卑は男がえばることではなく、 礼を通じ、己の恥を知って頭を垂れるのが、本当の意味である。

礼はたがい(夫婦)に対する正しい評価であり、尊ばれるには、男の三要素がまともに出来ていなければならない

1、粗食に耐えてよく働き、 家族に糧(衣食住)をもたらせること

2、女性を甘えさせる人間的大きさを持ち、 外敵から家族を守れること

3、性的な満足を十分に伴侶にもたらせること

これが出来て、初めて女性が自分を卑しく(安心して旦那に任せる(甘える)ことができる)わけだ。

男がえばり散らすのは 単なるエゴでしかなく 極めて愚か(馬鹿)であることに注意。

 

”それが良いことなのか悪いことなのか?”は 子供が将来世に出て そこで職場の人間たちとどう接してどう評価されているかを見れば

育てたこちらにはよく分かる。

 

子供は愛情の部分を母親から授かり、社会性を父親から授かる。

生まれて数か月にして 母親の役割と父親の役割を見分け、 おむつが濡れる不快やお腹がすいた等の生命維持と愛情面は母親に、 父親には遊んでと

盛んにメッセージを送る。

 

故に母親がもたらす愛情の方向が、 その子を男の子に育てる目的であるなら凛とした男となり、

ペットよろしく 溺愛で育てれば 女性的な嫉妬、妬み、をふんだんに兼ね備え、さらに責任感の希薄な男もどきに育つ。

 

そうならないように父親が適度に抑制するのが本能なのだが、昨今の家庭事情を鑑みると、休みの日以外は父親がいない家庭が多く、

それでどう子供を育てるのだろうかと?

 

子供が転んだら できるかぎり抱き起さない 自分で立ち上がるまで見守る。

泣いたまま突っ伏していたのなら、泣き終わるまで放っておくか、起こすなら厳しい言葉をかけつつでなければならない。

 

「あらあらあら」と、溺愛よろしく抱き起し「痛かったね~大丈夫?」、「どこが痛い、痛いよね~」、「可愛そうね、よしよし、痛いといって御覧」等々

挙句の果てには つまずいた原因の石を指して「こいつが悪い!」とたたく真似したり、どこまで愚かのだと思う姿を見かける。

 

そんなことして男の子を育てれば、 どうなる事か・・・・

 

たかが転ぶ  それだけの事であるが、 転ぶのはそこに石があったからではなく、 石を見落とした、気付かなかった、避けられなかった

この三要素のいずれかに合致したから起きた出来事だ。

1、前をしっかり見て歩くことができなかった

2、注意力を適度に分散して歩けなかった

3、予測性を顧慮していなかった

このどれを欠いても転ぶという現実は起きる。

 

僕が子供のころに転び、たまに母親に抱き起された際に残る記憶は 叱られたという事実しかない。

転んで一度たりもやさしい言葉をかけてもらったことが無い。

 

ところが、こんな些細なことが、成長した今となってどれだけ僕に大きな影響を与えているか?という事が痛いほどわかる。

上記の3要素は、これそのまま 人が世の中を生きていくにあてはまるものであり、相手が石ころであるか、社会で遭遇する苦しさという違いだけだ。

 

転んで泣いても誰も助けてはくれぬ、 故にけして涙を見せずに 自分で立ち上がり、 痛みをこらえ、 反省し。

その経験を学習として生かしつつ未来を歩く。

 

「気を付けなかったあなたが、いけないんでしょう!」と叱られた母親への憎かった記憶は、 何かと人のせいにしがちな痛みを、自分の引き起こした結果として

忍耐力と 我慢を そして前向きな考え方を僕に備えさせてくれた。

 

そして今度はどうあるべきか? という 自分に対する努力姿勢も身につけさせてくれた。

 

転ぶことに対する母親の有り方ひとつで、子供にはこうした素養が育つ。 

男の子は生まれながらに男の子なのではなく 男に育てなければ”男”と成り様が無い。

 

僕は中学のときに 自分の怠慢から それなりの体罰を受けた事がある。

正月明けの宿題提出の際に、 その当時 鬼教師だった先生への反抗心もあって、わざとやっていかなかった。

でクラス全員のいる前、その先生の授業時間中に ビンタをされた、 10回以上であろうか。

*たいした体罰ではない 僕からすると。

理由は至極簡単、僕がその先生の係(国語)を買って出ていたからだ、 皆が恐れてやろうとしなかったのをあえて引き受けたわけで。

その係が 理由を問われた際に 忘れましたではなく ”面倒でやりませんでした”と答えたわけで。

これほどふざけて愚かなことがあるだろうか? 

係という小さな責任からするなら、体罰を受けて至極当然。  そうでなければ、ほかの生徒全員に示しがつかないわけです。

 

この先生には、今でもたいそう感謝しており、なぜならは 正しい体罰を受けた僕が 後にクラスの皆から 「ひどい先生だ!」という言葉交えつつ、

同時に 反抗が出来たヒーローの様にまつられてしまった際、 

事の正しさは時として 自分に痛い態様として訪れる事が有り、 自分にとって甘い言葉は毒でしかない事も有るのだと、この一軒を通して教えてくれたからだ。

 

体罰は、それを受け取る側の持つ人としての能力如何でいくらでも方向が変わると僕は思っている、 痛みをどう解釈するかは

その人の人間性そのもの。

 

であるなら、 子供が自分で転んで泣いた際に親がどうするか? そんな些細なことも、実はその子にとってのちの人生を送るための大きな学習になっているのだと。

 

溺愛するのではなく、 成長させるのだという心構えで、小さなことにも臨まねばならないのだといわんや・・・。

 

 

 

 

 


Never Ending Story

2013年03月27日 | 研究-教育・育児

 

THE NEVER ENDING STORY E-girls

 

僕の若いころの、思い出の映画に使われていた曲です。

今 e-girlsが唄っていますが、とてもよい歌ですね。

原曲を聞き取った歌詞に、僕なりの訳をつけています、e-girls のビデオと一緒に楽しんでください。

 

Turn around the look at what you see ?

行き止まりにつまずいた時、君には何が見えるだろうか? 


In her face where the mirror of your dreams...

君の求める あの子の姿は そのまま君の未来だ。

 

Make a believe,  I'm everywhere・・・

自分は なんでも出来るのだと信じよう 

 


Hidden in the lines.

水平線(未来)に向かって。

 

 

 

Written on the pages who is the answer to the neverending Story.

未来を歩むことは 限りない未来(幸せを)得る事なのだから・・・・

 


Neverending Story

君だけが創り得る将来

 

 

 

Reach for the stars, fly a fantasy so

星を求めるとき(手が届きそうなとき) 君は明日に向かって歩み始める。

 


Dream is a dream, and what you see will be so...

夢は夢であって現実、それをこの先君は知るであろう

 


Rhymes that keep their secrets by

あらゆることは 神のみぞ知るえること

 


Will unfold behind the clouds,  There upon the rainbow

だから恐れずに旅立とう 虹の向こうへ

 

Is the answer to a Neverending Story

その答えは 君の未来にあるのだから

 


Neverending Story

けして終わることはない話はね

 

Story

創造する物だから

 


Neverending Story

それが明日の君だ


Show no fear, or she may fade away...

恐れたり 、彼女が居なくなることなんて考えるな

 

In your hands that the  birth of a new day...

いつも君の手にある、君が生まれたように

 

Rhymes, Keep their secrets who will unfold behind the clouds

だってね、それは今見える現実より 尊いものに導かれるのだから

 

There upon the Rainbow,  Is  answer to a Neverending Story

全ては虹の向こうにある 君が築く未来次第なのだから・・・

 

Neverending Story

君だけの物語 

 


卒業 おめでとう!  この言葉を父より

2013年03月11日 | 研究-教育・育児

明日へ向かってジャンプ!

春と言うにはあまりにも夏っぽい青空の下 、一つの時が終わりました。

次は大学で素晴らしい青春を!  

 

*卒業パーティー前の撮影  「パチリ!」(笑)  すっぴんでの一枚 若さっていいですね。

 

懐かしい曲を一つ

 

 

どんな娘かって?  う~ん?賑やかというか? 甘ったれというか?

こんな感じかな?  これまた古いね(爆笑)

 

 

 


鬼剣舞

2013年03月06日 | 研究-教育・育児

とうとう最後、たくさんある選択科目の中で いくつも選んでそれぞれ積み重ねてきた娘の高校生活。

そのうちの一つ 演目での最終成果発表で、努力の集大成がここにありました。

 

娘の舞いを見るため、 午後から年時有給休暇をもらい、バイクで一っ飛び。

 

学校卒業すれば大学生、もう大人ですが、そのぎりぎり境目の一瞬のできごとで、僕には幻みたいに感じられる・・・

 

武士の娘の様にを頭に置き、 やさしくて綺麗で、 お淑やかでいて、しかしながら いざという時には槍を手に戦う心の強さ。 

そうした理想的な女性になることを思い描きながら育てて来ました。

まずは日本文化を大切にと常々教え、その延長に フラダンスやメキシコ民族舞踊がある。

この国の伝統と歴史を粗末にして 他国の色に染まろうとしても、それは単に色が混濁するにとどまり、けして美しくはない。

しっかりした背景が有ってこそ 被写体(主張)は輝く! そうしたものだからです。

 

これが高校生活最後の演舞!  娘の舞いは 「鬼剣舞」でした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E5%89%A3%E8%88%9E

 

人生を豊かに、すばらしいものとして歩んでもらいたい。

 

そう心から願うんです、僕は。