今回は その4 いくつか牽連している物をまとめてみます。
{基本姿勢編}
4)すぐ責任転嫁する人。
6)他人に対して、厳しい。自分に対して、甘い。
{デート編}
8)遅刻して、いつまでもグチグチ言う人。
{仕事編}
17)トラブルが起こったとき、自分のミスではないことを必至にアピールする人。
18)トラブルが起こったとき、「最初に言い出したのは自分じゃないから。」という人。
19)「僕は、責任者じゃないから。」という人。
いろいろと紹介されていますが、まとめるとたった一つ、我が身を省みる姿勢の無い、自分勝手人間という事ですね。
生きていると他人の事をとやかく言う人がいますが、「そんじゃ~?」僕はどうなんだろうか?
というなら、 仏様じゃ有るまいし、上記のことに関して責任転嫁などが全く無いとは言い切れない。
上記例に当てはまるかどうか?は分からないのだけれど、僕の場合で一番激しいのは ウインドサーフィンやヨットをやっていて、思うようにならなかったとき。
それ以外で、責任転化や他人によけいな事を言うのは無いのですが、どんなにしても下手な自分から抜け出せずにいると、苦し紛れに 「道具が悪い、 風が悪い、 波が悪い!」 等と腹立てながら八つ当たりしたり、口汚く罵ってみたり。
そういった事は”いけないのだ!”と親から育てられてきてはいるが、 思いが強いほど、限界を越した時にどうしても口走ってしまう。
近くに人がいたら 「何だこいつは?」と 間違いなく思われるだろうが、運のよいことに? セイルパワーで吹っ飛ばされ、ぽつんと海原に浮かんでいる人間の声等、誰にも届く事は無い。
でもね、どんなに悪口言っても自然は一切返事を返してこないし、それどころか更に激しさを増してよけい締められるなんていう事はざらにある。
そうこうしているうちに自分がバカらしくなって、どれだけ小さい人間なんだと認め始めると不思議なことが起きる。
ある時を境にして出来なかった事が、突然に出来るようになる形でやってくる。
その感覚は、幼い時分に過ちを認めず、親から叱られた時の一連の流れのよう様であり、その後に来る、あの何とも言えない、甘えたいような懐かしくて幸せな感覚でもあり・・・・
そうした自然相手のスポーツを通して得た経験は、謙虚で自然体で有り続けようとする姿勢と、他人の言葉を素直に受けとめられる自分を創りだしてくれたのだと思っています。
実のところ、叱られるという事は幸せな事で、人間的感情の対立を恐れずに向けてくれる思いには偽りが殆ど無く、そうした気持ちを幼少の頃より正しくもたらされてきた子は、当然に豊かな心を持っている。
逆にそうした経験が無い者は、批判や叱りを自分への攻撃としてしか認識できず、顕著なのは 誉めて育てられた人間で、間違いなく冒頭の例をそのまま当てはめた様な人間になる。
今回は、冒頭例の中に幾度か出てくる責任という物について少し思うことが有りましたのて、それについて違った角度から話をしてみようかと思います。
僕は責任という言葉を滅多なことで口にしません。
何故ならこの”責任”という言葉の持つ意味が、非常に曖昧な物であるからなのです。
実のところ、自分の経験から、この責任という言葉を安易に口にする人間ほど”責任を軽く見ている”傾向が多いと、そう思うことがたくさん有った。
誰かが何かをして、そして失敗なり、こなせなかった場合等、 それが本当にその人間の責任なのか?と。
そう考えるなら科せられた責に対し、任じられた者の能力が適応していたのか? 初めから可能だったのか?、不可能だったか?をまず考える必要が有る。
人はそれまでの人生で得てきた経験と知識の積み重ねの上に能力が建っている以上は、こなせる業の限度にも当然違いがあるわけで。
十分に経験を積んでいれば、それが積層されて=当然に能力は高い で、そうした人物が、今だ能力が未熟な者をさして、責任云々というのは許される物であるわけだが、
言葉を放つ側として、過去にそれなりの苦しい思いをしてきた裏付けがあるなら説得力も強いだろうし、進歩のための原動力として活かす為のノウハウ基礎までもたらしてくれることが多い。
ところが、ろくに経験もないのに、いわゆる社会的常識を盾にして、他人に対して責任どうの?と言う様なまねは、自分の愚かさを逆に露呈していることそのものでもある。
簡単な例をあげるなら、子育て。
一番難しいのは思春期(反抗期)の子供で、その難しさを実体験として格闘しているさなかの親に対し、子育てすら経験無い人物が、責任どうのと子供の起こした問題について親を追求するような事等、正にその代表例。
結局それは、社会常識的範囲から形だけの知識を借りて、”自分なら上手くできるはずだ”という何ら根拠無き自信の上に相手の非を責めると同じであって、こうした人間の口からでる責任という言葉ほど軽くて愚かな物は無い。
ただ、そうした重い事案はともかくとしても、普段の生活の中で”当然にこれくらいは理解してこなせるだろう”はずの物が出来ず、更にはそれが出来ない現実を認めない者も現実的にはたくさんいる。
冒頭の例が、そうした人物に向けられている事を前提にして、批判の一つとしているなら正しいと言えるだろう。
列挙されたこれらを見ると、ひたすら自分に都合良い解釈と、 自らを省みない未熟さ、さらには成せる能力が有りながら、やらないという逃げの姿勢が明確に存在しているわけであるから、この場合においての責任を追求されるは、他者から、自分の非を認めろと言う要請であると解釈して良い。
実は、非を認める=過ちを認めることであり、 人は責任追及において相手に何を学んでもらいたいかという事その物なわけであるが、これを突き詰めていくと、自分に対する勇気を持つ事そのものでもある。
人は誰しも自分を守りたい、まずいのは、自分に問題があることに対して逃げる場合であり、
こうした姿勢は精神的にまだ未熟な年齢だと”いじめ”にも結びつく訳だけど、いじめは本能的に正しく、正しい虐めはそれを受けている側の持っている弱さ(問題的)を攻撃するためにある。
それはたいてい、勇気の無さに向けられるのだけど、 故にその弱点を本人が乗り越えた時点で虐めというのが終了する様に出来ている。
*ただし現社会の子供達をとりまくいじめは そうした正しい虐めではなく、単なる暴行、恐喝、憂さ晴らしで有る事が多いので注意
上記をまとめると、責を問われるということは、 その人間がきちんとそれを受け入れ、熟考し、きちんとこなせる人間になることを回りは求めているわけで、
精神的に幼ければ虐めとして、 大人であれば諭すという方法を用いて行われ、
いずれにしてもその根拠と目的は同じところに有るのだといわんや。