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帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

ヤモリ(家守) 子供の日に思う

2014年05月05日 | 研究-教育・育児

 

今日は子供の日

子育ては色々なハプニングと、トラブルの連続でしたが、上の子は公務について家庭を持ち、子供も授かって幸せに暮らしています。

下の子は?というなら、来月母校にて教育実習生として約一月間、先生として子供達と過ごす。

 

なんでも、100年以上歴史のある小学校なのに 今まで教育実習で来た”卒業生”はゼロらしくて、家の娘が初めてとのこと。 

でもって、迎える校長先生と市の教育委員会は大喜びだそうで、「なんだそりゃ~?」と  笑

 

この子も何とか普通の社会人には成れそうで、一応はホッとしている。   馬鹿な僕に育てられた割には、一応まともになっているみたいなので。

二人とも幼い頃から塾に行かさず、ひたすら友達と遊ぶことだけを僕は進めた。

故に?中学校入学時は二人とも他の子より勉強が後れまくり、 半端じゃなく出来ない生徒で有った事を鮮明に覚えている・・・・・ 

 

ところが、いつしか分らんけど二人供勝手に勉強を初め、「遊んでいても良いんだぞ!」と僕は言っているのに、高校生活は勉強を中心に過ごし、学校推薦で入学した大学でもカリキュラムびっしり詰めて学んでいた。 一人は現在進行形 

「よくやるよな~?・・・・ と高卒の僕は思ってしまう 爆笑!

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gekko_japonicus.JPG

まあそんな話はどうでよいのですが、家にはこのところヤモリが出現している。  

まだ体長3cm程の真っ黒い色をした子供だけど、 ぺたりと壁にくっついてとても可愛い。   

この間はリビングの隅に鎮座していて、危うく掃除機で吸い込みそうになった。

 

こうした動物の存在に対して、初めに気づくのはたいてい娘でして、 ところが目にしても特に驚くこともないし、厭がるわけでもない。

「教育は大切だな~・・・・」  とそんな姿を見て思うのだけど、 隣が林である家にはスズメバチ、 トカゲ、 蜘蛛 ムカデ ガマガエル 等々、色々な生き物が「こんにちは!」して楽しませてくれる。

玄関ドアを開けた瞬間に、でかいガマ様が鎮座していたり、 帰宅すると太陽で暖まった階段にシマヘビやアオダイショウが寝ていたりもする。 

マムシは基本的に水辺にしかおらず、特徴のある頭の形をしていなければ無毒であることは簡単に判るので、そうしたときはヒョイと頭をつかんで捕獲する。

まだ息子も娘も小学生だった頃は、すぐに呼んで蛇の特徴や自然界での役割、 どの蛇が危なくてどの蛇が大丈夫なのか?とか、捕まえ方や食べ方にいたるまで???説明 (笑)

捕まえるたびに触らせていたので、二人ともすっかり蛇になれてしまい、見ても特段騒ぐこと等が無い。   

もちろんお触り?した後は林にリリース。

トカゲとヤモリもそうだけど、 ヤモリは家にいることが多く、 この小さな生き物が人間にとってどんな存在なのか?を娘に話しながら、指先でくりくりと撫でて説明。

蛾や蚊、ハエ等含め人にとって有害な昆虫を補食し、 その臆病な性格から人に向かってくることは一切無い。

第一あの弱いあごでは赤ん坊の指をかんでも血すら出ない 100%の益虫?である。 

 

そうしたこともあって、 ヤモリ = 家守 という意味があり そのちいさな生き物が 自分たちを守ってくれているのだと教えていたので、見つけて喜びこそしても、けして追い出そうとはしない。

思えば僕が子供たちに教えたのはそんなことばかりだ。  爆笑!

火のおこし方や、 洋服なくても体の体温を守る方法とか、 野宿だったりとか  ろくでもない知識ばかり授けていたな~! 

 

線路に鹿が飛び出して衝突&電車が止まるような路線エリアに住んでいる我が家には、時々娘の友達が泊まりで遊びに来たりしているけど、 この間は寝るときにその友達がヤモリとご対面して大騒ぎする一幕があった ぎゃははは!

で、平然としているだけでなく、 「守り神だから触らないでね!」 なんて言っている家の娘は、「あんた何者?」等と言われたりもするようだけど、生物の攻撃性はどんなときに引き起こされるのかを理解していれば、普通に暮らしている分には怖くも何ともない。

スズメバチも あくまで人間が巣に近づく事で攻撃対象になるが、草むらでバッタを捕獲してそれを巣に持ち帰るために肉団子に加工しているときなど、指先で背中を触っても刺されもしない。

ただし苛つくような状態に置かれると、攻撃してくることがあるので注意が必要。

 

クマバチは雌は針を持つが雄にはなく、素手で捕まえてオモチャに出来る。

 

人はそうしたあらゆる生き物たちと共生し、特に日本人は八百万の神に囲まれて育まれる文化を持つ国だ。

この国の神話は明るく、ユーモラスであって、同時にとても人間くさい。 

西洋の破壊を好む神とはまったく異質のものであり、 もし日本の神話を読んだことがない方がいらしたら、是非読んでみていただきたい。 

この国の原点がそこにある事が分る。

 

 

親が子供に教えられる事はたかが知れていて、そして教えることが難しいが故に、 学習塾などに放り込んで管理教育するけど、 僕はそうしたものに一切携わらなかった。

やったのは子供達を海や山等の自然界へ連れて行き、自らが子供の頃に得た経験や体験を含ませながら色々と教えてきただけ。

 

こんな物がどう役立つか?を考える事程、野暮な物は無いのかもしれないけど、日常の中に存在するあらゆる小さなものをダイレクトに感じ取れることを目指してきた。

何故なら、それが心を豊かにする事そのものだと思っているから。 

 

小さなテントウ虫一つをとっても、 道ばたの忘れ去れた草花さえも、 幼少期からどう触れてくるかで視点と解釈、そして受け取り方が大きく変わり、 それが大人になってどれだけ、自分を支えてくれているか?を二人のわが子にも知ってもらいたいと、僕は思っていた。

裏を返すとね、人は自然の一部である! それを伝えることが僕にとっての教育なのかもしれない・・・・・  

 

追記:毎年子供達に色々と教えていた夏の木崎湖には、今年から行く事はありません、ちなみにコーチ達とは今も仲がよくて、要因は全く別にあります。 

 

 

 


反抗期も一段落? いや、終わりかな・・・ (^^)

2014年04月06日 | 研究-教育・育児

2歳を迎えた頃から急に始まった孫の反抗期。 

とにかく言う事を聞かないし、 何でも自分でやると言い張って抵抗したり泣いたり喚いたり。

そんなのがほぼ半年間近く続いて・・・ 

ところがここに来てそうした事がパタリとなくなって、親の言葉をよく理解して行動する事が出来る様になったらしい。

一時は相当に悩んでいた息子夫婦でしたが、やっと落ち着きを取り戻したもよう。

子供なら誰にでも訪れるそれは、 親になる為の一つの儀式的なものではありますが、それまで経験が無い、予行演習なんか出来るはずもない子育てにおいては、とても大変なもの。

 

「まあ、がんばれや!」 と近からず遠からず見守ってきた僕ですが、 今日の夕方に家に現れた息子夫婦と孫は、それまでのおっかなびっくりが無くなり、完全に一つの家庭になっていた。

よしよし・・・・  あはははは!

 

昨日実家でもらってきた野菜をとりわけて、その後帰宅するまでのわずかな一時に家で暴れ回る孫。

すっかり乳児の面影はなくなり、毎日朝から夕方まで隣の公園で遊んでいるその顔は日焼けで真っ黒だな~  わはは

 

以前(越した直後)は公園でも無視されて仲間に入れてもらえなかったのに、最近では公園ガキ愚連隊?(小学生に入る前までの形成集団)の一員にしてもらって意気揚々。

子分?として遊んでもらっているらしい。  爆笑!

 

これは転んでも、怪我しても、泣かずに我慢して耐える力が割と早く出来ていたりしているのが、まがいなりにも2歳6ヶ月にして仲間扱いしてもらえる理由であるろう事は明白。

*階段で転んで額に瘤と傷つくって血だらけだったのに、「自分で立ちなさい!」と厳しかった嫁さんの教育のおかげでしょうかね? チョット泣いただけで抱き上げたりて甘やかしたりと言うことがまったくありませんでしたからね・・・爆汗

結構大きめの公園に集まる子は、年下の子から午後に集まってくる小学生まで沢山いて、当たり前だけど、上の子達との遊びは危険性も多い分スリルもあって、男の子であれば当然?そちらに引きつけられるのが正常という物・・・・・  でも弱虫と甘ったれ(母親べったり)は絶対に相手にされない

まあ、なんにせよ、子供が多いというのはよい事ですよね。

 

一通り暴れると、 次に始まるのが図鑑開き。 なはは

次から次へと出してきては、婆(家の家内)の膝の上に乗って「これな~に?」 をひたすら繰り返す。

それが延々と続くわけで、そういえば以前送った ボッシュの組み立てキットで「まだ遊んでいるんかいな?」と嫁さんに聞くと、 公園遊びの後は毎日それで何かを組み立てているようで、

以前はなかなか出来ないと泣き出したり愚図ったりしていたのが、だんだん組み立てるのが上手になり、お母さんとの分業で造ることも覚えて・・・・・ 

チョットばかり反抗期を抜けるのが早い気もするけど、 一時のすさまじさを考えると、これでいいのかな?とも思える。 

あと半年もすると、又どう変わっていくのだろうか?と楽しみな僕です。 へへ

 

 

 

 

 

 

 


悪ふざけ (^0^)ぎゃはははは!

2014年02月08日 | 研究-教育・育児

あまりにも暇!? なので、モデルでもある我が娘と外で悪ふざけ。  変態親子!!

真冬のかぐや姫 なんちゅ~写真を撮って見るかと、わざわざくそ寒い中での撮影。

 

楽しかった?のは5分 その後はひたすら「さみ~~~~~!」を二人で連発。

かぐやなので竹藪バック、そして姫なので白無垢イメージをまぜ 、青空イメージの服と 海の色をしたギター。

 

夏から秋のイメージが多いかぐや姫なので、 あえて白雪姫(Snow white)をむりやりミキシングしてみました。

せっかく撮ったので、一応アップします。

 


一日中夢中でかじりついて、離れないそうだ(笑)ー知育玩具

2014年01月22日 | 研究-教育・育児

爺バカ、婆バカ丸出しそのもので、息子夫婦に無断で買ってしまった知育玩具。

少し遅れたお正月のお年玉みたいなものですが、これが想像以上に良かったらしい。

プレゼントを家に取りに来て、箱を明けた瞬間に孫の目つきが変わり、帰る為に片付ける事すら大騒ぎで、 結果的には買って正解だった。

翌日から、朝から寝るまで何か?を自分で組み立てて遊んでいるらしくて、僕にうり二つだな~と勝手に思っているわけですが、 本当にやっていること、興味のあることが幼い頃の僕にシンクロしてしまう。

高知能児でもある孫は、興味の対象が図鑑やパソコンから始まり・機械・分解図・ドライバー・レンチ 電動のこぎり等々と 興味の対象が普通の子と異なって?いて、機械系のオモチャや乗り物、自分で創れる物に強烈な興味を示す。

そういえば、乳児期に与えていたオモチャも 屋根裏に有った建築廃材やら機械部品 電子部品だったし、息子夫婦が家で同居していた時には、 僕の部屋のドアが開いていると知らない間に僕の工具箱から色々な物を引っ張り出しては遊んでいたらしい。

そんなわけで、僕が修理や組み立て作業を始めたりなんぞすると、ベッタリくっついて絶対に離れず、 挙げ句の果てはドライバーを僕から取り上げてネジ回したり ペンチで挟んだり掴んだりと、もちろん危険な工具もあるので、常に嫁さんはハラハラしていたと思う。 

なんでこれを買ったかというと、たまたま偶然に立川の伊勢丹内を家内と日曜日に歩いていたところ知育玩具コーナーに目が留まったわけで、単に知育玩具という言葉に引かれた訳なのですが、目立つ棚にどかんと飾られていたのが以下の品々。

一目で「コリャ~孫に向いている!」と判断。

製品は世界的工具メーカー BOSCH のレプリカで ワークベンチやら電動ドリル、 丸ノコ等もあり、 もちろん危険性がないように造られている。

ちなみに、本物と同じ様に動く電ドルやアジャスタブルレンチ等々でセットは構成されています。

BOSCH(ボッシュ) ツールボックス 工具セット Bosch Theo Klein Toolbox 8305 並行輸入品
 
 

息子が家で何かしていると、勝手に工具を持って行ってしまったり、ネジやナット等の部品を持って行ってしまうので時々孫が叱られている、という話を聞いていたので、ピンと来た。

でね、早速ハンドツールボックスを一セットを買うことにしたんだけど、 これで遊ぶ対象が無い事には始まらない。   

*ちなみにワークベンチセットは家に他メーカの類似品が有り、似たような物なので不用。

BOSCH(ボッシュ) ミニワークセンター ワークベンチ 工具セット Tool Shop 並行輸入品
 
 

 

ところが価格が・・・・・ 

スタータセットは安いのですが、 当たり前ながら組み立てる物の範囲がチャチすぎて、絶対すぐに飽きる。

 

テクニコ スターターボックス 【ボーネルンド】
 
 

で、そのもう一つ上で自由度と組み立て幅が広いものは?と・・・なると約1万円、 工具セットと合計して1万5千円近くなる。   このあたりはドイツ製の輸入品故に仕方がないのだけど・・・・

良く造られていて、きちんと工具セットにマッチして遊べるように出来ているので、よけい気になって  あはは

どうしょうかと・・・・暫く迷って、「ええい!買っちゃえ!」 ぎゃはははは!

   

<ボーネルンド> テクニコベーシックキット
 
 

この辺がバカ爺であること、その物の証明であるわけだが、 廃材をオモチャにして育った孫は、何かしらを組みあわせて物を造るのが好きで、積み木もそうだったし、 であるなら更に高度な物を与えてもこなせるだろうという、なんにも考えていない判断。

以前から、そのうちダイヤブロックとは思っていたんですが、年齢的にブロックで遊ぶにはまだ早すぎる。

でもって間を繋ぐ物がなくて困っていたんです。 

このキットの良いところは、この後もう一段上の高度なキットがあり。

今後の様子観て、能力的に可能と判断した時点で、もう一つ上のグレードを買ってあげようかと・・・・

 

マルチテック おもちゃのくるま組み立てセットと電動ドライバー ボッシュ
 
 

 

その後は本物の工具セットになりますから・・・・

 


問題となっているドラマ「明日、ママがいない」を見たけど

2014年01月19日 | 研究-教育・育児

人権がどうのとか、体罰がどうとか、変に騒ぎが大きくなり始めているこのドラマ。

録画してあったのを僕も見ましたが、批判している人たちは、なんか視点がずれてはいないだろうか?

人権? 体罰? 例のごとく綺麗事を並べて、表向き子供達の心を大切にしているように演じているが、 現実世界はこのドラマみたいに甘い物ではない。

 

バケツを持たされる? これのどこに問題がある?  虐待される子供達がうけている親からの所業は、殴られてあごの骨を砕かれる、 歯が抜ける、 腕の骨が折れる、 脳内出血、  

死ぬまで食事をもらえない、 罵声を浴びせられ続ける、熱湯を頭からかけられる等々、これが現実だ。 

 

捨てられる子は、まだ虐待死しない分、身体への直接的痛みはないけれど、 一切口をきかないから始まるネグレクト等、心への虐待という面ではさほどの差が無い。

そうした、およそ人のやる事とは思えない現実下、保護すらされない多くの子供達が今日も必死に生きているのが、この日本という国。

 

大人の身勝手な正義感と軽率な思考で、”施設職員の印象が悪くなるだ、何だ”と言っているが、 単に自分達を可愛がりたいだけ?の話にしか僕には聞こえず、放映を中止しろと騒ぐのではなく、

子供達にもたらされる、世の現実をよく考えてもらいたい! と言うのが筋ではないのか? 

 

女王の教室の時の騒ぎもそうだったけど、少しでも子供達に厳しかったりすれば、即 「人権が~!」と騒ぐ短絡思考。   

ドラマである以上は、そこになにがしかの訴えがあるわけで、なぜそれを我慢して最後まで見ようとしないのだろうか?

 

この日本で、すぐに綺麗事、特に人権という言葉をすぐに振りかざす人物、団体、集団が、何かしらの利益的意図を腹の底で持っていて、 ろくでない思想(例 左翼思想)を背景にしているやからが大半で有ることくらいは、すでに周知の事実として、誰にでも知りうるところなっている。

*注意: まともな思考をしている人もいますので、誤解無きように。

ドラマなんぞを見てワ~ワ~騒いでいるくらいなら、もっと近くにある悲劇に眼を向けねばならない事がたくさん有るだろうが! 

 

まだドラマは始まったばかりで、 この先の展開を見なければ ここで何を言わんとしているかというのは見えてこない。

騒ぐにはあまりにも時期早々ではないのか? そう僕は思うんですけどね・・・・ 

ちなみに、子供達(現実に施設で育った視点からの声を取り上げている処が有るので、参考までに紹介。

http://blogos.com/article/78173/ より

http://togetter.com/li/617131   これをまとめている方 漫画家の りさり さんのは https://twitter.com/sweetcocoamilk

以下に一部転載

********************************************     

録画していた「明日、ママがいない」を見た。賛否両論あるようだがドラマとしてはよくできていると思う。ネットを見ていると施設関係者は否定的、

施設出身者は肯定的な意見が多いというのが興味深い。ドラマもネットも今後の展開が楽しみ。
ai_kizuna

「明日、ママがいない」児童養護施設で育った私から見ても、別に悪いドラマじゃないと思うんだけどな。「子供たちが傷つく」とか腫れ物に触るようにして、

実際はその問題の根本から目を背けてるだけっていうこともあるからね…。
happy_amberblue

施設は最初
あのドラマみたいに怖かった
職員も悪魔に見えた
だから大人の視点ではなく
子供の視点でドラマにしてくれて
子供にとってはめっちゃ感謝してる
大人は子供の面倒をみたいから
働いてるんでしょ?
それともお金のため?
だったら辞めろ!
その子の親になる覚悟で働け!
と思う
zetu_uragiri

明日、ママがいない。
まぁ話題になってるから…調べて見たけど、まさかの児童養護施設系の話。
正直、児童養護施設出身としては、住みにくい偏見呼ぶかもだけど、どっちにしろ偏見は多いし、そんなんでうだうだ言ってたら生きていけない。
小さい頃に周りの偏見を知ることも大切。
kai030108

「明日、ママがいない」というドラマについて抗議をしているのが、施設育ちの人または現在施設で暮らしている子どもならまだわかる
働いている職員、病院関係...所詮は大人のエゴでしょ
誰も望んでいないのに
何か都合の悪い事でもあるのかな?
Risa_940214

「明日、ママがいない」について、「施設の実情はうんたら~」とか「施設というものが誤解される」とか言ってる大人ども!施設育ちのわたしからしたら、そんな事どうだっていいんだよ!
そんなところに着目しているようじゃ、まだまだ子どもの気持ちなんてわかってないね
Risa_940214

 

 

 


忍耐力と我慢

2013年12月06日 | 研究-教育・育児

そういえば、子供の頃の僕はたいそう乱暴で、小学2年生頃まは結構手の付けられない腕白坊主だったんです。  汗

幼き日の、得に友達との掴み合い喧嘩等の記憶は割と明確に残っている物で、ざっと頭の中で思い出してみてもかなり浮かんでくる。  あかん・・・

 

親の話では、常に落ち着きが無く(いまなら多動児の烙印間違いなし)、おまけに情動的、思考=行動 そのものだった事からどうしても友達と諍いを起こす事が多くて、

幼稚園に居たころは、幼なじみの中谷君と二人で暴れていたのを覚えている。  汗

 

思えば、僕の親は相当粘り強く、そうした行いが”悪い事”であると教えてきてくれた訳だけど、激怒して頭ごなしに、僕を叱った事もたくさん有った。

幾つもあるそうした中で、得に記憶しているのは、二つ。

仲の悪い友達と喧嘩して、相手が逃げた際に背後から後から積み木を投げて頭に直撃させた事と、取っ組み合いで相手の腕に噛みついて縫うほどの怪我をさた事で、その時は烈火のごとく叱られた。 

流血し、それにより大人達が慌てふためいているのを、ボォ~!っと見ていた自分の姿も同時に覚えている。

 

そうした際、帰宅して待っていたのは徹底して叱られたことで、何がいけないのかを叩きこまれ、最後にその友達の家へ親共々出向いて”謝りたくもない”友達の前で何度も頭を下げさせられた。

 

昨今の様な”ほめて育てる教育”と完全真反対の、感情がふんだんに盛り込まれた至極ダイレクトな育て方。

しかしながら、当時はそれが当たり前で当然だったんです。   だから昔の人は行動的で負けず嫌い、打たれ強いし へこたれない・・・・

 

得に、乱暴だった僕は本当によく叱られた・・・・   

 

叱るのはまず母親で(当たり前ですが)、 電話なんていう物が無い、貧乏な団地暮らしだった為に親父は帰宅するまで事を知らない。

そして手が付けられないと母親が判断していると、帰宅した親父へすぐ話が飛んでいく。

 

親父に叱られる確率はだいだい30%程度で、得にお咎めがなかった際には、やたらとホッとしたのを明確に覚えている。 

幼心に、母親というのはある程度以上はやらないのを良く解っていて、 親父が怒り顔で出て来た際にはさすがに震えあがったものだ。

 

そんな僕も、小学校3年生頃には人を傷つけることの重大さを知り、中学生の頃には、自分から手を出す事は皆無。 

忍耐と我慢の大切さを覚え、暴力的な衝動を自分でうまく乗り越えるコツも覚えた。 

 

ただ、やられれば必ず反撃するので、向こうから手を出してくれば絶対に殴り合い、掴み合いとなり、当たり前だけどそうした事は何度も有るわけで・・・・

でもね、さすがに高校生にもなるとそうしたことも無くなった。 

 

今のいじめ問題を見ていると、「なんで最低の反撃すら出来ないんだと・・・・」

非暴力という格好つけも良いけれど、 自分の命を断つくらいなら、「まずは相手を半殺しにしてからじゃね~のか?」 

いじめの頭をやっているやつの、塾帰りかなんかを狙って、後ろから太ももの真横をバットでぶん殴ればもう立てないから後は素手でやりたい放題、実に簡単な事だ。

おっとと・・・・、これ過激な冗談ですので、マジでとりあわないように、くれぐれも(笑)

 

僕の子供の頃は、喧嘩なんていうのは当たり前だったし(息子もよくやっていたな~)、不思議なことにその喧嘩が基で仲の良い友達が出来たりもして、

大人の場合は、どうしても恨み辛みが蓄積してなので始末に負えない結果になることが多いけど、子供の頃のそれは”互いの濁り無き感情同士が真正面からぶつけられる”もの。

いわゆる危険だけど、人としての最大のコミュニケーションだったのではないか?と思うんです。 

人間にとって、怒りを初めとした負の感情のコントロールをどうするか?というのはいつの時代でも最大の課題であり、押さえきれない感情を負方向から正方向に転換して未来を歩む動力源に切り替えること、それが上手に出来るほど優れた人間性の一つといえる、

そうした物ではないだろうか?

上に書いた事は、学力も同じと僕は考えていて、子供の頃からいくら教育熱心に塾だなんだに我が子を漬け込んだとしても、 反抗期が来ればそうした親の押しつけ?は一気に効を失う。

それゆえ、高校に入ると弾けて放蕩する子が多いのも事実であり(たくさん見てきました)、反対に子供の頃に出来るだけ遊んで、いわゆる直感思考や友達と摩擦を

通じて培う”心の基礎学習”の多かった子ほど、現実的に自立心の強い子に育って伸びる。

 

それが中学後半から高校生の、いわゆる”けだるい感覚世界で生きている”準大人の年齢にさしかかる頃から、「自分の将来を意識して何をなすか?そしてどうするべきか?」という支点から自発的に模索行動する様に、自らを仕向けていくことになる。

「そうした物なのではないか!?」と思うのだけど、子供の成績=親の喜びになってしまっている親(特に母親)が多すぎるわけで・・・・

かといって反抗期に至らない、小学生までの子育て期にある親御さんにそれを説明したところで受け入れてくれるものでもない。 

 

理由は簡単だ、従順な年齢の子供は親の言うなりであって、それをもって”自分の子育てはうまくいっている”とほぼ99%が誤信しているからだ。

問題は第二次成長期から始まるわけだが、予行演習など出来ない子育ては、やり直しがきかないという難しさがそこに有る。

 

いま小学校ではクラスの人数を更に減らそうとする方向で進んでいる様だけど、

生徒は人数が多いから適度に息抜きが出来て良いわけであり、人数が少なくなればただただ管理が厳しくなるだけでしかなく、結果としてそれが学力向上に繋がると安易に考えているようだが、僕はそう思わない。

幼少期の管理が厳しければ厳しいほど、 後に返ってくる反動は大きくなり、管理が行き届く分”自分で思考して行動する事は減る”わけだから、基礎的人間性が碌にそだたないままで体だけ成長する事になる。 

そして高校入学あたりから大学生になって、下手すれば世の中に出てからその遅れを取り戻すかのように様々な問題を起こしはじめる。 

 

幼い思考なら、同じ”何かをやらかした”でも笑える範囲、大学生ならオレオレ詐欺やレイプなど、これはすでに立派な重犯罪だ。 

突き詰めると、幼少期にしっかり叱られる事によって忍耐と我慢の基礎が育ってないわけであり、そこに来て”アホな学者や教育評論家”(*)が喧伝する”ほめて育てたり”なんかして、本来叱らねばならない事を、”無理矢理褒めて代用しよう”等と言う異常な教育まで行き着けば、まともな人間性が育つ事等一切無い。

 

*左系の人間が極端にこうした教育を推し進めていて、大抵はこの国の伝統や文化等の、昔から守られてきた” よき物”を平然と否定している事が多い。

そのお題目は必ず”新しい”であり、優れた部分までくそみそ一緒に”古い”等と否定して、「新しい何某が今こそ必要だ!」と声だかに叫ぶが、それはあくまでその人間の頭のなかで考えた理屈でしかなく、

同時に”責任無き実験を周りにさせているのだ”という事を、頭に入れて置いたほうがよい。 

例えるなら、米国式何とか教育、シュタイナー教育、スエーデン式何とか、その他横文字の入った何々教育を推し進めてくる事は、社会的背景も文化も全く違うところに存在している物を

”新しい”という名の下に日本へ持ってきた物でしか無く、その背後には他人のフンドシで出来るだけ本を売って、”自分がいかに収益を上げるか? 有名になるか?”という薄汚れた皮算用する人間性があるのだということを、

絶対に忘れてはならないわけだ。 

 

まがいなりにも個人で教育研究をしてきた結論として明確に出ている結論は、本来人の持つ純粋な感情(親心)を持って叱るという教育は、子供の成長にとって最大の栄養素であるという事は、間違いない。

 

最後に、子供を叱る最大のコツを伝授(偉そうに~!爆笑)。

どんなしかり方をするにしても、どんな言葉を投げかけるにしても、心の中で我が子に向かって”進歩しろ-!”と同時に投げかけること。

これは魔法の呪文で、この呪文を心に置いて叱っている時に繰り返していると絶対にやり過ぎることは無い。

当然、虐待なんぞには絶対にならない。

本当だよ! 嘘だとおもったら、実際にやってみてください。 はっきりと分かりますから。

 

 

 


ジロジロと見られるのは仕方ないだんべ (笑)

2013年11月25日 | 研究-教育・育児

そういえば、昨日のサマーランドでこんな事がありました・・・・

家の子がモデルをしていることは、このブログでも何度か書きましたが、

ところがね~これが娘にとっては思わぬ思いを引き起こすことが有るらしい。

というのは、チョロチョロとファッシヨン系の雑誌等に載り始めると、得に若い世代の子達向けの本等がそうですが、当然顔を覚えられてしまう。

別におおっぴらにやっているわけでは無いのですが、ページを食い入るように見ている読者には何となくという感じで頭に残るみたいなんです。

 

フリーフォールに乗るときの待ち時間は30分くらいの待ち、なので皆が暇してあちらこちら見ていて、「あれ?」 と気が付くのが居るわけで、

1回目は 3m位後ろで並んでいたイケメン男子達5人組みのグループ。

うち一人が気が付いたらしく、皆を集めコソコソ、次の瞬間バッ!といっせいに振り返り結構ジロジロ。

その視線には僕もすぐ気が付いたのですが、大変なのは娘。

後をみると、もろ目が合うし・・・・ と

 

2回目も 同じくフリーフォールに並んでいた時で、今回は隣の列に並んでいた中学生の女の子達4~5人のグループ。

やはり一人が気付いたらしく、皆を集めてコソコソ話していたすぐ後にドット視線が娘へ。

おりしも「手が冷た~い!」と甘ったれていた娘の手の平を、僕の手で包みこんで温めていたのをもろ見られてしまった。 

「これじゃ~ 援助交際している変な親父にしか見えないだんべよ」、 あううう・・・

その視線に僕もすぐ気が付き、慌てて手を離したけれど、 暫くはそのグループに並んでいたので、すぐに親子であることは解ったみたいだ。

「しかし・・・・」  ”視線”は難しい。 それその物は、よいものばかりでは無い、刺すようなのも当然に有りなわけで、なんていうか、

「大変だよな~・・・・・」なんて我が子に同情したりもして。

普段はどうなんだ?と娘に聞くと、ほとんどそうした事はないらしいのですが、長時間並ぶ、いわゆる皆が暇している若い子達の集団にある程度近い処にいると、

そうなるらしい。

まあ、やっているのがモデルである以上、そうした事は当然とも言えるのですがね。

 


ボロのトレーニング用スニーカー

2013年11月21日 | 研究-教育・育児

僕の好きな曲です。

 

******************

電信柱に引っかけた夢   作詩作曲 長渕剛

実に寒い夜だった、貨物列車の通りすぎる音がした。
これが最後と腹に決め、26のたくらみから足を洗った。

新聞配達の自転車の音がした、酒の飲めない俺は 食パンをかじった。
錆びた10円玉をひっくりかえし、「ついてねえや」とやぶにらみした明け方の東京

生き恥をさらしても裏街道はまっぴらさ! ゴメンヨと詫びをいれお前住む街へひっかえす・・・

東中野の駅前に、 ああ 突っ立ったまんま電信柱にひっかけた夢
未練たらたら、 ひっかけた夢。


浜松町から羽田に向かった、公衆電話から奴に電話した。
握りしめた受話器の向こうで、「頑張れや」って奴が泣いた。

抜き差しならねえ街だった、危うく俺の背骨をぬかれるとこだった。
「性に合わねえから家に帰るだけさ!」と、ふてくされた顔で精一杯の負け惜しみ。

俺だってあの日の海を死ぬまで泳ぎ切るつもりさ、

あぶく銭にうもれて一生男なんか演りたくねえ!


あの時の電信柱に ひっかけたくやしさと諦めが、俺の胸をたたきやがる
たらたらと胸をたたきやがる、俺の胸をたたきやがる。

たらたらと胸をたたきやがる。

************************* 

 

朝の5時頃にノコノコ起きてきて、 パソコンに向かってメールチェックしていた僕の背後から一言、

「父さんゴメンなさい・・・・」と、娘ですね。    ヨシヨシ 気にするな

数日前の無礼を自分で悔いての事ですが、僕自身は「おっとと・・・・生意気な・・・」と確かに思いましたが、さほど気にはしていなかったんです。

そんな事より、なんで娘が苛ついているの?という思いが強くて、しかしながらその時はそれ聞ける雰囲気じゃ~なかった。

で、昨日は帰宅して早々にチューニングを施し、曲を弾いてみたら、「はは~ん!」 と理由がよく解った。

使っているチューナが安もので音を取りにくいんですエレキなら直接音を入力できますが、アコースティックギターだとマイクからのピックアップ故の事ですから。

事の次第はこれが原因で、今ひとつのチューニング状態にイライラした訳ね  笑 ニコニコ。  

この辺が若さですかね 

音叉をつかってやれば正確でいいんですが、 チューナーに頼り切っているとこうなる。

ヒッチパイプが無難だろうと、すぐに注文しましたよ、もちろん。 

 

もともとは弦を押さえやすいエレキギターで練習を始めた娘でしたから、でかいアコーステックに不慣れで、その他色々と僕の方で考えて柔らかいエレキ弦に張り替えたわけです。

きちんとチューニングすると、アコギにエレキ弦というのは優しくて女性的な音が出るんです。

そんなわけで、僕が教えた(短期上達の方法が有るんです)娘ですが、昨日はお酒入っていたせいと、一人だったこともあり、何曲も弾き歌ってしまった。

長渕剛の曲ばかりでしたけど・・・・    男ですから僕は 

 

もう一度昔みたいにやろうかな・・・・なんて思ったりもして、美しい瑠璃色のヤマハは

思いの外に音が良くてそんな気に。   

 

話変わって、下の写真は僕のスニーカー。

780円で買った超安物。 で、もう5年になる。

室内の筋トレの時に履くので、結構もつわけですが、インナーの一番上が剥げ取れ、その下のインナーすらも浮き上がって・・・ 

ソールの裏もラバーが剥がれてウレタンだけ(笑) 、そのウレタンもど真ん中に割れが入って

あとどのくらい持つのだろうか・・・

本当にオンボロのスニーカーですが、 なぜかしら棄てられない。  自分に重ねてしまうんですかね?

ウレタンがすり減り、ど真ん中に穴が空いたら新しいのを買おうと思っています。

 

 

 


指遊びと知能

2013年10月04日 | 研究-教育・育児

今日は大爆笑!でした。  当の息子はさすがに照れて嫌がっているのに、嫁さん中心に無理矢理やった誕生会。

ぎゃはははは!  大爆笑。

「ざま~見ろ!」と、息子もついに20代の真ん中を廻ってしまったわけです。

そんなさなかの一時、ケーキが出てくる前のわずかな時間に孫と少しばかりおもしろい遊びをしました。

 

初めは手のひら一つから開始、 腕を伸ばして、手のひらをまっすぐ孫に向けると、 グー チョキ パーと 順不同に出します。

見ていた孫は面白いがってすぐに真似をし始めますが、これは簡単にできてしまったので、今度は両手。

 

先程と同じように両手で グー パー チョキと始めると、すぐにサインについてくるようになります。

それなら!と 今度は少し異なる指を混ぜてみます。  例をあげると 人差し指一本とか・・・ サムアップとか 不意打ち食らわされた

孫は当然に間違えますので、そこで僕が 「ガオ~!!」と一吠えして怪獣になります。

それ見て「ぎゃははは!」と笑う孫。

以降、間違えるごとに 「ガオ~!」な訳ですが、 ややもするとすぐ真似ができるようになる。

 

そこで今度は、指のサインを複雑化して行きます。 デビル?や 狐? 小指だけとかを混ぜると、初めこそ戸惑いますが程なくして出来るようになる。

間違えると 「ガオー!」が楽しくて仕方ないからいくらでもやりますね

この段階では、 両手とも同じ物サインなのですが、ここでさらに複雑化して、右と左を違ったサインで表示してみることにしました。 

違うサインの組み合わせとなるわけで、しかもそれは次々に変化していきます、一つのサインの標示時間はおよそ5秒程度。

短い時間に 右と左の違いを認識して、右手は右手、左手は左手で作れなければいけない。

鏡状態は駄目ですから、 左右を判断して同じサインを造らなければないわけだ。   難しいです・・・・・・正直。

 

2歳と1ヶ月になったばかり、 その年齢でついてこれるのだろうか?と思うのですが、やってみないことには分からないので、早速開始。

 

標示の順序は特に決まりがあるわけでもなくて、僕が適時変化させますが、たとえると次の写真の様にですが、種類は5本の指を使ってなのでかなりの数が出来る、一例を下記に表示してみます。

    

 

初めはゆっくりとサインを標示。   さすがに左右が全然違うので、少しばかり戸惑っている孫。

「どうするだろうか? ・・・」と、そのまま見ていたら、四苦八苦のあげくに、ややもして同じ物ができるようになります。

 

そこで次を出す、そして次、こうしてどんどんと切り替えながら時間を短くして、最期には5秒間隔くらいで標示を変えていく。

そして間違えるたびに ガオー!!とやらかす。   

大喜びしながら真似する孫ですが、違いを読み取り、それを左右に再現するのは、2歳になったばかりの子供にはそれなりに難しいのです。

 

と~こ~ろ~が~だ! ややもすると全部出来てしまった、もちろん時折間違えはするが・・・・

ほ~!と感心する僕だけど、少しだけ意地悪したくなってきた。  

最期に「これだ~!」と決めのサイン  だはははは! 

 

これは正直言って絶対に無理です! 案の定どうやっても出来ませんね~!、 自分の方に手のひらを向けて色々と指を動かして試行錯誤する孫。

やがて無理なのがわかったらしく、こちらを見て ニタ~~~    それ見た僕はもう一度爆笑。 

「ちょっと意地悪だったよね!」と一言僕は言うと よしよしと孫をねぎらう。

丁度その頃、ケーキがやってきた、 イチゴがふんだんに盛り込まれたケーキで、孫の視線はもう僕には無くて、当然そちらに釘付け。

ほんのわずかな合間の、孫とのお遊びですが、 人間てすごいな~と、改めて思うのでした。

 

 

積み木遊びをする孫1才 9ヶ月にて


虐待、そして失われる幼い命を考える & 文月メイの曲「ママ」も紹介

2013年10月03日 | 研究-教育・育児

娘を抱える一人の父親として、 真正面から話をしたことがあります。

「人はどうやって我が子を虐待するようになっていくのか?」という事についてですね。

「自分は大丈夫!」、「そんなことは有り得ない!」、誰だってそう思う物です、得に若い時分には。

しかしそれは、理屈ではなくて現実そのものであり、親としてはけして有って欲しくない事。

故に、我が子にきちんと向き合って理解させておかねばならない。

 

やがては誰かを好きになり、未来の自分を思い描くようになるであろうが、”自分の思う様に行くことより、行かないのが普通”であり、

それは結婚して生活を始めると様々な障害として人生に立ちふさがる。

結婚は誰にでも出来る簡単な儀式でしかなく、それまでは互いを見つめていれば済む話。

しかし、家庭を持てば周りに対してきちんと顔を向けていかねばならないし、向けられる顔でなくてはならない。

やがて子を授かり、経済的にも精神的にも安定して生きていくためには、大なり小なり、多くの人達の助けが必要となる。

その時に、”これまで自分が何をしてきたか?”という事が、改めて問われる事となるわけだが、それは人によって相当に重い場合も有る。

 

始終メディアを賑わしている幼児虐待と、無念の死を迎える子供達。

そうした母親の生き様にはほぼ共通した点(父親が薬物中毒等の場合にはすでに論外)が見受けられる。

一つは世間知らず、 二つ目は社会を舐めきっている事、 三つ目は感情的で我慢や忍耐ができない(子供のままの人間性)、 以上、ヤンキー娘に多いことだ。

最後の四つめは、背景にその母親の”親の存在”が全く感じられないこと

 

僕が娘と話をする際に、この全部について詳しく話した訳だが、その中でも特に重要なのが四つめの、自分の親の存在。   

*これは子供を虐待から守ってくれる最後の砦とも言えるからだ。

子供を虐待するのは 特段精神的問題を抱えている娘ではなく、 ごく普通の人間であることが多い。

娘には一番身近で起こりやすい例をあげて話したのだが、まだ学生の我が娘がどこまで理解してくれたか?は、正直なところ僕には解らない。

 

一つ目から三つまでの要素は、たいてい付き合う相手の選び方とその後の行動を決め。

同時にその相手に対する親の考え(不快)が、親子間の摩擦を引き起こす。 親の気持ち等を考えて恋愛などしていないのが普通だからだ。

更に、そのあつれきを増長させる様な行動を極端に引き起こすことによって、超えることの出来ない大きな溝を造ってしまうことが多い。

*大人であればそれなりの経済力も、能力も有るし、納得させることも出来るであろうが、若い頃は常に自分が中心で、我が儘に対して

親は当然に追従してくるものとおもっている。

 

 

簡単に書くと、後先考えない恋愛ごっこの果てに、親の再三にわたる反対を押し切り結婚、もしくは同棲。   

”愛があれば何とかなる”等と、たかを括っているのがこの段階。

親は呆れ、当然見切りつけての勘当状態になる訳で、これによって、大切な援助も意見も力添えも一切失う事になる。

*そうならなければ虐待という物はそう簡単に起きない。  その環境が発生しやすいか、可能が高いと見抜くほど強固に反対するのが親である。

勢いで始めたバラ色の生活はすぐに枯れ果て、お決まりの経済面での夫婦喧嘩が増え始めると、後はどれも似たような道をたどりながら離婚にいたる。 

 

そしてシングルマザーとしての生活が始まるが、虐待そのものは互いの関係が上手く行かなくなった時点から発生していることが多い。

*上記の道を歩む切っ掛けになる年齢は、世間知らずの15歳から20歳くらいである。

 

奮起してシングルマザーとしての生活を開始しようにも、残念ながらその年齢ですでに子供がいて離婚した女性等、

「ハイそうですか!」と簡単に雇う仕場はまず無い。

 

使う方にしてみれば、職場の混乱をもたらす可能性が多分に有る人間性というものが、うんざりするほど見えてしまうからだ。 

”そんな”人間を誰が雇うであろうか?

現実は非常に残酷であり、それが理屈の通らない現実の中の現実でもある。

 

生活苦と、何ら助けを得られない空間に追い込まれ(基はといえば自分で造り出した)、余力を無くして自分だけを守ることで精一杯となった身には、

ただただ自分を頼ってくる我が子は重荷へ変化して、「いなくなれば良いのに!」という考えになってくる。   

ましてやその子の顔は別れた相手の顔そのものなのだから・・・・

 

よく勘違いされている事だけれど、 こうした場合においての虐待は、母親が我が子を憎くてやっているのではなく、実際は自分のふがいなさに対し、

自分に対する制裁を加えたい深層心理が、代替え媒体として我が子へ向いている事が多い。

母親にとって我が子は 自分その物だからだ。

 

暴力は、マスコミによって体罰と混同されてしまったが全く異なるので注意。  子の間違いを正す為の適度な有形力の行使は体罰として正義であり、 

子の躾を詠ってその実は自分自信を甘やかす(憂さ晴らし、ストレス発散、むしゃくしゃの放出等々)為の物は全て暴力である。

よく虐待(暴力)の連鎖などと言われるが、 幼少の頃より受けた暴力は当然に連鎖する、なぜなら虐待する親の暴力的人間性をそのまま引き継ぐからだ。

 

体罰に連鎖等というものは存在せず、 これは徳川家康の植木式教育法としても歴史に残っている。

子供を植木にたとえ、初めに二葉が発芽した時は、人と同じくよく世話をし、二、三年たって枝葉(知恵が付いてきたら)が多くなったら添え木(正しい愛情を注ぎ)をし、

まっすぐになるように結び(叱り)、悪い枝は切り取り(厳しくそして時として体罰)、年々そのように手入を怠らねば、成木(大人)になった時にまっすぐなよい木となる。

人も同じで四、五歳から添え木の人を付け、悪い枝が我儘(わがまま)に育たぬようにすれば、よい人となる」

家康の教育法=江戸時代の子育ての基本

 

子供の泣き叫ぶ姿を見て、それに自分の姿を重ねてる(自分を叱咤しているつもりになっている)わけだが、自分は肉体的痛みを伴わないが故、

一度それをやると快楽となり、何度でもやる。

自分で自分にしっかりと制裁を加えることが出来たと誤認するからだ。

*正しく叱られ、時として正しい体罰を受けて育った人間は、 何が暴力(誤り)であるか?ということをはっきり認識しているために、虐待などしない。

しかしながら、対象が我が子で有る事にある時点でハット気付き、その後にパニックを起こすことで異常な溺愛することも多い。   

しかしながらこれも、突き詰めれば自分の為(自慰行為=甘やかし)でしかない。

自分で自分に罰を与え、その後に自分で自分を甘やかす事によって、何とか心のバランスを取ろうとするわけであるが、初めはつねる程度で、

やがて叩く 蹴る、殴る になり、棒で叩く、食事を与えない等々ドンドンとエスカレートする。

自分で止める事はもう出来はしないし、そもそもそれが出来る位なら、初めから自分の親と揉める様な事はしない。

相手を選ぶ目も有れば、常識も我慢も忍耐もあったはずだから。

 

若いという事は素晴らしいことだけど、若さはバカさそのものでもあって、 そうした不安定さを暖かく包んでバックアップしてくれるのが親という存在なのだが、

さんざん否定しておいて、あげくに勘当された親の元にどの面下げて帰ることができようか? また親も積み重ねられた確執で懲りている為に、

そう簡単に援助をさしのべてくれない。

 

メディアで取り上げられる虐待死亡事件に、虐待した親の、更にその親の姿が不気味なほど全く感じられないのはそのせいだ。

幼子はどんなに虐待を受けても、自分が悪いのだと必死で我慢する、死ぬまで。   そして親を攻撃する事は有り得ない。

 

親になると言う事は、 それに見合った最低の人間性を備えると言う事であり、とても難しいことであるが、そうした人間にまで成長出来るまで、

自分で自分を成長させていかねばならないわけだ。

ほめて育てたりなんぞされていたら苦しさの中から自分の活路を見いだす力が著しく欠落した人間にしかならず、

その具体例を簡単にあげるなら、就職して一度上司に叱咤されただけで病む様な弱い人間となる。

 

子供の頃から正しく叱られ、 自分の感情と戦いながら活路を見いだす教育をされてきた子とでは、全く心の強靱さが違う

 

やたらと増える離婚率、 幼児虐待 心を病む人間達 それが全て ほめて育てる教育がもたらした害悪だと何故社会問題にならないのか? 

僕には理解できないことの一つである。

 

「ママと一緒に寝たい」最後の言葉 

http://matome.naver.jp/odai/2137109565931259101

 

文月メイ「ママ」


昨日のブログ記事にからめて、親として

2013年09月27日 | 研究-教育・育児

メールが幾つか、あとコメントも頂きまして、誠にありがとうございます。

娘のモデルとしての仕事ですが、完全な無報酬、奉仕以外の何物でもありません。

もっとも、交通費が実費として出る場合、その分位は良いでしょう。

 

何故無報酬か?というと、それには僕の確固たる考え方が有り、娘もそれを良く理解しています。

まずはまだ学生であるという事で、本業をおろそかにする人間に一体何が出来ようか!?

 

まがいなりにも報酬、例えその額がどれだけ僅かであっても、もらえば一応はプロの範疇に入ることになるわけです。

人様からお金を頂くと言うことは、それに見合った提供が出来ねばならず、その為には

相手の要求にどれだけ応えられるか?という事をその道として求められることを意味し、

当然にその額が大きくなればなる程、自分の私的部分(時間や生活)を削らねばなりません。

 

すると本業である学生生活に少なからず影響を及ぼしていく事になる。  

得にモデルの場合は撮影の関係で平日の昼間(授業時間)だったり、 夜から終電超える真夜中だったりと、こちらの都合は一切関係無く、全て向こうのいいなり。

 

お金払っているという意識が相手側に有る以上、代替えがいくらでも有る世界ゆえに、モデル=単なる商品なわけですから。

しかしながら金銭という物を一切排除してしまえば、力関係は常にこちらに有利にあるわけで、これがまず一つの理由。

 

もう一つは ”なんの努力も無く得られる報酬”に身を浸すような真似は、”身の破滅その物である”という点です。

本来、金銭を稼ぐという事は、 要求される条件を満たせる肉体的、頭脳的能力の需要と供給のバランスで成り立っている。

そしてそれは、高度化するほど価値が高くなる様に出来ていて、 簡単に実例をあげるなら、誰でもできるアルバイトの単価は極めて低く時間800~1300円程度。

通訳等の仕事は1時間2~4万円で、使う英語の専門性が高いほど報酬も大きい。

アルバイトでも、 高度な技術を要求されるものは2000~5000円(僕の実経験)となり、

やはり単価は高い。

しかしながらモデル等の場合、 単に先天的容姿が相手の要求する条件に合っていれば報酬が自動的に発生するように出来ており、 

そこには地道な積み重ねや努力というものは一切存在せず、最悪なのは適年齢の終了と同時に、ゴミ箱に投げ込まれるような代物でしかないんです。

故に、お金をもらう仕事としては非常に破廉恥である、ということです。

 

家の娘は、学校教員もしくは公務員を将来の目標にしていますが、その為には本業に専念し、その道のプロとしての基本的知識を積み重ねすべき時であり、

その大切な時に楽して簡単にお金をもらえるような事を経験しようものなら、人は基本的に楽な方へ流されやすい生き物故、ねばならない事が面倒となってやらない事にもになりかねない。

これでは今の段階でも、遠い将来を鑑みても、何らメリットなど存在することは無く、さらには

チヤホヤされる事で醜いうぬぼれが発生し、一番大切な人間性さえも壊れてしまう。

これは、親としては絶対に看過できない事なのですね。

もし、報酬をもらうなら、それに見合った仕事をして、積み重ねと経験がその人間性を育てていくような物でなくてはならない。

女性にとって、人から美しいね!綺麗だね!という評価をもらう事は嬉しいことであろうが、しかしながらそれは単に外見という一次的な評価でしか無く、内面や能力、経験と技術的積み重ねまでを多元的に含んだものではない。

 

上記の全てをきちんと提供できて、それに対しての評価としてお金をもらうには構わないが、 造形物としての対価など、一切受け取る必要はないんです。

女性の心を満たす自尊心は、綺麗であるために必要不可欠な物ではあれど、それに金銭からめればその瞬間に薄汚く汚れるわけであり、そうであるなら欲の存在しないピュアな姿を撮影してもらえば良い。

そうした心があってこそ、初めて綺麗だと言ってもらえる存在になれるのではないか!?   そう僕は思うんです。

 

家の娘は体が小さく、これが小中学の頃に大きなコンプレックスだったの訳ですが、 今になってその特徴への需要というのが想像以上に多い・・・・

背の高さとスタイルを最大限行かせるのがアパレルモデルなら、 家の子みたいなのはモータースショーで車を大きく魅せる為のコンパニオンを初めとして、

へアスタイルモデル、化粧品や食品関係等々、普通なら成長に伴って消えてしまう(18歳までに失われます)、子供と大人の混ざった容姿が消えない、

これがこれほど、+方向に働く物なのかと・・・僕も予想はしえなかったわけです。

 

まあ、そうはいうものの、大学卒業すれば僕がしのご口を出す事は出来ませんが・・・

基本的には全て自分の判断でやっていくしかない訳ですが、オタクのキモ系に絡む仕事だけは勘弁願いたいと思うわけでもあります。    汗(大爆笑)

 

 


可愛いと本当に得だよね・・・・ へアスタイルモデル

2013年09月25日 | 研究-教育・育児

しかし・・・・可愛い娘????(なのかな~?)というのは何かと得なんですよね、

この世の中。

 

今日の娘の仕事は、 渋谷にある超有名な何とかというヘアサロン。

そうした美容とかに全く無縁の僕故、名前を聞いてもチンプンカンプンなわけですが、

大学が休みだった事から、ヘアスタイルモデルの仕事を請け負ったらしいのです。

 

このブログを読まれている方には、生意気な娘だと思われるかもしれませんが、

学生生活に全く支障のない範囲の仕事だけやり、それ以外の物は全て断っています。

*学業優先という親のポリシーを娘へ不当ゴリ押ししていますので

 

ところが、だんだんと行く先が有名なところになってきてしまって なはは

そういえば、以前に何とか48系列のプロダクションから直接オファーを受けたことがあり、

そんな事等、つゆしらずだった僕ですが、ふとした事からその話を知った。

「何で断ったの?」というか、「無視したん?」と聞くと、

「あんなので一生食べていけるわけ無いジャン!」とあっさり一言。

((((≪チュド~~~ン!!≫))))) (:D)┼─|  と真横にぶっ飛ぶ僕ですが、大笑いしつつも、「それで正解!」と娘の頭をナデナデ。

アイドルになりたがっている女の子達からすれば、殺されるような話の展開ですよね、これは。

あわわ・・・     でも爆笑! 

単なる一時ブーム、栄枯盛衰。  多人数を抜いて人気が出るとは限らないし、一度でもチャラチャラし世界に足を踏み入れよう物なら、普通の生活に戻れるはずもない。

人気没落に引きずられる事に争う方法は、”アイドルだった”というつまらないプライドを満たせる相手と結婚するか(ほぼ間違いなく後で離婚)、グラビアで裸体をさらし、下手すりゃそれ以下のAVに落ち、あげくの果てには薬物だなんだと警察のお世話になる。

どれだけ、そうした女の子達がいただろうか、これまで・・・・

親としては、そんな惨めな人生だけは送らせたくないわけだ。

 

ざっと話を聞いてみると、6時間以上に渡って撮影が行われたらしく、 代表自らへアカットを行い、 そして専門家のメイク 髪型を少しずつ変化させての撮影やアングルカット。

たった一人に膨大な時間をかけ、丁寧に創り出す髪型と、特殊な染色を階層構造的に施す。

それは光の当たり方で不思議な立体感を出すというもので、帰宅した娘の髪を見て、素人の僕でもぶっ飛んだくらい綺麗で。   パリコレのへアをやったりしているだけのことはあるんです。

「へぇ~」と感心の言葉しか出てこなかった。 さすがに日本を代表するプロなのだと改めて思ったわけです。 

 

まあ、何でも良いけど、生意気に「報酬を貰うようなまねだけはするな、報酬だけは!」  と相変わらず頑固親父の僕です。

以前の画像から・・・自宅シャメです。

 

 

 

ずっと昔、 ブス! チビ!と虐められていた娘の頭をいつもなでていた事を思い出します。


2才 になった孫 早いよね~ (^~^)V

2013年09月03日 | 研究-教育・育児

生まれた~!と家族で大喜びしたのは、もう二年も前になるのかと・・・・

月日の流れるは実に早いものです。

誕生日は家族で揃ってお祝いをしましたが、すっかりヤンチャ坊主になり、部屋の中を走り回る事、走り回る事。

知能の発達という面から孫を研究対象?として勝手に利用させてもらっている???僕ですが、

この時期まで来ると、好む遊びが次々変化していく様になり面白い。 

 

そうやって満遍なく直感思考の基礎を築きあげていくわけですが、例えるなら指でピストル創って 「バン! バン!」とやる遊びを気に入ると、だいたいそれを2週間程度ぶっ続けという感じ。

当然に進歩しますから、それを見ていると はじめは言葉だけでバン!

次に指で鉄砲を創るのを覚えるとそれを使ってバン! バン!

狙いの概念が発達して、対象物(僕等)が移動すると、それに追従して鉄砲の向きを変える。

やがて撃たれる=倒れるを僕から覚えると真似し始めて、相手と回数的に均等にやられる事を

覚えます。 

自分だけが勝つのではなく、相手にも勝たせるし、 その辺のバランスを微妙にとっています。

さらに進歩して弾が飛んでくるという想像概念が出来、当たらないようにするために物陰に隠れながら隙を見て撃つ方法を取得?

一番最後にはアンパンマン号に乗って室内を移動しながら撃つという様に複雑化。

子供はこうして何するにも進歩を伴いつつ遊びを高度化させる訳ですが、 面白いのは今目に見える孫のマイブームの陰で、さらに他の物が色々とオーバーラップしながら伸びていることで、

例えるならそのアンパンマン号の乗り方。

僕が増築した部分は、キッチンとの接合部に約9cm程の段差があります。 その乗り越え方が劇的に進歩。 

アンパンマン号に跨っての走行速度はもはや床ドリフト状態(爆笑) なわけですが、そのスピードで夢中になっているとこの段差が立ちふさがる。

床の傷なんかまったく気にしない僕は一緒に遊びつつ、その乗り越え方を観察していますが、実はこの段差を乗り越える時に後ろにひっくり返ることが何度か有りまして・・・・、

はじめこそ 孫もそろそろやっていたのが、現在では勢いが有るのだから危ないなんて~もんじゃない。 

 

普通なら”危ないから”とやらせない親も多いかと思いますが、危険性の認識と予測という概念はあくまで幼少期からの経験の積み重ねがもたらす物故、僕は平然とやらせます。

コンクリートじゃ~ない木の床ですから、瘤が出来る程度の怪我しかしませんので。

そんなわけで、高速で下手に段差を乗り越えるとドカンと後にひっくり返る。

娘の見ている前でも一度やらかしていました。 

 

そんな姿見ても絶対に抱き起こして甘やかさない嫁さんですので、泣いても一人で起きるしかない孫はぐずりつつ一人で痛みを堪えている(笑)

 

子供ですから回復は当然に早くて、しばらくすると元気になって又床暴走をやり始める(爆笑)

そのうち、傾斜を乗り越える際にお尻を少し浮かせるとひっくり返る危険性のないことに気がついた孫(アンパンマン号は安全性の点?から後ろに重心が来るように造られています)。

当然にそれを覚えれば、段差乗り越えなど怖くは有りませんからドカン!と勢いつけて段差を超えていくようになってしまった。   ぎゃははははは!

御陰で段差の角は傷だらけの状態

面白いのは、もう一つある、乗れるドーザーにはあまり跨らず、理由は前にあるバケットが段差に引っかかる事で勢いよく超えられない(バケット持ち上げないと駄目なので)と、車高が低いために乗り越え時に底付きしてしまうためなんですね。

なので孫は僕にドーザーへ乗れと言ってきます。  

で、応じて乗っているのも僕もどうかと思うけど   ぎゃははは!   二人で床を傷つけまくり!

 

そんな感じでさんざん暴れていると、夕飯の時間になりますよね。 

ほぼ片付けの概念が完成した孫の反応は?というと、その”夕飯”という言葉で即反応。

「どうするか?」というと、自分の乗っていたアンパンマン号ともう一大のドーザーを決まった場所に運び(滑り台下)、さらに車の前後方向を車の種類に応じて毎回 必ず同じ向きで停車させます。

二台の車は全く正反対の方向を向いて駐車する感じになるわけですが、これ始めたのは一月ほど前から。

「何でだ~?」と思って、しゃがんで滑り台下を(孫と同じ視線で)見たら、滑り台の底部分にある赤色の補強支持バーが眼に入った。

驚いたのはアンパンマン号の後ろ手すりとドーザーのハンドル部分がこのバーに完全に当たるために手前に車を引き出すにはこの駐車のさせ方以外には無いんです。

バーとの干渉を、この駐め方でかわしているんです。     ほ~! こりゃ驚き!

つい最近まで、バーに当たって出てこない車を力任せに引きずり出そうと格闘して真っ赤な顔をしていたのですが、このところそれがない理由が解った。

置き方を変えれば両方とも簡単に出ることを、誰が教えたわけでもなく自分で覚えたわけですが、人間の2歳児の能力というのは、本当にすごいですよね。

 

他にも、遊んだ後に「お片付け!」の言葉でオモチャを自分で片付けてやはり定位置に置く。

几帳面なのか?わかりませんが、そうした面がこのところ極度に伸びてきています、嬉しい限りですね。

そうそう、最近バン!からマイブームが移りつつあるのが、娘が使っていたピアノ練習用のキーボード。

最近、これから音が出るのを覚え、悪戯を開始。

はじめこそ両手の平で鍵盤をバンバン叩いて雑音出しまくりだったのですが、ふと気がついたらそのバンバンが無くなっていた。

両手の人差し指でキーボードを押していろいろな音を楽しむ様に変化してきた訳です。

さらに、このキーボードには簡単に音を加工できるエフェクターやらなにやらボタンとかついているわけですが、例のごとくこれを変えまくって様々な音を出して喜んでいる。

娘が手本で曲を演奏すると、それを見てまねしたり、演奏の横でキーを押したりと孫なりに盛んに工夫。

自分が弾くのだと他人の手を払いのけて一人で黙って弾いたりと、なんだかんだと曲にはなりませんが、ある程度不快にならない可変範囲にて連続して音を出すように進歩。

 

だははは! まったく音楽才能のない僕には、それが良いのか悪いのか?判りませんが、 まずは2才0ヶ月 毎日好奇心と有り余るエネルギーにて家中のいたるところえ悪さ?こいています(爆笑)

 

 

 

 


物を大切にすること

2013年08月29日 | 研究-教育・育児

娘の話で恐縮ですが、 大学の某サークルで活動してきたのに、最近それをやめる出来事が有りました。

何某か揉めている(のかな?)は知っていたんですが、やっとその内容が判明したのが先週の事。

 

それは至極簡単な事でして、 サークル活動において”物やお金をあまりにも粗末にしすぎる姿勢”に家の娘が耐えられなくなった、という事らしいのです。

大学生になれば大人ですから、親がどうこうと語る事は本来好ましいことでは有りませんが、皆さんにも”こんな事もあるんだと”いう点から

あえて書いてみたいと思います。

大学もそうですが、地域サークルなど連帯感を高める目的もありますが、おそろいのシャツやトレーナーをつくることが有りますよね。

たいていは一つ造ればそれをずっと着用します。   

娘の属していたサークルは 踊りがメインという事もありますが衣類というのがどうしても必要。

で、それに使う為のシャツ ウンウンで、その価格数千円という事は良くありました。

しかし、親のお金で学生生活を送らせてもらっている身分において、逐一お金をかけることに疑問を持っていた家の娘は、

「家にある物で十分なのでは?」 と、目に見える形ではなく、共通した連帯感と認識こそが大切なのでは!? と、その都度言葉を投げかけて

いたらしいのですが、全く聞く耳持たずの状態。

それだけならまだしも、驚いたのは今回新たに新品シャツを買い、しかもそれをビリビリに切れ込み(破いて)いれて踊りで使うという話。

しかもたった一度のステージの為にそうするらしいのです。

娘は着古したボロを個々に持ち寄って(もし破くなら本当に着古した古い物を使う方が・・・・)と話を持ちかけたらしいのですが、「すでに決めたから!」と

シャットアウト。

 

まあ、これまでにも注文したシャツのサイズが合わないからと勝手に違うサイズ(他人の注文した物)を持って行ってしまう部員が普通にいて、

各サイズと注文者の名前の基礎的記録をきちんとサークル責任者(上級生)が残さずにいるものだから、当然もめ事にもなったりして。

 

その為に、お金払ったのに着られないサイズの服が一部の部員に廻ってきたりと、話を聞いていると「ふ~・・・・・・!」と溜息の出る出来事が結構有る。

 

娘とよく話をする僕には、こうした出来事に関する話を通して、今の女の子達のお金に対する考え方や責任感という点において?マークが付くわけですが、

「どれだけ甘やかされて育っているのだろうか?」と・・・・・

 

まあ、社会に出る前の青年期は誰しも甘ちゃんですから、ある程度は仕方ないにしても、新品のシャツを破いて、一度着ただけで棄てるというのは

どう考えてもあきれてしまう訳ですが、 こうした感覚になんの疑問を持たずにいる子達がはたして結婚後に来る現実とどう向かい合うのか?

旦那の安月給できちんとやりくりできるのだろうか? またその生活に耐えることそのものが出来るのだろうか?と考えてしまう。

 

こうした金銭感覚の絶対的甘さがあるからこそ、結婚相手の年収は最低600万円だ等と平然として言い出すことになるのだろうけど、金銭感覚は

幼少期の頃から染みつかせていかないと、後で訂正することが難しいだけに厄介だ。

難しいのはその金銭感覚を養うために、お年玉や小遣いの使い方を記録しろとか、小遣いをまったくあげない等と言う手法をとる人もいるけど、

これって逆の効果が出てしまうことが多い。

不必要に小遣いをあげず、結果として常に友達からおやつをもらう(恵んでもらう)一方だったり、オモチャとか買ったりしている姿を指加えて見ながら育つと、

やたらとお金に執着した人間に育つ事が多い。   

お金のためなら他人(家族含む)等、どうなっても構わない!というタイプにこうした教育を受けてきた人間が多く、お金の管理はやたらとやかましいのに”汚”部屋

に平然と住み、片付けに無頓着やそれが分からずに平然としている人間になったりする。

お年玉はあげない、もらったら無理矢理貯金させたり、小遣い帳で管理しろという親もいるが、金銭をもらうための勤労なり何なりが先に来ないお年玉自体

管理だけを強要することで学べる事は現実として無い。

不用に多いお年玉は大問題だが少なすぎるのも問題、その理由の背景に親がいるともし子供が分かれば、別の思いを蓄積させて必ずそれが思春期に出てくる。

貯金して将来云々という名目で貯金させても、現実として親がそれを使っているのが分かれば、子供に対して親が詐欺の手本を見せているに等しいからだ。

 

小遣い帳で管理しろといっても、毎月もらう金額はさほどでもないわけだから、そんな物を使わなくても何に使ったかは覚えている程度の物しか買えない。

実は、小遣いなりお年玉なりは、あっという間に無くなってしまうところに最大の意味があるのではないかと思う。

月初めにもらう小遣いはあっさりと消える、そしてその内容は大人からすると無駄そのものであることが多く、例えるならガシャポン10個で消えてみたり、 

お菓子の袋に入っている景品目当てだったりもする。

お年玉は年に一度子供としては大きな額をもらうわけだが、現実的には小遣いと全く同じようにあっさり消えて無くなる。

使い道としては年齢に不釣り合いな物を買って一気になくなってしまうか、よく分からないうちに消滅する。

 

親からみれば、究極の無駄そのものなわけだけど、これは果たして本当に無駄なのか?   

僕はそう思ってはいない、小遣いもお年玉もあっという間に無くなってしまうという点にこそ意味がある。

*もちろん、その使い道について親が適度に叱る事は欠かしてはならない事だ。

なぜならその無駄と思ってる親そのものが子供物頃に無駄使いをして経験しているからだ。 

お金は、それが無くなると次にもらえる時までずっと我慢し続けねばならず、その我慢にこそ意味がある。

金銭というのは一種の概念管理であり、これを子供に教育することはとても難しい。

 

親が出来るのは お金はあっというまに無くなる物であり、無くなればひたすら我慢するしかないのだ、と教えることで、

ゆえに小遣いが無くなれば、絶対に渡してはならないし、もし渡すとするなら、お祭り等の時に夜店で無駄使い?させるために

特別に渡すなど、きちんとした名目がなければだめだ。

 

子供の頃にお金に関して自ら学ぶのはお金は黙っていても無くなることと、無くなれば我慢して耐えねばならないという二点で十分であり、

親が教育していくべきはお金を稼ぐことが如何に大変なことであるか?、を言葉で繰り返して教えていくこと。

このバランスがきちんととれた環境で育った子供は、社会に出てそうした意識が基礎的に備わっているのでお金がなければ

無いなりに努力して何とかすることを試みるし、 節約なり稼ぐなりを自分で選択していく。

 

しかしながら小遣いが無くなったからと、親がすぐに施したり、 子供がお金の貸し借りできる様な環境があるとどうしてもルーズになる。

我慢と工夫、稼ぐことの難しさを学ぶ教育を受けねば、自分はこんなに大変な思いをしているのに何で給与が少ないのだ?とかならずそうした思考になる。

そこに来てあの恐怖の人格崩壊教育である”ほめて伸ばすや、ほめて育てる教育”を受けてくると、 こんなに偉い自分にお金の無いのは

社会がおかしい!という思考へ簡単に変化する。

その結果として待ち受けるのが楽してお金を稼ぐことであって、オレオレ詐欺もその一つだし。   女の子なら体売って平然としているビッチ(売春婦)になる。

話を元に戻しますが、黙っていても出ていって、最後に何も残らないのがお金。

 

故にルーズな金銭感覚をもつ若い女の子達に対して、どうしても憂いを持ってしまうわけだ。

 

お金は如何にしてそれを有効的に使うか?で生活全体が変わってくる、数年ならず10年20年という時間が流れればそれにより生み出される

差はとても大きな物になる

 

娘の金銭にたいする感覚や考え方は幼児の頃から僕が直接関わって育ててきた訳ですが、それ故買ったばかりのシャツを破くという行為含め、

ルーズな感覚には耐えられない娘になった様です。

 

 

家は特に高給取りではなく、副収入があるわけでもなくて、ごく普通の家庭です。

このブログを読んでくださっている皆さんは「嘘付け!本当は金持ちだろう!」と思うかたがいるかと思いますが、現実は

特別でも何でもない。

 

端から見ると家は確かに豊かに見えますが、それは単に家から出ていくお金を極限まで僕が絞っているだけの事で、

*一度家内に任せっきりにして大変な目にあった経験があるので、現在は僕が定期的に見直しをしています。

 

節約は、例えるならオイル交換は安いオイルを自分で交換する、 廃油は友達の整備工場でただで引き取ってもらう。

物を買うときは、ネットを初めとしてあらゆる情報を駆使し、最安値の物しか買わない、当然に中古品も普通に有りで、

車を新車で買う贅沢は絶対にあり得ません。

*新車で買うのが悪いと行っているのではないので注意

 

着る物は際限なく切り詰め、 Tシャツは 襟がすり切れたり破れたりするまで着てボロボロになると、トレーニングウェアや作業着として使用、

そして最後に車整備のオイル拭きなどのウエスになって、更にその汚れた物を車体のグリス打ち作業に使うなど、徹底して使った後に処分する。

 

家のタオルはバスタオルもハンドタオルも必ず穴が空くまでで使い、穴空いたら雑巾にして、 それが更にボロになれば天ぷら油の吸収剤、その他

使い捨てのキッチンペーパ代わりにしたり、時としてその油の染みこんだ物をべーベキューの着火剤としても使うことがある。

 

ズボンはたいてい膝上やポケット周りから破れてくるけど、僕は何度でもそれを縫い繕っておしりが透いてくるまで使う。

靴下はかかとや指先に穴が空けばそれを縫って塞ぎ、また破れればその部分を縫い、ゴム伸びきって、履いてもずるりと落ちてしまうまで

履きつぶす。

 

靴は丈夫で滅多なことでは壊れないワークブーツを、洗浄、消毒、日光乾燥繰り返しながら2年でも3年でも履き、他にお出かけ用としての

カジュアル靴はたった一つしかない。

 

家の増築、改造、改修はすべて自分の手で、修理も当然のようにする。

家電製品からはじまり、車もバイクもすべてそうで、 他人に頼ったり任せてお金を払うのは滅多にない。

 

なぜそうした事をしてきたか?というなら、僕が育った家は貧乏で、親がそうして切り詰める姿を僕に見せてくれながら育ててくれた。

ただそれを同じように再現してるだけのことなのだけど、そうした姿を僕は二人のわが子に幼い頃よりずっと見せてきた。

 

それが将来必ず我が子のために役立つと信じているからだ。

人が普通に仕事して得られる収入には限度がある、 ほんのごく一握りの一部上場企業ならともかくも、たいていは似たり寄ったりの収入しか得られない。

高給取りを目指せば自分の為の時間を際限なく失い、自分のための時間を優先しすぎると収入は当然に落ちていく。

しかしながら出るものを押さえて上手にすれば、自分の年収を1.5~2倍に匹敵する物へと変えることが出来る。

 

年収1300万もらってますよと高級外車に乗り、 その支払いが月5~10万、 二年に一度来る車検で50~80万とられ、大きな自宅は毎月のローンが

20万ボーナス120万。    エアコン壊れて高級エアコン20万を業者工事で3万プラスし、子供が大きくなったからと増築で1000万。

そんな生活していたら実質的に手元に残る額はほんのわずかだ。

 

如何に普段の生活で出る物を押さえるか? 無駄をなくすか? が色々な意味で大切なわけだが、その裏には物に対する感謝の念が無ければならない。

 

家は食事の際に必ずいただきます!をする、 息子夫婦とディズニーのレストランでもやるし、どこででもやる、人目など気にしない。

時折、それは自分達の為につくってくれた物はないのだから、頂きます、をする必要は無いのでは?という人もいるが

 

それは違うと思っている、 インスタント物だろうが店屋物だろうが、そこにあるのはついこの間まで生きていた生物そのもので、

それが多くの人たちにより加工されて今自分の目の前にある。

 

生きることは食べることだ、もしそれが無くなれば 瞬く間に命は途絶える。

どんな食べ物でも、 口にする前に唱える一言 いただきます! それは 命を頂きます!であり、この考えを基本に

自分を取り囲む物やお金に対して取り組まねばならない。   なぜなら、もしそれが失われた世の中ほどすさんだ社会は無いからだ。

 

 


ボランティア活動?夏休みなのに? (^^;)

2013年08月09日 | 研究-教育・育児

家の娘、高校時代から各種ボランティア活動をしているのですが、今日から新たな活動に参加。

夏休みなんですけどね・・・・・・   と思う僕。

なんでもNPO法人の企画らしくて、 福島の子供達に集まってもらって川で水遊びやバーベキューをやり、放射線の影響が全く無い夏を思いっきり過ごしてもらおう!という物らしい。

娘は高校生時代に同じくボランティア活動していた先輩に呼ばれたらしく、お手伝いやサポート、

面倒見から子供達の前でフラを踊る等、様々やるらしい。

腕白な子供達の面倒見る泊まりなので大変だろうな~!?とは思うけど。 

学校教員になろうとしている家の子にとって、この間まで参加していた木崎湖のキッズキャンプ初め、子供達と出来る限り関わりを持とうとしているようです。

 

でもな~ 優しいだけじゃなくて、 正しくシバク事も覚えてもらいたいんだけど、僕としては(爆笑)

 

 https://www.facebook.com/FuDaokodomoBaoYangpurojekutolianMa

 

ちなみにこうしたNPO法人絡みは、おかしな団体や左翼主義者の絡みだったりすることもあり、

気を付けないと変な洗脳をされたりするので要注意。

一応ネットでざっと調べたところでは、特に問題も無さそうなので行かせました。

何かあれば即連れ戻しに行きます、愛娘を守るためにね