1275年にヘンリー三世が没したのち英国王となったエドワード一世は、ユダヤ人指導者は高利貸業をやめなければならないと定めた「ユダヤ人法令」を議会に可決させた。これはユダヤ人高利貸の力が、キリスト教徒であれ仲間のユダヤ人であれ、負債者に行使されるのを阻止するための法令であり、その成立に英国議会の下院が積極的に役割を果たした最初の法令だったのではないかと見なされる。とはいえ実のところ、実直に法律に従うユダヤ人の利益は保護されたわけで、下院議員を反ユダヤ主義者と決めつけるには無理がある。
それでも過去に頻繁に生じたように、ユダヤ人金貸し業者は、教会ならびに国家に及ぼす自らの影響力で、ラテラノ公会議で発布された法令同様、英国国王によるこの法令にも従わずにいられると考えた。だが、これは大きな過ちだった。1290年、エドワード一世はすべてのユダヤ人を英国から追放するという新たな法令を発布した。歴史家が言うところの「グレイト・エヴィクション(強制立ち退き)」の開始だった。
エドワード一世にならって大陸の各王族も同様の措置を採った。1306年にはフランスもユダヤ人を追放した。1348年にはサクソニー(ザクセン)が、1360年にはハンガリーが、1370年にはベルギーが、1380年にはスロヴァキアが、1420年にはオーストリアが、1444年にはオランダが、1492年にはスペインが同じことを行った。
宗教裁判を浮き彫りにするスペインにおけるユダヤ人の追放は格別の意味を持つ。宗教裁判は関係を絶ったプロテスタントを迫害しようとローマ・カトリック教会によって組織されたものと考える人が多いが、実際のところ、ローマ教皇インノケンティウス三世によって導入された宗教裁判は、キリスト教を内部から破壊する目的でキリスト教徒をよそおった異端者や異教徒の正体を暴くための手段だった。つまり異端審問官にしてみれば、被告がユダヤ人であろうがなかろうが、白人であろうが黒人であろうがどうでもいいことだったが、トルケマーダ(1420-1498)がスペインの宗教裁判長だった時代には、儀式めいた「アウトダフェ」(一般には火刑)が、有罪とされた異端者、異教徒すべての処罰に関して意図的に採用された。
このようなことがらは覆い隠されているが、実に多くの事実を物語る。国民に課せられた税を徴収する権利によって国家に貸し付けた金の返済を確保することにユダヤ人金貸し業者が最初に成功したのは14世紀のスペインにおいてだった。彼らはあまりにも非道な行為に訴えて徴税したために、僧侶フェルナンド・マルテネスの扇動的演説一つで群集行動が生じ、歴史上最悪の大量殺戮の一つが起きた。これもまた、人類に対して一握りのユダヤ人が犯した罪のために、何千人ものユダヤ人が犠牲となった一例にほかならない。
1495年、リトアニアがユダヤ人を追放した。1498年にはポルトガルが、1540年にはイタリアが、1551年にはバヴァリアが同じことを行なった。こうした強制立ち退きの時代にも、裕福で強い影響力を持った一部のユダヤ人は、ボルドー、アヴィニョン、一部の教皇領、マルセイユ、北アルザス、北イタリアの一部に避難の場を確保できたことは忘れられてはならない。とはいえ『ブリタニカ百科事典』に記されているように、
結果として、ユダヤ人はまたしても東方やポーランド、トルコといった帝国内に見出されることになった。西ヨーロッパにとどまることを許された少数のユダヤ人集団も、最終的には、中世以前の時代には建前として残されていたすべての制限に従うことになった。この点で、ユダヤ人にとっての暗黒の時代はルネッサンスとともに始まったといえるのかもしれない。
この論述を考えると、西ヨーロッパ諸国がユダヤ人金貸し業者から経済支配権を取り上げたとき、西洋文明の再生が初めて実現したとする一部の歴史家の説にも一理あると思われる。
Expulsion of Jews from Spain: 520th Anniversary