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ハズセカイ系とは何か(1)【幡頭神社(愛知県西尾市吉良町宮崎)】

2012年03月04日 14時22分48秒 | 三尾勢海の神がみ

 伊勢と三河には古くからつながりがあった。三河に伊勢神宮の御厨が多く分布していることなどもこうしたことの現れである。そしてそのようなつながりが、伊勢湾と三河湾を介した海上交通によるものであったのは言うまでもないだろう。さて、2つの湾しゅうへんの地図を広げ、古代の航海技術で伊勢と三河を結ぼうとすると、知多・渥美の両半島先端部と湾内に浮かぶ島々を飛び石にして渡るルートの存在が想像されてくる。以下の引用文は赤塚次郎の「海部郡と三河湾の考古学」のものだが、これを読むと実際に古代においてそのようなルートが存在し、就中、かつての三河国幡豆(はず)郡の領域がこれにあたっていたことが示唆される。

「知多半島の先端部およびその周辺(島々)は奈良の平城京から出した木簡により、古くは幡豆郡に含められていたことがわかっている。〈中略〉伊勢の海を渡る海上ルートは三重県の志摩地域から東に浮かぶ島々を通り、神島・伊良湖岬へ、そこから北上して三河湾を浮かぶ島々をわたり羽豆岬(知多半島最先端)あるいは矢作川河口部へ、というコースが古くから根づよく存在していた。古代の文書資料からも佐久島、日間賀島、篠島もかつて幡豆郡に所属し、また碧南市南部(大浜)、あるいは衣浦(衣ヶ浦)も含めて幡豆郡に含まれていた可能性が考えられている。つまり三河矢作川下流域はもとより、知多半島の三河湾沿岸部および半島先端部、さらに三河湾に浮かぶ島々と渥美半島先端はひとつの世界であった。」
 ・森浩一ほか編『海と列島文化(8)伊勢と熊野の海』所収
  赤塚次郎「海部郡と三河湾の考古学」p244~245

 今後ここで、このような世界をハズ世界と呼ぶことにしたい。

伊勢・三河両湾しゅうへんの古墳時代の領域
★赤塚次郎「海部郡と三河湾の考古学」から転載(前掲書p245)

この図版には筆者による以下のキャプションがついている
「伊勢湾をとりまく地域は大きく二つの領域にまとめることができる。島嶼
部・半島部・海岸部地域である伊勢湾入口にあたる「ハズ」の領域と、濃
尾平野北部の湿原・山麓側をまとめる「野」の領域である。」

 『延喜式』神名帳にはハズ世界の指標となる神社が二社見えている。ひとつは尾張国知多郡の羽豆神社で、これは知多半島の最先端に当たる羽豆岬に鎮座している。

羽豆岬

羽豆岬に鎮座する羽豆神社
Mapion

境内にはSKE48のファンが奉納した絵馬が多く見られた
「羽豆岬」という曲のMVに当社が一瞬、出てくることから
ファンの聖地になっているのかな

 もうひとつは、三河国幡豆郡の幡頭神社で、これは西尾市東部の小半島、宮崎の先端部に鎮座する。社地ふきんからは前方に佐久、日間賀、篠の三河三島をはじめ、渥美・知多両半島の先端部が、さらに大気の状態がよければその遠方に伊勢・志摩の山並みが望める。ハズ世界を一望できる絶景の地に、この神社は鎮座しているのだ。

三河国の幡頭神社

幡頭神々殿
Mapion

幡頭神社鎮座地ふきんの海に出てハズ世界を一望
やや霞んだ大気の向こうに篠島、日間賀島、知多半島が見える

 社地から北に2.5kmほど離れた場所には正法寺古墳という前方後円墳がある。4C後半~5C前半に築造されたもので、墳長規模約94mは西三河最大とされる。平成13・14年に行われた墳丘の発掘調査では三段築の墳丘に葺石が施され、円筒埴輪が巡らされている典型的な畿内型の古墳であることが確認された。

正法寺古墳遠景
Mapion

正法寺古墳墳丘
(前方部から後円部にかけて)

墳丘から流れ落ちて裾部に溜まった葺石

 正法寺古墳が立地しているのは舌状台地の端部である。築造された当時、この台地の下は海で、すぐ足許まで波が押し寄せていた。つまりその頃の正法寺古墳は三河湾に向かって突き出た岬の先端にあったのだ。明らかに伊勢と三河を結ぶ舟運からのランドマークになることを意識した立地であり、おそらくその被葬者はハズ世界の王であった人物で、そのような舟運を支配して力と富を蓄えるいっぽう、ヤマト王権が伊勢から東国へ進出する際には海上輸送によってそれを支えたのだろう。古代における幡頭神社の祭祀はこの古墳の被葬者と、彼が従えていた海民の集団に密接な関わりがあったに違いない。

 社伝によると、ヤマトタケル尊が東征した際、副将軍としてこれにしたがった建稲種命が駿河湾で逝去し、その遺体が当社の鎮座する宮崎に漂着、里人はこれを手厚く葬った。その後、大宝二年(702)に文武天皇が霊夢によってこの地に建稲種命の墳墓があることを告げられ、勅命によって社殿を造営し矛を納めて神体としたのが当社の創祀であるという。

 建稲種命(たけいなだねのみこと)は『古事記』に尾張連の祖とある「建伊那陀宿禰」と同一人物で、ヤマトタケル尊の妻だったミヤズ姫の兄である。鎌倉期の成立だが内容的には平安期のものとされる『尾張国熱田太神宮縁起』によると、彼は尾張氏の居館があった氷上邑の出身でヤマトタケル尊の東征に従軍したが、帰国にあたっては陸路を通る尊に対し海路をとった。しかし駿河の海で尊に献上するミサゴを捕らえようとした際、風波が強くなって船が沈没、自らも水死したという。幡頭神社の社伝はこの伝承の後日談という体裁をとっているらしい

名古屋市緑区大高町火上山にある尾張氏の居館の伝承地

尾張国愛智郡の式内社、氷上姉子神社の旧社地で
ヤマトタケル尊とミヤズ姫が出会ったとされるのもここである

氷上姉子神社
ミヤズ姫を祭神として祀る

 現在、建稲種命は三河と尾張の両ハズ神社の祭神であり、ここから両社と尾張氏とのつながりを説く論がある。しかしこれはあまりにも伝承を鵜呑みにする態度だろう。

 祭神の遺骸が流れ着き、それを葬ったのが神社の起源となったというタイプの社伝は他社にも見られる。就中、以前、このブログでも紹介した岩手県陸前高田市の尾崎神社の縁起などは建稲種命の伝承によく似ている。それによれば、閉伊郡の領主だった源頼基は没後に水葬されたが、後に棺が破れて遺骸が三分し、そのうちの頭部が流れ着いたのを里人が手厚く葬ったのが尾崎神社の起源であるというのだ(遺骸の他の部分も、それぞれの場所で里人によって手厚く葬られ、いずれも神社となっている。これらの神社はいずれも岬や半島の先端に鎮座していることが注目される。)。

 この陸前高田の尾崎神社は社伝だけではなく神体として剣を祀っていること、岬の先端部に鎮座してていること、ふきんの漁民から海上安全や大漁祈願の信仰を集めていること、日本武尊尊の東征と関係づけられていること等、幡頭神社の祭祀と共通する点が非常に多い。明らかに舟運を介して伝播した同種の信仰が、それぞれの社の基層にわだかまっていることを感じさせる。

尾崎神社の奥の院では神体として剣を祀っている

 かつて漁民の間では著名な「流れエビス」の信仰が行われていた。漂流死体を「えびす様」として喜び、それを手厚く葬れば豊漁がもたらされるという信仰である。おそらく幡頭神社や尾崎神社の社伝は、こうした信仰や、半島や岬の先端に航海神を祀るというこれまた全国各地に事例の多い海民のそれから生じたものだろう。そこに見られる建稲種命の名前は後世の附会と考える。

 総じて尾張と三河の両ハズ神社を信仰していたのはほんらい、正法寺古墳の被葬者をはじめ、古代ハズ世界を担った人たちであり、尾張氏はそこに関係していなかった。ちなみに尾張氏がアユチ潟(『万葉集』の「年魚市潟」)を見下ろす熱田台地に進出し、伊勢湾内奥部の一大勢力となった時期は、この台地に断夫山や白鳥といった大型の前方後円墳が築かれる6C前半代頃だろう。いっぽう、ハズ世界の勢力がもっとも伸張していたのは正法寺古墳が築かれた4C後半~5C前半頃だろうから、両者の間には時期的に約1世紀の開きがあったことになる。ハズ神社が尾張国と三河国に見られることからも暗示されるように、ハズ世界が栄えたのは尾張氏の勢力が興隆し、両国の範囲が固定化するよりも以前のことだった

 

断夫山古墳
全長151mの前方後円墳で東海地方最大の規模を誇る

継体天皇の后であった目子媛の父、
尾張連草香に被葬者を求める説がある 

 

 

ハズセカイ系とは何か(2)」につづく

 

 

 

 



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