芋でモンブランのペースト(と甘露煮)を煮たシロップに出し汁や醤油・酒を足して煮汁を作っておいたものが余っていたので
いろいろ作ってきたけれど、キリが無いので・・・
(とにかく派生系の料理を作り過ぎて、身体も疲れてきてしまうし、元々分量とか決めずに工程を調べる為に作ったモンブランのシロップだったし、それを無理矢理、舌とダシで「返し」の様な煮汁にしたものだったから、虚しくて、切ないので)
砂糖や甘いモノは貴重だけれど(心を鬼にして)捨てる事にした。
本当に素材を捨てる事は身を切る思いでツライ。
でもツラい事って一生覚えている事だから、これも素材を大切に思う勉強かな?って、ちょっと言い過ぎかもしれなが、肉を切らして骨を断つ様な感じで、捨てていく。
ツラくて、ツラくて。
(でも悪くならないように煮詰めればドンドン濃くなるし、濃くなるとダシや水で薄めて増えるし、和食メインではないので、キリがない、それで鍋や容器が場所を独占したり、邪魔になったりして怪我や火傷・作り過ぎて疲れるなら本末転倒だし)
そう心の中で自答しながら、覚悟を決めて素材に謝りつつ、ジックリ痛みを噛みしめながら捨てきった。
敢えて冷たい水で最後までシッカリと洗う。
(1回1回最後までやり切る事の大切さがオフィスと違うリズム)
どんなモノでもお金だ、自営でお店をしていたら楊枝1本・串1本・裏紙1枚から自分の身銭を切って稼いだお金なんだよ、楊枝の在庫が無くなってお店に仕入れに行く時に、それって凄く身を持って解る=飲食業でアタマではなく肌で学べる基本的な事=ア○クルとかでオフィスに文房具を運んでもらうと解らないだろうが、それが解っていると運んでくれる方にも感謝出切る気持が最初から存在するからスタート地点が違う。
と感じる。
(どっちが良いという事ではないが、痛いけれど、忘れたくない事!!!、業種・職種で人を差別しないでね)
今回、煮汁を捨てて思った事は、偶然に造り上げた味付けではなく自分の味を作ろう、自分らしい味を造り上げて表現していっても良い段階に入ったのでは?と心の中で決めた事だった。
まだまだ若造だし、これからも吸収をする事、前進・進化する事を止める気は無いが、
その速度を緩めても、自分の味を追求・完成させていく事にも努力を向けていく事も、そろそろ必要かなって。
・勿論、素材の味は殺さない範囲
・作る人の「美味しい」と作ってもらうだけ人の「美味しい」は若干違う事も解ったし、
(受動的に作ってもらうだけの人はガツンとしているとインパクトが残るが口コミが拡がるが、自分で作る人にとってそれが必ずしも美味しいとは感じなかったりする)
・一口が小さい人(女性とか口が開きにくくなって味蕾の細胞が年齢で減少した高齢者が多いが)は、一口が小さい分、味が強くないとインパクトを感じにくいのかもしれない。
それが既に解っていてワザと商業的に敢えて濃くする料理を作る人の料理を食べると、とても悲しくなる。
なんか違うんじゃね?って、素材を殺しては身体にも良くないし、本質から外れるモノをお金を頂いて提供しているんじゃね?って。
・あとタバコを吸う人はガツンとした味を好むかな、そういう人は「もっと濃くしろ!!」ってお店側に対して口煩いから、言ったもん勝ちで、気の弱いお店だと自分が作りたい味、表現したい味を変えてしまう連鎖が、素材本来の味を殺してしまう事にブレーキが効かない状態に繋がっている。
↓
で、ウルサイから怖がって「こうしておきゃいいだろ?」とマニュアル化・作業化してしまう。
味は指紋の様に個人・個人色々あるから、楽しいはずなのに。
(勿論あるルールの範囲はハミ出てはいけないけれど、家の味=母親の味が美味しく感じるのは・・・、作り手が疲れていたり元気だったりして、味の変化が起こっているからと言われている)
マニュアル化を求めつつ、美味しい店は個人の味を出している所という世の中の味の矛盾が発生している。
昨今は中国の四川省だって、子供のうちは素材本来の味を覚えさせようと辛いものを与えない教育をしているといわれるし、栄養化・数値・化学記号などの教育ではなくて、本質を見抜く教育を始めたというのに。
だからその為に、自分で味を付けるイギリス料理は、素材本来の味を知らないと自分で味を付けられない行為と教育に繋がっていると思うんだよね。
(高血圧の人は自分で気を付けるし)
凄く味に関して自立を促しているという観点から『教育』と密接に繋がっている気がして。
素材の味を感じ過ぎて(米をおかず食べられるぐらいなので、無論パンやサラダ・野菜類も何も付けないで食べる事が非常に多いし、茹でた鶏胸肉だって味を付けないで食べる時もある)極度の薄味の自分がイギリス料理を好むのはそこだと思う。→そこから受動的ではない自立する『教育』というモノも感じた。
人が受動的でないと困る人も居るのだろうが、パイ料理等、変わらない伝統も感じる事が出来るが。
今回のこの行為は忘れまい!!
いろいろ作ってきたけれど、キリが無いので・・・
(とにかく派生系の料理を作り過ぎて、身体も疲れてきてしまうし、元々分量とか決めずに工程を調べる為に作ったモンブランのシロップだったし、それを無理矢理、舌とダシで「返し」の様な煮汁にしたものだったから、虚しくて、切ないので)
砂糖や甘いモノは貴重だけれど(心を鬼にして)捨てる事にした。
本当に素材を捨てる事は身を切る思いでツライ。
でもツラい事って一生覚えている事だから、これも素材を大切に思う勉強かな?って、ちょっと言い過ぎかもしれなが、肉を切らして骨を断つ様な感じで、捨てていく。
ツラくて、ツラくて。
(でも悪くならないように煮詰めればドンドン濃くなるし、濃くなるとダシや水で薄めて増えるし、和食メインではないので、キリがない、それで鍋や容器が場所を独占したり、邪魔になったりして怪我や火傷・作り過ぎて疲れるなら本末転倒だし)
そう心の中で自答しながら、覚悟を決めて素材に謝りつつ、ジックリ痛みを噛みしめながら捨てきった。
敢えて冷たい水で最後までシッカリと洗う。
(1回1回最後までやり切る事の大切さがオフィスと違うリズム)
どんなモノでもお金だ、自営でお店をしていたら楊枝1本・串1本・裏紙1枚から自分の身銭を切って稼いだお金なんだよ、楊枝の在庫が無くなってお店に仕入れに行く時に、それって凄く身を持って解る=飲食業でアタマではなく肌で学べる基本的な事=ア○クルとかでオフィスに文房具を運んでもらうと解らないだろうが、それが解っていると運んでくれる方にも感謝出切る気持が最初から存在するからスタート地点が違う。
と感じる。
(どっちが良いという事ではないが、痛いけれど、忘れたくない事!!!、業種・職種で人を差別しないでね)
今回、煮汁を捨てて思った事は、偶然に造り上げた味付けではなく自分の味を作ろう、自分らしい味を造り上げて表現していっても良い段階に入ったのでは?と心の中で決めた事だった。
まだまだ若造だし、これからも吸収をする事、前進・進化する事を止める気は無いが、
その速度を緩めても、自分の味を追求・完成させていく事にも努力を向けていく事も、そろそろ必要かなって。
・勿論、素材の味は殺さない範囲
・作る人の「美味しい」と作ってもらうだけ人の「美味しい」は若干違う事も解ったし、
(受動的に作ってもらうだけの人はガツンとしているとインパクトが残るが口コミが拡がるが、自分で作る人にとってそれが必ずしも美味しいとは感じなかったりする)
・一口が小さい人(女性とか口が開きにくくなって味蕾の細胞が年齢で減少した高齢者が多いが)は、一口が小さい分、味が強くないとインパクトを感じにくいのかもしれない。
それが既に解っていてワザと商業的に敢えて濃くする料理を作る人の料理を食べると、とても悲しくなる。
なんか違うんじゃね?って、素材を殺しては身体にも良くないし、本質から外れるモノをお金を頂いて提供しているんじゃね?って。
・あとタバコを吸う人はガツンとした味を好むかな、そういう人は「もっと濃くしろ!!」ってお店側に対して口煩いから、言ったもん勝ちで、気の弱いお店だと自分が作りたい味、表現したい味を変えてしまう連鎖が、素材本来の味を殺してしまう事にブレーキが効かない状態に繋がっている。
↓
で、ウルサイから怖がって「こうしておきゃいいだろ?」とマニュアル化・作業化してしまう。
味は指紋の様に個人・個人色々あるから、楽しいはずなのに。
(勿論あるルールの範囲はハミ出てはいけないけれど、家の味=母親の味が美味しく感じるのは・・・、作り手が疲れていたり元気だったりして、味の変化が起こっているからと言われている)
マニュアル化を求めつつ、美味しい店は個人の味を出している所という世の中の味の矛盾が発生している。
昨今は中国の四川省だって、子供のうちは素材本来の味を覚えさせようと辛いものを与えない教育をしているといわれるし、栄養化・数値・化学記号などの教育ではなくて、本質を見抜く教育を始めたというのに。
だからその為に、自分で味を付けるイギリス料理は、素材本来の味を知らないと自分で味を付けられない行為と教育に繋がっていると思うんだよね。
(高血圧の人は自分で気を付けるし)
凄く味に関して自立を促しているという観点から『教育』と密接に繋がっている気がして。
素材の味を感じ過ぎて(米をおかず食べられるぐらいなので、無論パンやサラダ・野菜類も何も付けないで食べる事が非常に多いし、茹でた鶏胸肉だって味を付けないで食べる時もある)極度の薄味の自分がイギリス料理を好むのはそこだと思う。→そこから受動的ではない自立する『教育』というモノも感じた。
人が受動的でないと困る人も居るのだろうが、パイ料理等、変わらない伝統も感じる事が出来るが。
今回のこの行為は忘れまい!!