2483 文化の日 日本国憲法が公布された日でした。戦前は明治節 明治天の誕生日でした。日本国憲法に施行日を5月1日にしようとしたが、メーデーなので、施行の日としてはまずいと考え、5月3日とした。憲法記念日になった。その半年前の11月3日を公布日とした。明治節と重なって休日だったので、文化の日ということにした。5月5日の施行にしたいという説もあったが、端午の節句だったので、中間の3日にしたらしい。
ですが、私の誕生日は2日、その日は、まだ、明治節の一日前、なぜ、私の誕生日を一日遅らせて、明治天皇と同じ3日で届けなかったのか、子供の頃、両親に不満を言ったことがあった。その時は、文化の日にしなかったのかと,言った。父親は、お前の誕生日の次の日が必ず休みになるからいいだろう、と言っていた。私は、休みの日になり、文化の日、生まれが、自分にふさわしいと思っていたからだ。
5月1日メーデーが、施行日にまずいということは分かるが、2日にしなかったのだろうか。そうすれば、明治節と公布日が重ならなかったのに。
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静岡県東部の長泉町という所に、フジプラ精工の塩崎さんが世話をしてくれた借家で新婚生活をスタートさせた。この人は、横浜の学校まで通った。毎朝、毎晩三島駅まで送り迎え、日曜日に農協のスーパーに一週間分の食料品や菓子類を買い出しに行く、当時は、まだ、共稼ぎという夫婦はそういなかった。大きなカート一杯に一週間分買う人は私達しかいなかった時代でした。1週間分で4000円でした。私たちの給料は合計8万円くらいでした。家賃が2万円、結構、スタートから余裕がある生活ではあったが、時間的には厳しかった。
この人、翌年の三月まで、横浜の学校に通ったが、その年の夏に、静岡の教員採用試験を受け、合格し、4月から、地元の長泉南小へ赴任した。夏の採用試験の時には静岡の県庁まで行って、面接試験を受けた、既に,大きなお腹を抱えてだった。私が当然、送り迎え付添いでした。良く、うかったなと思った。横浜の小学校の校長先生からの強力なコネがあったからだと思う。その後もこの先生とはずっとお付き合いがあった。
子供が生まれたばかりの3月末には、学校勤務がはじまった。私も仕事が忙しい、3交替から抜け出して、押出部門のトップになっていたので、出張も多くなっていたし、早く帰ってしまうわけにもいかなくなっていた。それでも、近所の家に子供を預けたり、静岡の私の実家に預けたり、あちこち、たらい回しにして、生まれたばかりの子供も面喰らったと思う。
1.5才になって、保育園にお世話になることにした。交替で送り迎えをしたが、時には、夜、遅くまで、迎えに行けなくて、暗くなって迎えに行くと、保母さんと娘が二人きりで、出口付近の階段で座って外を眺めている様子が見えた。私を見つけると駆け足で、飛びついてきた。3才から幼稚園に。
家事は分業、洗濯、掃除は私、台所関係は妻、子供に関しては交互に、といった具合。これは、静岡に引っ越すまで続いた。金銭の負担は、食料品や日用品など現金支払いは妻が負担、支払いが通帳から自動でできる物は、全部、私が負担、これは、現在でも続いている。日本にほとんどいない今でも、私の通帳から引き落とされている。地方税、所得税、年金、新聞もガスも電気も妻の固定資産税も、である。完全分業、そして、自立です。負担を掛けない、頼らない。私がサラリーマンを止めて独立開業した時にも、その気持ちだったが、私が余りにも忙しかったので、家にいる時間が極端に少なくなった。3年間ほどは、私は妻に近所付き合いなどで大きな負担を掛けたと思う。
チカランバラット、ゲート付近、また、また、大規模なショッピングモールなどの多目的ビルの建設工事が始まっている。地下二階、まではありそうに、掘りこんでいる。
再び、フライオーバーの橋脚と向こうのバイク一時預かりの建物。
夢中 共稼ぎ 自立